U-2 吉野郡の式内社
 神社は歴史の証言者といえる。大抵の神社は、その地方に住んでいた部族の長、あるいはその先祖を神として祀っていることが多いからである。他の地域から移住してきた人々、遠い他国から渡来してきた人達も自分達の先祖が奉斎してきた神を、自分達が住み着いた地に氏神として斎祀(いつきまつ)った。
それとは別に、誅殺した相手の祟りを恐れて、鎮魂のために祀ったと思われるのもある。いずれにしても、神社そのものが歴史を語っているといえる。神社の由緒書を見れば、祭神名やその社の創建の歴史が記されている。吉野の歴史を知ろうとするには、吉野に古くからある神社を調べてみるのも大切な方法だろう。吉野には多くの古社があるが、やはり、式内社から見てみたい。

『延喜式』神名帳には、「大和国吉野郡十座 大五座 小五座」として以下の大社五、小社五の計十座が記載されている。 

 ●吉野水分神社 大。月次新嘗。  (吉野郡吉野町吉野山字子守)
 ●吉野山口神社 大。月次新嘗。  (吉野郡吉野町山口)
 ●大名持神社 名神大。月次新嘗相嘗。(吉野郡吉野町大字河原屋) 
 ●丹生川上神社 名神大。月次新嘗。(現在、上・中・下の三社)
 ●金峯神社 名神大。月次新嘗相嘗。(吉野郡吉野町吉野山青根ヶ嶺)
 ●高桙神社 鍬。  (吉野郡吉野町山口)
 ●川上鹿鹽神社 鍬。 (論社二社)
 ●伊波多神社    (吉野郡天川村大字和田)
 ●波寶神社 鍬。  (五條市西吉野町夜中銀峯山)
 ●波比賣神社    (吉野郡下市町栃原黄金岳)
以上の十社である。
 右に記載の神社名一覧のなかで、「名神大」は名神大社、「大」は大社のことで、記載のないのは小社である。「月次」「新嘗」「相嘗」はそれぞれの祭事に官幣を受ける社で、「鍬」とは鍬を賜ったものであろう。因みに「靫」というのもある。

 ところで、『延喜式』とは延喜五年(九〇五)に藤原時平らが勅を受けて編修された律令の施行細則であるが、この「神名帳」に記載された神社を「式内社」とよんでいて、創建が古く社格が高いとされている。しかしながら、長い歴史的時間経過の中、戦乱の時代を経て、奉幣が中止になるなど、式内社といえども社運が衰微してその所在すら正確に判らなくなった神社もある。
 
たとえば丹生川上神社である。この神社は、さまざまな経緯を経て現在、次に掲げる三社が丹生川上神社と認定され、上・中・下を合わせて丹生川上神社としてそれぞれが個別に法人格を取得している。

 
・丹生川上神社上社(吉野郡川上村大字迫)
 ・丹生川上神社中社(吉野郡東吉野村小)
 ・丹生川上神社下社(吉野郡下市町長谷)

 ほかに川上鹿塩神社も別に論社があって、同じ吉野町国樔の
大蔵神社が本来の式内鹿鹽神社であるともいわれている。
 
さて、ここでここに掲げた吉野十社の中から、特に興味深い神社を三社あげてその由緒に触れてみたい。

【大名持神社】 祭 神:大名持御魂神、須勢理比売命、少彦名命
 当社は大汝宮、妹背神社ともいう。特筆すべきはその社格の高さで、『三代実録』によると、貞観元年(八五九)正月に正一位の神階を授っており、この時点では大和国では春日大社に次ぐ階位である。ここには大海寺という神宮寺があって、社前の吉野川の潮生淵(しおふのふち)では、古より毎年
六月晦日に海水が湧出するといういい伝えがあり、大汝詣(おおなんじまいり)といって大和国中(くんなか)の当屋の人が参詣し、吉野川に入り沐浴する風習が続いていた。
 祭神は、大穴持神、大己貴神、大物主命など様々な神名がある。大国主命と同神だといわれ、出雲の神だというのだが、採鉱や精錬に係わった氏族が斎祀った神に相違はあるまい。

