やさかじんじゃ  彌栄神社 (いやさか、やえ)



[彌榮神社]河内国渋川郡   東大阪市中小阪二丁目722番地  ●近鉄奈良線小阪駅南東へ徒歩10分

1 いやさかじんじゃ(通称やえじんじゃ)
祭  神:素盞嗚命、天穂日命

創建年代は不詳も明治以前は、牛頭天王宮あるいは祇園様と称せられた
境内末社に弥栄稲荷神社がある。

秋例大祭:十月十四日
2 鎮座地は、旧大和川の枝流、久宝寺川の東岸近くに位置し、鬱蒼とした老杉・松・樅林の中に祀られていたが、天正年間(1573〜1591)の天正の役・石山合戦の際、村落共に兵火により灰燼に帰した。のち慶長五年(1600)正月、時の領主、片桐且元により社地を拝領、社殿を再建復興したという。
元禄時代の当社寺社御改帳に記載された寸法、様式、絵模様から現存の本殿はこの時代のものとすいさつされるという。                (彌榮神社由緒より)
3 写真説明
@本 殿:東側から撮影。裏側は駐車場。周辺は住宅や町工場が密集している
A拝 殿:社殿はすべて南向き。この左に弥栄稲荷神社がある。またこの横には神器蔵があり、最近購入した立派な「地車」が格納されていた。
B鳥居の扁額:「彌榮」の文字を使っている。 
彌榮神社・南正面入口
左の石柱横のパネルには、「司馬遼太郎記念館」への
案内と周辺地図がある。(記念館へは神社より徒歩3分)
司馬遼太郎記念館 (旧・司馬遼太郎邸)
[記念館に駐車場はございません。周辺は全面駐車禁止]
と立て看板がある。



[彌栄神社]摂津国東生郡 大阪市生野区桃谷二丁目16-22  ●JR桃谷駅北東500M

1 やえいじんじゃ(やさかじんじゃ)

祭  神:素戔嗚尊、仁徳天皇

この辺りは旧平野川が流れ、その土手沿いに平野街道が通り、この道に面して彌栄神社の鳥居があったという。
(市バス・御幸通りバス停下車、西徒歩すぐ)

例大祭:七月第二土・日(地車祭)
2 文録年間(1592〜96)に旧出雲国意宇郡の熊野坐神社より勧請されたと伝わる。もと牛頭天王社といわれて、スサノオノミコトだけが祀られていた旧木野村(このむら)の氏神であったが、明治五年(1872)に彌栄神社と改められ、その後、明治43年(1910)に旧岡村の御館神社(祭神は仁徳天皇)が合祀され、祭神は二柱となった。
東成区の、いわゆる疎開道路から少し西に入った地に鎮座。
この辺りはJR鶴橋駅から桃谷駅にかけて、現在は商店と住宅が混在している地域だが、神社の西側には旧家もまだ残っている。
すぐ東側には仁徳天皇が狩りをしたという御幸森(天神社)もある。
             (大阪市史、及び彌栄神社説明看板より)
3 写真説明
 
 @本 殿  本殿のすぐ後には、民家が近接している。
 A南正面参道から見た拝殿
 B東参道入口の鳥居
   この写真の前の道が旧「平野街道」らしい。
   彌栄神社と朱地に白抜きされた大きな幟が立てられている。
   社殿は南向きに配置。



[弥栄神社]和泉国泉南郡 大阪府岸和田市八幡町13-25  ●南海本線春木駅下車、北西徒歩10分

1 やえいじんじゃ(やさかじんじゃ)
祭  神:素戔嗚尊
境内社
●八幡神社   ●熊野神社(恵比須神社)  
●市杵島神社  ●白永神社

この鎮座地は湾岸埋め立て工事以前、海岸より僅か七百米の通称、八幡山といわれた砂丘上であった。
例大祭:九月十五日岸和田地車祭
2 当社の創建は定かではないが、往古春木の海浜に土着した掃守氏の祖神、「振魂命」を斎祀ったのが始まりと伝えられている。その後、度重なる戦乱のため一時は廃社となるも、のちに各地より移住した人々が再び社を興し、氏神を「牛神神社」称して崇拝してきたものを、天正八年(1580)に素戔嗚尊を鎮祭してより徐々に神域を整え、弥栄神社と呼称するに至ったという。後は順次近郊の社を合祀し、大正四年に磯上弥栄神社を本社に合祀してより、のちは春木・大芝両地区の総氏神として崇敬されてきた。(弥栄神社パンフレットより)
●地車(だんじリ)の本場、岸和田
当社地域には18町14台の地車があり、境内には何台もの地車が格納されている。一台 1億円以上もするといわれる。                            
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写真説明: @本 殿、 A拝 殿、 B拝殿右手前の牛像、 C御神水水盤、 D南正面参道入口の鳥居

●岸和田・弥栄神社 公式ホームページ: http://www.tvk.zaq.ne.jp/yaeijinja/ を参照ください。


かみがみのましますもり  神々の坐す杜 26.  平成14年10月25日

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