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[250] Re[249]: Re[248]: Re[247]: Re[246]: Re[245]: 大穴持神社 投稿者:神奈備 投稿日:2003/11/16(Sun)
> 墨坂神社
墨坂は東からの大和への境、同時に初めて三輪山が見える場所。
大坂は西からの境、やはり初めて三輪山が見えるとか。
おそらくはこの様な理由もあったのかも。盾と矛、どうも国土に関する地のように思っています。

> 唐笠山の山頂には土蜘蛛の首領の首が大石で押さえ込まれて埋められている
たしかに何か寒々とした印象です。鶴橋のママはこの神社と山がお好きだそうですが、この件については一言無。

> 大穴持神社の摂社祭神の内、美須伎(阿須伎?)速男命と美須伎建男命
鴨も祖神がずらりでした。美須伎建男命はどこから出てきた神名でしょうか?

> 八十梟帥
滅亡、謎、その前の栄光、ロマンをかき立てます。

だから、この方面、この時代、やめられませんね。

[249] Re[248]: Re[247]: Re[246]: Re[245]: 大穴持神社 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/11/14(Fri)
>  巨勢の地の唐笠山の大穴持神社、何を語っているのでしょう。

和珥の坂下の居勢祝、高尾張邑の土蜘蛛。
国見丘の八十梟帥、磯城邑の八十梟帥、葛城邑の赤銅八十梟帥。
これらは皆、土蜘蛛と同族の人人と私には思われます。
とすれば「八十梟帥」とは“多くの猛々しい土人の酋長”で、「赤銅八十梟帥」とは、銅(あかがね)の採掘精錬をなりわいとした土族の首魁とでもいうことになるのでしょうか。
記紀によりますと皇軍は内陸への侵攻にあたり、多くの土族を誅していますね。
たとえば墨坂では土人達が、精錬用のイコリ炭で坂上から応戦したものの皆殺しにされ、鎮魂のための祠が築かれた。それが墨坂神社になったのではないでしょうか? 黒盾黒矛の大坂(忍坂)神社も同じ?。
同様に赤銅八十梟帥らも殺され、それぞれその地には祠が築かれたのではないかと想像します。
御所市朝町の大穴持神社も、元はといえばそうした地主神を祀る神社のような気がします。
大変うがった見方をするようですが、唐笠山の山頂には土蜘蛛の首領の首が大石で押さえ込まれて埋められているような気がしてなりません。あの山は登って行くと陰鬱で気が重く感じられ、同行した一人は気分が悪くなって、どうしても参詣できませんでした。

ところで、この大穴持神社の摂社祭神の内、美須伎(阿須伎?)速男命と美須伎建男命が本来の主祭神ではないかと思うのですが、この神名の「須伎」という字が気になります。
阿遅須伎高比古根、富登多多良伊須須伎比売の「須伎」です。この“SK”の音は、飛鳥の音とも繋がるのではないかと思います。
出典は忘失しましたが、ある人の説では鋤・鍬の意だというのもあったようですが、私はどうも金属精錬に関連するような気がしているのですが如何なものでしょう。
ですが後代の「宿」や「夙」とどういう係わりがあるのかは分かりません。

[248] Re[247]: Re[246]: Re[245]: 吉野三山と大穴持神社 投稿者:神奈備 投稿日:2003/11/14(Fri)
 巨勢の地の唐笠山の大穴持神社、何を語っているのでしょう。
 普通は巨勢氏は武内宿禰の裔とされ、大穴持命とは関係がなさそうですが、摂社には鴨族の祖神が並んでいます。

 御笠山の麓・春日大社の地主神が榎本神社で祭神は巨勢姫明神、『日本書紀』神武即位前紀の「和珥の坂下に巨勢祝といふものありて」と帰順しなかった土賊として登場する巨勢祝と関係付けることができるかも。

 土賊と言えば土蜘蛛、『日本書紀神武天皇紀』に「高尾張邑に赤銅八十梟帥」とあり、鴨族の支配下にいたのかも知れません。
 鴨氏の祖に和珥氏がおり、また和珥氏が巨勢祝を祭っていたこと、ともに土蜘蛛を仲間としていたこと、唐笠山と御笠山とかさなっていること、共通点がありそうですね。

[247] Re[246]: Re[245]: 吉野三山と大穴持神社 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/11/14(Fri) 12:40
>  残念ながら現在の鎮座地からは木がなければ見えるのかも知れませんが、この場所である必然性が薄いようですね。
>  カシミールと言う地形ソフトで
> 1.鎮座地から南〜南東方向を眺めたイメージ
> 2.等笠山の北北西側から唐笠山方面を眺める。
> このイメージを神奈備別荘にアップして見ました。

神奈備さん、ありがとうございます。
「別荘」拝見しました。便利なソフトがあるんですね。
大穴持神社へは2回参拝しましたが、いずれも山頂へは雑木に阻まれて行き着けませんでした。
「天河への招待」大山源吾著には、唐笠山から南方の眺望(栃原岳)とする写真が掲載されているのですが、これは違う位置から撮影した写真かもしれませんね。
地形ソフトのシュミレーションからすると、かなりイメージが違うように思えます。それとも以前(本の初刊は1988年なのでそれより以前)は、樹木も少なくよく見えたのでしょうか。
いずれにしても御所市史の記述に疑問が残ります。

