[150] Re[149]: 少彦名 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/12/06(Fri) 02:12
横木瓜さん、こんばんは。

> 日本海側で、舞鶴と宮津の両「匏宮」がその通過地と関係してはいないでしょうか?神奈備さんでは「匏(ヨサ)。ひさご、瓢箪」
> ここらは面白いところです。のアドバイスをいただいたのですが、ハイレベルで未消化です。東が与謝(匏)の海で西が阿蘇海ですが、他掲示板でも呉楚系は蘇我氏、葛城氏、秦氏で云々、阿蘇の蘇が楚とどうのと説明されても脳みそがキャッチ出来ない状態です。なにかヒントをいただけませんか

私もその「匏(ヨサ)。ひさご、瓢箪……」など考えていたのですが、未だに分かりません。
「本当は小生のほうが教えてほしいのです。」と、当やさか掲示板の[136]日下部さんの書き込みに対して、お訊ねしたぐらいです。
折にふれて調べてみたいと思います。もし何か気付いた事がありましたら書き込みますので悪しからずご了解ください。

●もしこの掲示板をご覧になった方で、[149]のお訊ねについてについて何かご存知でしたら書き込み頂ければ幸いです。

[149] 少彦名 投稿者:横木瓜 投稿日:2002/12/05(Thu) 02:42
こんばんわ。お世話になっています。暇な時で結構です。宜しくお願します。
「槃瓠伝説をもつ犬戎と呼ばれる北方民族が中国南部の江南、南越、東南アジアにかけて南下した。しかし紀元前四〜三世紀以後中国の春秋戦国時代の動乱の余波を受け、中国南部にも留まれなくなった犬戎は南海から海上を北上して、波状的に列島の南西諸島から薩摩半島に上陸し、九州を通りぬけて、本州の近畿地方に定着した。それが「記紀」でいう葛城氏である。」(興亡古代史・小林惠子)
[136]
「彼らを率いてきた部族長、スクナヒコナは海より渡り来て、また海より何処ともなく去った。」とおおせですが、日本海側で、舞鶴と宮津の両「匏宮」がその通過地と関係してはいないでしょうか?神奈備さんでは「匏(ヨサ)。ひさご、瓢箪
ここらは面白いところです。「ヨサ」の海と「アソ」の海とが対で天橋立を境としています。言語的には「アソ」に相当する何か、おそらくは神の魂の入れ物のような神座的なものを表す言葉と意味がでてくれば一歩前進でしょう。
 できたら同じような国の言葉がいいですね。片や西アジア、片やメラネシアでは困りものですよね。」のアドバイスをいただいたのですが、ハイレベルで未消化です。東が与謝(匏)の海で西が阿蘇海ですが、他掲示板でも呉楚系は蘇我氏、葛城氏、秦氏で云々、阿蘇の蘇が楚とどうのと説明されても脳みそがキャッチ出来ない状態です。なにかヒントをいただけませんか


[148] Re[147]: 無題
> 東アジアの熾烈な戦いの影響は日本列島には及ばなかったのでしょうか。

紀元前後から、大陸や半島での勢力争いに敗れた人々(主に王族)が、それならばと東夷の島国と侮って日本列島へ、一族を引き連れ海を渡り来た可能性は大いにあり、勿論大きな影響を及ぼしたと思います。
その時代は、言葉も現代の我々が考えている程、大きな差異はなく、ある程度通じたのではないかと私は思っています。
ある方の説では、古代は現代の「常用語の十分の一」くらいの語彙で十分だったそうです。現代はあまりにも言葉が増え、用語が複雑になりすぎて、かえって言葉をなくしているといいます。

> 日本列島が大陸にごまをすっているのではないかという史料がみえるのですが見解の相違でしょうかね。

先進国として大いに学び、知識や文化を吸収しようとしての阿りはあったのではないでしょうか。また列島の為政者として、大陸(皇帝)の権威を借りたかったことも事実でしょう。

●文明は西から東へ伝わったと普通云われますが、「実はそうではなく、太古文明は東に始まり、西へ伝播して行った。その後、西から東へ戻ってきたのだ」という説をとなえる人もいます。

さまざまな説や考えがあり、本当に分からなくなってしまいますね。でも、歴史は面白いものですね。
私も勉強させていただきます。よろしくお願いします。

[147] 無題 投稿者:横木瓜 投稿日:2002/11/23(Sat) 11:06
マルヤさま早速の回答感謝します。
[氏の説について行けない(実は知識不足で理解が及ばない)のが正直なところです。]

お手数をおかけしました。ついていけない知識のない私はついていくしかない状態です。

東アジアの熾烈な戦いの影響は日本列島には及ばなかったのでしょうか。
BC108
「「漢書(かんじょ)」地理史に「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国歳時を以て献見に来るという」
57
倭奴国王朝貢し光武帝より印綬を授かる(後漢書東夷伝など)
239
卑弥呼使者を魏の都洛陽に送る、卑弥呼魏の明帝から親魏倭王の称号を贈られ、金印紫綬銅鏡百枚などを賜わる(魏志倭人伝)
413
東晋安帝の時倭国方物を献ず(晋書倭条)
安帝の時倭王「賛」あり(梁書諸夷伝)

日本列島が大陸にごまをすっているのではないかという史料がみえるのですが見解の相違でしょうかね。もっと勉強させていただきます。有難うございました。



[146] Re[144]: 狭穂姫 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/11/23(Sat) 00:29
> マルヤ様 度々お邪魔して学習させて頂いております。「横木瓜」で書き込ませてください。宜しくおねがいします。
>
こちらこそ、よろしくお願いします。

[144]の書き込み
>興亡の古代史(小林恵子)を読んでいますが、よくわかりません。がおもしろいです。専門家の論評をおきかせください。

横木瓜さん、こんばんは。
小生は専門家とは程遠い者です。古代史は確かに好きですが、趣味として興味をもっている一人に過ぎません。そんな訳でお訊ねの答えを一言で言えば「よく分からない」と言うしかありませんが、少し書いてみます。

小林惠子氏の説は、「古代ヤマトの支配者(あるいは支配者階級)は大陸から渡り来た」というのがその根底にあると思います。例えば天武天皇は高句麗の「泉蓋蘇文」だという大胆な説もあり、横木瓜さん書き込みの[144]の記事にしてもにわかに信じがたいようにも思えます。氏の説を引用して箇条書きにすると次のようになるのでしょうか。

●4世紀の初め頃、大和地方は漢劉氏系の東川王系の勢力下だった。
●丹波道主は東川王系で丹波王国の王だった。(慕容氏に
●狭穂彦は丹波道主の子(慕容氏に滅ぼされる)
●狭穂彦の妹が狭穂姫で、その子にヤマトタケル(大陸名は慕容儁)がいる。
●ヤマトタケル=誉津別だといい、父は慕容[皇光]。←かっこ内は一字
●慕容氏とは中国東北部の「東胡」といわれた匈奴に近い民族で、4世紀頃は百
済を支配下にしていた。
※驚くべきことに氏はヤマトタケルと景行天皇は同一人物という。
○書紀では景行天皇の母は日葉洲媛命。
そして、景行→成務→仲哀 + 息長帯の系譜をタラシ王朝といい、帯方郡を意味するという。そして王権の順序は、景行→仲哀→成務が正しいとも。
●仲哀=近肖古(百済王)<ヤマトタケルの次男>
●成務=武内宿禰<ヤマトタケルの三男>
●神功は先に仲哀と結婚、次に武内宿禰と結婚した。

