新ブロック [24] :2016年1月~06月


 


伏見桃山城

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 6月12日(日)08時01分19秒
返信・引用
  伏見桃山城に行ってきました。
御香宮神社に参拝した昨日、すぐ近くにこのお城があることが分かったので立ち寄って見たのです。
現在の伏見城は、豊臣秀吉が1592年に築城した歴史的建築物とは全く違うもので、写真の通りの大天守閣と小天守閣で構成されています。
これは、昭和39年に開園した「伏見桃山城キャッスルランド」が建築した、鉄筋コンクリート作りの大天守と小天守が、京都市にそのまま寄贈されて今に残っているものです。
模造建築とはいえ、とても立派なお城で見た目にも大変魅力的な外観に仕上がっています。
1964年の開園当時は近鉄グループの経営する遊園地で、2003年に閉園するまでジェットコースターやゴーカートに遊戯施設やプールなどがあって、大いに賑わったようです。
残念ながら現在は、耐震基準が満たされていないとかで、内部は非公開になっています。
このお城に見学に来たのは二度目ですが、また見たくなりそうな不思議な魅力が一杯でした。

●伏見城の大手門が移築されたと伝わる、御香宮神社http://www.yasaka.org/kamigami/gokonomiya.html



 

『空海の風景』に異議あり

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月23日(月)00時02分32秒
返信・引用
  司馬遼太郎の『空海の風景』ですが、高野山真言宗の松長有慶管長は「戦後の空海再評価のきっかけになった」と評価しているようです。
でも一方で異議を唱える向きもあります。
それは、仏教学者の宮坂宥洪照光寺住職の次のような異論です。
手短にまとめて言えば、

司馬は小説の中で、空海を上から目線でその業績を「矮小化」している。「性欲の悩みで大学を出奔した」ように言い、その後の修業期間についても、
「性欲の悩みを克服する機関であった」などと書き、はては、「日本史上類のない大山師にちがいない」とも言っている。
「行間ににじみ出る空海蔑視の態度はぬぐいがたい」「司馬には空海に対する尊崇の念は微塵もない。貶めるのみである」としています。

詳しくはネット上の以下の頁を参照ください。
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/miyasaka/post-234.html


『空海の風景』は私もじっくり読みましたが、空海を尊敬する私としては、読み続けるに堪え難いほどの上から目線の表現が頻出していました。
空海を祖師と仰ぐ宗門筋から批判が噴出しないのが不思議なくらいです。
現代日本の最も上質な小説家の一人とされていた司馬遼太郎氏ですが、この『空海の風景』だけは頂けません。
或いはこの作家は、あの司馬遷をもはるかに凌ぐ作家との自負から、名付けた筆名だったのかとも勘ぐってしまうほどです。
 

空海に会える

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月21日(土)15時23分36秒
返信・引用
  産経新聞平成28年4月5日号によりますと、
今年は四国88ヶ所巡る「お遍路さん」にとっては特別な年だと言います。
というのも今年はうるう年で、88番札所から逆に1番へと廻る「逆打ち」の年になり
ご利益が平年の3倍になるといわれ、更に丙申の年の逆打ちで弘法大師に会えたという言い伝えもあって、
今年はその60年に一度のまたとない好機なのだそうです。
旅行各社はプランを拡充させ、現地でも大幅な利用増を見込んで期待しているとしています。
今年は戦後2度目?の、空海/密教ブームなりそうな予感がします。
ちなみに、戦後一度目の空海/密教ブームは、昭和50年代でした。
このブームのきっかけとなったのは、司馬遼太郎の『空海の風景』が一役買ったようです。
 

吉野山の店番ネコ

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月17日(火)00時05分23秒
返信・引用
  写真は吉野山・大駐車場、売店の看板ネコです。
いつもベンチで愛嬌をふりまいているので、よく雑誌にも掲載されたりして有名になったようです。
経営者のおばさんは、この「にゃんマル」が載っている雑誌を見せてくれました。
車に轢かれないように、首輪にリードでベンチに繋がれています。可愛い男の子です。
 