>唐笠山の山頂には磐座があり、山中にはタタラの跡と思われる金糞があるようで、谷川健一著『青銅の神の足跡』では、五百家まで通じる鉱床の存在を言う人もいるようです。

この辺りはいわゆる古瀬の里で、近くには巨勢寺跡もあり、巨勢氏の本貫地とも思え、銅の採掘や精錬跡はあるかもしれませんね。
また「御所」「巨勢」「古瀬」は、いずれも巨勢氏にゆかりの地名と考えられるし、巨勢寺は巨勢氏の氏寺、大穴持神社は巨勢氏の氏神とはいえないでしょうか。

[246] Re[245]: 吉野三山と大穴持神社 投稿者:神奈備 投稿日:2003/11/13(Thu) 17:01
 昔、葛城御歳神社から歩いて大穴持神社へ行ったことがあります。神奈備山のような山が見えたような気もするんですが、それが唐笠山とはわかりませんでした。

 遠方の吉野の山々を祭祀すると言う発想は面白い。

 残念ながら現在の鎮座地からは木がなければ見えるのかも知れませんが、この場所である必然性が薄いようですね。
 唐笠山の山頂には磐座があり、山中にはタタラの跡と思われる金糞があるようで、谷川健一著『青銅の神の足跡』では、五百家まで通じる鉱床の存在を言う人もいるようです。

 カシミールと言う地形ソフトで
1.鎮座地から南〜南東方向を眺めたイメージ
2.等笠山の北北西側から唐笠山方面を眺める。

このイメージを神奈備別荘にアップして見ました。

[245] 吉野三山と大穴持神社 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/11/10(Mon) 11:44
[242]の続き
大穴持神社と吉野三山について御所市史に次のような記述があります。

○大名持神社  朝町字宮山(唐笠山)   ※マルヤ注:社名は誤植か?鎮座地からすると「大穴持神社」
   祭 神  大己貴命
本殿なし。百日紅の大樹を神体とする(大和志料)といわれるように現在も、ねじき、うらじろがしをひもろぎとし拝所から拝むようになっている。
社名や祭神が示すように三輪明神即ち大神神社と同系の神社であり、本殿-神殿のない所も同様であるが、ここには三輪山にあたる山がない。しかしずっと向こうを見ると、はるか彼方にかっこうのよい円錐形の山が三つ並んで見える。西吉野の金峰、銀峰、銅峰と呼ばれる橡原・白銀・櫃ヶ嶽であろう。
これは明らかに原始信仰を物語るもので、三輪信仰の原初の形を留めるものと見られる。と同時にこの吉野の三山が山霊を祀る最も古いものであることを物語るものではなかろうか。
原始信仰と山宮との関係をもっと考えてみたい。
「延喜式神名帳」に大穴持神社があり、本社をこれにあてられるが異説もある。 
  
以上、御所市史 /昭和40年3月刊行/ [842P]より引用、原文のまま。

[244] Re[243]: ヤタ神社項 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/11/02(Sun) 21:08
> マルヤさん始めまして、神奈備さんのページに立ち寄りましたら、紹介されていましたので訪れました。

夜須考古学さん、初めまして。
「邪馬台国夜須へご案内」ざっと拝見しました。考古学的にも貴重だと思われる写真がいっぱいですね。それも大判で。興味深いサイトですね。
また、ゆっくり拝見します。ありがとうございました。

[243] ヤタ神社項 投稿者:夜須考古学 投稿日:2003/11/02(Sun) 17:48
マルヤさん始めまして、神奈備さんのページに立ち寄りましたら、紹介されていましたので訪れました。夜須考古学に関する記事が載せてありましたので、投稿しました。
それはヤタノ鏡について浅学ながら、夜須の宮にもヤタノ鏡
の伝承がありこの意味に関する研究調査によりますと、古代中国の伝説にヤタとは太陽の中の黒点が三本足のカラスに、見えた事から王朝の末裔(越国王勾銭)の卑弥呼系のウガヤの男イワレ毘が東征の時越国の風習が物語として伝承したのではないかとし、そちらにもやたの神がオマツリしてあるとの事で、やたについては広辞苑の辞典に載せてありますので
参考に上げさせていただきました。

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/


[242] 吉野三山・白銀岳と古田荘(古田郷) 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/10/22(Wed) 00:16
[239]の続き
吉野三山、金・銀・銅のうちの銀岳は、白銀岳または銀峯山といい、標高は612メートル。
山頂には波宝神社が祀られています。
白銀岳は現在の西吉野村にあり、西吉野村はこの白銀村と宗桧村、賀名生村の三村が合併して昭和35年に誕生した。
又この白銀村はその昔、古田荘といわれ、波宝神社はこの古田荘13ヶ村の氏神でした。
古田荘(古田郷)は白銀岳を中心にして南北に分かれ、
北古田郷には: 奥谷村、大堀村、湯川村、赤松村、百谷村、平沼田村、新子村、夜中村の8ヶ村
南古田郷には: 汗入村、越作村、南山村、鹿場村、小古田村の5ヶ村があり、計13ヶ村となります。
この古田郷13ヶ村と御料郷のうち、唐戸村、八ツ川村、尼ケ生村の3ヶ村を合併して明治22年に白銀村が誕生。
この村名は白銀岳にちなんだものです。
旧白銀村史によれば、次のような伝承や史実が記されています。