小林惠子氏はご存知のようにアジア史の研究家で、説得力があり、「そうであったのか」つい納得させられてしまいそうになります。
小生は氏のファンですが、でも全面的には首肯できないのです。
つまり氏の説について行けない(実は知識不足で理解が及ばない)のが正直なところです。

[145] Re[144]: 狭穂姫 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/11/22(Fri) 12:20
横木瓜さん、ようおこし。
外出先で今、拝見しました。
改めて書き込みさせて頂きます。

[144] 狭穂姫 投稿者:横木瓜 投稿日:2002/11/21(Thu) 19:57
マルヤ様 度々お邪魔して学習させて頂いております。「横木瓜」で書き込ませてください。宜しくおねがいします。

興亡の古代史(小林恵子)を読んでいますが、よくわかりません。がおもしろいです。専門家の論評をおきかせください。

「、、、、劉氏系崇神朝の列島勢力はこの後も続くが、「古事記」が三一八年をもって崇神朝が終わったことにしたのには理由があった。高句麗が慕容「かい」に敗北したことを契機に、中国中心部を除いて、東アジアは大きく慕容氏の支配下に転換していったからである。、、、、、」

「劉氏から慕容氏への勢力転換は「記紀」でいえば、劉氏系崇神天皇から慕容氏系垂仁天皇の時代に代わったことをいみする。、、、」

「 当時の新羅は劉氏の支配下にあったから、天の日槍は劉氏系新羅人として列島制覇に派遣されたか、反劉氏系新羅人として列島に亡命したかのどちらかだが、垂仁の了承を得て但馬に定着しているところからみて、後者、反劉氏系の人物だったようだ。それだけではなく慕容氏勢力の先鋒として渡来した可能性があることは、崇神朝の四道将軍の一人で丹波に派遣されたという道主(みちぬし)の居城近くの但馬に居住していることから推察できる。、、、、」

「、、、慕容氏はまず丹波道主勢力を滅亡させて、列島制覇の口火を切っている。道主の居城について「記紀」は明記していないが、兵庫県養父町の養父神社の祭神の一人に道主命がいることからみて、養父神社がかつての道主の居城だったのではないか。、、、、養父神社のあたりは、円山川を遡って大和盆地に入る交通の要路で、日本海から大和盆地に攻め入る外敵を食い止める重要な拠点だったと思われる。、、、、道主と高奴子は名は違うが、同じ人物だった可能性がある。、、、、、」

「、、、垂仁紀によると、狭穂彦は狭穂姫が燕居しているところに行って、垂仁をように頼んだという。「燕居」にはくつろぐとか,安らうという意味があるので、別に不思議ではない。しかし、、、、この条で垂仁紀がめったに使われない燕居という言葉で表現していることが重要なのである。なぜなら慕容氏の国名は「燕」なのである。垂仁紀は燕居という文字を使って、狭穂姫が燕国の慕容氏に嫁いでいることを暗示させている。、、、、、」

「おそらく狭穂彦は一族安泰のため、慕容氏に妹を差し出したのだろう。ただし狭穂姫の相手は慕容「かい」ではなく、「かい」の長男の「皇光こう」だったらしい。、、、、」

「、、長男の「皇光」は対高句麗戦を前にして、丹波国の狭穂彦が高句麗救援に駆けつけるのを阻止するため、、、狭穂彦の居城攻めに派遣させられていたのだろう。、、、狭穂姫は「皇光」との間に生まれたホムツワケを「皇光」に託し、みずからは狭穂彦と運命を共にした。、、、、」

「垂仁朝は、、、、「かい」の三男仁がその中心だったようだ。、、、」

「慕容「かい」が三三三年五月に死ぬと、「皇光」と「仁」等兄弟の対立は決定的になった。」
「、、、「皇光」は三三五年七月、、、、息子の儁(しゅん字名宣英せんえい)を立太子させた。儁こそ「皇光」と狭穂姫の間に生まれたホムツワケの成長した姿なのである。儁(しゅん)の音は震に通じる。震は五行思想でいうと、方向は東、季節は春である。中国からみた列島は東だから、儁には東の人という意味が込められている。また儁は鳥が飛び立つ瞬間を表す字だが、慕容儁は鳥と深く関係する人だったことは後述する。、、、、」

「、、、ホムツワケは、、、三〇歳になっても口をきかなかったとあるから、、、、。、、慕容「皇光」と「皇光」に滅ぼされた丹波国の女性を母とする運命の子である。、、、、「皇光」は「仁」を殺した。、、、「皇光」は仁に長年、親しんでいた列島勢が、仁を殺した自分に簡単には服さないと考え、列島対策のために、丹波道主の血を引く儁=ホムツワケを太子に立てさせたと私は考えている。、、、、」

「、、、儁は太子になった翌三三六年に段氏と戦ってから後の一〇年間、中国の史料から消える。儁はこの間、父親の「皇光」によって列島対策に派遣されていたようだ。「記紀」でいえばヤマトタケルの登場である。ヤマトタケルは列島における若き日の慕容儁をいうのである。、、、」

「「古事記」の景行記からヤマトタケルの記述を抜くと、ほとんど内容がなくなってしまうことからも想像されるように、景行朝とヤマトタケルは不可分な関係にある。、、、、


「、、、、「記紀」は景行天皇とヤマトタケルを同一人物なのに別人として表記しているにすぎないのである。、、、、慕容儁の諡は景昭という。「景」は光輝くという意味だが、儁の諡景昭と景行に共通して「景」の字があるのは偶然とは思えない。、、、、」

とりあえず、ここまでにします。

[143] Re[142]: はじめましてm(__)m 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/11/14(Thu) 11:56
Naomiさん、はじめまして、ようおこし。

> はじめまして、のりちゃんのHPから
> とんできました。

のりちゃんのHPは、とても人気があり、当方も相互にリンクさせてもらっています。特に掲示板の会話がエスプリに富んでいて、魅力的ですね。
小生もよくのぞかせてもらっています。

> ついでに、11000を踏んでしまいました(^^;

ありがとうございます。000と続くのは気持ちが良いですね。
小生も車のメーターが999となって、その次に一桁上って000と多くの「0」が続くのを見るのが何だか好きです。

> 吉野は、車でよくいきます。
> これからも、ちょくちょくのぞきますので、
> ディープな吉野の情報、教えてくださいませm(__)m

小生は大阪府に住んでいますが、吉野が好きで私もよく行きます。
あまり知られていない吉野を、ご案内できればと思っています。
どうぞ又、お気軽にお立ち寄りください。

[142] はじめましてm(__)m 投稿者:Naomi 投稿日:2002/11/13(Wed) 20:31
はじめまして、のりちゃんのHPから
とんできました。
ついでに、11000を踏んでしまいました(^^;
吉野は、車でよくいきます。
これからも、ちょくちょくのぞきますので、
ディープな吉野の情報、教えてくださいませm(__)m

[141] Re[140]: 匏宮(よさみや) 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/11/10(Sun) 23:30
> マルヤ様
> 「136」を神奈備掲示板で引用させてもらいましたところ以下の回答がありました。・・・

日下部さん、実は小生も殆んど毎日のように、神奈備さんのサイトは見せてもらっています。そればかりでなく、小生も分からないことがあると「神奈備掲示板」のお世話になっているのです。
よろしければ、又お立ち寄りください。

[140] 匏宮(よさみや) 投稿者:日下部 投稿日:2002/11/10(Sun) 12:34
マルヤ様
「136」を神奈備掲示板で引用させてもらいましたところ以下の回答がありました。

