T古代吉野の歴史と伝承

T-1吉野とは
 吉野とは、一般的には「良い、美しい野や山、地域」を示す地名と考えられているようであるが、地名としての吉野は、小学館『古語大辞典』によれば「奈良県吉野郡吉野町を中心として吉野川の南岸、吉野山の附近一帯を指す…中略…古くはえしの≠ニ呼ばれていた」とされている。

 また他には、本来「之野(しの)」又は「之努(しぬ)」と云われた地名に、接頭語の「與」をつけて、與之野(よしの)あるいは與之努(よしぬ) と云われたのがこの地名の起こりという説
(注一)もある。ヨシノの名称が日本史の中で最初に登場するのは、『古事記』・『日本書紀』に語られているところの、神武天皇東征説話に於いての「八咫烏之後幸行者(ヤタガラスノシリイデマシヽカバ)。到吉野河之河尻(エシヌガハノカハジリニイタリマシキ)」と「天皇欲省吉野之地(テンワウヨシノノトコロヲミソナハシメントヲボシテ)」の記事である。ここにエシヌ、ヨシノが「吉野」と表記されて出てくる。

 また、『大和志料』下巻/奈良県教育会/大正四年刊には次のように記されている。
「神武帝ノ東征シ宇陀入リ給フヤ吉野ノ地ヲ巡行シ、土人井光(イヒカ)國樔(クズ)ヲ招納セラレシ事日本書紀古事記等ニ詳カナリ、吉野ノ名国史ニ見ユル之ヲ以テ始トス。其之ヲ三吉野(ミヨシヌ)
一ニ御吉野ニ作ル ト称スルハ山河ノ風光殊ニ勝レタルニ因レリ。古ハ吉野国ト称シ彼井光(イヒカ)ノ子孫、吉野連(ヨシヌノムラジ)及ヒ吉野山直(ヨシヌヤマノアタヒ)國樔等之ヲ分領セリ、大化ノ改新國郡ヲ定ムルニ及ヒ吉野ハ郡ヲ以テセスシテ特ニ吉野監ト称セラル、蓋当時ノ情況郡治ヲ布クニ適セサリシナラン、幾ナラスシテ立テ郡トナシ吉野ヲ以テ之ニ名ヅケ、吉野(ヨシヌ)・賀美(カミ)・那賀(ナカ)・資母(シモ)ノ四郷ヲ管セシム、郡中ノ地勢山岳四塞峯高ク谷深ク天険ノ要害タリ」

 吉野郡は、大和国で最大の六割以上の面積を有する地域で、『日本書紀』天平五年(七三三)に「吉野監」という行政区(或いは行政官職名か)が初見され、和泉監と共に一国と同様の扱いをされた時期
(注二)もあった。

 ところで、吉野は古代から「桜の国のサクラの名所」などと言われていたのではない。万葉集には、吉野を歌った歌が八十八首あり(吉野の郷土史家・桐井雅行氏)、そのうち桜を詠んだ歌が四十三首あるというが、吉野を特定したものは一首もなく、吉野の桜が歌に登場するのは十世紀初頭の『古今和歌集』が始めで、その頃から吉野は花の名所として有名になり始めた(『奈良の街道筋』青山茂著)といわれる。
 また、『懐風藻』では、吉野宮を詠じたもの七首、吉野川を詠じたもの四首、吉野または吉野山を詠じたもの五首がみられる。
 やはり古代の吉野の魅力は桜ではなく、山や川などの自然そのもの、或いは丹砂などの鉱物資源であったようだ。

 ここで、ヨシノが史料中どのような表記になっているか見てみよう。
『古事記』・『日本書紀』では…吉野
『続日本紀』では…芳野、吉野
『万葉集』では…能野、与思努、与之努、美吉野、三吉野、三芳野ほか
『懐風藻』では…吉野、佳野、と以上のとおりである。
 このように表記されているヨシノの地名だが、読みはどうなのだろう。というのは元々地名が先にあり、後に漢字で当て字されたものだからである。もちろん古代の正確な発音は判らないが、次のように万葉仮名で訓じられているので、凡その読みが分る。
『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』では、美延斯怒(ミエシヌ)、美曳之努能(ミエシヌノ)、曳之弩(エシノ)と読みが添えられ、エシヌあるいはエシノと訓ませている。『和名類聚鈔』では、与之乃(ヨシノ)と訓じられている。
 さて、ここに問題がある。それは、この節の冒頭に記した古代吉野の地名の「別説」である。つまり、吉野はヨシノ、ヨシヌ、またはエシノ、エシヌと呼ばれてきた。しかし吉野は、良い野という意味でヨシがノにかかる「ヨシ・ノ」ではなく、この説ではヨがシノにかかる「ヨ・シノ」だというのである。(四通りの読みが出てきているが、以降は煩雑さを避けるためヨシノの読みだけに限定して記述する)
 さてどちらが正しいのだろう。現在の通説はヨシ(吉)がノ(野)にかかる「ヨシ・ノ」である。ヨがシノにかかる「ヨ・シノ」が本来の地名の語源であるとする学者を知らない。しかし筆者は後者の説を取る。それは『日本書紀』巻九 神功皇后摂政元年辛巳の記事からの判断である。以下にその原文を部分引用する。
「皇后南詣紀伊国。会太子於日高。以議及群臣。遂欲攻忍熊王。更遷小竹宮。
小竹。此云之努。
 さて、ここでこの文の訓注で示されている「小竹。此云之努」に注目したい。「小竹」を之努(シノ、シヌ)と読ませているからである。シノは古語で篠竹、小竹の意味であろう。ではヨは何かと質問がありそうである。ヨは竹の節目の意味もあるが、これは美称のヨで強調接頭辞と考えたい。つまり美しい篠の広がった地域だったのではなかろうか。

