[100] Re[99]: 海部峯など 投稿者:神奈備 投稿日:2002/06/09(Sun) 07:44
自己レス

『日本霊異記』下巻第六に同じ話がのっており,海部の峰の推定として
吉野郡小川荘麦谷村薊岳(あざみ)としています。

[99] 海部峯など 投稿者:神奈備 投稿日:2002/06/08(Sat) 20:33
吉野連峰に海部峯(あまべのみね)と云う山があるそうですね。
大名持神社の神宮寺が大海寺(だいかいじ)で,潮水の湧き出しの話がありましたね。天女伝説から丹後との関連かと思っていましたが,地理的には紀の国の海が自然ですね。
『今昔物語』に,海部峯の聖人が病をえて,体力回復にひそかに魚を食べようと思い,弟子に紀の国の海辺にやって魚を求めさせて,法華経を入れたとウソをついた小櫃で運んだそうです。

潮水の湧き出しはどこの海とつながっていたとかの伝承はあるのでしょうか。
海部峯とはどこでしょうか。比曽寺の辺りでしょうか。
吉野川では魚は常時いたのでしょうが,紀の国の海辺までわざわざ,と云うのも不思議ですね。
[98] Re[97]: Re[96]: Re[95]: 玉津島 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/05/25(Sat) 11:00
神奈備さん、ありがとうございます。

> 浜宮神社をお勧めいたします。玉津島神社から少し南の海南へのトンネルの手前の海側です。
> 泊瀬女さんがここで丸石を発見されています。

伊太祁曽神社は二回目、日前宮は三回目、淡島・竃山・玉津島は初めての参拝でしたが、「浜宮神社」は全く知りませんでした。Yahooで検索すると、

Setoh H12.9.29
崇神天皇の時代に、豊鋤入姫が天照大神の御霊を奉じて名草浜宮に遷幸した時・・・

とありました。「丸石」も見てみたいし、次の機会には是非参詣します。

[97] Re[96]: Re[95]: 玉津島 投稿者:神奈備 投稿日:2002/05/25(Sat) 08:49
マルヤさん、なにがしさん、こんばんは。

丹生都比売神社の祝詞棚について『紀伊続風土記』から
 外の鳥居の西北にあり神輿渡御の時海部郡和歌浦玉津島明神へ濱降[ハマクダリ]の神幸の式をなして祝詞を捧くる所なり
とありますが,祝詞棚は現在は見当たらなかったようですね。

まるやさん,今度玉津島神社へいかれることがありましたら,
浜宮神社をお勧めいたします。玉津島神社から少し南の海南へのトンネルの手前の海側です。
泊瀬女さんがここで丸石を発見されています。


[96] Re[95]: 玉津島 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/05/23(Thu) 20:44
なにがしさん、こんばんは。

> 玉津島神社の山の側面に塩竈神社があるんですが、行かれました?
「塩竃神社」ですか。それが行ってないんです。知らなかったんです。

> 浜下り神事のおり、その岩屋で丹生神主は体を清めたと記憶しております。
そんないわれがあったんですか。やっぱり丹生にゆかりの土地ですね。あぁ、残念!
なにがしさんの、この書き込みを見てから「神奈備神社名鑑」で見ました。
「玉津島神社」のところに出ていました。いつも思うのですがさすが、大抵でていますね。先に見ておけば良かったです。
今度和歌山方面へ行った時にには。寄ってきます。

[95] 玉津島 投稿者:なにがし 投稿日:2002/05/23(Thu) 02:04
マルヤ様
玉津島神社の山の側面に塩竈神社があるんですが、行かれました?
浜下り神事のおり、その岩屋で丹生神主は体を清めたと記憶しております。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[94] Re[93]: 春と修羅 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/05/10(Fri) 22:15
待春尼さん、はじめまして。ようおこし。(ようこそお越しくださいました)

> 私もマルヤさんと同じように宮沢賢治の詩が好きです。
宮沢賢治の詩が好きと、よく分かりましたね。どこかに書きましたか。
ひょっとして私を知っている方ですか?
> ところでマルヤさんは、山内光雲さんのお弟子さんですか?
師事してますので、そうともいえます。
> お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか。
はい、もちろん結構ですが、そのことでしたら下記メールでお願いできればと思います。
●メールmaruyaio@skyblue.ocn.ne.jp