日下部さんは浦島太郎の子孫のお方ですか。
前半は「やさか掲示板」のヤルヤさんの書き込みの引用ですね。興味深く拝見いたしておりました。
> ○小彦(スクナヒコ)と大彦(オオナヒコ)つまり大男と小男ではなかったか。
伊賀の敢国神社はまさにこれらの神々を祀っています。要注意の神社ですね。

高産霊の手の間からこぼれたとされる少彦名神
産霊神の御子とくれば米、粟などから穀霊を思わします。また一方砂鉄などともされます。
マルヤさんは土雲との関連を指摘されておられますが、蜘蛛は体の割には手足が長く、長髄彦ではありませんが、先住の民人をして形容するに相応しい表現です。これを昇華して天津神の御子にしたてたのが少彦名の名かも知れません。
一方、籠神社の祭神の海神は小童神とも呼ばれ、少彦名を連想しますね。

いずれにしろ、少彦名神的な神への強い信仰があり、これらが『記紀』神話の元となったのでしょう。

> 匏(ヨサ)。ひさご、瓢箪
ここらは面白いところです。「ヨサ」の海と「アソ」の海とが対で天橋立を境としています。言語的には「アソ」に相当する何か、おそらくは神の魂の入れ物のような神座的なものを表す言葉と意味がでてくれば一歩前進でしょう。
 できたら同じような国の言葉がいいですね。片や西アジア、片やメラネシアでは困りものですよね。

以上勝手に引用させていただいたことをお詫びいたします。

[139] Re[138]: 無題 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/11/09(Sat) 11:16
なにがしさん、お久しぶり!ようおこし。
このところずっとお忙しいようですね。
こちらでは昨夜ビックリするほど大きな、パチンコ玉くらいの「雹」が激しく降りました。あんなに大きな雹は初めてです。
なにがしさんの任地はあまり寒くはないのでしょうね。
でも先ずは健康が一番、仕事が二番、丹生都姫は三番目位で頑張ってください。

> 10900ゲットで〜す。11,000をげっとしたいな〜。では。
小生のページは日に約20件ですので、5日後位にまたどうぞお越しください。
・・・とは言っても何も景品がなくて・・・

[138] 無題 投稿者:なにがし 投稿日:2002/11/08(Fri) 21:13
10900ゲットで〜す。11,000をげっとしたいな〜。では。

[137] 流石のご回答 投稿者:日下部 投稿日:2002/11/07(Thu) 21:19
マルヤ様大変参考になりました。今はないカゴメ印は次のHPでご覧下さい。http://isweb4.infoseek.co.jp/school/tak0719/qanda/manai/sekihi.jpg
匏宮
http://www.como.ne.jp/zenkokuzinja/tangoitinomiyakonojinjayuisho.htm

[136] Re[135]: BC60-20年頃の情報を教えてください。 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/11/07(Thu) 16:56
日下部さん初めまして、ようお越し。

> BC60-20年頃の情報を教えてください。

マルヤも古代史は大好きですが、実はこの質問にお答えできるような知識はまったくと言ってよい程ありません。特にこの時代まで古くなると史実の裏付けは殆んどできないのではないでしょうか。それで歴史関連の本を読んだり、人にお聞きしたりで、その他は殆んど想像の域をでません。
そのような訳で、以下の記述は小生の「想像による私見」とご理解ください。

○少彦名について
少彦名は、この「やさか掲示板」【109】で書いたところの「第一渡来人」と考えています。

以下は、やさか掲示板【109】列島の古代部族より
2.第一渡来人(朝鮮半島あるいは中国南部・福建省辺りを経由して海よりイカダ、舟で渡来した)
 ●部族名:狗族(中国西北の遊牧民・犬戎の一派)
 ●信  仰:狼・犬を先祖として崇めた。
 ●部族長:スクナヒコナ
 ●俗  称:イヒカ、イワオシワク、ツチグモ

○彼らを率いてきた部族長、スクナヒコナは海より渡り来て、また海より何処ともなく去ったが、その子孫はツチグモなどと言われ、採鉱・精錬を生業とした。
○彼らは身長は低く、手足は長かったのではないか(矮人、侏儒)。
○少彦名はガガイモの舟に乗ってきたと言うが、ガガはカガ、カカで蛇に通じ、蛇は金属精錬に通じはしないか。
○少彦名と国づくりを共にした大己貴も精錬に関連した部族ではないか。
○少彦名も大己貴もいわゆる綽名であり通称である。
○小彦(スクナヒコ)と大彦(オオナヒコ)つまり大男と小男ではなかったか。

・・・と小生は考えています。
小林惠子氏の本は何冊か読みました。氏は古代吉野の「尾生る人」を中国西北部の犬戎とした説を最初に発表した方と思います。
以前、手紙をお出ししたこともあり小生は氏のファンでもあります。

ちなみに又、ある方の説では、スクナヒコ(少彦名)は、アメノウズメとサルタヒコの間に生まれた子だと言います。
そしてアメノウズメは、アマテラスとタジカラオの子だそうです。
つまりスクナヒコはアマテラスの孫だと。神話の世界ですかね?

日下部さん、本当は小生のほうが教えてほしいのです。
カゴメのマークといえば、六芒星を思いますが、瓢箪と関連があるのでしょうか。
つまり瓠公は少彦名のことであり、吉佐宮にも関係があるということでしょうか。
宮司家は海部氏だそうですね。その辺のことも含めて教えてください。
  


[135] BC60-20年頃の情報を教えてください。 投稿者:日下部 投稿日:2002/11/06(Wed) 15:39
記・少彦名は熊野(島根県八束郡八雲村)の岬から常世の国に去った。三国史記〜新羅本紀」赫居世38(B.C.20)年、瓠公を馬韓に派遣した。瓠公は倭人で瓠ひさごを腰に付けて海を渡って来た。
匏(ヨサ)。ひさご、瓢箪のことだが、小林恵子さんは、辰韓で、ひさごを朴と云う、このあたりから、赫居世、脱解、瓠公、と日本との関連を論じている(二つの顔の大王 P38)
京都府・天橋立の内海のことを与謝の海といいます。ここは真名井神社(籠神社奥宮)があります。神社の入り口には瓢箪のマークがあります。以前はカゴメのマークもありました。

[134] Re[133]: 波宝神社と同神の神社 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/10/22(Tue) 13:25
神奈備さん、いつも貴重な情報ありがとうございます。

> 和歌山県日高郡南部川村高野 天寶神社
祭神については「御霊社(現須賀神社)と同神を祀るといい、或いは、大和国銀ノ獄波宝神社と同神」と記されている。
> 南部川村清川にも天寶神社。11月1日 例大祭とか。

「南部川村の高野と清川に天寳神社があって、その祭神は吉野・銀岳、波宝神社と同神かも」とのこと、興味津々です。
寺院神社大事典によりますと、須賀神社の祭神は素戔嗚尊、稲田姫命・・・ですね。波宝神は素戔嗚尊と何かのつながりがあるのでしょうか。新たな興味が湧いてきます。
11月1日は仕事で、残念ながら例大祭には参詣できませんが、いつかは行ってみたいと思います。
また、興味ある課題ができました。ありがとうございます。

[133] 波宝神社と同神の神社 投稿者:神奈備 投稿日:2002/10/22(Tue) 10:15
和歌山県日高郡南部川村高野 天寶神社

紀伊続風土記の項に「天宝明神社境内山林周二町二十間末社二社拝殿小名宮の前にあり、高野、土井、市井川滝、広野五箇村の産土神なり、勧請の由来及天宝と称する事詳ならず文禄4年(1595)修造の棟札あり」とあり、祭神については「御霊社(現須賀神社)と同神を祀るといい、或いは、大和国銀ノ獄波宝神社と同神」と記されている。清川の天宝神社が鳶の巣城主の龍神氏が当社より勧請したといわれた永正14年(1517)の棟札があったことからこれ以前より鎮座していたことは確実である。