 ちなみに思うのは住吉をスミエ、日吉をヒエと言い習わしていたことである。摂津の住吉神社をスミエノヤシロ、近江の日吉神社をヒエノヤシロと呼んでいただろうことは容易に想像できる。「吉」の字はヨ、エの音に当てたのであり、何れも同義で簡単に置換すると考えられる。

 ところで現代の吉野の山林は、ほとんどが杉・桧ばかりだが、これは全部と言っていいほど近世・近代に植林されたもののである。その以前は松や、樫・橡などの照葉樹林がこの地域をほとんど蓋いつくしていたのではないだろうか。それらの木材はその大部分が精錬
(注三)に利用する木炭に加工されてしまったのだろう。採鉱井戸の坑道補強、架橋や家屋建築、また、遷都を繰り返す度に夥しい木材が消費されたことであろう。それに災害や争乱による火災でも多くの木材資源が失われた。そのほか窯業や製塩にも使われたし、近代に入ってからも鉄道の枕木に大量のクヌギが使用されたのであった。その後太平洋戦争があって、日本の大都市が空襲によって灰燼に帰したのは歴史に新しいところである。戦後の復興にどれだけ厖大な木材が伐り出されたかは誰もが想像できる。それで禿山となった日本の各地の山に杉・桧の植林が奨励され、戦後六十有余年、今日本の山地を蓋い尽くしているのは戦後に植えられたものである。植生はどんどん変ってゆくのである。

 では、植林以前自然に叢生した照葉樹林、この照葉樹が繁茂していたであろう日本の各地で、この吉野地方はどのような植生だったのだろうか。大部分はやはり照葉樹が占めたであろうと考えられるのだが、或いはこの吉野には篠竹がかなり多くに分布していたのではないだろうか。地名からそのように想像できるのである。
 先年、筆者は箱根に旅行した。十国峠から熱海にかけて、辺り一面に篠竹が群生しているのが車窓から見えた。箱根地域の特徴だそうである。標高は五百から七百メートルになる。吉野地方もそれ位の標高のある地域では古代に篠原が広がっていたのではないだろうか。
 ヨシノとは、吉篠(え・しの)、吉小竹(え・しぬ)ではなかったかとする所以である。
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(注一)
吉野の郷土史研究家で元天川中学校長の大山源吾氏は、『天河への招待』の中で/…霊峰銀峯山を囲む丹生川とその支流一帯の朱砂の宝庫は、與之努(よしぬ)と呼ばれた。「與之努」の「與」は美称で「之努」に冠せられる接頭語であり、本来は「之努(しぬ)」なのである。…/といっている。なぜ本来は之努なのか?の説明はない。


(注二)
「吉野監」は、『続日本紀』天平五年(七三三)の記事が初出で、最後は同九年(七三七)であるから、この期間は設けられていたことは確実であるが詳細は不明。一方「和泉監」は、七一六年に設置され七四〇年に廃止された記録がある。吉野監と和泉監は、同時期同期間設けられてようだとするのが通説である。

(注三)
精錬(製鉄)は、自然をすさまじいまでに荒廃させる。鉱脈を見つけて山を崩し、鉄穴流しという方法で土砂を水で流して砂鉄を選り分ける。採った砂鉄は、蹈鞴という精錬炉で木炭を燃焼させ砂鉄を溶解し粗鋼を得るのである。一トンの鉄を作るために砂鉄は五トン。その精錬に木炭を六トンも消費する。その木炭を得るには、小さな山なら禿げ山にするほどの木を伐らなければならない。それに原材料の砂鉄を採るには、その二〇倍もの土砂を流すのである。


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