T-2 吉野の古代氏族

 まず、『古事記』と『日本書紀』(以降は『書紀』と略す)に記されている古代吉野の三部族について述べてみよう。
 これらの部族は辺境に住まう異部族のように表現されている。もっとも、これら史書に述べられている内容は、そのまま歴史的事実とは言えないが、ひとつの歴史的伝承事実であるとは言えるだろう。
 では、『古事記』「中巻」より神武天皇の大和入り、吉野に到る部分を見てみよう。

【原文
(注四)読み下し】
 その八咫烏の後より幸行(い)でませば、吉野河の河尻に到りましき。時に筌(うへ)を作りて魚(な)を取る人あり。ここに天つ神の御子、「汝(いまし)は誰(たれ)ぞ」と問ひ給へば、「僕(あ)は国つ神、名は贄持之子(にへもつのこ)といふ」と答へ申しき。
 これは阿陀の鵜飼の祖(おや) そこより幸行でませば、尾ある人井戸より出で来たりき。その井に光あり。ここに「汝は誰ぞ」と問ひ給へば、「僕は国つ神、名は井氷鹿(いひか)といふ」と答へ申しき。 これは吉野首(よしのおびと)らの祖なり。すなはちその山に入り給へば、また尾ある人に遇ひ給ひき。この人巖(いは)を押し分けて出でき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひ給へば、「僕は国つ神、名は石押分之子(いはおしわくのこ)といふ。天つ神の御子幸行でますと聞きしゆゑ参向(まゐむか)へつるにこそ」と答へ申しき。これは吉野の国栖の祖 その地より踏み穿ち越へて、宇陀に幸行でましき。

 以上は『古事記』の記述である。この吉野の段に於ける『書紀』との内容に大きな相違点はないが、部族名の表記が少し違うことに気付く。それを遭遇順に記すと次のとおりである。(左が『古事記』の表記、右○印が『書紀』の表記である)
  
  一、贄持之子   (阿陀の鵜飼の祖)      @苞苴担之子(にえもつのこ)
二、井氷鹿    (吉野首の祖、生尾)      A井光(ゐひか)
三、石押分之子(吉野の国栖の祖、生尾)   B磐排別之子(いはおしわくのこ)
読みは殆ど同じであるが、漢字の表記が違う。それともうひとつ違うのは巡幸順序である。『古事記』の記述順は上記の通りだが、『書紀』では先に宇陀に入り、それから吉野を巡っている。上記で言えばA→B→@の順序で記されている。

 神武天皇は海路で紀伊半島の南へ行き、熊野から紀伊山地越えで大和に入っているので、地形的な道順からいうと吉野が先になると判断できる。そこで当稿では『古事記』に記述されている方の文を掲げた。ここで問題になるのは、「吉野河の河尻」の場所である。この位置を筆者は吉野川と丹生川の河合いと見る。それは現在の五條市御山町にある式内火雷(ほのいかづち)神社付近の、丹生川が吉野川に流入する辺りだと考えられるのである。つまり、丹生川の河尻というわけだ。
 
 さて、文中に「生尾」とあるが、これは何を意味するのだろうか。『書紀』には「有尾」と表記されていて、いずれも「尾ある」と読ませている。まったく未開の蛮族扱いであるが、天皇に対して敵対しているような記述はまったくない。三部族共むしろ恭順して歓迎の意を示しているようである。ここでは井氷鹿と石押分之子には「生尾」つまり尾があったように書かれているが、まさか本当に尾があった訳ではない。
 一番もっともだと思われる説では、現在でも修験道の行者が腰に巻いている「引敷(ひっしき)」と呼ばれている獣皮のようなもので、鉱山労働者が坑内作業の際、尻の下に敷いて使うためのものという。それが尻尾に見えたのだろうという説だ。
 なるほど、とも思われるが、筆者はそうではないと考える。確かに毛皮を腰に巻いていた者もいたであろうことは否定できないが、引敷では巾が広すぎてとても尻尾には見えない。そうではなく、これはひとつの比喩だと思う。では、記紀は何を言いたいのか。
 それは「犬祖伝説」
(注五)のことを謂っているのだと思う。古代中国の北西部の辺境に「犬戎」という部族がいたが、その先祖は犬だとする伝説があった。つまり、井氷鹿や石押分の出自は「犬戎」だと謂いたいのだろう。その犬戎の末裔達が中国西部から朝鮮半島を経由し、日本列島に渡り来て、その一部の人々が吉野の住民になったと考えてみたい。
 
