新ブロック [27] :2017年7月~12月


大晦日の氏神さま

投稿者:やさか  投稿日:2017年12月31日(日)
返信・引用
  大晦日の今日は、地域の氏神さまである住吉神社にお詣りしました。
日頃お参りする時は、高台南側の現在の表参道から参詣します。
でも本来の参道は、旧小山田邑から東に向かって上がって行く西側参道だったようです。
それで今日の参詣は、西側の旧参道から石段を東に上がって拝殿に向かい参拝しました。
写真1枚目は、西側参道の石段
写真2枚目は、西側正面鳥居(向こうに拝殿が見える)
写真3枚目は、初詣の準備が整った本殿
 

「紺色のうねりが」

 投稿者:やさか  投稿日:2017年11月26日(日)
返信・引用
  ジブリの『コクリコ坂から』を今夜またまた見ていました。
この宮崎吾郎監督のアニメ作品は、昭和38年(1963)初夏の横浜が舞台だそうです。
昭和38年と言えば東京オリンピックの前年で、私も高校3年生だったので時代背景がよく分ります。
このアニメ、何度見ても飽きることがないほど良いのですが、
今夜は特に挿入歌「紺色のうねりが」の歌詞が心に沁みて感じ入るところがありました。
私には何か予言歌のように感じられたからです。
この歌詞が持つ意味は、私にはとても怖いように思われてなりません。

時あたかも平成の時代が終わろうとしている日本の大きな変革期です。
「内平らかにして外成る」また「地平らかにして天成る」と、中国の古典(史記、書経)から引いて、平成の年号に込めた願い通り、昭和20年の終戦から平成の今日まで、戦火を免れ一時の繁栄と平和を享受することができました。
でもここに来て、どうやら政府は平成31年の5月1日を以って改元しようとしているようです。
「平成」の文字を分解しますと、「一ハ十成(イハトナル)と分解できます。
これは「岩戸成る」であり、日本だけでなく世界の大改造が、この平成の年号が終わるまでの間に行われるのではないかと思われるのです。
地球的規模の大事件が人類に待ちかまえているのではないこと祈るばかりです。
さて平成31年からの新元号は何と発表されるのでしょう。

「紺色のうねりが」歌:手嶌葵/ 作曲:谷山浩子/ 原案詩/宮沢賢治
https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E7%B4%BA%E8%89%B2%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%AD%E3%82%8A%E3%81%8C&tid=661636bb9c3e787b0b3a4a60a99b34d6&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1
 

吊るし柿・干し柿の里

 投稿者:やさか  投稿日:2017年11月26日(日)
返信・引用
  和歌山県伊都郡かつらぎ町の干し柿を見に行ってきました。
まず山崎の「榧の木神社」に参拝してその後、近辺の柿の農場を見て廻りました。
今は、干し柿、吊るし柿、串柿生産の真っ盛りのようです。
かつらぎ町の広域農道を通って周辺を見物しました。
農道の傍らには、写真のように昭和の初期に使われた「石油発動機」を集めて展示している所があり、
昔を思い出して興味深く見てまわりました。きちんと手入れがされていて、今でも運転できそうな状態でした。
また、広域農道の周辺の柿畑には、採り取り残され熟柿となってしまった柿がいたる所で見受けられました。
四角い顔をしているので、富有柿でもあんぽ柿でもない渋柿のようでした。
たぶん平種無柿の種類ではないかと思われます。
よほどの豊作か人手不足、或いは人件費もでないほど安値になっているのかも知れません。
(今は早生柿/平種無柿ほか/のシーズンが過ぎて、富有柿の最盛期のようです)
 

大阪能楽会館

 投稿者:やさか  投稿日:2017年11月12日(日)
返信・引用
  大阪能楽会館は1959年の開館から58年間、能楽公演が催されてきたそうです。
それが今年いっぱいで閉館されると聞いたので、地下鉄中崎町近くの同会館に、シテ方今村哲朗の『道成寺』を鑑賞しに行ってきました。
おそらくこの会館では最後の公演となる『道成寺』とあって、勿論場内は満員の盛況でした。
老朽化で閉館することにしたということですが、大阪では公的な能楽堂がないので、能楽鑑賞の機会が減るのではないかと残念です。
公演は、水を打ったように静かな観衆の中、能楽独特の幽玄の美を堪能することができました。
昨日はオペラグラスを持って行ったのですが、地謡方ほか端座したまま微動だにしない姿には感動します。
特筆すべきは、やはりシテ方の舞い姿でしょうか。独特の足運び、立ち居振る舞いなど。舞台上で移動するときは、全くといっていいほど頭位置に上下動はありません。
大鼓・小鼓とその掛け声、笛、太鼓の音に魅了されているうちに時間は過ぎて行きました。
 