[93] 春と修羅 投稿者:待春尼 投稿日:2002/05/10(Fri) 14:14
はじめまして。時々ページを覗かせてもらっています。
私もマルヤさんと同じように宮沢賢治の詩が好きです。
特に春と修羅の一連の“心象スケッチ”の心を動かされます。
法華経に帰依した賢治ならではの作品と思います。

ところでマルヤさんは、山内光雲さんのお弟子さんですか?
お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか。
申し遅れましたが、私は自称「修業尼」で普段の仕事は図案書きでございます。
よろしくお願いいたします。

[92] わらべ歌 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/05/09(Thu) 14:19
宮城谷昌光はその著書「史記の風景」の中で次のようなことを書いています。

白川静の「字訓」「字統」を引用して、
うたには「歌」と「謡」の二つの字がある。
うたうことが神へ訴えることだとすれば「謡」。
「歌」とは何かといえば、
「訴えたことを神が実現してくださらないのではないか」と神をとがめるふくみが大きい。
けがれのない子供がうたう謡は、予告をはらんでいるときがある。
(童は受刑者であるから結髪は許されず、それで結髪しない児を童という)
「すると童謡は受刑者の労働歌か」と思ったがどうであろう。

そう言えば日本書紀には“時にわざ歌あり・・・”の表現が散見できます。
崇神天皇、四道将軍の条には、大彦命が里で聞いた少女のわざ歌から、武埴安彦の反乱を事前に予知できたという記事がみられます。古来、歌は不思議な意味を持つものだったのでしょう。
山内光雲は「歌は神からもたらされたものです。歌は預言」と言っています。

[91] Re[90]: ありがとうございました。 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/04/27(Sat) 18:22

> 久しぶりに吉野を満喫できました。
> ますは、お礼まで。

どうもお疲れさまでした。
天気も良かったし、すがすがしく楽しい一日でしたね。
ありがとうございました。

[90] ありがとうございました。 投稿者:みえこ 投稿日:2002/04/27(Sat) 17:24
書き込みは、はじめましてのみえこです。
マルヤさん、神奈備先生、ただいま戻りました。
本日はありがとうございました。m(_ _)m
楽しかったです。たくさん、リフレッシュできました。
久しぶりに吉野を満喫できました。
ますは、お礼まで。
(*^_^*)

[89] Re[88]: Re[86]: Re[85]: Re[84]: Re[83]: Re[82]: 光る井戸の跡 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/04/21(Sun) 07:19
なにがしさん、ありがとうございます。
今はお仕事先が遠いのでお誘いしてもかえって迷惑かといつも思っています。
お仕事で大阪出張の折りでも都合がつくようでしたら、神奈備さんにお願いしてオフ会でもして頂ければと考えています。
また、集まりの機会があればうれしいですね。

[88] Re[86]: Re[85]: Re[84]: Re[83]: Re[82]: 光る井戸の跡 投稿者:なにがし 投稿日:2002/04/20(Sat) 22:15
こんばんは!
おもしろそうですね。私もお仲間に入れていただきたいのですが、私は仕事でマルヤ様のHPにアップされるのをお待ち致しております。マルヤ様、神奈備様お気をつけていってらっしゃいませ。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[87] Re[86]: Re[85]: Re[84]: Re[83]: Re[82]: 光る井戸の跡 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/04/19(Fri) 07:23
早速同意いただきありがとうございます。
では27日(土)、よろしくお願いします。
メール致します。

[86] Re[85]: Re[84]: Re[83]: Re[82]: 光る井戸の跡 投稿者:神奈備 投稿日:2002/04/19(Fri) 06:13
> > 小生も一度行ってみたいと思っています。
> >
> 急な話ですが今週20日(土)又はその次27日(土)に 、よろしければご一緒しませんか?ご都合よろしければご連絡ください。

小生は27日(土)ですとお供できます。
マルヤさんから某巨漢さんに声をかけてあげたらいかがでしょうか。


[85] Re[84]: Re[83]: Re[82]: 光る井戸の跡 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/04/18(Thu) 23:48
> 小生も一度行ってみたいと思っています。
>
急な話ですが今週20日(土)又はその次27日(土)に 、よろしければご一緒しませんか?ご都合よろしければご連絡ください。

[84] Re[83]: Re[82]: 光る井戸の跡 投稿者:神奈備 投稿日:2002/04/18(Thu) 23:09
追加です。
流れ星が落ちた穴のように見えると記していました。
またこれを掘って井光神社の御神体の立石にしたのでは、と著者は推測していました。
小生も一度行ってみたいと思っています。