●銀峯は吉野郡三霊峰の一にして諾冉の二尊降臨……
●神功皇后三韓を征し還って此峯に遷らせ給ふとき皇后の至誠至徳天に通じて妖雲を払ひ……
●応神天皇吉野行幸の際、駐輦あらせ給う……
●大寳元年役小角此山に入り秘法を行ひしに神女出現ありて「鎮護国家化導群衆」と告げ石室に入り給う…
爾来大峰参詣の行場にして先達入峰し修法すること舊例なり
●吉野将軍(南朝の征夷大将軍)の御勢二百余騎野伏三千人を召具して賀名生の奥の銀ヶ嵩といふ山に打上り御旗をあげられ……(太平記三十四)
●白銀嶽は北方に五條を望み大和平野を双眸の中に萃むるなど景勝の地にして……九月七日夜天誅組此地に本陣を移し四十四箇所に篝火を焚きて警戒しけるが藤堂勢は大日川に敗れしにより……(天誅組の研究)

○神功皇后小竹宮伝承の物語

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yamatohen_006.htm


[241] Re[240]: 阿射加神社の賽銭箱 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/10/07(Tue) 09:41
> http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/azaka.html
> 大阿坂町の阿射加神社に賽銭箱はありますよ。

通行人さん、お知らせありがとうございます。
参拝した時お賽銭を入れようとしたら、神殿(本殿)付近には賽銭箱がなかったのです。ところが帰り際、境内入口の正面鳥居の下に小さな祠形の賽銭箱を見つけました。これが唯一の賽銭箱かと思い、阿射加神社(大阿坂)のページにも、そのように書いたのですが……
本殿前付近(拝殿らしき建物はない)何処かに賽銭箱はあったのでしょうか……?。

[240] 阿射加神社の賽銭箱 投稿者:通行人 投稿日:2003/10/06(Mon) 23:01
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/azaka.html
大阿坂町の阿射加神社に賽銭箱はありますよ。



[239] 吉野三山、櫃ヶ岳 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/09/26(Fri) 20:14
吉野三山は、黄金岳(栃原岳)、白銀岳(銀峰山)、銅岳(櫃ヶ岳)と、北から南に【金】、【銀】、【銅】と峰を連ねています。
この吉野三山の一、櫃ヶ岳は最も南に位置し、標高も一番高く781mあります。

角川日本地名大辞典 29.奈良県 /角川書店  930Pには、

櫃ヶ岳(ひつがだけ)<下市町・西吉野村>
吉野郡の下市町と西吉野村にまたがる山。標高781m。
山容が唐櫃に似ているのでこの名があるといわれる。
栃原岳(黄金岳)、銀峰山(白銀岳)、とともに吉野三山をなす。
山頂には八幡神社が祀られ、櫃ヶ岳大明神と号して崇敬された。
山頂へは北麓の下市町貝原・黒木からの登路が一般的である。
             とあります。[同辞典原文まま]

●参照ページ:http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/sanzan_001.htm         http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yosinoji_001.htm
 

[238] 吉野三山、黄金岳 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/09/26(Fri) 19:20
当方のサイト“吉野へようこそ”の今月の表紙に、吉野三山の一 「黄金岳(栃原岳)」の写真を入れていますが、
掲出の写真は下市町の広橋峠より撮影したものです。

広橋峠は国道309号線で下市から丹生川上神社下社のある長谷へ向かう道中の峠ですが、この峠には丹生川上神社下社の三の鳥居があった(一の鳥居は大淀町今木に、二の鳥居は善城に在った)と謂われる峠で標高は450m、
西方の見晴らしがよく、正面に黄金岳の円錐形の山容が望めます。

ちなみにこの峠には、幕末に天誅組が陣を張り、兵火に焼かれ、後に再建された龍臥山・法泉寺があります。
現在この寺は浄土真宗本願寺派に属していますが、以前は真言宗の寺院で修験道の道場でもあったといわれています。
(昨年、広橋バイパスが出来て、この峠道はあまり利用されなくなりました。うっかりすると峠下のトンネルを通り過ぎてしまいます。でも丹生川上神社下社へ行く際には、とても便利で近くなりました)

[237] Re[236]: Re[235]: 感動! “英雄” 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/09/05(Fri) 21:13
なにがしさん、こんばんは。

> おなじくかんどうしました。
> おたがいのかけひき。どれがしんじつなのか。おくがふかかったです。
> ちなみに、しんじつはけっきょくわからず、みたひとがしんじつをそうぞうするといったようなはなしだったようにかんじました。じつはだれもしんでないかもしれませんね!

なにがしさんも鑑賞されましたか。死闘場面も心理戦を思わせる映像表現がとてもよかったですね。
始皇帝暗殺を謀る刺客が語る回想シーンは、なにがしさんが言われるように幻想で、実は誰も死んではいないともいえますね。
すべてのシーンが幻想的で、精神世界を映しているようであり、見ごたえのある作品でした。
私が今まで見た映画のなかで最も感動させられた映画の一つとなりました。

[236] Re[235]: 感動! “英雄” 投稿者:なにがし 投稿日:2003/09/04(Thu) 19:14
おなじくかんどうしました。
おたがいのかけひき。どれがしんじつなのか。おくがふかかったです。
ちなみに、しんじつはけっきょくわからず、みたひとがしんじつをそうぞうするといったようなはなしだったようにかんじました。じつはだれもしんでないかもしれませんね!