八重垣神社について

 投稿者:やさか  投稿日:2017年10月 7日(土)
返信・引用
  前項にちなんで、ヘルンさん所縁の「八雲立つ八重垣」歌について書きます。

●「八重垣神社御由緒」から部分引用
――――素盞鳴尊が出雲の斐の川上に来られた時、稲田姫を中にアシナヅチ・テナヅチの老いた両親が泣いておられる様をご覧になって、その理由をお聞きになり、悪者八岐大蛇を退治して稲田姫をお救いなされたのであります。この時素戔嗚尊は、稲田姫を斐の川上から七里去った佐草郷、佐草女の森(現境内、奥の院)の大杉を中心に八重垣を造って姫をお隠しし、八岐大蛇を退治しなさってから、両親の御許しを得て、
「いざさらばいざさらば連れて帰らむ佐草の郷に」という出雲神楽歌にもある通りこの佐草の地に宮造りされて、
「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」という妻をめとった喜びの歌をうたわれて御夫婦の宮居とされ、縁結びの道をおひらきになったのであります。

●「八雲立つ出雲八重垣」歌考/山路平四郎/論文/1955.4.20から部分引用
――――「出雲八重垣」は出雲大神の神威のこもつた特殊な垣の名称とみるのであるが、結婚にあたつて、その「出雲八重垣」を造ることは「妻をこめるため」の呪術で、この歌が鄭重に謡われているのは庶民と領主との関係というようなものからではなく、庶民と信仰との関係からであり、おそらく彼等に属する彼の結婚に責任を持ち、その安定を願う彼等の集団によってその「場」で謡われた彼への祝福の神事歌であつて、それが出雲の英雄神であつたスサノオの尊の結婚に附会されて語りつがれたと思うのだが、ことは遠い昔。当れりや否や。

●筆者やさか(マルヤ)私見  HP「吉野へようこそ」神々の杜より部分引用
――――「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」という歌のことですが、これはスサノオノミコトが妻をめとった「喜びの歌」とされていますが実のところは、土蜘蛛と呼ばれた部族の蜂起をうたった歌だと思います。つまり上記で説明されている事とは全く違い、この一族が滅ぼされた時の歌と思われるのです。結果的に出雲の土蜘蛛の女首魁サクサヒメは殺され、今の佐久佐女の森に葬られたのでしょう。おそらく奥の院とは彼女の墳墓を示すものではないでしょうか。
「八」はヤマトの聖数、或いは数多い事。「雲」はツチグモを意味します。「妻込み」も妻の字をあてていますが、これも土蜘蛛を示すもので、イツモ族・イツモの語幹「TSUM」を読み込み、韻を踏んでいるのです。この歌は、大勢の土蜘蛛が垣根を廻らせて立て籠もり、一族の存亡を賭けて最後の戦をした時の歌と私は解釈します。結論的にいえば、佐久佐神社(八重垣神社)は天孫族が土蜘蛛の鎮魂の為に建てた神社と思えます。
但し、(出雲の国造家が祀るところの神は天つ神)と謂われていますので、出雲大社は天神です。
ちなみにスサノオは征討将軍で、出雲地方の司政官とでもいう立場でしょうか。
例えば『新約聖書』で語られているところの、古代ローマのユダヤ総督、ピラトのような人物ですね。
 

ヘルンさんへのレクイエム

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 9月26日(火)
返信・引用
  今日9月26日は、ヘルンさんの命日です。
それで、むかし2004年に掲出した「やさか掲示板」№322と323を再掲します。


