V-3 吉野宮
 
第三章の終わりにあたり、以前より特別関心があった吉野宮について述べておこうと思う。近年刊行された書物には、その殆どと言っていいほど吉野宮が所在した地は吉野町宮滝だと書かれている。
 宮滝遺跡の発掘が進んで、考古学的見地から吉野宮の旧跡である可能性が高まったというのだが、確定された訳ではない。昔よりいくつかの候補地があげられているので次に示してみる。

 
1. 吉野町宮滝、宮滝遺跡内
 2. 川上村迫、丹生川上神社上社周辺
 3. 東吉野村小、丹生川上神社中社周辺
 4. 吉野町河原屋、大名持神社周辺
 5. 下市町、椿の渡しから六田周辺 

    ・・・とおおよそ以上の五箇所があげられているので簡単に説明してみよう。

「1.宮滝説」は、説明するまでもないほど有名だ。明治時代から注目され昭和五年以降平成十二年までに五十九次にわたる発掘調査が実施された。ちなみに『大塔宮之吉野城』を著した中岡清一は宮滝説を推進した一人であった。
「2.上社説」は、あまりにも遠く無理がある。
「3.中社説」は、森口奈良吉が真向から宮滝説、上社説を否定して中社説 を主張していたが、こじつけの感を免れない。
「3.大名持説」は、この地は交通の要所であり大いに有力。 
「5.下市〜六田説」は、地理的にも大いに有力。

 以上のように各説をみて、まず23の説を除くと「宮滝説」、「大名持説」、「下市〜六田説」が残る。
では、飛鳥から吉野宮までの道順はどうなのか。地理的には次の四つの道順が考えられる。

 ○芋峠越え、○壺坂峠越え、○芦原峠越え、○車坂峠越えの四ルートだ。大部分の書物は、「芋峠越えで宮滝の吉野宮に行った」としている。 
この芋峠越えで一番疑問に思うのは、現代の道でもあまりに険しすぎるということである。峠付近に古道
(注十五)が残っているがケモノミチ同様である。細く険しく、しかも急坂で曲がりくねっている。近江からの逃避行の時ならまだしも、即位した持統天皇が通るような道ではない。『懐風藻』の漢詩を見ても分る通り、この時代の「みやこびと」は吉野へも車駕に乗って行った。このような、自分の足で歩いてしか通れないような道を天皇が行く訳はない。
筆者はそれぞれのルートを詳細に調査したが、壺坂峠越えも、芦原峠
(注十六)越えもまったく同様に険しすぎる。唯一、車坂峠だけが貴人も通れる、車駕が通行できる緩やかな道なのである。

「芋峠越え宮滝行き」を唱える論者が見落としている、大事な観点がもう一つある。『書紀』の記述を見直してみると良い。持統は即位(称制)してから三十一回も吉野に通っているが、その間、真冬の旧暦十一月から二月に七度も吉野宮に行幸している。筆者は吉野育ちなので良く分るのだが、むかし、吉野の山間部の凍結は日常のことで、二十から三十センチもの積雪がしょっちゅうあったはずである。このような道を持統は決して通っていないであろうといえる。

 では、実際のところ吉野宮はどこにあったのだろうか。宮滝にあったとして、飛鳥から芋峠越えで計測
(注十七)すると19.4キロある。決して近い距離ではない。
 一方、吉野宮が下市付近にあったとすると、おなじく飛鳥から車坂峠越えで千石橋南詰まで16.8キロである。
 土屋文明は著書『続万葉紀行』の中で、「大海人皇子が吉野に籠ったのは比曾寺ではないか」、「吉野離宮も六田から下市附近だろう」と言っている。筆者もこの考えに近い。大海人皇子が籠もった以前の吉野宮と、持統天皇以降の吉野宮はその性格が異なると見る。前者は城塞的な立地の山頂の神社ではなかったか。後者は天皇の吉野に於ける別荘的な離宮であったとみたい。では、吉野離宮はどこにあったのかと聞かれれば、筆者も「おそらく下市から六田の付近だろう」と答える。

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(注十五)県道十五号線、芋峠付近で古道が見られる。これは県道が整備されるまで、つまり明治時代以前の道だと考えられる。細く険しい。

(注十六)芦原峠は、今は国道で隧道が穿たれているが、それがなかった時代の道の険しさが推せられる。

(注十七)計測は、いずれも飛鳥の橘寺前を起点として現在の国道と県道を車で走り計測したもので、トリップメーターの数値によるものである。
 ※一部に間違いがあったため再計測。平成22年4月13日、距離数値などを訂正。

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