式内名神大社 須佐神社  す  さ 

紀伊国在田郡 須佐神社

地元では千田(ちだ)宮さんと呼ばれる。
和銅六年十月(713)、大和国吉野郡西川峯より勧請したと伝えられるが不詳。
創建当初、社祠は海に向かって西面していたが、往来の船で恭謹しないものは転覆破砕されたので、元明天皇の勅命により現在の地に遷座南面されたと伝わる。また伊太祁曽神社が現在の地に遷座したのも同年同月で、「此年月のおなじきも蓋し故あることならん」といい、境内には伊太祁曽神社の遥拝所があり、神事も伊太祁曽神社より神馬12騎がきて務めたなど、「続風土記」によれば社伝で伝わるというが、天正七年(1579)信長の命による秀吉の紀伊国攻めの兵火で、伝記文書が焼失したため史実が定かではない。
寛永-正保期(1624〜48)には、和歌山藩主・徳川頼宣によって修復がなされた。          
   <須佐神社「由緒」、寺院神社大辞典>
和歌山県有田市千田1641番地
JR箕島駅より車で7分
(国道42号保田橋交差点南へすぐ)


祭 神:
  素戔嗚尊(すさのおのみこと)

千田祭:10月14日
  千田のけんか祭りとして有名        
本 殿(一番奥)
いたけるの神のしきます
   紀国といはふかぶろの
           神の宮これ

この歌は本居宣長が寛政六年、須佐神社に詣でて詠んだ歌である。
紀の国を治めた五十猛命の親神素戔嗚尊を、お祀りしているのはこの宮であるとの意味だと石碑にも刻されている通り、当社と伊太祁曽神社は往古より深い関係があったと云われる。

鈴 門
屋形門(絵馬堂) 石段がまっすぐ上に続く正面鳥居 本居宣長の歌碑




かみがみのましますもり  神々の坐す杜 35.  平成15年10月26日


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