●ヘルンさんへ

へるんさん、いかがお過ごしですか。
あなたが向こう岸へ往ったのは、ちょうど百年前の9月26日だったそうですね。
向こうへ往ってからもう百年、好きだった日本に今また生まれ変わっておいでかもしれませんね。
あなたがこよなく愛した日本はあの頃と比べますと随分変わりました。
ゆったりと流れていた時間は今はなく、誰もが一日中忙しく追われています。
今、あなたの残した御本を読んで、思い出していたところですよ。
私たちも気付いていなかった日本を、あなたは澄んだ目でみつめて美しく書き残してくれました。

「…この国の魅力は実に魔法のようだ。本当に神々の在す国さながら、不思議に人を惹きつける。色彩の霊妙な美しさ、とりわけ、山の頂を空中に漂うかに見せる、あの長くたなびく霞の裾の美しさといったらない。空と地とが不思議に混ざり合っていて、現実と幻が見分け難い国…」また、こういうのもありました。「…この日の朝がことのほか愉しく感じられたのは、人々のまなざしが異常なほどやさしく思われたせいであろう。誰もが珍しそうに眺めるが、その視線に敵意はおろか、不快なものは何もない。たいていは目が、にっこりと、あるいはかすかに笑っている。…」  ---部分引用:神々の国の首都/講談社学術文庫---

あの時の自然の美しさや、人々の純粋さはなくなっていますが、おほやしろはほとんどあの時のままですよ。
そしてあなたと一緒に参拝した八重垣神社、あのやしろも大体あの通りのままです。
<八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を>
ほら、あなたの名前も入ってる、この歌にある八重垣神社ですよ。憶えてますか。やしろのある佐草の地は細く険しい山道で、私は杖をつき、あなたは慣れない草履をはいて、あえぎあえぎ歩いてましたね。でも今は簡単に行けるようになりましたよ。

あ、私ですか?名前を申し上げても、きっとご存知ないと思います。
いえ、私はあの時のことはよく憶えていますよ。なにしろあなたは“きづきのおほやしろ”で初めて昇殿を許された西洋人ですから。
そのおほやしろへご案内した老いた神官が私です。
私は九十にも届くかといったよわいでしたが、あなたは男ざかりの四十代でしたね。
あの時もたしか九月でしたね。あなたは松江から蒸気船に乗って来て、千家尊紀様の許しが出て、私が昇殿参拝に付添いました。思い出してくれましたか。
私は一足先に日本に生まれ変わりましたが、もしあなたも日本に生まれ変わっておいででしたら、
どこかでまた逢えるかも知れませんね。そのときはきっと分かると思いますので声をかけます。

へるんさん、また節子さんのような女性に巡り逢えるといいですね。



●ヘルンさんへ追白

へるんさん、夕べあなたの夢を見ました。
あなたはやはり日本に転生していました。まだ赤ん坊でしたけどね。
あなたがもう少し大きくなって、もの心がついたら今の日本にがっかりするかも知れません。
神社やお寺の境内で遊ぶ子供たちのにぎやかな声、遊ぶ姿が今では遠い昔の夢のようなのです。
かわいそうに今の子供たちは受験勉強におわれて大変。遊びはもっぱら家にこもって、えれき遊技機で遊ぶ程度なんですから。
あなたが好きだった軽やかにひびく下駄の音も聞こえなくなって久しくなりました。
あの時代が恋しくなつかしいですね。

ところであなたが帝大で英語の講師をしていた頃、教え子に浅野和三郎という人物がいましたね。
その浅野和三郎はのちに皇道大本に入信し、大きな影響を人々に与えました。
大本は新興宗教のゆりかごのような処でした。出口なお、王仁三郎のもとには、浅野和三郎をはじめ友清歓真、谷口雅春、岡田茂吉など、
後に教団を興した人物が集まっていましたから、そういった人たちにも浅野和三郎を通して、あなたは間接的に影響を与えたのではないかと思います。
そのように多くの人に影響をあたえ続けているへるんさんにお願いです。
先の戦争で日本は破れ、戦後において、戦前の日本はその教育をはじめ、全て間違いだったと否定され道を失ってしまいました。
なるほど経済は世界が驚くような発展をしましたが、心は荒廃の一途をたどっています。
このような時代にこそ、昔の日本がもっていた神々と共に生きる、人を思いやる優しい心が必要なのではないでしょうか。
日本に転生して大きくなりましたら、もう一度古き日本のよさを今の時代に取り戻す、そんな努力をしてください。
どうかよろしくお願いします。

