U-3 吉野における神仏習合

 古代、人々は神霊が宿る対象として秀麗な山や大岩、大木に神の存在を感じた。それを神奈備(かむなび)、磐座(いはくら)、神籬(ひもろき)として崇めた。
 神仏を祭り始める以前は、そのように自然を大切にし、自然と共に生きたのである。やがて人々は尊敬する自分達部族の長を、その神奈備山の麓に埋葬するようになっていった。死んだ人の魂は山に帰って行くものと信じていたからだった。石の標(しるし)を置き、やがて小さな祠を作った。これが神社の原形であろう。しばらくして古神道的な祭式の形が整っていったと考えられる。

 やがて時代が過ぎ、大陸から仏教や儒教・道教が伝来すると、為政者たちは競ってこれを求めた。特に仏教は国家鎮護の法として国教と定められるようにもなる。仏教は宗教としての教理も整い、民衆を治めるにも都合が良かったのである。そしてその高度に止揚された哲学大系は、当時の王権から称賛された。貴族や高級官吏らは、渡来僧や、半島、大陸で学び帰国した高僧から、先進の知識を学んだのであった。
 仏教は当時最新の医学、土木・建築、農工業、天文など様々な知識が網羅されていたのだった。

 以前からあった自然宗教ともいえる古神道的なものは、後の江戸時代になって国学としての神道様式が整備されるまでは、仏教に次ぐ第二次的な宗教に甘んじなければならない地位に下がっていったのである。
 やがて、神社は僧侶に支配されるようになり、天皇や貴族、高級官吏らは仏教を主として学び、併せて道教、儒教なども学んでゆく。そして、僧侶を中心に神社はますます寺院に接近し、神道的な教理もだんだん仏教化して、はては「本地垂迹説」なるものも出てくるようになる。
 そのような変遷を経て、神社境内に寺が置かれ、寺院の境内に社(やしろ)が置かれるようになったのである。 

 寺院の中の神社、神社の中の寺。前者を「鎮守社」といい、後者を「宮寺(みやでら)」あるいは「神宮寺」というが、吉野で現在でも見られる例を挙げてみる。
 吉野で「寺にある神社」といえば、思いつくのは吉野郡大淀町比曽、世尊寺境内にある天照大神社だ。そこの鎮守、天照大神社は比曾村の氏神であったともいう。
 世尊寺は、現光寺、比蘇寺、また吉野寺ともいわれた寺院で、『書紀』欽明天皇十四年(五五二)五月条にある「光を放つ樟の像」で有名である。また、東京国立博物館にある国宝の「竜首水瓶」も、比曾丈六貢高一尺六寸 という墨書があり、元はこの寺にあったものとされる他、東塔は現在三井寺に移築されて残っているなど、この寺の往時の名刹ぶりが窺われる。現在は霊鷲山世尊寺といい曹洞宗に属する。

 同じく吉野で「神社にある寺」の例を揚げようと思うのだが無い。それは、明治初年の廃仏毀釈で徹底して宮寺は廃棄されたからである。
 前出の式内社の例でいえば、大名持神社には大海寺という神宮寺があり、波宝神社には波宝神社神宮寺があり、波比売神社にも金山寺という神宮寺があったが全て廃寺とされた。仏像や仏具・宝物は近くの寺にすべて移管されのはせめてもの救いであった。

 ほかに、寺院とも神社とも言えぬ神仏混淆色の強いところは、国の指導でどちらかへの選択を迫られた。例えば吉水院は吉水神社となった。吉野蔵王権現は金峰山寺として寺院色が強められた。そして蔵王権現と混淆して境内で祭られていた金精明神(こんしょうみょうじん)は、金峯神社に金山彦神・金山姫神と相殿で(または合祀させられたかして)祭られたようである。

 神官と僧侶を較べると飛鳥時代以前は判然としないが、総じて僧侶のほうが勢力が強く、ほとんど実権を握っていたようだ。神社に於ける宮寺は、規模は小さかったが大抵の場合、その宮寺に僧侶が常住していた。つい最近まで、神仏分離令が施行されるまで大きな神社では、逆に神官を配下にして別当と呼ばれて神社全体を仕切っていたのである。小さな神社には神官は常住せず、すべて僧侶が仕切っていたのだった。


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