吉野に坐す神
ぜ ん き 善城八幡神社 はちまん

祭 神:応神天皇・後醍醐天皇・後村上天皇 
鎮座地:奈良県吉野郡下市町善城字宮 

本  殿

社伝によれば、
貞観四年(862)善城山頂に創祀するとあり、
…中略…文明八年(1476)9月現在地に遷座したと伝え、
文禄検地で除地が認められた。宮座六人衆は中世以降祭祀を厳行する
…と記されている。
『寺院神社大事典』

森厳な雰囲気で、神の坐すにふさわしい神社である。
境内入口から急勾配で上に続く石段は優に二百段以上はあったと思う。その石段の石からして素晴らしい。加工しやすいと言われている花崗岩ではない、変成岩の類だろうか。硬い感じの石なのだが、見事鋭角に切り取られて端正に並べられている。青色や緑色が混じったものが多い。石質は伊勢神宮内宮正殿前の階段と同じものだと思われる。もちろん、大きさは神宮のものとは比較にならないほど小さな石材だが、何せ数が多い。吉野川の大石を時間をかけて切断したのだろうか。この技術や労力だけでも大変なものである。かなり多くの神社詣でをしてきた筆者だが、このように素晴らしい石段は、今まで何処でもお目にかかったことがなかった。
吉野郡史料によれば、この神社は昔は善城神社と呼ばれていたという。
文明八年(1476)といえば室町時代の中頃である。山頂からこの地に遷座してきた善城神社はこの石段もその時の造営だろうか。もう五百年以上昔のことである。
ところで善城という地名のことだが、「善城」とは、荒城を佳字化したものだともいう。とすれば、アラキは新墾と表記され新来、今来にも通じる渡来系住民の住んだ古い地名といえるのではないだろうか。ちなみに、この下市町善城の八幡神社の拝殿前広庭には、奉納相撲でもするのか土俵が設えてあったが、香川県丸亀市の善城地荒神社にも土俵があるそうだ。


 
屋 形 門  
 
境内入口   拝  殿

『奈良縣吉野郡史料』には以下のように記されている―――
八幡宮ノ善城區ニアルモノ祭神ヲ應神天皇後醍醐天皇後村上天皇トス式外村社
傳云仁仁徳天皇ノ御宇應神天皇ノ神靈ヲ奉祀シ社殿ヲ善城山字宮ノ辻ニ榮造シ善城神社ト称シ應永年間朝恩ヲ報ズル為メ更ニ祠ヲ築キ後醍醐天皇後村上天皇ノ靈ヲ合奉シ村内ノ産神トス其後現在地ニ移奉ス此地ニ社坊喜福寺ナルモノ(永正年間)アリシガ如キ日記等アレドモ詳カナラズ…以下略。
これを意訳すると次のようになるだろう―――
善城地区にある八幡宮は、祭神を応神天皇、後醍醐天皇、後村上天皇とする式外村社である。伝えによれば、仁徳天皇の時代に応神天皇の御魂を祀るため、社殿を善城山宮ノ辻に造営し善城神社と称した。朝廷のご恩に報いるため更に祠を築いて、後醍醐天皇と後村上天皇の霊を合祀して、この村の産土神とする。そしてその後現在地に遷座してお祭りしている。この地には「喜福寺」という宮寺が永正年間にあったことが、日記などに記されてはいるが詳らかではない。


よしのにましますかみ  吉野に坐す神   平成23年11月15日掲出

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