へるんさん、多くの人にあらためて日本を見つめなおすよう、御本を残してくれてありがとう。
へるんさんのファンは昔も今も大勢います。
二十年以上も前のことですが、大阪北新地のくらぶに「へるん」という名のお店がありました。
くらぶ?ええ、日本語ですよ。みやび酒場とでもいいますかね。
そこのくらぶの女将さん、美形でしてね。文学好きで、日本美人の典型でした。
もちろん、大のへるんさん贔屓でしたよ。
 


本薬師寺跡、ホテイアオイ

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 9月16日(土)
返信・引用
  橿原市城殿町、本薬師寺跡のホテイアオイを見に行きました。
以下橿原市HP「かしはら探訪ナビ」より引用
――――(ホテイアオイは)南米原産の繁殖力の高い花で、別名はウォーターヒヤシンスといいます。
水草の1種で水面に浮かび紫色の花を咲かせます。朝につぼみが太陽の日照に合わせて開花し、
夜になると萎んで翌日の朝に新しい蕾が花開きます。
一度開花した花は毎日入れ替わるので花は大変色鮮やかです。(中略)
本薬師寺跡周囲にある1.4ヘクタールの水田には、毎年7月初旬に約14,000株が植えつけられ、
最盛期には約400,000株の美しい紫色の花が水田一面に広がります。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
この本薬師寺跡には「史跡 元薬師寺阯」と、文字が刻まれた石碑が建てられている。
遠景に見えているのは、大和三山の一、畝傍山(うねびやま)
※クリック拡大してご覧ください。
 

波宝神社・岳祭り

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 9月10日(日)22時06分3秒
返信・引用
  本日9月10日、西吉野銀峯山・波宝神社の秋祭りに行ってきました。
快晴に恵まれた日曜日、山上は熱気に包まれました。
数十年ぶりに復活した波宝神社名物「荒神輿」が復活したからです。
今までは担ぎ手が揃わないと言う事で、神輿蔵に休んでいた二台の神輿が、本日は境内に登場したのです。
伝統行事の復活に向けて地区をあげての取り組みに、市も全面的な協力をしたのでしょう。
波宝神社の宮司さん、氏子総代さんをはじめ地区の氏子の皆さんのご努力で、見事伝統の行事が復活しました。
市で担ぎ手を公募すると、何と60人も応募したとか。
お揃いの波濤模様の法被姿も凛々しく、若者たちの勇壮な声が境内に響き渡りました。

●参照頁「波宝神社」http://www.yasaka.org/yosino/hahono.html
    「波宝神社・秋祭り」http://www.yasaka.org/yosino/hahou_001.htm
●写 真[上]出発前の結団式
   [中]さあ、神輿の出発だ!
   [下] 急坂の参道を降りて御旅所に向かう
 

二十億光年の孤独

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 9月 7日(木)01時20分9秒
返信・引用
  『谷岡俊太郎詩集』を久しぶりに読みました。
これは昭和43年(1968)5月に河出書房から発売された詩集なのでもう50年ほどにもなります。
まだ少年とも言えるほど若かった頃の私が買ったものでした。

少年はこの詩集が大変好きになり、よく持ち歩きました。
成人して結婚し、娘を二人もうけた後も、手元においてよくこの詩集をよみました。
何年も時を経て、この詩集は著者にめぐり逢いました。
57歳になった持ち主の男が、サインを著者に求めに行ったからです。
大切にしていた本だったけれども、もうかなり傷んでいました。
著者は、本をいたわるように撫でたあと、丁寧に署名してくれました。
それから十数年過ぎても、男は手元から離しませんでした。
もう、ぼろぼろになってしまった本だけれど、背を糊で固め、しまいには透明テープで繋ぎもしました。そして、しばらく本棚に並べていたのでした。

久しぶりに読んだ詩集で、むかしの感動がよみがえりました。
特に、「二十億光年の孤独」と区分された一連の詩集です。
この詩の一部を以下にかかげます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ネロ
――愛された小さな犬に