[235] 感動! “英雄” 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/08/27(Wed) 23:33
観ました、「英雄 HERO」。
チャン・イーモウが、秦始皇帝暗殺を企てる刺客を物語にしたという武侠作品ですが、素晴らしい映画でした。

風に舞う髪や衣、そして木の葉。
剣のきらめき、心うつ水滴のひとつひとつ。
めくるめく色彩と音楽、幻想的決闘美。

改めて東洋人は美しいと思わせてくれます。
ハリウッド映画では、この感動は得られないでしょう。
魂をゆさぶる珠玉の映像美にふれて、中国映画の質の高さに驚かされ、
一度にファンになってしまいました。

日本映画 「もののけ姫」も良かったですが、
この“英雄HERO”は、何度でも観てみたいと思う感動ものです。

[234] 河内飛鳥と武寧王 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/08/21(Thu) 21:55
9月21日、羽曳野市「LICはびきのホールM]で、
はびきの歴史シンポジウム「河内飛鳥と武寧王」が開かれます。
パネリストは上田正昭京大名誉教授と韓国の大学の先生方です。
定員は700名で、往復ハガキで申込みが必要。
参加料千円。締め切りは9月10日。
詳しくは、羽曳野市(TEL.0729-58-1111)教育委員会歴史文化課へお問合せください。

[233] Re[232]: おひさしぶりです 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/08/16(Sat) 11:37
chasukeさん、ご無沙汰しています。
梅雨が明けたというのに、うっとうしい日が続く毎日ですね。

〇火星特集拝見しました。
「バーシバル・ローエル」は知りませんでした。アメリカ人の天文学者で文学者でもあった人物だそうですね。日本語訳の著書があれば、読んでみたいと思います。ありがとうございます、勉強になります。
8月22日、火星が大接近するそうですね。その日は注意して夜空をじっくり眺めてみたいものです。

[232] おひさしぶりです 投稿者:chasuke 投稿日:2003/08/14(Thu) 11:34
マルヤさん 久しぶりに寄らせて頂きました。
まずは、暑中お見舞い申し上げます。
何時ぞやは弊サイトにお立ち寄り頂きまして有り難うございました。
長かった梅雨が明け台風が立ち去ったらもうお盆になってしまいました。
今月の27日には6万年ぶりに火星が大接近しますので、弊サイトの日記
に火星特集を組んで見ました。
ご興味お有りでしたらお立ち寄りの上ご高覧賜れば幸いに思います。

 http://homepage2.nifty.com/chasukekun

[231] 生国魂神社で薪能 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/08/07(Thu) 12:08
恒例の「大阪薪能」が、大阪市天王寺区の生国魂神社で8月11日、12日とあります。両日とも午後五時開演。

【初日(11日)演目】
●半能 絵 馬   観世流
●半能 田 村   金剛流
●狂言 魚説法   和泉流
●能  百 萬   観世流
●能  一角仙人  観世流

【二日目(12日)演目】
●能  鶴 亀   観世流
●能  経 正   観世流
●狂言 太刀奪   大蔵流
●半能 葛 城   金春流
●半能 春日龍神  観世流

○前売り¥3,000  ○当日券¥3,500 
○詳しくは生国魂神社へお問合せください。TEL:06-6771-0002
    

[230] Re[229]: 無題 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/07/25(Fri) 20:01
> ”にゅうし”に”おおともし”がようしにはいり、こうせい”にゅうし”も”みょうじ”がかわっているばあいがあります。この”おおともし”は”にゅうつひめ”とともに、”にゅうかわかみ”より”わかやけんいとぐん”にうつっております。

なにがしさん、ありがとうございます。
様々に支族として分かれて行くということですね。
古代の姓(かばね)と氏(うじ)の関連が、私はよく理解できていないのですが、「氏/姓」→中世の「名字」→近世の「苗字」への変遷も分りにくいところですね。

ところで[227]で書いたところの「丹生王(丹生女王?)」のことですが、同じ石田王の妻の一人に「紀皇女」がいます。この紀皇女は天武天皇の娘なので、丹生王の年代もほぼこの頃であろうと、日本古代氏族辞典/佐伯有清著にあります。
万葉集には、石田王が卒りし時に丹生王が作る歌に、
「こもりくの泊瀬の山」や「石上布留の山なる」などの言葉が出てきていますので、丹生王は大和国の人と思われます。でも丹生王の“丹生”が丹生氏を意味するものかどうかは分かりません。この場合は地名を表わしているようにも思うからです。
また、この丹生王は大伴旅人と交際があったらしく、万葉集・巻四、553、554にその歌二首が見えます。
ちなみに石田王も丹生王も伝不詳です。

[229] 無題 投稿者:なにがし 投稿日:2003/07/24(Thu) 12:38
まるやさま
”にゅうし”に”おおともし”がようしにはいり、こうせい”にゅうし”も”みょうじ”がかわっているばあいがあります。この”おおともし”は”にゅうつひめ”とともに、”にゅうかわかみ”より”わかやけんいとぐん”にうつっております。

[228] Re[227]: Re[226]: Re[225]: 丹生氏 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/07/23(Wed) 20:35
なにがしさん、こんばんは。
> ひらがなですいません。
PCの調子が良くないようですね。

> ”にゅうそうかんぬしけ”についていえばたしかきょうだいをふくまなければ80だいぐらいだったとおもいます。>…じとうのじだいからはじまっています。

ありがとうございます。
なにがしさんの丹生についての記述には説得力があります。
「丹生惣神主家についていえば、兄弟を含まなければ80代位だったと思う。そして、系譜の記録は持統天皇に時代からと思う」ということですね。
いや、そうでしょうね。一系で128代はあまりにも……と私も思います。

私は「新撰姓氏録」右京皇別の息長丹生眞人を、丹生氏ではなく、息長氏とみて[224]で「畿内には丹生氏なる氏族名の記載はない」といったのですが、姓氏家系大事典/太田亮著には、丹生(ニフ)氏の15項に「『大和の丹生氏』があり、至徳元年(1384)四月の大和武士交名に丹生氏見ゆ」とありますね。
また、万葉集巻三、巻四に丹生王(にふのおおきみ)のつくれる歌一首、丹生女王(にふのおおきみ)太宰師大伴卿に贈れる歌2首が見え、この歌は朱鳥元年(687)から天平二年(750)位までの歌らしいので、この時代に丹生を名乗る氏族が居たことを完全に否定はできません。
ちなみに丹生王と丹生女王は同一人物と思われるれ、石田王(いわたのおおきみ)の妻の一人であろう。とは萬葉集釋注二/伊藤博/集英社にありました。