吉野と修験道

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月16日(月)23時46分50秒
返信・引用
  5月15日の吉野山は、文字通り五月晴れの、何とも清々しい好天に恵まれた一日でした。

①枚目は、櫻本坊の徳潤門です。
「大峰山護持院 櫻本坊」と「神仏習合修験道場」の看板が架かっています。

②枚目は、大阪・西九条から来られた方々です。昼2時過ぎに出会ったのですが、もうすでに大峰山登頂を済まされ、その帰り道とか。でも今からでももう一度登拝出来そうなほど、お元気な様子でした。

③枚目は、吉野山参道の尾根道を帰路につく修行中の修験姿の人々。本日15日は吉野山のいたるところで山伏姿の、修行中の方々を見かけました。


 

空海の道

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月13日(金)09時26分57秒
返信・引用
  空海の道と言いましても様々な意味にとれると思いますが、
ここでは空海さんが高野山へ行き来した道について書いてみます。

●ひとつは、得度もしていない少年の頃
 それは優婆塞姿で山人の案内で尾根伝いに初めて高野山に足を踏み入れた時のことで、
『性霊集』の中に「少年の日、吉野より南に1日、西に2日行きて幽遠の地を見つける。名付けて高野という」とある道のことである。
この頃は高野の地は山人の一部意外には誰にも知られていないような山奥だった。ほとんどが尾根道であったと考えられる。
ちなみに私は自分の著作『もう一つの空海伝』では、以下のように道筋を示している。
吉野桃花里から→白銀岳→富貴里→筒香峠→阪本→今井峠→天狗木峠→桜峠→高野

●次の道は、勅許を得て高野の地を賜った後の頃
 高野山の開創準備のため、たびたび平安京=高野山を行き来したことと思われる。また旧都・平城=高野山=吉野の往還もあったであろう。
この頃には紀ノ川の水運を利用する道も開かれたようである。
はじめは紀ノ川南岸の伊都郡三谷に上陸して高野に向かう道。これは「勅使道」とも言われた参道となった。
また、後には九度山の慈尊院あたりに上陸する道が多く利用されるようになり、こちらの道が表参道になった。
空海伝説として残ったのは、この頃、各地を行脚した時の噂が伝説になったのであろう。
水運を利用する道は、宇智郡須恵あたりから、阿陀の鵜飼部が操る川舟に乗って吉野川(紀ノ川)を下流に下る行路で、これが一番楽な往路であったと思われる。
 

大和五條と空海さん/3

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月 9日(月)10時11分52秒
返信・引用
  写真は犬飼寺境内の弘法大師空海像です。
五條市(旧宇智郡と吉野郡の一部)には空海伝説が多々ありますが、
五條市の中心部、商励会通り東の脇道にある「さくら井戸」もその一つです。

伝説によれば、弘法大師がこの地を通られた時、水を求められたのだそうです。
すると老婆がわざわざ吉野川まで水を汲みに行ってくれたので、大師は錫杖で地面を突いて水を湧かせたと伝わっている。
それが「さくら井戸」と呼ばれて、今も豊かに水が湧き出ている「桜泉」と額の架かったこの井戸なのだと言います。

●以下のページ下段も参照してみてください。
http://www.yasaka.org/kamigami/goryo.html
 

大和五條と空海さん/2

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月 8日(日)13時45分47秒
返信・引用
  写真は、五條市犬飼町の転法輪寺(犬飼寺)と、境内の丹生明神・狩場明神社です。
寺伝では弘法大師がここで狩場明神と出遭い、白黒二頭の犬に導かれて高野山へ至ったと伝えます。
大師堂前の丹生・狩場明神の社殿は、江戸時代前期の様式が再現されているそうです。
境内には犬飼大師塚、犬飼明神塚の両古墳(6世紀)もあります。
 