ネロ
もうじき又夏がやつてくる
お前の舌
おまえの眼
お前の昼寝姿が
今はつきりと僕の前によみがえる

お前はたつた二回程夏を知つただけだつた
僕はもう十八回の夏を知つている
そして今僕は自分のや又自分のでないいろいろの夏を思い出している
メゾンラフイツトの夏
淀の夏
ウィリアムスバーグ橋の夏
オランの夏
そして僕は考える
人間はいつたいもう何回位の夏を知つているのだろうと

ネロ
もうじき又夏がやつてくる
しかしそれはお前のいた夏ではない
又別の夏
全く別の夏なのだ
(以下略)

●昔の感動が蘇ってきたので、ホームページに「谷川俊太郎と石原慎太郎」と題した頁をつくりました。
http://www.yasaka.org/KOBO/tanigawa.html
 

天辻峠

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 8月26日(土)17時42分35秒
返信・引用
  五條市大塔町天辻峠の道の駅に行ってきました。

天辻峠は標高790メートル。その昔は「天の川辻」と言ったそうです。
丹生川と熊野川の分水嶺で、西熊野街道の最難所だったと伝わります。
この峠は、正に天の十字路ともいうべき要所だったようです。
主道の南北に通る道筋は、大日川村(現在の西吉野町)から、この天辻に上り、
南方の坂本村(現、大塔町阪本)まで一気に下ります。
一方、東西の道は、西へ行けば富貴村(現、和歌山県高野町)で、東へ行けば天川村へと通じます。
いずれも古代の高速道路とも言うべき尾根道筋の交差点でした。
幕末の天誅組の変では、一時天誅組の本陣が置かれたこともあります。
当時は大いに栄えた物流の中継地で、宿場の様相を呈し大商人が支配していたらしい。
現在は国道168号線が通り、「道の駅・吉野路大塔」がああります。

写真[上]は、道の駅案内図(以下いずれもクリック拡大してご覧ください)
写真[中]は、天辻郷土館付近(道の駅2階より撮影)
写真[下]は、郷土館庭園(郷土館座敷内より撮影)
●往古の「天の川辻」は、現在の道の駅より徒歩で30分ほど上に登った所にあったようです。


 

桃花里(つきのさと)

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 7月30日(日)20時16分4秒
返信・引用
  吉野郡下市町秋津は、古くは桃花里(つきのさと)と呼ばれていたようです。
平安時代初期に、僧景戒によって編まれたと伝わる『霊異記(日本国現報善悪霊異記)』にも
「桃花里秋野河」と記されて出てきます。
吉野・下市は、吉野川支流の秋野川に沿って栄えた市邑で、
平安時代初期には世間に広く知られていたようです。
日本最初の手形「下市札」が発行されたのもこの吉野下市でした。

●写真は上から―― 町内の小祠「天照皇大神宮」と「楠稲荷大明神」そして、
歌舞伎・義経千本桜の舞台に登場する老舗料亭「つるべすし弥助」
 

新歌舞伎座

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 7月 2日(日)11時59分18秒
返信・引用
  昨日7月1日、上本町にある新歌舞伎座に行きました。
6月26日から公演している「五木ひろし・坂本冬美の公演」です。
出し物は、夫婦善哉と歌謡ショーでした。
歌謡ショーと言えば、もう50年以上も昔、労音でフェスティバル・ホールのフランク永井ショーや、大劇での橋幸夫ショーを見て以来のような気がします。
フランク永井の素晴らしいバリトンの歌声は、今も彷彿として記憶に蘇ります。今になって残念に思うのは、あの「美空ひばり」や「青江三奈」の歌謡ショーを見たことがなかった事です。もっとも当時はそれほど彼女たちの歌声が魅力的だとは思わなかったからでした。
私に感受性が無くその良さが分からなかったからです。
残念にも彼女たちがあの世に旅立った後で、彼女らの歌声の魅力に取り憑かれたのでした。
後からはCDを買ったりして、何度も何度も繰りかえして聞くほど惹かれ、現役の間に実演見ておけば良かったと悔やんだものでした。
そのような後悔があったので、素晴らしい歌声の五木ひろしや坂本冬美の実演を、ぜひとも今の内に見ておきたいと思ったからです。

公演は、期待通りの素晴らしいものでした。
さすがに五木、坂本は一流の歌手だと思います。
そして、二人と共とても色気がありました。

写真は大阪上本町YUFURA 6~8F 新歌舞伎座
 


戻る