[227] Re[226]: Re[225]: 丹生氏 投稿者:なにがし 投稿日:2003/07/22(Tue) 23:07
ひらがなですいません。
> 丹生廣良氏の著書によれば、ご本人は第128代目の当主だそうで、天皇家より古い家柄になるといいます。

おそらくきょうだいもふくんでだとおもいます。”にゅうそうかんぬしけ”についていえばたしかきょうだいをふくまなければ80だいぐらいだったとおもいます。ちなみにたしかだろうとおもわれる”にゅうそうかんぬしけのかけいず”はじとうのじだいからはじまっています。しるしだしたのがそのじだいからとおもいます。”にゅう”をなのりだしたのはいつからかはわかりません。

[226] Re[225]: 丹生氏 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/07/18(Fri) 22:31
落王さん、こんばんは。ようおこし。

丹生についての文献では、
●「丹生の研究」松田寿男/早大出版部
●「丹生神社と丹生氏の研究」丹生廣良/きのくに古代史研究会
などが知られていますが、ご存知松田博士は、丹生研究の第一人者として有名ですね。
また、丹生廣良氏は紀国丹生都比売神社の社家で、丹生神社と丹生氏の研究者でもあります。
丹生廣良氏の著書によれば、ご本人は第128代目の当主だそうで、天皇家より古い家柄になるといいます。
いささか疑問はありますが、さすれば紀州丹生氏は新撰姓氏録編纂のはるか以前から存続していたことになります。

>  松阪市に中央構造線の露頭があると聞き、今度、辰砂を見ることが出来ないか行ってみようと思っています。
>
○中央構造線の露頭は確かに見ることが出来ます。
  神奈備さんに教えていただき私も見に行きました。
  場所は三重県飯南郡飯高町月出ワサビ谷です。
下記アドレスは、これもやはり「神奈備にようこそ」Setohさんのサイト内で
「水屋神社」のページです。中央構造線の露頭がご覧になれます。

http://www.kamnavi.net/en/mie/mizunoya.htm


[225] 丹生氏 投稿者:落王 投稿日:2003/07/18(Fri) 15:09
お久しぶりです。
丹生の話題を興味深く拝見しました。

>815年頃以前畿内に、すくなくとも丹生氏なる氏族は存在しなかったのではなかったかと考えています。丹生を名乗る氏族が出てきたのは、もっと後の時代ではないかと思うのです。丹生川上神社下社の宮司さんに「吉野には丹生氏は居なかったのですか」とお尋ねしましたら、「ハハハ、みな丹生氏ですよ」との答えでした。

丹生氏について、なるほどと思い、宮司の話の面白いなぁと思いました。私の住んでいる宇陀は丹生、つまり辰砂にかかわりの深いところですので、少なからず関心がります。しかし和歌山県の丹生神社や吉野との関連をわからずにいます。また、紹介してくださったHPも拝見しますね。「神奈備にようこそ」は何度か検索であたって参考にさせていただきました。
 松阪市に中央構造線の露頭があると聞き、今度、辰砂を見ることが出来ないか行ってみようと思っています。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/4823/


[224] 丹生氏とは 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/07/10(Thu) 20:51
「丹生」の末裔さん、こんばんは。
書き込み遅くなってすみません。
私も丹生に所縁の一族の裔だと思っています。

私は吉野に生まれ、丹生川で釣りをしたり、泳いで遊んだりして子供の頃を過ごしたので、丹生には特別な思い入れがあります。
でも吉野には「丹生」という地名や川、神社はありますが、丹生という姓氏はあまり聞いたことがありません。
例えば平安時代のはじめ頃編纂された「新撰姓氏録」には、丹生氏なる氏族名は記載されていません。
そのようなことから、その年代(815年頃)以前畿内に、すくなくとも丹生氏なる氏族は存在しなかったのではなかったかと考えています。
(つまり丹生を名乗る氏族が出てきたのは、もっと後の時代ではないかと思うのです)
ただし、新撰姓氏録は【畿内】の諸国に居住していた氏族だけしか収録されていないので、断言は出来ません。

丹生、つまり丹砂の採取や金属の採掘精錬に従事した部族を「丹生族」という言い方をすれば、
吉野の場合、吉野丹生族の主族は、井氷鹿/井光(いひか或はいかり)ではなかったかと私は思います。
この井光が吉野首の祖で、吉野首は天武天皇より連の姓賜り、吉野連を称しました。
「吉野その歴史と伝承」宮坂敏和/名著出版 を見ますと、桜本坊に所蔵する「日雄寺継統記」よりの引用から、井光の苗裔 井角乗は日雄監であり、吉野連であったことが分かります。また新撰姓氏録の吉野連の記述には、
吉野連は「彌比加之後也。中略…井光女有り、天皇召して之を問う。汝誰人ぞ。答えて曰く。妾是天より降り来る白雲別神之女也。名は豊御富という。天皇即ち水光姫と名づく。今吉野連のまつる水光神是也」……とありますので、井光=水光=吉野連の祖といえます。
そして記紀の記述から、井光は採鉱に従事していたらしいと想像できます。