大和五條と空海さん/1

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月 7日(土)10時26分22秒
返信・引用
  五條市の吉祥寺に行ってきました。
旧五條市は宇智郡と地域がほぼ重なりますが、
現在の五條市丹原町、紫水山・吉祥寺は、高野山真言宗に属し、816年弘法大師空海の創建と伝わります。
本尊は毘沙門天ですが、寺名は脇侍の吉祥天女の名をとって寺名としたようです。
社伝によりますと、弘法大師は高野山の鬼門(丑寅/艮)の方角に怨霊封じの毘沙門天を祭ろうとして高野山を下りると、
小高い山の上に紫雲がたなびいているのを見て、その山に登った。
すると生身の毘沙門天が現れて「ここは高野山の七里丑寅にあたるから我を祀れ」と告げた。
大師は一夜で毘沙門天像を刻むと、生身の毘沙門天は姿を消したという。
それが毘沙門天像を本尊とする、吉祥寺の縁起と伝わります。
なるほどこの寺の所在地は、まともに高野山の鬼門方向にあたり、空海さんの形而上学的な呪術の一端が顕れているような気がします。
やはり、空海さんと宇智郡(うちのこおり)は、深いつながりで結ばれているのですね。

 

狭山池築造1400年 花見

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 4月 6日(水)15時08分26秒
返信・引用
  4月5日、大阪狭山市の狭山池へ花見に行ってきました。
ご存じ狭山池は、日本最古のため池として知られていますが、1988年の改修工事に伴ってなされた調査によって、
東樋に使用された木材の伐採年が、年輪年代測定の結果616年(推古天皇24年)と判定されています。
それで今年は築造1400年になるそうです。
その記念事業の一環としてラバーダックが登場。また、池の堤の周遊道路沿い芝生には「1400」の数字が花文字として植え込まれていました。

●1枚目の写真は、その花文字花壇と遠方に金剛・葛城が見える狭山池全景。
●2枚目は、ラバーダックと堤の桜花「コシノヒガン」。向こうに「PL塔」が見える。
●3枚目は、散りはじめた満開のコシノヒガン桜
この3枚の写真遠景に狭山博物館とラバーダックが写っている。

狭山池公園のサクラは、大部分がソメイヨシノとコシノヒガンだそうです。
開花はコシノヒガンの方が少し早いといいます。
暖かかったこの日、多くの人々が散歩したり芝生で弁当を広げたり、子供を遊ばせたりして花見を楽しんでいました。
4月4日が満開だったようです。

 

日本奥地紀行について(続2)

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 3月23日(水)09時30分7秒
返信・引用
  イザベラ・バード著『日本奥地紀行』原題:『Unbeaten Tracks in Japan』は、
1,880年10月にロンドンで上下二巻本として出版。1ヶ月で3版を重ね、各紙で絶賛されたようです。
日本での初版は1,973年ですが、明治時代初期の日本を、英国婦人が見たままに紀行文として著されており、
当時の北日本の様子が詳しく報告観察されているので、とても興味深いものがあります。
『日本奥地紀行』 高梨健吉訳、平凡社〈東洋文庫240〉1973年1月初版

ほかに以下の4巻本がありますが、内容は部分的に上記のものと重複しています。
●『完訳 日本奥地紀行 1 新潟―山形―秋田―青森』 金坂清則訳注、平凡社
●『完訳 日本奥地紀行 2 新潟―山形―秋田―青森』 金坂清則訳注、平凡社
●『完訳 日本奥地紀行 3 北海道・アイヌの世界』    金坂清則訳注、平凡社
●『完訳 日本奥地紀行 4 東京―関西―伊勢 日本の国政』 金坂清則訳注、平凡社
 

日本奥地紀行について(続)

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 3月21日(月)23時31分13秒
返信・引用
  イザベラ・バードの『日本奥地紀行』には、当時の日本を知るための貴重な記事が満載ですが、なかでも蝦夷地(北海道)のアイヌ部落の記事は特に興味深いものがあります。
 駄馬に乗って旅をしたバード女史は、北海道をエゾ、本州を日本というように使い分けており、
当時の日本の人口は3,435万人、アイヌ人口12,000人、その他外国人5,000人と書き留めています。
(明治6年に出た人口既報によれば、当時のアイヌ人は男6,118人、女6,163人で計12,281人となっている)

