V-2 天武・持統と吉野

 壬申の乱の前年、天智十年(六七一)十月、即位前の大海人皇子は、天智天皇との確執から吉野に逃れ、そして、その半年後挙兵して壬申の乱に勝利する。その後の天武八年(六七八)五月には、皇后はじめ草壁・大津・高市・河嶋・忍壁・芝基の、六人の皇子を伴って吉野宮へ行幸し、いわゆる「吉野の盟約」を行っている。この日の前日に詠んだとされる天武天皇の御製が万葉集にある (巻一ー二七)。 

淑(よ)き人の良しと吉く見て好しと言ひし芳野吉く見よ良き人よく見 
  
(淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三)

 という歌だが、「先賢が良いところだと見て、好しといった。良き人よ、よく吉野を見ることだ」というのが一般的な解釈だと思う。
しかし、この文中の「淑人」と「良人」を、特定の人に宛てることによってこの歌は意味を増し、生きてくる。では誰が詠まれているのだろう。
 この歌は天武天皇の歌とされている。とすれば、これは夫の天武から妻の持統に宛てたものではないか。そこから考えを巡らせると、「淑き人」とは斉明天皇かあるいは神功皇后のことで、「良き人」とは妻、菟野讃良皇女(後の持統天皇)のことを指していると判断したい。
 意訳すれば、それは詠み手の天武が后の菟野に、
「かの美しく賢き方が申されたように、吉野は良き要の地である。良き人よ、よく心得て治めよ」と吉野の重要性を説き、申し送った歌ではなかったかと考えられるのである。
 地元の記録文献、既出の『日雄寺継統記』には、井光の後裔で井依の末孫、角乗が天武天皇から日雄殿を賜ったこと。角乗の長子角範を吉野首とし、日雄連の姓を賜ったこと。それに、役小角との関係が記されている。『大塔宮之吉野城』を著した中岡清一は、その著書の中で「当時井光は吉野を中心とした地方一帯の先住豪族であったことは疑いのないところである。」と言っている。
 天武天皇の治世を引き継いだ持統天皇は、在位中に三十一回の吉野宮への行幸を行い、その前後の吉野行を入れると、三十四回も吉野へ足を運んでいるのである。なぜそんなに繁く通うのか。それは、政治的にも吉野の豪族との密なる連携が必要だったからではないか。吉野族の協力が無ければ、持統は政権を維持できなかったのであろう。
 元京大教授の上田正昭氏は、吉野町に寄せた短文「仙境憧憬」の中で、この歌について、「これをたんなる吉野讃歌であったとみなすことはできない。(中略)歌の最後が、芳野よく見よよき人よく見=@と命令形でとどめられているのはみのがせない。その歌ごころに、血で血を洗った壬申の乱の葛藤の渦が浮かぶ。(中略)よき人よく見=@のよき人は、おそらくその盟約の場につらなった六皇子らであったろう。」としている。
氏はまた、『懐風藻』に所載の藤原不比等らの漢詩にも触れ、  
―吉野は神仙境として憧憬されているのだが、まさにそのように吉野の霊域には道教的神仙境のイメージが重層していた。持統女帝をはじめとするきわだった吉野慕情の背景の一つに、吉野の持つ宗教的意味を考えてみる必要があるのではないか。そのひとつの要素に神仙をめぐる信仰の「よき人のよしとよく見てよしと言ひし」いにしえをかいまみるのである。― 
とむすんでいる。

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