吉野の四季/下市の秋

稲穂も豊かに色づいた秋津野

     吉野郡下市町善城、秋野川


古代、吉野川の南岸の辺り一帯を「アキノ」と称し、
この地を流れるこの川を、「アキノカハ」と呼んできたようである。『奈良県吉野郡史料』には、
「秋野川ハ源ヲ黒滝村大字鳥住ニ発シ秋野村ヲ経テ大字善城ヲ貫流シ下市ヲ過ギテ北境ニ至リ吉野川に注グ」
と見え、この川は黒滝村から流れてきて、善城を通り下市から吉野川に流入するというように記されている。
「アキノ」の地名の由来について、同史料下巻・第四章下市町史「沿革」には次のようなことが書かれている。

応神天皇が熊野路より来られ地名を尋ねられたとき、土地の翁が「吾ケ妻ノ里」と答えたことから、
はじめは「吾妻ノ里」と呼ばれ、天武天皇の時代には飛ぶ虫の名から蜻蛉(あきつ)、「秋津ノ里」となり、
その後、この地で駒を放し飼いにせられてより、「安騎野」と呼ばれ、
今は「秋野」と書すようになったとしている。

下市は、吉野川の南岸で、秋野川に沿って発展した市邑である。
天文5年(1536年)頃、日本で最初の商業手形ともいえる「下市札」が発行されるなど、
古くから吉野地方の中心的な都市として文化の上でも
重要な役割を果たしてきたといえる。

赤く色づく、社前の木の実


熊野神社
祭 神:事解男命
鎮座地:奈良県吉野郡下市町平原

『奈良県吉野郡史料』下巻下市町「神社」の項に、
「熊野神社ハ大字平原字鳥尾ニアリ祭神ヲ事解男命トス本社ハ往昔紀國牟婁郡有馬村ニ祀ル速玉神社ノ祭神速玉男命事解男命伊弉冊尊ノ三柱ヲ以テ熊野三所権現ト稱シアリシヲ故アリテ僧西了ナル者慶長三年二月特ニ三柱ノ内事解男命ノミヲ遷シ祀リテ之レヲ熊野神社ト稱セリト」とある。
つまり当社祭神は、紀伊国有馬村速玉神社三所権現の一、事解男命を西了という僧侶が遷し祀ったというのである。しかし現在の熊野三所権現(熊野三所大神社)の祭神は、家津美御子大神・夫須美大神・速玉大神となっている。上記吉野郡史料に記された内容がもし正しいとすれば、往古熊野の三所権現というのは、速玉男命・事解男命・伊弉冊尊であったということになる。ちなみに『大和下市史』でも、熊野三所権現より分祀し遷し祭ったと記されている。「故アリテ…事解男命ノミヲ遷シ祀リテ…」とある「故」とはどのような事情があったのだろうか。
当社はもと熊野権現といわれていたが明治初年、現在の熊野神社と改められたとされ、 この地は下市から十日市・賀名生・十津川へと続く熊野への裏街道(丹生街道)に面している。
またこの社前の道は、銀峯山への尾根道で波宝神社の参道にもなっている。ちなみに有栖川宮韶仁親王 はこの道を通って祈願所であった波宝神社へ参詣したと考えられる。
拝 殿 本 殿 
境内入口 鳥居から石段が百六十数段続く 


吉野の四季/下市の秋  平成20年10月15日掲出    戻る