現在の祭神は須佐之男命。

南部川村清川にも天寶神社。11月1日 例大祭とか。

[132] 柿くえば鐘がなるなり法隆寺 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/10/08(Tue) 18:07
”柿くえば鐘がなるなり法隆寺”という子規の句がありますが、美味しい柿の季節になりました。
柿は古代から栽培されていたらしく藤原京跡から多数の柿の種が発掘されているそうです。
中国や朝鮮半島にも柿はありますが、甘柿はわが国特有のものといいます。
鎌倉時代にはすでに甘柿が栽培されていたとかで、室町時代に柿の産地として美濃、近江、大和の地名があげられているそうです。
さて、柿には甘柿と渋柿がありますが、現代最も多く栽培されている代表的な種類は次の通りです。

【柿の種類】
●甘柿・・・・・富有柿、次郎柿など、(大きく甘い。甘柿の代表格)11月収穫
●渋柿・・・・・平核無柿、刀根早生柿など(アルコールなどで渋抜きをして甘くする)   10月収穫
        ○干し柿などに加工される柿も渋柿の一種で、干すと甘くなる。

※以下の資料は奈良県果樹振興センター・柿博物館より提供戴きました。(福岡県、岐阜県の市町村別データは入手出来ず) 
【柿の産地と収穫量】
●柿全体の収穫量
  ○H13年産(都道府県別)・・・和歌山県:59,300t、奈良県:28,800t、福岡県:27,500t、岐阜県:18,500t
  ○H12年産(市町村別)・・・・・かつらぎ町:16,200t、西吉野村:13,100t 
●富有・次郎収穫量  
  ○H12年産(市町村別)・・・・・西吉野村:7,540t、  かつらぎ町:2,080t

[131] Re[130]: Re[129]: Re[128]: Re[125]: 豊耳異聞 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/10/01(Tue) 23:40

> 北方民族は男系社会、逆に南方社会は女系と云われます。

そういうことでしたか。早速のご教示ありがとうございます。

> 最近お亡くなりになった福永光司さんの『馬の文化と船の文化』は名著だと思います。

未だ読んでいません。早速読んでみたいと思います。
ありがとうございました。

[130] Re[129]: Re[128]: Re[125]: 豊耳異聞 投稿者:神奈備 投稿日:2002/10/01(Tue) 23:01
> 神奈備さん、もう少しヒントが欲しいのですが「女性とすれば江南辺り」と言われるのはどういうふうに考えれば良いのでしょう?

南船北馬と云う言葉もあるのですが、北方民族は男系社会、逆に南方社会は女系と云われます。これからの発想です。
最近お亡くなりになった福永光司さんの『馬の文化と船の文化』は名著だと思います。

[129] Re[128]: Re[125]: 豊耳異聞 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/10/01(Tue) 22:27
> 神武天皇の子供に手研耳、神八井耳がおり、どうやら男、また稲田姫の父親は須賀之八耳です。概ね耳は男に多いようですが、

とんでも説に書き込みありがとうございます。
やっぱり、豊耳女性説には少々無理がありましたか。
そう云えば聖徳太子は厩戸豊耳皇子、やはり男性ですね。

> そうしてそのルーツは女性とすれば江南辺り、男とすれば半島も候補に入るのでしょうね。

神奈備さん、もう少しヒントが欲しいのですが「女性とすれば江南辺り」と言われるのはどういうふうに考えれば良いのでしょう?
江南と言えば中国の江南省あたりのことですね。
海人と金属への関わりからですか?認識不足ですみません。

128] Re[125]: 豊耳異聞 投稿者:神奈備 投稿日:2002/10/01(Tue) 21:12
神武天皇の子供に手研耳、神八井耳がおり、どうやら男、また稲田姫の父親は須賀之八耳です。概ね耳は男に多いようですが、おっしゃる通り全てが男とは限らないのかも。
豊耳は『日本書紀』によると地元の事を知らなかったようで、どっかからやって来て、やがて子孫が「紀直」となったと云うことでしょう。豊の国からの可能性が大きいと思っています。
神功皇后が豊耳を帯同した物語が、神武天皇が紀氏の祖の天道根命を帯同したと古代へさかのぼったのかも知れません。もっとも紀氏系の母親から生まれた武内宿禰の分身かも。
『青銅の神の足跡』によると「耳」のつく氏族の特徴として、九州海人と金属への関わりをあげています。豊耳をそのように解釈するとドンピシャリです。そうしてそのルーツは女性とすれば江南辺り、男とすれば半島も候補に入るのでしょうね。

[127]  いまはお日柄もよろしく  投稿者:焼尻紋次郎 投稿日:2002/10/01(Tue) 17:25
 そのタネ……ケチつけるようで悪いのですが、信用できるのかなぁ〜。何年も経っているぶんは発芽率は落ちると思っていいです。
 今、彼岸すぎ。移植には適した時節ですが、移植するときに、根にバイキンが入り易いのが心配。よくよく、根の周辺に灰をまぶしてやってください。
 くれぐれも、移植したあとは、水をやりすぎないように。

http://www.you-i.org


[126] 明日葉見つけた! 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/09/30(Mon) 20:09
「明日葉見つけた!」といっても海岸で見つけたのではありません。

神奈備さんをはじめ、ご親切な情報を頂きありがとうございました。
神奈備さんのご好意で知人の方にお願いしていただき「南紀に探しに行こう」とまで言ってくださったのですが、今は時期的に自生の明日葉を移植するのはむつかしいのではないかとの判断で実行の時期を見合わせていましたら、ネット販売で見つけました。
2株セットで780円(税・送料別)。種子もあります。
早速注文しました。うまく育てば、いいのですが。

何方かもしご自分も栽培してみようと思われる方は下記のアドレスです。
http://www.engei.net/Browse.asp?ID=5989

●1〜2年待って頂ければお分け出来るかも知れません。

[125] 豊耳異聞 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/09/30(Mon) 19:28
「忌み名の研究」穂積陳重著/講談社学術文庫によると、
「耳」は尊称(とうとみな)で、忍は「大(おおし)」穂も「大」、富(ほ)も尊称である。
実名ははばかり避けられた。
尊号を実名と誤ったものが多い・・・

という意味のことが書かれています。
忌み名(諱名)、つまり実名は秘密で一般的に人に知られることは殆んど無く、大抵は綽名(あだな)、或は綽名に尊称を付けて呼ばれたり表記されたようです。

●そこで記紀に出てくる「豊耳」について考えてみたいと思います。
ご存知「豊耳」は、日本書紀巻第九で神功皇后が南紀日高から小竹宮に遷られた際に「紀直の祖」として登場する人物ですが、
さてこの豊耳、台与美々とも表記できます。つまりトヨが通称(綽名『あだな』)でミミが尊称と考えたらどうでしょうか。
そしてこのトヨミミは必ずしも男性と記されている訳ではありません(もちろん女性とされている訳でもありませんが)。