バード女史は、そのアイヌ人について次のように記しています。
「蝦夷地には蝦夷の原住民であるとともに、日本全体の原住民であるかも知れないアイヌ民族が残存している。彼らはおとなしい未開人で沿岸と内陸に住み、それぞれ漁業と狩猟をして暮らしている。毛深いアイヌと呼ばれてきたこの未開人は、愚かながらも、物静かで気立てが良く、従順でもある。日本人(和人)とはまったく別の民族である。肌の色はスペインや南イタリアの住民と類似し、表情や改まったときの物腰は、アジア的というよりもヨーロッパ的である」
…と好意的で、憂いを含んだ知的な表情はキリストの再来のように美しい…というような表現までしています。

一方、バード女史一行を迎えてくれた、平取のあるコタンの酋長の家では、
「彼らは、自由に食事をしてお休みくださいと言って退いたが、酋長の母親だけは残った。80歳だというこの老女は魔女のように気味が悪かった。ぼうぼうの髪は黄色っぽい白髪で、その皺だらけの顔には断固とした不信感がみてとれた。凶眼の魔力の持ち主なのではないかとさえ思うようになった。座って私をじっと監視したり、樹皮でできたひもを結ぶ(作業の)手を休めることなく、息子の二人の嫁や機を織りにやってきた若い女たちを監視するように見ていたからである。老人特有の愚鈍さもなければ安らぎもなかった。…この女性だけは訪問者に気を許していない。私の来訪も自分の一族にとって縁起が悪いと考えているのである。今もその目は私にじっと注がれており、それを見ている私はその視線にぞっとして身震いする。」
…というように書いています。
おそらく、この老女は今までの多くの苦い経験があったのであろうと思わせます。

この後、実に不思議なことが書かれています。
それは、「外国の人には一切見せてこなかった私たちの神社をお見せします」と言って、山の上の木造の神社に案内したという記述で、その小さな白木の社には何と、象眼のある真鍮の鎧を着た歴史上の英雄・義経の像が納まっていたというのです。
「義経北行伝説」というのもあるそうなので、或いはと考えられないことない。義経は蝦夷(エミシ)の出自かも知れない。
 

日本奥地紀行について

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 3月20日(日)00時50分0秒
返信・引用
  『日本奥地紀行』著者/イザベラ・バード Isabella Lucy Bird(1831~1904)

イザベラ・バードは、イギリス生まれで、1878年(明治11年)47歳の5月に横浜に入港上陸して、その年の12月まで日本の奥地を旅したようです。
バード女史が書いたこの時の紀行文は、原題を「Unbeaten Tracks in Japan」と言い、1880年にロンドンのジョン・マレー社から出版されたものだそうです。
タイトルを直訳すると「日本の未踏の地」となるようですが、これを高梨健吉の翻訳により、平凡社が『日本奥地紀行』と題して、1973年に日本で初めて出版しました。

内容は、彼女がイギリスの妹に宛てて書いた旅日記の形式になっています。
ここでは上陸港横浜の第一印象を次のように記しています。

「横浜はどう見ても立派とはいえない。これほど雑然とした都市は他に例がない。……日本人街は美的価値の乏しく、勤勉なのに貧しいとしか言いようのない様相を呈している。海岸通り沿いにグランドホテル、インターナショナルホテル、クラブ・ハウスやいくつかの『洋行』つまり商館がある。そのうち最も古いジャーディン・マセンソン商会は1番地にある。……」などと記され、この記述から解るのは、徳川慶喜の大政奉還の後、わずか10年あまりで、本格的大ホテルや社交クラブ、英国の大商社などが既に進出していたことです。

 また初めて見た日本人については、
「上陸してまず印象的だったのは浮浪者が一人もおらず、通りにいる男たちが、小柄で、不格好で、顔は人が良さそうだが貧相で、蟹股で、猫背で、胸がへこんだように見えるものの、みな自分の仕事を持っていることだった」