【丹生川上神社(下社)】 祭神:クラオカミ神
 丹生川上神社三社の内、この下社のみが丹生川沿いにある。この社は丹生川の最も川上にあり、この川の中流沿いには、西吉野に大日川丹生神社、下流域には五條市丹原の式内丹生川神社が鎮座する。このようにこの地域は古来より丹生といわれる地域だった。まさしくこの丹生川の川上に坐すこの下社こそ、天武天皇が白鳳四年に創建したと云われる丹生川上神社であろうと思われる。丹生大明神ともいわれ、古代の祭神は丹生都比売神ではなかったか。いずれにしても採鉱・精錬に係った丹生族の神社であろう。ちなみに「丹生」とは、辰砂・朱砂、すなわち硫化水銀の産地を意味する言葉だが、銅や鉄の採鉱・精錬をも意味していたという。

【波宝神社】 祭神:住吉明神、神功皇后(息長帯比売命)
 吉野三山のひとつ、旧西吉野村銀峯山にある波宝神社は、『吉野郡史料』によれば、若櫻宮、神蔵大明神、古田大明神とも云われていたといい、役行者小角の伝承
(注十二)もある。現在の祭神は住吉明神、神功皇后となっているが、『大和志料』には祭神不詳、『神名帳考証』では磐排別(いはおしわく)神と記されている。
『西吉野村史』の「波宝神社」の項には次のように記されている。
 波宝神社は、延喜式神名帳に「波寶神社鍬」とある神社で、古来銀峯山上に鎮座の神社であるとされる。祭神はウワツツオノ命・ナカツツオノ命・オキナガタラシヒメノ命であるが、息長帯日売命(神功皇后)は、後に配祀されたのであろうといわれる。それについて神功皇后が三韓からお帰りになり、南紀に赴き給う途次、この山に休まれた時に白昼であるのに、にわかに夜中のごとく暗くなった。そこで神に祈らせられると、ようやく日が照りだし明るくなった。それでもともと安場といったのを夜中と呼ぶこととなったと伝えているが、息長帯日売命が本社に合祀されたのはこうしたことからであろうと。(以上、同書四八四頁ママ)
 標高六一四メートルの銀峯山は、白銀岳とも呼び、頂上は北方が小高い広場となっており、その中央高所に本殿が南西向きに鎮座する。付近一帯は銅の鉱脈を埋蔵し、神社の下方の山中に探掘坑の跡が残る。 
 『三代実録』によるとこの神社は、「貞観八年(八六六年)、黄金岳にある波比売神社と共に、神階従三位を下賜された
(注十三)」とあり、創建は遙か悠遠の昔と伝えられるが定かではない。この波宝神社が鎮座する銀峯山は白銀岳ともいわれ、式内波比売神社のある隣村の黄金岳と共に、南方の櫃ケ岳(銅岳)と「金」「銀」「銅」の吉野三山を形成し、古代より岳信仰の霊峰として崇敬されて来たのである。
※平成24年1月31日、標高訂正:六一二→六一四メートル

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(注十二)『吉野郡史料』「白銀村」の項に以下の記事がある。
「大寳元年(七〇一)優婆塞小角此山ニ入リ、秘法ヲ行ヒシニ神女出現アリテ国家ヲ鎮護シ群衆ヲ化導スベシト告ゲテ石室ニ入リ給フ以後神蔵大明神ト称シ役行者ノ行場ニシテ大峯山参詣先達毎年入峯シ修法ヲ為ス舊例アリ」

(注十三)『日本三代実録』清和天皇貞観八年(八六六)
「十一月四日乙巳。大和國正四位下波寳神。波比賣神。伊勢國従四位上阿射加神並授従三位。」この記事は伊勢の阿射加神社と、吉野の波宝神社・波比売神社に、同日付で神階従三位が下賜された事を示す記事である。

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