[83] Re[82]: 光る井戸の跡 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/04/18(Thu) 22:19
>  井氷鹿が出てきたと伝わる「光る井戸」の跡と言われる場所があるそうで, ・・・

神奈備さん、こんばんは。
大変興味深い情報ありがとうございます。
「新撰姓氏録の研究」佐伯有清著/考証篇第四に、

水光神 『大和志料』に「志ニ井光宅址在碇村ト然ラハ『イカリ』ハ『ヰヒカリ』ノ略語ナリ、然ルニ吉野志ニ井光神社ハ吉野山桜本坊ノ鎮守ニシテ井光ノ井ハ同坊ノ後方ニアリト云ヘリ」とあり、また、「井光神社」の項に「桜本坊ノ後ヘニアリ、吉野連ノ祖井光女ヲ祭ル、吉野志ニ拠ルニ同坊ノ後山ニ井光ノ井アリト」と記す。

と以上のようにありました。
「吉野首は加弥比加尼の後なり」ともありますので、「吉野首部連祖加弥比加尼之墓」を見てみたいと思います。
次回吉野方面へ行った折には是非立ち寄ってみます。ありがとうございました。

[82] 光る井戸の跡 投稿者:神奈備 投稿日:2002/04/18(Thu) 13:35
 川上村の井光の井光神社がHP上で紹介されていますが,この辺りについて『古代工人史紀行』深沢武雄著 をよんでいますと面白いことが書いてありました。

 井氷鹿が出てきたと伝わる「光る井戸」の跡と言われる場所があるそうで,井光から約2kmほど林道を東に遡った谷間のひと隅だとのこと。
 円に近いすり鉢形で直径30〜40mの窪地風で,外側はびっしり木立に覆われているそうですが,内側は木がまばらだとか。
 付近の岩場の陰に石柱があり「神武天皇御旧跡井光跡」と刻まれているそうです。
 さらに窪地の西の木立の中に「吉野姥祖首部連井光宅跡」なる石柱。
 また窪地の東には吉野首の墓と伝えられる場所があり「吉野首部連祖加弥比加尼之墓」と刻んだ石柱があるそうですね。
 マルヤさんが未だ行っておられなかったら,面白い情報になりますね。

[81] Re[80]: Re[78]: 丹砂と竈神 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/04/14(Sun) 06:14

儒家、道家、陰陽家などの怪しげ(?)な連中が、占星術的、錬金術的、呪術的なあらゆるものを駆使して皇帝にとりいろうと暗躍していたのでしょうか。
といってもこの時代、かれらは先進の知的文化人であり、最先端のテクノクラットだったのでしょうね。

[80] Re[78]: 丹砂と竈神 投稿者:なにがし 投稿日:2002/04/13(Sat) 21:02
こんばんはマルヤ様。
神仙思想と言うことは道教になるんでしょうか?古来竈はごはんをたくためだけの道具ではなかったと言うことなんでしょうね。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[79] 桜と西行 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/04/11(Thu) 14:40
桜を愛してやまなかった西行は、河内国石川郡弘川の弘川寺で亡くなったといいます。


●願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎのもち月の頃

●仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらわば


2月15日の釈迦入滅の日に桜の花の下で死にたいと願い、仏になった自分を弔ってくれるなら、桜の花を供えて欲しいと願って、その言葉通り文治六年(1190)2月16日弘川寺で西方浄土へ旅立ったそうです。

先月私は3月30・31日と二日続けて弘川寺の桜を見に行きました。
昨日書店の立ち読みで初めて知ったのですが、西行の命日は旧暦2月16日(今の暦の3月30日)とはまったく知らず、偶然西行の命日に行った訳です。
思い出すとその日は絶好の花見日和で辺り一面の花盛り。
鎮守社のある後背の山の中腹に、小さな円墳形の杜になった西行のお墓があって、石の花挿しには枝ごと桜が奉ってありました。
命日を知っていた人が、この歌の西行を想ってお供えしたのでしょうか。
今年の花見は大変印象に残る、いい花見となりました。

[78] 丹砂と竈神 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/04/11(Thu) 08:37