この吉野連は後に、井氏と角氏に分家。更に井頭氏、加藤氏にも分かれたと謂われます(吉野本族起立系譜)。
そのような訳で、吉野丹生族には丹生氏なる氏族はおりません。
丹生川上神社下社の宮司さんに「吉野には丹生氏は居なかったのですか」とお尋ねしましたら、
「ハハハ、みな丹生氏ですよ」との答えでした。
上記吉野連の分家の四氏から、後の時代に丹生氏を名乗る支族が出たのかも知れません。


いまだ私には丹生氏のことが良く分からず、謎の氏族と言うほかはないようです。
様々な見方、とらえ方があると思います。
下記は、「丹生」について特に詳しいサイトですので、ご参照ください。
マルヤも下記ページを拝見して勉強させて戴いています。

●神奈備にようこそ/SetohさんのHP
  http://www.kamnavi.net/ny/index.htm

●WHAT'S 丹生 /なにがしさんのHP
  http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html

●坂東千年王国さんのHP
  http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/tan/tan-1.htm

[223] Re[222]: 偶然なのでしょうが 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/07/09(Wed) 13:18
「丹生の末裔」さん、ようおこし。

> はじめまして。私は「丹生」という名字だった一族の一人です。……

はじめまして、マルヤです。
出先で今、拝見しました。改めて書き込みします。

[222] 偶然なのでしょうが 投稿者:「丹生」の末裔 投稿日:2003/07/09(Wed) 01:25
はじめまして。私は「丹生」という名字だった一族の一人です。江戸時代までの我が一族は「丹生」を名乗っていました。墓にも「丹生○○」と彫られています。明治になって現在の「二部野(にぶの)」という字を当てたそうです。検索エンジンで「にぶの」を調べていてここにたどりつきました。一族の古老によると鎌倉時代に備前児島に流された親王の供をして現在地にやってきたそうです。
 ということは後鳥羽上皇の第6皇子令泉宮頼仁親王,第4皇子桜井宮覚仁親王の関係でしょうか・・・などと空想しております。
 まだここにたどり着いたばかりで,「丹生」や「真朱の姫君」についてはこれからじっくりと拝見します。何か親近感がありまして,つい書き込んでしまいました。

  

[221] Re[220]: はじめまして 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/07/08(Tue) 21:53
はじめまして、ようおこし。

> 久美浜町の神内太刀宮神社のことを調べていて偶然こちらをお訪ねしました。
> とても参考になります。> ありがとうございます。

「KUMIHAMAに住んで」を拝見しました。
美しいHPですね。昨年末、久美浜町へ行った時のことを思い出しました。
特に「季節のいただきもの」のページの写真が美しく、花の香が匂うようです。

[220] はじめまして 投稿者:ぴろやん 投稿日:2003/07/08(Tue) 14:06
久美浜町の神内太刀宮神社のことを調べていて偶然こちらをお訪ねしました。
とても参考になります。
ありがとうございます。

http://mypage.odn.ne.jp/home/hs590422


[219] Re[218]: カメラ好き! 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/07/08(Tue) 09:24
落王さん、いいカメラをお持ちですね。

>  ニコンのNEW FM2に出会ってからマニュアル一眼レフにひかれてしまいました。持った感触や重みにシャッター音、最新のカメラには無い心地良さを感じています。

そうですね。一眼レフの魅力は「カシャッ」というフォーカルプレーンのシャッター音ですね。これがたまりません。

>  一応、中古で八セルブラッドを購入しましたが、なかなか撮影していません。

うらやましい!憬れドイツの高級機ですね。6×6のブロニー判。
私の中型機はマミヤRB67です。でもこれはレンズ・シャッターですから、交換レンズにそれぞれシャッターがついています。
本体、レンズ共に重くてあまり持ち歩けません。

>  これからも壬申の乱をはじめ、吉野の魅力をさぐってまいりたいと思いますのでよろしくお願いします。

こちらこそ、よろしくお願いします。

[218] カメラ好き! 投稿者:落王 投稿日:2003/07/06(Sun) 09:31
マルヤさん、私の雑なHPも見てくださりありがとうございましたm(__)m
 吉野は魅力的な所がいっぱいですので、またゆっくり散策したいと思っています。
 カメラも最初はキャノンのEOSシリーズを使っていましたが、ニコンのNEW FM2に出会ってからマニュアル一眼レフにひかれてしまいました。持った感触や重みにシャッター音、最新のカメラには無い心地良さを感じています。
 私もHPはカシオのデジカメを使用。じっくり撮影するのでなければ手軽で便利ですからね。取り込みも。骨董品的なカメラも好きですがなかなか手が出ないのです(笑)。一応、中古で八セルブラッドを購入しましたが、なかなか撮影していません。前田真三さんに憧れたミーハ―でした(^^ゞ
 HNは・・・落馬の王子様なんてふざけています。最初はシャレで書き込んだのが定着してしまい、恥ずかしくて縮めました。
 これからも壬申の乱をはじめ、吉野の魅力をさぐってまいりたいと思いますのでよろしくお願いします。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/4823/


[217] Re[216]: 初めまして 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/07/05(Sat) 12:23
落王さん、はじめまして、ようおこし。

>  吉野での厚い協力なしに大海人皇子たちはやっていけなかったのではないかと思っています。

私も同感です。天武や持統は吉野族の協力なしでは政権を維持出来なかったのではないかと考えています。

貴HP拝見しました。誕生後まだ日が浅いホームページのようですが、充実していますね。U-diaとはいい造語ですね。それに「落王」さんとは、落ちた王子さまの意味とは、これもおもしろいHNと思います。

