式 内 社  牟佐坐神社 むさにます


    牟佐坐神社 大和国高市郡 奈良県橿原市見瀬町(近鉄吉野線岡寺駅下車すぐ)
                          高取川左岸の小高い丘に鎮座   
                       


祭 神:高皇産霊命
     孝元天皇

例 祭:十月九日

由諸沿革
日本書紀天武紀は、安康天皇の御代牟佐村(現見瀬町)村主青の経営であった。当時の祭神は生雷神(即ち雷公)であり、江戸初期まで榊原(境原}天神と称されていた。享保の頃に菅原道真公を祭神としたが、明治に至り古道再び明らかにと天津神である高皇産霊命を奉祀して今日に至る。
境内は孝元天皇の即位された宮地と伝えられている。  (境内説明看板より)
高取川に架かる橋の右岸のたもとには、「孝元天皇軽境原宮址」と刻まれた石碑が立てられている。

寺院神社大辞典には---
「日本書紀」天武天皇元年(672)七月二三日条によると、壬申の乱で大海人皇子軍が金綱井(現橿原市内)で戦った時、高市県主許梅に牟佐社の生魂神がかかって勝利に導いたので、これを厚く祀ったとされ、元来、生魂神を祀った社であった…とある。
本  殿
拝  殿

「日本書紀」宇治谷 孟/現代語訳/講談社学術文庫には…
天武天皇元年七月条(二二日〜位か?)
「これより先、金綱井に集結した時、高市軍の大領の高市県主の許梅は、にわかに口をつぐんでものを言うことが出来なくなった。
三日の後、神懸りのようになって言うのに、“吾は高市社にいる事代主神である。また身狭社(牟佐社)にいる生魂神である” といい、神のことばとして、“神武天皇の山陵に、馬や種々の武器を奉るがよい” といった。…中略…また、“西の道から軍勢がやってくる。用心せよ”といい、言い終わって醒めた。それで急いで許梅を遣わし、御陵を参拝させ、馬と武器をたてまつった。
また御幣を捧げ、高市・身狭の二社の神をお祀りした」とある。
 牟佐生魂神の杜(高取川右岸から撮影) 軽境原宮趾の石碑



かみがみのましますもり  神々の坐す杜 39.  平成16年2月14日掲出


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