T-3 古代史のなかの吉野


 吉野が史書で一番初めに登場するのは、古事記・書紀に於ける神武天皇の吉野入りの説話であろう。しかし、この内容は一般的に言えば、その全てが歴史的事実とは認められないというのが通説である。とは言え、伝承的な史実が投影されているとは充分に考えられる。

 また、史書とは言えないかもしれないが『万葉集』には吉野に美称が付けられて「三吉野」、「見吉野」などと表記されて出てくる。
 万葉集と同時代にできたとされる漢詩集『懐風藻』でも「吉野」、「佳野」と表記して吉野を称える詩が載せられている。 

 次に吉野が現れるのは、書紀の第十五代応神天皇の条で、「十九年冬十月戊戌朔。幸吉野宮。」と十月一日吉野宮への行幸の記事がある。ここでは、国樔人が醴酒(こざけ)を天皇に奉って歌を詠んでいる。「カシノフニ ヨクスヲツクリ…」と歌っているので、この国樔人は鹿鹽神社を奉斎した部族であろうか。
 その次に吉野がみえるのは、記紀共に第二十一代雄略天皇二年の条で、書紀では「冬十月辛未朔癸酉。幸于吉野宮。」とあって、十月三日に吉野宮への行幸が記されてある。

 続いてこれも書紀の記事で、第三十七代斉明天皇二年(六五六)の条には「…又作吉野宮。」とあり、今まで吉野宮造営ついては、どこにも記述がなかったが、この時に初めて造営にについて記される。
その後は、天武、持統、文武、元正、聖武の天皇が吉野宮や吉野離宮に行幸した記事が、書紀、続紀にみえる。 

 特に目をひくのは持統天皇で、在位中十一年間に三十一回も吉野行きをしていることだ。その他にも三回の吉野行が確認できるので、歴代天皇の中でも異常と言えるほどの吉野への傾倒ぶりである。この理由については様々な説があるが、それは後の「吉野宮」の項で述べる。

 雄略天皇の時代の頃は、狩の場としての吉野。斉明天皇の頃は祈りの場。天武、持統の頃は祭政の中枢としての吉野ではなかったか。
 文武天皇から聖武天皇までは、遊興・遊覧の地としての吉野がある。
この時代の人々の吉野観はどのようなものだったかといえば、懐風藻や万葉集からも分るように、当時の貴族たちは吉野の山や川に限りない憧憬の念を抱いていたことがわかる。当時の為政者や貴族たちは、吉野を神仙境として、ひとつの桃源郷ととらえていたようである。
 この後、平安時代には、若き空海が吉野の比蘇寺で修行したようであるし、昌泰元年(八九八)十月に、宇多上皇が菅原道真らを伴って宮滝から龍門寺に参詣した記録がある。

 歴史の大きな変わり目には、必ずといっていいほど吉野がその表舞台に登場する。まず、古代では壬申の乱前後に於ける吉野、中世では南北朝時代の吉野、近世では幕末動乱の前触れ、天誅組挙兵の吉野である。
戻る