カメラが好きなんだそうですね。
私もカメラが大好きで40年以上前の骨董品級のカメラから、最近のデジカメまで何台も持っています。その中で一番気に入って使っているのは、ニコマートです。ニコンFほど重くはなく、性能はニコン並み。堅牢で軽く、第一マニュアル式が好きだからです。でもホームページに使うのは、もっぱらオリンパスのデジカメですけどね。

[216] 初めまして 投稿者:落王 投稿日:2003/07/04(Fri) 15:00
突然、お邪魔してすみません。
宇陀郡の落王という者です。宇陀や大和高原周辺の歴史などを訪ねています。
壬申の乱が大好きで吉野方面へよく行っています。最近は6月24日に大海人皇子や舎人の気分で少し歩きました。雨でずぶ濡れでしたが(笑)。
 吉野での厚い協力なしに大海人皇子たちはやっていけなかったのではないかと思っています。吉野の情報を知りたくて、こちらにお邪魔しました。
また参考にさせていただきますね。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/4823/


[215] 有栖川宮家/祈願所/波宝神社 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/06/15(Sun) 19:13
ay214】続
それでは有栖川宮家御一行は、どのような道を通って波宝神社に参詣されたのでしょう。
これも西吉野村郷土史研究家 辻本武彦氏の資料より以下に引用させていただきます。

●下市から(県道下市十日市線を通り、黄金岳『栃原岳』の中腹、大鳥居前)波比売神社の社頭を通り、平原の龍王の辻から、熊野神社の前を通り烏尾の坂をのぼり、(そこからは尾根伝いに)波宝神社に到着されたのであろう。この道は古代からの聖なる道であり、波宝神社への正式な参道であった。有栖川宮は初めての参詣にあたり、この道を選んだのであろう。瀧上寺の記録に残ることは、下市のしかるべき寺で休憩なり宿泊されたためと考えられる。またこの方面の僧は神社までお供したのかもしれない……。 ( )内は丸谷注

下記は波宝神社参照ページです。
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/himekami_010.htm
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/asuka_008.htm
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yamatohen_005.htm

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/hahou_001.htm


[214] 有栖川宮家/祈願所/波宝神社 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/06/15(Sun) 13:47
【213】続
天保九(戊)年(1838)正月付けの、波宝神社神社神宮寺 義仙 と署名のある文書には、
有栖川宮御方
實枝宮御方
上総宮御方
精宮御方
歓宮御方
豫宮御方
染宮御方
諸宮御方
の御名があり、この時もにも参詣があったようである。また他に「御撫物」の記録もある。
「御撫物」とは宮家より御預し護持する品で、絹糸一かせを白紙に包み、水引を掛け白木の三宝にのせ、それを御紋のついた四重の箱に入れ移送のための高札や道具がついている。御撫物は一年間祈願して正月に宮家へ届け、新しい御物を預かって帰るという繰り返しである。
慶應四年(1868)神仏分離令が総督府から発せられ、その後(有栖川総記によると)明治二年(1869)二月、行政官布告により菊章の器物をその祈願所に寄附することを差止め、かつ新たに祈願所を設けることを禁ぜしより、当宮の祈願所、祈祷所も廃絶せりと記している。
                [引き続き辻本武彦氏の資料より引用]

以下は波宝神社神社参照ページです。

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yasiro_002.htm


[213] 有栖川韶仁親王と波宝神社 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/06/15(Sun) 13:40
西吉野白銀岳波宝神社は、有栖川韶仁親王の祈願所になっています。
地元西吉野村の郷土史研究家、辻本武彦氏の研究資料によりますと、

波宝神社に宮様が初めて御参拝なされたのは、文政十三年(1830)のことで、下市町善城の瀧上寺「瀧上誌」に、文政十三年の項に「三月廿九日京都有栖川宮様白銀宮へ御参詣相成る」の記録がある。この時の宮様は第七代韶仁親王で四十六歳、御子さまの幟仁親王は十八歳であり、御一家で参拝された。このときの御一行の人数や御寄付のことは分からないが、その後この年の冬、中宮寺宮(妹君の尊照栄暉尼王)から神輿が寄附された。
天保四年(1833)になって、波宝神社は正式に有栖川宮家の祈願所となり、幕・翠簾・提灯の寄附をうけている。
ほかにも宮様方からの胎内仏等の寄附を受けた記録がある。
また嘉永七年(1854)には有栖川幟仁親王より本堂(今は貴賓殿とよんでいる)の寄附があった。
天保四年(1833)巳年八月の波宝神社神宮寺僧、義仙の記録では、
次の御方々の、御繁栄御長久御祈祷の御名がある。
有栖川宮御方  (有栖川韶仁親王)
實枝宮御方    (同妃、後の妙勝定院)
上総宮御方    (どなたかは不明)
西丸御簾中御方
水戸御簾中御方
御連枝宮々御方
【西吉野村郷土史研究家 辻本武彦氏資料の一部より】

不思議なのは、何故このような山奥の山頂の神社を、筆頭皇族の有栖川宮家が「祈願所」にされたかです。
当時、有栖川宮韶仁親王は神祇事務総督、神道総裁でもありました。神社を統べる地位にある御方が、全国にあまたある神社の中から、何故「波宝神社」を祈願所に定めたのでしょう。このことは波宝神社神宮寺僧、義仙が知っていたと思えます。義仙は京都にも名を知られた人物だったようですが、出自・素性はよく分かっていません。
有栖川宮家の文書には残されていた(有栖川宮家廃絶後は高松宮家に残されている?)とも思えるのですが、今は知るよしもありません。
ちなみに韶仁親王の御孫の熾仁親王は、戊辰戦争征討大総督、陸軍大臣で婚約者は有名な悲劇の皇女・和宮さまでした。
また、皇道大本の聖師 出口王仁三郎はこの熾仁親王の御落胤という説があります。
以下は波宝神社の参照ページです。