 では尻尾が無い、「生尾」とは書かれていない贄持之子はどうか。
 この部族は阿陀の鵜飼の祖とある。彼らは漁労民であろう。中国南海岸(雲南省辺り)から日本に黒潮に乗って渡り来て住みついたのであろうか。鵜飼
(注六)の技術はすでに持っていたが、阿陀に住み着いてから、この国の実情に合わせて漁法を改めたかに見える。彼らの生業は主に川漁だったが、関連して渡しや水運など舟仕事にも携わったと考えられる。出自は中国南部海岸の海人族だったのではないだろうか。
 一方、井氷鹿の主な生業は採鉱・精錬ではなかったか。「その井に光あり」の記述から水銀を連想させるので、井氷鹿は辰砂(丹)を掘っていたのであろう。石押分之子も「この人巖(いは)を押し分けて出でき」の記述から、やはり採鉱を連想させるので或いは、こちらの方は銅や鉄にかかわっていたのかも知れない。他にも生業の一つととして、山での狩猟や山果・山菜の採集もしていたのではないかとも思える。

 金峰山寺や桜本坊に伝わる『日雄寺継統記』
(注七)や、旧家に伝わる「吉野本族起立系譜」(注八)によれば、「敏達朝ノ頃、百済ノ王子落来テ部民首ニ頂ク」という記事があるという。また『書紀』には、天武十二年冬十月五日に、「吉野首(注九)など十四氏に姓を賜って連といった」という意味の記事がある。そこで吉野連の系譜を見てみることにする。

『新撰姓氏録』吉野連の項
(注十)には、「加弥比加尼(かみひかね)の裔(すえ)で神武天皇が吉野で召して問い給うた白雲別神(しらくもわけのかみ)の女(むすめ)である。名は豊御富(とよみほ)と申していたが天皇は水光姫(みひかひめ)と名付けられた。今の吉野連が祭る水光神(みひかのかみ)これである」というようなことが記されている。
 また、吉野眞人の項には、「大原眞人同祖」とあり、この大原眞人の項には「出自謚敏達孫百濟王也(おくりなはびたつのひこくだらのみこよりいづ)。續日本紀合(しょくにほんぎにあへり)。」とあり、「吉野本族起立系譜」の記事との関連が窺える。
 ちなみにこの後の時代では、『続日本紀』によると、吉野連氏の一族には吉野連久治良、『続日本後紀』では、吉野連豊益、吉野連直雄がいたことがわかる。豊益は外従五位下の官位で吉野郡大領の地位にあったことも知れる

●火雷神社
●丹生川が吉野川に流入する辺り


(注四)
從其八咫烏之後幸行者。到吉野河之河尻。時作筌有取魚人。爾天神御子問汝者誰也。答曰僕者國神。名謂贄持之子【此者阿陀之鵜飼之祖】。從其地幸行者。生尾人自井出來。其井有光。爾問汝誰也。答曰僕者國神。名謂井氷鹿【此者吉野首等祖也】。即入其山之。亦遇生尾人。此人押分巖而出來。爾問汝者誰也。答曰僕者國神。名謂石押分之子。今聞天神御子幸行故。參向耳【此者吉野國巣之祖】。自其地蹈穿越。幸宇陀。

(注五)
犬祖伝説は、広く遊牧民族に昔から伝わるというが、この伝説を中国西北域の古代遊牧民族「犬戎」にあて、記紀に登場する吉野の古代部族、井光など「尾生る人」の先祖とするのは小林惠子氏のとなえている説でもある。滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』は、この犬祖伝説をモデルにしていると言われている。

(注六)
鵜飼は、中国より日本のほうがその漁法の歴史は古くからあったという説があり、また、鵜による漁法は少し違うところがあって夫々独自に発展したという説もある。/ フリー百科事典Wikipedia)

(注七)
『日雄寺継統記』は、吉野山の桜本坊に伝わる古巻本で、室町時代に原本の「桜本坊略伝」から書写されたものとされ、吉野連一族であった歴代住職の系図や業績などが記されている。その後も代々書き継がれてきたものという。桜本坊本、金峰山本の二種が残されているというが、非公開。内容の一部は、中岡清一著『大塔宮之吉野城』、首藤善樹著『金峰山』に見ることができる。本稿はこの二書を参考にした。

(注八)
「吉野本族起立系譜」は、吉野の旧家に所蔵される古文献。前記、『大塔宮之吉野城』などにもその一部が引用されている。

(注九)
『日本書紀』天武十二年の記事
「冬十月乙卯朔己未。三宅吉士。草壁吉士。伯耆造。船史。壹伎史。娑羅羅馬飼造。菟野馬飼造。吉野首。紀酒人直。釆女造。阿直史。高市縣主。磯城縣主。鏡作造。并十四氏。賜姓曰連。」


(注十)
『新撰姓氏録』吉野連の記事
「加弥比加尼之後也。謚神武天皇行幸吉野。到神瀬。遣人汲水。使者還曰。有光井女。天皇召問之。汝誰人。答曰。妾是自天降来白雲別神之女也。名曰豊御富。天皇即名水光姫。今吉野連所祭水光神是也。」

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