小生は自作のモノ語り「真朱の姫神」ヤマト編で、この豊耳を吉野丹生族の族長・丹生の首(おびと)として男性で登場させてしまいました。
が、今あれは間違いだったと後悔しています。
吉野丹生族の族長は代々姫巫女が継承するのが慣わしであったとする私の元よりの観点から、あれは女でなければなりませんでした。
元々原文はそのような人物構成だったのですが、書紀の記述や大山源吾氏の著作の影響を受けて男として登場させてしまったのです。
それで他の人物像にも少々変更を加えなければなりませんでした。
今考えると、正史といえる日本書紀の記述といえども気にせず、自説(モノ語り)に任せて書き進めばよかったと思っています。

「姓氏家系大事典」太田 亮著/角川書店によりますと、
井氏は井伊氏に同じ、伊井も猪井も同じといいます。とすれば紀伊とは紀井、つまり紀国の井氏に通じないでしょうか?
「豊耳」の美々が尊称としますと、吉野丹生族・井光の族長、豊御富(水光姫)は台与美々(トヨミミ)でつながります。
この豊耳が書紀では紀直の祖とありますので、つまり吉野丹生族の主族井光の族長は紀直の祖となりはしないでしょうか。
・・・ちなみに大山源吾氏の著書「天河への招待」では、豊耳のことを後に紀州に移り住んだ “紀伊丹生氏の祖”としています。・・・

新撰姓氏録には大和国神別に、「吉野連 吉野首の後にして加彌比加尼の後也。」とあります。
「井光女あり、白雲別神の女なり、名を豊御富と申す。天皇即ち水光姫と名づけ給う。今吉野連が祭るところの水光神是也。」
「吉野真人 敏達帝の御裔にて、大和皇別に「吉野真人大原真人と同祖」と載せたり。」という記事もあります。
「大和志料」吉野郡井戸村條には、「水光姫の子孫ここに住し、井戸氏と称し、世々郡中の名族たり。」とあって、後に井戸は伊藤、加藤などに分家したといわれていいます。

相変わらずパラノイア的“愚説”でした。

[124] Re[123]: あしたばおじさん 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/09/30(Mon) 19:18

明日葉情報ありがとうございます。
小生やはりこの明日葉の苗か種を入手して栽培したいと思っています。
この植物に含まれている、有機性ゲルマニウム?が何かに付けて有効なのだそうですね。
特に精力増強作用に期待しているわけではありません。ホント、ホントです。

[123] あしたばおじさん 投稿者:焼尻紋次郎 投稿日:2002/09/30(Mon) 19:16
あしたばは、沖縄から宗谷岬まで、どこでも越冬する3〜4年草です。おらが実際に植えてみましたので、まちがいナシ。
 北国では蕗のように巨大化して、1M ほどの高さとなります。
 別名をアシタボ、チンタチ草ともいいます。男の青年に食わせると一物握ってそんじょそこらを走りまわるので、ウルサイ草でもあります。

 朝鮮にんじん、アマチャづるのように、朝日が1時間ほど当たるのがよく、また、あかるい日陰でもかまいません。陽があたりすぎると消えてしまいます。
 砂漠の草でもありますので、土壌に水分が多いのもイケマせん。肥料は使い果したワラジみたいなのがいいです。

 これ神経にはメチャいいのであります。視神経にもいいんじゃないやろか。これついさいきんの発見です。
 伊豆諸島では「年にいちどは食べねばならない」と語りつがれてきました。この点、常用していいのかどうか……は不明。おらは毎日食っています。
 富良野の唯我独尊(カレーライス・喫茶)では「あしたば・おじさん」のほうが「紋次郎」よか通りがいいです。

 梅の花が終わって1週間後ぐらいのときが、発芽率が最高です。関東ではタネは12月20日〜28日ぐらいを狙います。ことしはもっと早いのかな? 気をつけていないと、風に飛ばされます。

 ユーカリの木の下で、これが育つのなら砂漠を緑地に変えることができます。まだ、実験してません。これ忘れずに関係者へお告げくだしゃい。
 

http://www.you-i.org


[122] Re[121]: 明日葉 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/09/13(Fri) 21:05

> 奈良県の東端の御杖村では「村おこし」として、山林で大々的に栽培しているようです。

明日葉情報ありがとうございます。
明日でも電話して色々聞いてみたいと思います。


[121] 明日葉 投稿者:神奈備 投稿日:2002/09/13(Fri) 07:43
奈良県の東端の御杖村では「村おこし」として、山林で大々的に栽培しているようです。
12日のNHK夕方の番組。


[120] Re[118]: 渡来人について 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/09/11(Wed) 22:19
帰化人、渡来人などの言葉には、よそ者・外国人など別なニュアンスがありますが、どこの国でも生粋の自国人は少ないと思います。
アメリカ合衆国にしてもオーストラリアにしても、その国の人口の殆んどはは外国からの入植者で占められ、今やネイティブアメリカンやアボリジニは少数です。
「某国」に来て生活し、結婚し子供を生み育てればもう立派な「某国人」ではないでしょうか。
「ユダヤ人」にしてもイスラエルの血族を示す言葉ではなしに、ユダヤ教を信奉しユダヤの戒律を守る人々の集団(宗教的)だといいます。(ちなみに日本マクドナルドの藤田田社長はユダヤ人を標榜しているらしいですね)
日本人にしても少数の原住民に、多くの国々から来た入植者の血が入り混じった「混血民族」というのが実体ではないでしょうか?。
そうしましたら、「日本人とは何か?」と言う事になりますが、
日本人とは日本に生まれ、或は住む、「同じ『ヤマトダマシイ』を持った集団」ということになるのでしょうか。
そうすると又、「ヤマトダマシイとは何か」という問題にはなりますが・・・。

でも一部の自称文化人や知識人マスコミ関係者に、第三者の外国人のような発言をする人達がいますが、彼らはいかに日本人から生まれ日本で生活していようと、「日本人」とは言えないと思うのですが如何でしょう?。

[119] Re[118]: 葛城族と鴨族 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/09/11(Wed) 22:12
鳥越憲三郎氏は、
高皇産霊尊を祀る葛城族は鴨族を支配下に置き、水稲栽培の農業国「葛城王朝」を建てたとし、いわゆる欠史八代(第二代綏靖天皇〜第九代開化天皇)が葛城王朝でこれらの天皇は実在したとの説を唱えていますが、大いに傾聴すべきと思います。
でも小生は、葛城王朝があったとしてそれが農業国であったとは思いません。
確かに味耜高彦根命や、積羽八重事代主神を奉祭する部族(鴨族の一部族?)らは確かに農業に従事していた事を窺わせますが、採鉱や精錬に従事していた部族も多かったのではないでしょうか。

葛城のそれぞれの地で邑をなし、住んでいた小部族には、土人(原住民)、高尾張邑の尾生る人、土蜘蛛などと呼ばれた部族(彼らは既に混血同族化していたかも)と共に多数派の鴨族が住んでいた。
後その多数派で支配主族の鴨族が、後続渡来の葛城族に支配されるようになり、更に後続の渡来人集団(天孫族)にその王権を簒奪されたのではないでしょうか?。

記紀の記述とは時間軸がずれるかも知れませんが、八咫烏が国中[くんなか]へ神武勢力を導き、旧勢力を倒したとするのはこの事の投影かも知れません。
つまり八咫烏は鴨建角身命、鴨族ですので、支配されていた葛城族(葛城氏?)から開放されるため、神武勢力にすり寄って味方し、葛城政権の転覆謀ったのでしょう。
鴨族は八咫烏の手柄で領地身分は保証され、爾来、鴨氏は権力側に仕えその氏神と共に各地に進展して行ったと考えられます。山背の賀茂氏はその典型ではないでしょうか。