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yasiro_001.htm


[212] Re[211]: はじめまして 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/06/12(Thu) 19:16
> はじめまして。
> 名古屋市近郊に在住のchasukeと申します。
>
はじめましてマルヤです、ようおこし。(ようこそお越しくださいました)
私は南大阪に住んでいます。よろしくお願いします。
chasukeさんとは、飼っておられた愛猫茶助君からきたそうですね。

HP拝見しました。美しく魅力的なサイトですね。
雑感記や闘病記、日記など、ざっと読ませて頂きましたが、論理的で説得力があって、すばらしいと思います。
王妃ネフェルティティも興味深く読ませて頂きました。次回が楽しみです。
他のページも又ゆっくりと拝見します。

そちらへもお伺い致します。

[211] はじめまして 投稿者:chasuke 投稿日:2003/06/11(Wed) 19:43
はじめまして。
名古屋市近郊に在住のchasukeと申します。
素敵なサイトを拝見させて頂き有り難うございました。
私も手作りではありりますが、海外旅行、日記等を中心に
下記URLのサイトを運営しております。
お暇な折りにでもお越し頂ければ幸いです。
お待ちしております。

額田王について雑感記に、一昨日そのミイラが発見されたエジプト王妃ネフェルティティのことを日記に掲載してみました。駄文、拙文でお目汚しとは思いますがご覧頂ければ幸いです。

http://homepage2.nifty.com/chasukekun/

[210] Re[209]: Re[208]: Re[206]: 金剛トンネル 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/06/05(Thu) 21:43
> > 6月/13(金)、18(水)、28(土)の内、いずれかでもよろしいでしょうか?
> いずれでもokです。

では、18日(水)でお願いできればありがたいです。
メール致します。

[209] Re[208]: Re[206]: 金剛トンネル 投稿者:神奈備 投稿日:2003/06/05(Thu) 16:45
> 6月/13(金)、18(水)、28(土)の内、いずれかでもよろしいでしょうか?

いずれでもokです。

[208] Re[206]: 金剛トンネル 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/06/05(Thu) 12:26
> 金剛トンネルの多分五条側から登り口があると記憶していますが、ご存じでしょうか。> 小屋の後ろだったとか???
>
その道はよく通るんですが、登り口は気付きませんでした。
行って探してみないと仕方がないかもしれませんね。
> 19,22,24,27以外でお天気の良い日。

6月/13(金)、18(水)、28(土)の内、いずれかでもよろしいでしょうか?

[207] Re[205]: ご訪問いただきまして、ありがとうございます。 投稿者:マルヤ 投稿日:2003/06/05(Thu) 12:17
> その節はありがとうございました。
> 私の方は今のところ6/21,22以外でしたら、嬉しいです。
>
こちらこそその節はありがとうございました。
21日、22日以外で神奈備さんにご相談します。
> ときに
> 吉野の道の駅で売ってる、こんにゃく(1本¥100也)は美味ですね。
> このところ日曜毎に、だんなさんとお買い物ついでに食べに行ってます。(^o^)
子供の頃、吉野の家で取れた「こんにゃく玉」で、母がこんにゃくを作ってくれましてね。茹で立てを刺身で食べるんです。とても美味しかった記憶が残っています。それに近い味で食べさせるところが、丹生川上下社へ行く途中の「善城の里」の近く国道の左側にあったと思います。土産物屋さんですが、屋台で食べることもできます。機会があればご賞味を。

[206] 金剛トンネル 投稿者:神奈備 投稿日:2003/06/04(Wed) 18:37
金剛トンネルの多分五条側から登り口があると記憶していますが、ご存じでしょうか。
小屋の後ろだったとか???

19,22,24,27以外でお天気の良い日。

[205] ご訪問いただきまして、ありがとうございます。 投稿者:みえこ 投稿日:2003/06/04(Wed) 17:43
マルヤさま、その節はありがとうございました。
前回は残念でございましたが、今回は是非ごいっしょできますように。
マルヤさまと神奈備先生のご都合のよい日をお聞かせ下さいませ。
私の方は今のところ6/21,22以外でしたら、嬉しいです。

ときに
吉野の道の駅で売ってる、こんにゃく(1本¥100也)は美味ですね。
このところ日曜毎に、だんなさんとお買い物ついでに食べに行ってます。(^o^)

[204] みえこさんの旧掲示板 投稿者:神奈備 投稿日:2003/06/04(Wed) 11:46
http://www1.kcn.ne.jp/~suseri/cgi-bin/himaturi/apeboard_plus.cgi

[203] Re[202]: 彌栄神社は八坂神社 投稿者:神奈備 投稿日:2003/05/30(Fri) 21:04
> 彌栄神社(弥栄神社)は、八坂神社と同じと考えていいのではないでしょうか。

そうでしょうね。素盞嗚尊と櫛稲田姫の子孫が弥栄(いやさか)えに栄えたとの伝承からと云うのが通説のようですね。
式内社の研究の志賀剛氏は祇園に八つの坂があって云々との説をだされていましたが、五坂とか六坂の神社はあまり聞きませんから青草なんでしょう。

[202] 収録、保存ミスをしました。(これはマルヤが書き込んだものと思うのですが、データが残っていません)


[201] 収録、保存ミスをしました。(書き込みしていただいた方、申し訳ありません。もし分かれば教えてください)