高野街道の杜

かつて京・大坂から高野山へ向かう、いわゆる参詣道を「高野街道」と呼んだ。
この道は河内長野まで4ルートあり、いずれも河内長野で合流している。
東高野街道は、平安京から洞ケ峠を経由する大阪平野東側を通る街道で、旧国道170号線とほぼ一致する。
中高野街道は、大坂平野(ひらの)の杭全神社あたりを起点とする道
西高野街道は、堺港あたりを起点とする道で、河内長野までは現在の国道310号線に沿っている。
下高野街道は、大坂四天王寺から田辺村、天美村を通り、狭山村で中高野街道に繋がる。
 
河内長野の次の宿場町「橋本」から、この高野山参詣の道はいくつかのルートに分かれる。
  ○町石道:  橋本―慈尊院―笠木峠―高野山
○不動坂道: 橋本―河野―不動坂―女人堂  
○勅使道:  橋本―三谷坂―天野―高野山 

高野街道沿いには、多くの神々が坐す杜がある
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東高野街道 東高野街道
東高野街道と巡礼道の分岐点の道標 左同、向野町の旧街道筋)

▲千代田神社境内 御神木の楠木


すぐ東側を東高野街道が通るこの千代田神社には
平安時代末期に製作されたといわれる御神体が2体あり、
1体は菅原道真公(主神)、もう一体の御神体は当時周辺に住んでいた方の祖先の神と言われています。
 以前は”天神社”とか”天満宮”と呼ばれていたときがありました、神社の境内には”天満宮”と彫られた灯篭があります。
 明治40年10月19日に木戸神社と向野の伊予神社をここに合祀しました、
その後大正5年4月周辺の地名が千代田村と改称されたことから”千代田神社”と人々から呼ばれるようになり、
昭和43年10月に正式に”千代田神社”と改称しました。 この神社にはこのほかに立派な楠が何本かあります。
また秋祭りの”だんじり”が宮入するところでもあります。
● 上記は 河内長野市HP より引用●


境内南側・正面入口
江戸時代享和頃の著『河内名所図会』に、「天神祠 市村に在り 寺を法幢寺といふ 本尊十一面観音は聖徳太子御作也」と記し、また宝暦十三年正月の「神主宮勤致数覚」という記録に「天満宮」と記してあるといい、明治時代になって「北山神社」とか「菅原神社」とか称し、菅原道真公を主神としてお祭りしてきた神社である。
明治二十二年に、市村(現在の市町)、市村新田(現在の木戸町)、向野村(現在の向野町)の三村が合併して「市新野村」と称した。しかし氏神はそれぞれ、市村は菅原神社、市村新田は木戸神社(祭神は足仲津彦、気長足姫命、菅原道真公)、向野は伊予神社(稲田姫命)と別れていたといわれる。
明治四十年になって木戸神社と伊予神社の祭神をこの菅原神社に合祀した。その後、大正五年に村名が千代田村と改称されてから、村民は通称千代田神社と呼んでいたらしい。そして、昭和四十三年十月になって正式に「千代田神社」することになった。     (境内由緒看板参照・要約)
千代田神社
  鎮座地: 大阪府河内長野市市町469
祭  神: 菅原道真公  天児屋根命  底筒男命
      蛭子命  足仲津彦命(仲哀天皇)
      気長足姫命(神功皇后)  稲田姫命


末  社: 皇太神社  八幡神社  戎神社
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