○鴨はKAM・・・以下は当て字遊びです。
  【カミ】 神、上、火水
  【カン】 神、冠、歓、漢、韓、

[118] Re[117]: Re[116]: Re[115]: 葛城の古代部族 投稿者:神奈備 投稿日:2002/09/11(Wed) 08:12
葛城(の南部=葛上郡)は雄略天皇の円大臣襲撃の後に、皇室の直轄領いなっていますが、これはマルヤさんの「先住渡来人(葛城氏の先祖?)の国を、後発の渡来人の集団が簒奪した」に当てはまりますね。最終段階かも。
蘇我氏が葛城を祖先の地とし、推古天皇に返還を求めたのですが、拒否されています。蘇我氏も新たな渡来人系だったのかも。
> 遡ればその大部分が「渡来人」と言えるのではないでしょうか。
いやになる位匂いがしますね。日本人のアイデンティイはどうなるのでしょうね。

所で葛城の地に鴨族がいたのですが、葛城氏との関連はどうだったのでしょうね。
鴨三社と一言主神社とは趣が少し違うような気がします。
高天彦神社も別の系統かも。

[117] Re[116]: Re[115]: 葛城の古代部族 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/09/10(Tue) 15:19
>新支配者の婚姻相手、初夜、子孫について、特徴がありそうです
神奈備さん、ありがとうございます。そのあたりがヒントですね。

古代天皇は暴虐非道とも言えるほどの暴君で、政敵を騙してことなど朝飯前、妊婦の腹を割いたり、ライバルを焼き殺したりを平気でやっていますね。
一方、精力は絶倫で、みそめた女性を一夜で孕ましてしまうほど。
また、みそめられた女は一夜で孕もうものなら命がけ、火懸けの産屋で子を産んで見せ、操を証明しなければならない。ほんとに古代の女性(男も)は大変ですね。

眉輪王を匿った葛城の韓媛の父、円大臣は黒彦皇子と共に雄略に焼き殺され、その骨は一つの棺に入れて、「新漢(いまきのあや)」の槻本の南の丘に合葬した。と書紀にあるので彼等もまた渡来人だったのでしょうか。
新撰姓氏録に記載された1,182氏の内、その四分の一の緒蕃326氏が渡来系氏族と一般的に言われますが、皇別335氏、神別404氏、そして未定雑姓117氏にも渡来人は居たと思われます。
遡ればその大部分が「渡来人」と言えるのではないでしょうか。

葛城氏について言えば、この葛城地方に住んでいた土人(原住民)を支配した一言主を奉祭する先住渡来人(葛城氏の先祖?)の国を、後発の渡来人の集団が簒奪した・・・という図式を思ったのですが?。

それにしても、葛城の娘たちは多くの天皇の后や生母になっていますね。

[116] Re[115]: 葛城の古代部族 投稿者:神奈備 投稿日:2002/09/09(Mon) 20:36
面白い見方ですね。雄略の妃は韓媛ですね。

新支配者の婚姻相手、初夜、子孫について、特徴がありそうです。

国譲り@
瓊瓊杵尊は大山祇神━木花咲夜媛を娶って(一宿)
火照命(隼人阿多の祖)、火須勢理命、火遠理命(日子穂穂出見命:皇祖)

国譲りA
神武天皇は大物主神━伊須気余理比売を娶って(一宿御寝)
日子八井命、神八井耳命(多臣、阿蘇君などの祖)、神沼河耳命(綏靖天皇)

滅ぼした豪族の娘を娶る
雄略天皇は葛城円大臣━韓媛
清寧天皇、稚足姫
???
雄略天皇は春日和珥臣深目━童女君(一夜:但し7度)
女子

国譲りと一夜婚とはつながっているようです。おちおち出来なかったのでしょうかね?
そうして生まれた男子の一人が後継者となっています。国譲りの場合にはもう一人の男子は九州の豪族の祖になっています。

[115] 葛城の古代部族 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/09/09(Mon) 10:42
「記紀」に書かれた雄略天皇と一言主神のエピソードは古代史に興味のある方にはお馴染みですが、雄略天皇が葛城山に狩りに行った時、顔姿が天皇とよく似た供を引き連れた人物と出会った。これが「一言主神」で天皇は大いに畏まったといい、
「続日本紀」では、この不遜な一言主神を土佐へ流刑にしたとも記されています。

さて、この「一言主神」と雄略天皇、実は元同族(同民族)の渡来人ではないでしょうか?
顔姿、装束が似ているとの表現は、暗にこのことを知らしめていると思うからです。
つまり一言主は先住の渡来人で、この時すでに葛城地方の支配者で王であった。
一方雄略天皇(大泊瀬稚武)も一言主と同族の渡来人で、後から日本に渡り来て先住の支配者を倒し、大王となったのではないかと考えられはしないでしょうか。
「記紀」の雄略天皇の記事には、同族の血で血を洗う殺戮の権力闘争が繰り広げられています。

韓国の女流作家、李寧煕女史によると、
万葉集(巻1-1)
籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持・・・
(こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち・・・)
万葉集の巻頭を飾る、有名な雄略天皇のこの歌は、「妻問歌」では無く、古代朝鮮族(貊族)同胞への即位宣言の歌としています。(籠毛は貊と女史の注あり)

[114]  あらま、そうなの‥‥ 投稿者:焼尻紋次郎 投稿日:2002/08/24(Sat) 19:04
 おらの分析では、イヒカのカがダブっていたのです。それを言いに火事場に戻った放火犯……デシタ。
 ハチオンまちがや、いのち取り。これが分析屋の宿命です。

 でも井光と書いてイヒカとイカリのふたつの読み方があろうとは!
 オラシラン、シランばい。
 だが、イカリといえば、1 農耕  2「石する・者」 の二つしかあらしゃいません。
 「石する者」から「ドロ(hik)する者」へと、時間経過があったんやろか。
 ‥‥‥やっぱ、オラシラン。すんまっしぇん(九州弁)。

http://www.you-i.org


[113] Re[112]: サンカ、イヒカ をいただきます 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/08/24(Sat) 12:41
>  まいど〜〜。

紋次郎さん、ようおこし。
サンカの研究と言えば三角寛が有名ですね。
山窩の文字は三角が当てたものらしいですが、サンカという言葉は明治以前よりあったようです。
サンカで思い出しましたが、二上山の麓(奈良県香芝市)に「現代の忍者」のような人が居て、サンカについても詳しく、ウメガイをモデルに山刀を鍛えたことがあります。
その老人が住まいする草庵に鍛冶場があり、鋼材から刀身、金具類、鞘に至るまで全てを仕上げます。焼入れやむつかしい細工など手伝ってはもらいましたが5本仕上げました。もう二十年ほど前の話です。

イヒカは奈良県吉野郡川上村では、「井光」と書いてイカリと読み、「碇」と表記することもあります。
そんなところからも、井光(井氷鹿)は、古くは“イカリ”と発音していた可能性もあります。

[112] サンカ、イヒカ をいただきます 投稿者:焼尻紋次郎 投稿日:2002/08/23(Fri) 13:02
 まいど〜〜。
 おらほう、『ユー・アイ掲示板 2 言語篇 』
 http://www.you-i.org/treebbs/0/index.html
 の語源分析で、ここに書かれている「イヒカとサンカ」をいただきますのでアマカネ。