このようにイザベラ・バードは、英国女性から見た当時の日本をありのままに描写しています。
 バード女史は、このあと日光、新潟、山形、秋田を経て北海道に渡り紀行文を著すことになるのですが、その紀行文中で女史は次のようにも言っています。

「開港場の日本人は外国人と交わることによって、人が悪くなり、品を失っているが、内陸部にすむ日本人は『未開人』であるどころか、とても親切で、心優しく礼儀正しい。それで外国人でも日本人の従者一人以外は誰も伴わず安全に旅することができる」と褒めてもいます。

●このページも参照ください:
 https://www.youtube.com/watch?v=1gRCCIDNMHg
 

阿賀野川ライン下り

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 3月10日(木)18時40分29秒
返信・引用
  昨日、越後・阿賀野川ライン下りを体験しました。
川下りというと季節外れの感がありますが、これは所謂急流下りとは趣を異にします。
この「阿賀野川ライン下り」という命名は、明治時代に来日したイギリス人の旅行作家、イザベラ・バードが、その著書『日本奥地紀行』で「ライン川より美しい阿賀野川…」と形容したことに由来するとかで名付けられたそうです。

著書によりますと、バード女史は1878年(明治11年)47歳の時の5月に来日して12月まで滞在、日本の奥地を旅したようです。
阿賀野川では、津川から新潟まで二人の男が操る木造の定期船で川下りをして、その時に「廃墟なきライン川」と形容して、その美しさを讃えています。
もちろん、その時の舟からの景観と現在はかなり違うはずですが、川の水量は同じくらいだったと思えます。と言いますのは、近日の異常な暖かさから、雪解け水で流量が大幅に増えていると説明があったからです。
当時の船は長さ13.5メートル、幅1.8メートル位、女史が乗ったときには乗客は15人乗っていたとあります。
また、津川から新潟まで72キロを八時間(途中1泊)、その料金はわずか、三〇銭にすぎない。ただ、「津川まで」遡る際には五日ないし七日もかかり、棹を使ったり岸から舟をひいたりという苛酷な労働を伴う。…とも記されています。

現代の「阿賀野川ライン下り」の船は60人乗り位で、二基の船外機付、屋根付、冬暖房付。船長とガイドの二人組船頭さんでした。


 

御神籖

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 2月26日(金)00時03分28秒
返信・引用
  春風に
池の氷も
とけはてて
のどけき花の
かげぞうつれる
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住吉神社 御神籖 第28番



神の教を忘れてよその 小道にまような 枝道に
身びいき身勝手の事ばかり考えて 我儘にのみ振るまえば神様の御心に遠ざかって
神様から離れ 不幸を招く基となる
常に思いやりの心深く 人を憐み 人を助けて
地上に平和の高天原を現すべく世界作り固めのお役目大事と働く事が誠の神の教である
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住吉神社 神の教
 

デスクトップPC

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 2月12日(金)23時58分16秒
返信・引用
  パソコンを入れ替えしました。
今回は久しぶりにデスクトップ形にしました。
OSは、手持ちのアプリとの相性を考えてWINDOWS/8.1に決めましたが、後日の適当な時点でVersion 10に変更するつもりです。

●2月10日以降は、この新PCで編集掲出しました
 

湖北長浜

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 2月12日(金)23時16分51秒
返信・引用
  羽柴秀吉が織田信長に認められ築いたという長浜城の城下町・長浜八幡神社に参詣しました。
長浜は、元「今浜」と呼ばれた所だったそうです。それを秀吉は信長の名の一字をもらい、「長浜」と改称したと伝ります。
その城下町の玄関は、北陸本線長浜駅で、その駅前は大通寺や八幡神社の門前町として栄えたようです。
今でも往時の賑わいが、参道の商店街に偲ばれます。
この長浜の名物料理は鴨鍋と鯖そうめんと聞いていたので、意外な組み合わせと思った「鯖そうめん」を食べてみました。、
本当に驚きでした。それは、見た目や想像をはるかに超える美味しさで、私には特別印象深く記憶に残りました。
以下の写真は、そのお店「翼果楼/よかろう」さんです。

