巷の神々
投稿者:やさか 投稿日:2015年 4月27日(月) |
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『巷の神々』を読みました。 これは、昭和42年に出版された石原慎太郎の著作です。 はじめ地元の図書館から予約し、取り寄せて読んだ稀少本です。 読んで見ると興味深い内容で、これは是非手に入れておきたいと思い、AMAZON経由で入手しました。 この本の内容ですが、『太陽の季節』で芥川賞を受賞した石原慎太郎が、 その十年後にこのような宗教観を持っていたことを知って驚きました。 「私は学生の頃、熱心なカトリック教徒である従兄が新興宗教を罵倒し嘲笑するのを聞いて妙な可笑しさに耐えられなかった記憶がある。御利益宗教など、とその従兄は言ったが、信仰する人間が、先ず神仏に求めるものが御利益でなくて他の何であろうか。また、それがどうして咎められるべきことなのだろうか。…(中略)…知識人の多くは、その従兄と同じ姿勢で新興宗教を嘲笑うが、それが宗教の否定、神仏への否定ならばともかく、相手が単に新興宗教であるということでならば軽率であり、…(中略)…現在ある発展をとげ、更に発展途上にある新興宗教を観察すると、それが極めて短期の発展過程に、既成の宗教、例えばキリスト教、仏教等の誕生発展と全くと言っていいほど同質の段階を踏まえて来ていると言うことに気がつく。現代の新興宗教の誕生、発展を眺めることで、逆に我々は仏教の教典や聖書に記されている奇跡がまぎれもない事実であったことを知るのである」 (以上石原氏の宗教観と思える箇所を引用) 今、82歳過ぎていると思える現在の氏の考えとは異なっているかも知れません。 これは昭和41年頃からサンケイ新聞に連載した記事を、纏めて同42年単行本として刊行したもののようですが、 当時氏は創価学会三代目会長池田大作氏を尊敬していたようなのです。 「池田会長はただ会長であって、決して教祖ではないが、しかし、彼は優れた哲学者であると同時に、もし他の宗教にあって教祖たらんとすれば、教祖ともなり得たような卓抜した能力と魅力を持つ人物でもある」 …と大層な誉めようなのです。 創価学会と同様に法華経を奉ずるもう一方の雄、霊友会の創立者久保角太郎、同会長小谷喜美の事も随分と好意的に書いてい、この本を著わした翌年には、参議院議員選挙に出馬してトップ当選を果たしています。 これは、霊友会系の票田を纏めて得たかに思えます。石原氏は、この頃から霊友会の信者になったようです。 この本は、「巷の神々」のタイトルでも想像できるように、当時の新興宗教から取材したもので、 その宗教の成り立ち、教祖の人となり、エピソードなどを盛り込んだ構成になっています。 登場する宗教団体は十数教団ですが、はじめに登場するのが霊友会です。 そして白光真光会、弁天宗、創価学会、立正佼成会、大本教、天理教等々。 登場する教団について中立の立場から書こうとした努力が伺えますが、氏が最も頁を割いているのが霊友会と創価学会でした。 その次に丁寧に記述されていたのが弁天宗で、石原氏は今東光氏に紹介されて初めて宗祖に会ったのだそうです。 「弁天宗宗祖大森智弁は、私が教祖自身の活躍中にじかに面談出来た一人であって、茨木で彼女の話を聞いて過ごした一夜は、私にとって甚だ印象深いものだった」 と氏は記しています。 智弁宗祖(吉井清子氏)は、明治42年吉野町飯貝生まれです。宇智郡野原村(現五條市野原町)十輪寺住職、大森智祥氏に嫁ぎました。 後に宗祖となる大森智弁氏は霊能者として有名になり、数々の奇跡を起こして病気を治し、 受けた相談に対して的確な対処法を示して人助けをしたことで知られています。
実は私も、子どもの頃“弁天さん”に病を治していただいた一人なのです。 10歳前だったと思います。目が悪く目医者で治療してもらっても直らない。 結膜炎のような症状で両眼とも良くなかったのです。それで母親が野原の弁天さんに私を連れて行きました。 相談の順番が来、私は母親と一緒に弁天さん(宗祖)の座卓の前に座りました。 宗祖と母の言葉のやりとりは覚えていませんが、宗祖が自ら薬草を手の平で捏ねておられたのを覚えています。 それをひとりの若い男性が私の左手首の内側に貼付け、包帯を巻いてくれました。 明くる日だったか包帯を取ると、腕時計大の水ぶくれが出来ていましたが全く痛くはありませんでした。 「水ぶくれは毒を集めた水分なので、それを捨てると直りますよ」と若い男性から説明を受けていたので、全く心配はしませんでした。 この時の若い男性は弁天さんの息子さんだと、後から母に聞きました。 結果的にこれで私の眼病は完治しました。 以来現在まで、目にゴミが入った時に洗眼してもらった以外で眼科にかかったことはありません。 この頃大和五條の弁天さんには、全国から病気や商売、様々な相談に人々が行列を作るほど訪れていたのです。 私が10歳頃はじめてお会いできた時の宗祖・智辯尊女は47歳前後だったはずです。 正に「巷の神々」と呼べる方の一人だったと思います。
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