牛はナメという語彙で表現されたことが多いかと思いますが、これは皮ナメシの「ナメ」くさいです。そのナメは NARM(柔らかい、すべすべした、おとなしい)や NAMAK(塩)に関係あらへんやろかと、目下にらめっこちゅうです。
 このへんのことは、再来年ごろ、おらの腹の腑に落ちつくことじゃないやろか、と‥‥。

http://www.you-i.org


[111] 異端の歴史観 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/08/21(Wed) 13:17
神奈備さん、こんにちは。
示唆に富んだ書き込みありがとうございます。
いつもながらその一行一行に、知らなかったことや全く気付いていなかったことが触れられてあり敬服します。
自分の世界だけでなく、もっと歴史を正しく勉強するべきでではないかといつも考えさせられてしまいます。
 
> 牛を奉じたのは水田耕作の動力としてでしょうね。本格的稲作はやはり天孫族かも。地域・地方を開拓して稲作を押し進めたのは秦氏かもしれませんね。

「牛」について小生は、次のようなイメージを持っています。
モーセが率いたイスラエルの民の内、反ヤハウェのバール神を奉じた支族(出エジプト記ではモーセに全員?殺されたことになっている)や、原始キリスト教的教義を持った支族ら(景教徒)が、イスラエルの「消えた10氏族」の一部とすれば、彼らは大陸を経由して日本へ渡ってきた可能性はあります。
バール神と言えば牛の角(牛頭)、「牛頭天王」からスサノオを連想させますので、秦氏と大いに関連付けられると思います。
「魚」はやはり、小生はイエスをイメージしてしまいます。
やっぱり異端の歴史観ですね。

[110] Re[109]: 列島の古代部族 投稿者:神奈備 投稿日:2002/08/20(Tue) 13:39
> 人類皆兄弟の由縁でもあります。
誰でもが古代の天皇の血が入っている、嗣ぐ資格ありと言えますね。
国民統合の象徴ですが、日本国民って国そのものの被害者であっても「統合」と言う言葉はむなしい昨今ですね。

> 20代前で524,288人
10代で2048人、父親の系列10人の名前で代表させて記憶して、血が濃くなるのを避けたとか。


 紀州には山神社や牛神社が多く鎮座していましたが、明治末期の合祀の際、ほとんど消えてしまったようです。
最も古くから居住していた原住民(後代のアイヌ、マタギ、サンカ)が山へ追われていったはずで、彼らがどうやら、マルヤさん記載の土人と言えるのかも。
大山祇神を奉じて列島にやって来たようで、九州南部から浸透していったのかも。
東南アジアには移動しつつ村を置いていくようですが、その場所決めには、秀麗な山の近くであることが条件だったようです。祠は立派な樹木がある所だったそうです。ネシアからやって来た地黒の民、南紀にも多く、小生の家内もひょっとしてそうかも。

 ネシア人は五月雨的にやって来て、焼き畑を持ち込んだのかと思っています。彼らも大山祇神を奉じていたのかも。

 牛を奉じたのは水田耕作の動力としてでしょうね。本格的稲作はやはり天孫族かも。地域・地方を開拓して稲作を押し進めたのは秦氏かもしれませんね。

[109] 列島の古代部族 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/08/17(Sat) 17:39
この日本に居住した古代の部族について書いてみたいと思います。

とは言いましても、以下の内容は何れも私の浅薄な見聞による知識に想像を加えたもので、確かな文献によるものではなく、従って正史とは掛け離れていて、何の論証も出来ないことを初めにお断りしておかなければなりません。  


【日本の古代部族】

1.土    人(最も古くから居住していた原住民)
 ●部族名:熊族(イツモ族)・・・原ヤマト族
 ●信  仰:自然神と共に熊を先祖として崇め崇拝した。
 ●部族長:オオナムチ
 ●俗  称:クマソ、クズ、ニエモツ、ハヤト、エミシ、(後代のアイヌ、マタギ、サンカ)

2.第一渡来人(朝鮮半島あるいは中国南部・福建省辺りを経由して海よりイカダ、舟で渡来した)
 ●部族名:狗族(中国西北の遊牧民・犬戎の一派)
 ●信  仰:狼・犬を先祖として崇めた。
 ●部族長:スクナヒコナ
 ●俗  称:イヒカ、イワオシワク、ツチグモ

3.第二渡来人(南方海洋より渡来した海人族と高度文明人)
 ●部族名:海洋族(南洋のミクロネシア人、水没したムーの苗裔)
 ●信  仰:太陽神、守護神は蛇
 ●部族長:アマテラス
 ●俗  称:(先住部族と同化した初期の支配種族)

4.第三渡来人(中国大陸より、主に朝鮮半島を経由して渡来した)
 ●部族名:漢族や蒙古族、古朝鮮族(百済・新羅人など)
 ●信  仰:龍を尊崇した。
 ●部族長:ツクヨミ
 ●俗  称:ヤマトの支配主族となり先住部族とも同化した。

5.第四渡来人(シルクロードから渡来した)
 ●部族名:いわゆる「星の人」で景教徒の一派でもある(主族はユダヤ人)
 ●信  仰:牛や魚を尊崇した。
 ●部族長:スサノオ
 ●俗  称:秦族
 ●この部族は世界中に散らばって居住し、支配者に近侍して実質その国を完全支配している。


◎以上が日本列島の古代部族ですが、現日本人は様々な渡来人の混血民族と言えます。渡来人の大きな波は三回あったといい、
第一回目は紀元前後、第二回目は雄略天皇の時代、第三回目は天智天皇(白村江の戦の後)時代と云われています。
この三回目には「今来の伎人」といわれた技術者の集団が大挙渡来したということです。

◎古代部族(氏族)は渡来者も先住民も次第に混血し同化していきました。その過程で様々な利害関係により、従属部族
や斎祀る氏神、信仰の形まで変容していったと考えられます。
同じ血族でも相争い、また異族間であっても同盟・婚姻を経て同族となって行った部族もあったと思われます。

◎考えてみますと、一人の人間には必ず父母二人が居る訳で、その先祖は代々二倍の広がりがあります。重複が無ければ
20代前で524,288人、25代前では16,777,216人にもなります。
一世代30年とみても、750年前まで遡れば何と千六百万人もの先祖が居たことになります。人類皆兄弟の由縁でもあります。
自分がその先祖に求めようとすれば、尊卑(貴賎)何れにもその血を繋げられるとも言える訳です。


[108] Re[107]: 井戸 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/07/17(Wed) 15:51
たしか二度目のご訪問。ありがとうございます。

> 今晩は、いつも井氷鹿を愛して頂き御礼申し上げます、今後とも宜しくご指導ください、さて 井光と言う所は余りにも古すぎましてね、困っています、

さすが古事記の村、地名からも随分と古い感じが致します。
井光は碇とも表記されて「いかり」と読むのだそうですね。
こちらの方こそ、どうかよろしくご教示くださいますようお願いします。

>  遅れましたが私は神社の係りと、観光開発と文化財を受け持ちしています、
> 私宅の横には神の瀬の源流と言う井氷鹿の井戸あり今もコンコンと神社神饌の
> 水あり、他にも研究の余地ありまたお力を、お貸しくださいませ。
>
以前に川上村財政課の方のご好意で、井光地区の長老の方をご紹介頂き、奥地を案内して頂いたことがあります。
まだまだ吉野の奥地には私たちの知らない史跡があるのではないかと期待しています。
次回の吉野行きの際には、ご連絡をしたいと思いますので、よろしければ連絡先(電話又はメール)を当掲示板、又はマルヤ宛のメールで教えていただけませんか。お会いできる機会が持てれば嬉しいと思います。