長浜八幡神社:http://www.yasaka.org/kamigami/nagahama.html

 

玉置山 山頂

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 2月10日(水)15時02分47秒
返信・引用
  昨日15年ぶりに十津川村・玉置神社に参詣しました。
五條市から168号線で、大塔道の駅を経由して十津川村に入ったのですが、五條からは今でも2時間半位はかかります。
道中は、天辻峠トンネル手前くらいに雪が少し残っていた程度で天気も良好で快適でした。

駐車場に車を停車させた位から小雪がちらつきはじめて、とても寒く風も強い日になりました。
15年前に参詣したときから神社に大きな変わりはないようで、境内も美しく整備されていました。
前回は、山頂まで上がってなかったので、今回は大杉がしなるほどの風が吹いていましたが、
あえぎあえぎ、険しく細い山道を登り切りました。
山頂からの南方はとても見晴らしが良いようですが、この日は薄曇りで、遠方までは見渡せません。
空も晴れて、空気が美しい日には、この1076メートルの高所から向こうに熊野灘が見渡せたと思います。





 

PC不調

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 1月14日(木)10時48分51秒
返信・引用
  二・三ヶ月前頃からPCの調子が悪いのです。
突然暗転して勝手に再起動したり、固まってしまって全く動かなくなったりします。
手間を掛けてOSを再インストールしてみても改善しません。
今までメインで使用していたのは15インチ画面のノート形でした。
それが不調なので、代わりにモバイル用サブの13インチ画面のノートを使ったのですが、これもキーボードが故障して文字入力が出来なくなりました。
それでキーボードを新しく買い入れてUSBで繋ぎ、しばらく使っていましたが、これも又故障したみたいで、ままなりません。
これらのノートは両方とも5年ほど前の製品(VISTA)なので、この辺で買い換えようかと検討中です。

そのような訳で当分の間は、ホームページの更新はできません。
また、メールもスムーズに出来ないので、お問い合わせなどにすぐ対応できない場合がありますことをご了解ください。
 

TAMA電車&たま大明神

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 1月11日(月)19時08分29秒
返信・引用
  和歌山電鉄・貴志川線のたま電車に乗りました。
伊太祁曽駅まで車で行き、まず伊太祁曽神社に参詣。
その後は、伊太祁曽駅から貴志駅まで各駅停車の「TAMA電車」に乗りました。
ご存知のたま駅長は、今は二代目の三毛猫ですが、一代目同様の人気者のようです。
大勢の人たちがスマホやデジカメを向けて撮影中でした。

でも二代目の人気者は背中を見せて居眠り中……。
「ニタマちゃんお疲れさん!」

写真:たま電車々内の中吊り広告や装飾と貴志駅構内にある「たま大明神」

 

謹賀新年「福をエテ、厄をサル」

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 1月 7日(木)10時29分30秒
返信・引用
  住吉大社の社報は『住吉っさん』というタイトルがつけられています。
今号社報の見返しには、髙井道弘宮司様の「高燈籠祓猿」の書が掲げられています。
その説明によりますと、住吉の名所のひとつ旧高燈籠には、珍しい猿瓦が掲げられていたそうで、
それは「福を得て、厄を去る)の縁起かつぎが大変好まれたからだといいます。

今年は「丙申」の年です。
厄を祓い、大いに福を得る年になって欲しいと願うものです。
写真は、1月6日の住吉大社境内です。
今年の初詣は、御祭神が同じの三社に参詣しました。





 

謹賀新年

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 1月 2日(土)18時55分33秒
返信・引用
  あけましておめでとうございます

元日は酒を飲んでいたので、初詣は翌日となりました
それも寝坊をしてしまって、午後からの参拝でした
まず地域の氏神様に、そして吉野の産土様に参詣してきました
御祭神は、いずれも住吉三神さまと神功皇后さまなので、両社ともまったく同じ神さまをお祭りしています