[107] 井戸 投稿者:吉田眞一 投稿日:2002/07/16(Tue) 20:10
今晩は、いつも井氷鹿を愛して頂き御礼申し上げます、今後とも宜しくご指導ください、さて 井光と言う所は余りにも古すぎましてね、困っています、
 遅れましたが私は神社の係りと、観光開発と文化財を受け持ちしています、
私宅の横には神の瀬の源流と言う井氷鹿の井戸あり今もコンコンと神社神饌の
水あり、他にも研究の余地ありまたお力を、お貸しくださいませ。

[106] Re[105]: 事前調査不足参詣 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/07/10(Wed) 23:29
神奈備さん、こんばんは。
いつも興味ある情報ありがとうございます。

> この前、九度山町の丹生川沿いを歩きました。いわゆる玉川峡とその手前になります。
> 河根丹生神社、丹生川丹生神社と丹生都比売神を祀る二社に参詣できました。

玉川峡といえば、以前に二度ばかり高野山からの帰りに(高野ドライブウエイの高速代をケチって)通ったことがありますが、その二社は知らなかったので残念ながら参詣していません。次には是非立ち寄ってみたいと思います。
紀伊丹生川はダムの話がありましたが、地区住民の反対運動でダム建設は白紙に戻されたそうで良かったと思います。吉野・丹生川は残念ながら昭和30年代に既にダムが造られてしまっています。(丹生川神社の近く、丹原発電所)

> 丹生川丹生神社は面白いことに伊勢丹生神社からの勧請との説があるようで、お膝元と思われるこの地にどうして伊勢からか、といささか疑問です。

神奈備神社名鑑に掲出されている勢和村丹生神社ですね。私も最近参詣してきましたが、「丹生大師」というのは空海のことだとも言われているようですね。
丹生都比売のお膝元で確かに疑問には思いますが、あながち否定できないかもしれません。(紀伊天野のほかに、何かの事情で伊勢から勧請された神社もあったのかも)

> 同時に神社の側を流れる丹生川に八葉石なる巨石があり明神降臨の明神岩とも呼ばれているようですが、この事は後から知った話で、残念ながら見落としてしまいました。
>
見に行きたくなりました。
以前に丹生官省符神社で出会った明神講の女性の方から聞いた「丹生都比売の滝」の話を思い出しました。同じ紀伊丹生川の話ですので近くかもしれません。
最近用事が多くなり、この一ヶ月位、神社詣でが遠のいています。
契約のプロバイザの容量がいっぱいになったこともあり、一休みというところです。別にスペースが確保できれば、合間に玉川峡あたりから回ってみたいと思います。

[105] 事前調査不足参詣 投稿者:神奈備 投稿日:2002/07/10(Wed) 20:42
この前、九度山町の丹生川沿いを歩きました。いわゆる玉川峡とその手前になります。
河根丹生神社、丹生川丹生神社と丹生都比売神を祀る二社に参詣できました。
丹生川丹生神社は面白いことに伊勢丹生神社からの勧請との説があるようで、お膝元と思われるこの地にどうして伊勢からか、といささか疑問です。
同時に神社の側を流れる丹生川に八葉石なる巨石があり明神降臨の明神岩とも呼ばれているようですが、この事は後から知った話で、残念ながら見落としてしまいました。

[104] Re[103]: 井氷鹿より 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/06/25(Tue) 07:15
> 井氷鹿探訪の皆様 一度井氷鹿の里でお会いしたく思います、
> 神の瀬と言う井光川へお越しを、お待ち申し上げます (井光神社より)

吉田眞一さん、ようおこし(ようこそお越しくださいました)
吉田さんは井光神社所縁の方でしょうか?
実は私は吉野生まれなので、吉野には特に思い入れがあり、よく吉野へは通っています。先月も神社や古代史ファンの方と吉野へ行って来ました。
「神の瀬」といえば古事記で有名な井光姫(水光姫)が神武天皇と出会ったという里ですね。とても興味があります。次回の吉野行きの際にはメールさせていただきますのでお会いできれば幸いです。
私のHPでは下記の頁で次のように井光の里を紹介しています。ご意見とご教示を頂ければ嬉しいです。

●吉野連、加弥比加尼(かみひかね)の後なり。諡は神武天皇、吉野に行幸でまして神瀬に到りて、人を遣わして水を汲ましたまひしに、使者還りて曰く、井に光る女有りといふ。天皇、召して問いたまはく、汝は誰人ぞとのたまふ。答えて曰さく、妾は是天自り降り来つる白雲別神の女なり。名を豊御富(とよみほ)と曰ふとまうす。天皇即ち水光姫と名づけたまひき。今の吉野連が祭れる水光神是なり。・・・・・と「新撰姓氏録の研究」考證篇第四にあり。
但し、記紀にはかならずしも女性として記述しているわけではない。・・・

●http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/ikari.html

●関連記事 「真朱の姫神」三、井光の長老
http://www5.ocn,ne.jp/~miyosino/asuka_004.htm

[103] 井氷鹿より 投稿者:吉田眞一 投稿日:2002/06/24(Mon) 20:50
井氷鹿探訪の皆様 一度井氷鹿の里でお会いしたく思います、
神の瀬と言う井光川へお越しを、お待ち申し上げます (井光神社より)

[102] Re[100]: Re[99]: 海部峯など 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/06/09(Sun) 09:41
神奈備さん、おはようございます。

> 自己レス
>
> 『日本霊異記』下巻第六に同じ話がのっており,海部の峰の推定として
> 吉野郡小川荘麦谷村薊岳(あざみ)としています。

海部峯のこと、まったく知りませんでした。
新たな興味がわいてきました。ありがとうございます。

[101] Re[99]: 海部峯など 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/06/09(Sun) 09:23
> 吉野連峰に海部峯(あまべのみね)と云う山があるそうですね。

この名の山は、小生寡聞にして知りませんでした。
でも海部の山とは興味深いですね。そういえば吉野には2・3箇所に海神社(海神神社『海人神社?』)という由緒不詳の古い神社が残っています。

> 大名持神社の神宮寺が大海寺(だいかいじ)で,潮水の湧き出しの話がありましたね。天女伝説から丹後との関連かと思っていましたが,地理的には紀の国の海が自然ですね。
> 『今昔物語』に,海部峯の聖人が病をえて,体力回復にひそかに魚を食べようと思い,弟子に紀の国の海辺にやって魚を求めさせて,法華経を入れたとウソをついた小櫃で運んだそうです。
> 潮水の湧き出しはどこの海とつながっていたとかの伝承はあるのでしょうか。

大和志や大和名所図会によれば、「大汝宮(おおなんじのみや、おんなじのみや)ともいい、近くの塩生渕(しおふのふち)で毎年6月30日に塩水が湧く」とあり、熊野の海水とつながっていると伝えられている(広岡潔宮司)だそうです。

> 海部峯とはどこでしょうか。比曽寺の辺りでしょうか。

海部峯は解りません。興味がわきましたので調べておきます。

> 吉野川では魚は常時いたのでしょうが,紀の国の海辺までわざわざ,と云うのも不思議ですね。
むかし吉野で云うところの魚とは、海で採れた魚のことのようです。
この魚は内陸の吉野では(くんなかの大和平野部も同じ)大変御馳走で、わらべ歌にも、「お正月がきたら 雪のようなまま(米飯)食べて、わるき(割木)のようなとと(魚)そえて・・・と、たしかこんな歌があったと思います。
この「わるきのようなとと」とは棒鱈のことです。
行商から買う魚は大抵「塩干物」だったようです。
生魚は大変貴重で、吉野名物の「柿の葉すし」は日持ちのする鯖の料理法として生まれたといいます。