「妖衒三国志/新人物往来社」に「祠竈」について次のようなことが書かれていた。
祠竈(しそう)とは、神仙思想による竈神を祀ることで、・・・
漢の武帝の時代(前159〜前87)、「李少君」という方士は、竈神を祀ると不死になると説いた。
「竈神をまつると鬼神がやってきます。鬼神がやってくれば丹砂を変化させて黄金にすることができます」武帝はみずから竈の神をまつった。・・・

[77] Re[75]: 卑弥呼は丹生都比売か? 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/04/04(Thu) 00:47
神奈備さん、情報ありがとうございます。

>  古本屋にあったので買って見た『日本古代史再見』海士光朗著には,紀北にあった女王国との副題があり,要するに大和南部,紀国伊都郡辺りを邪馬台国に比定した珍しい本でした。

面白そうですね。図書館で見てみます。

>  隣が那賀郡で,九州では那珂郡,紀国の海部郡に相当する糟屋郡や宗像郡と並び方もそっっくりと続きます。

「和名抄」などによると、古代の地名でいう賀美、那珂、資茂という表現は各地にあるようですね。吉野郡にも、宇智郡にもあります。単純な上・中・下のことで、「上地区」「中地区」「下地区」のことでしょうね。

>  この仮説では丹生都比売神をして稲作神と想定しています。
最近は小生も丹生都比売は「朱(丹)の女神」とは言い切れないと思っています。

主題の「卑弥呼は丹生都比売か?」のことですが、「卑弥呼は天照大神か?」という話とも繋がりますね。
以下はまったく小生の想像で何の論拠もありませんが、
ヒミコはヒメミコではないでしょうか。
つまり、卑弥呼=姫神子(姫巫女)で一族の祖神を祀る宗女のことだと思うのです。ですから各部族ごとにヒミコ(ヒメミコ)と呼ばれる宗女が居て、なかには女首長をも兼ねたものが居ても不思議ではありません。
巫女王的立場の大部族の長もヒミコだし、小部族の宗女も同じようにヒミコなのかもしれません。・・・これも謎ですね。

[76] 訂正 投稿者:神奈備 投稿日:2002/04/02(Tue) 21:01
九州の伊弉諾命

九州の に訂正です。

[75] 卑弥呼は丹生都比売か? 投稿者:神奈備 投稿日:2002/04/02(Tue) 21:00

 空海の時代を遡ること500年以前の話です。
 古本屋にあったので買って見た『日本古代史再見』海士光朗著には,紀北にあった女王国との副題があり,要するに大和南部,紀国伊都郡辺りを邪馬台国に比定した珍しい本でした。
 1 伊都国は九州と紀国しか見えない。九州の伊弉諾命、伊都国は一大率が駐在して恐れられていたのですが,それは紀国の伊都郡に女王がいたからと言う趣旨で始まっています。
 隣が那賀郡で,九州では那珂郡,紀国の海部郡に相当する糟屋郡や宗像郡と並び方もそっっくりと続きます。
 この仮説では丹生都比売神をして稲作神と想定しています。

[74] Re[73]: なにがし 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/03/28(Thu) 23:45
> トップページが変わったんですね。てんとう虫が動いているじゃないですか。私もああいうのやってみたいです。ちなみに、あのてんとう虫はマルヤ様のご家族をイメージして4匹なんですか?
>
はい。子供は娘二人で親子4人です。でも、てんとう虫の数は偶然です。
センターリングをしてシンメトリーにしようとすると、大2+小2となりました。

[73] なにがし 投稿者:なにがし 投稿日:2002/03/28(Thu) 17:48
トップページが変わったんですね。てんとう虫が動いているじゃないですか。私もああいうのやってみたいです。ちなみに、あのてんとう虫はマルヤ様のご家族をイメージして4匹なんですか?

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[72] Re[71]: Re[70]: Re[69]: 楠木正成 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/03/27(Wed) 23:37
なにがしさん

> お天気はどうでしたか。山を歩くのって気持ちいいですよね。

幸い良い天気に恵まれました。
きれいな空気を吸って、汗をかいて、そのあとに飲むビールは最高ですね。
女房と下の娘と三人で登ったのですが、よく犬を連れている人と遭います。中にはデブ犬も居て喘ぎ喘ぎ登っているのが面白いものですね。
三人ともその犬には何とか勝てました。

> 司馬遼太郎は吉野から高野山に歩いて登っているようですね。多分空海の上表文の道を行こうと思われたんでしょう。多分大山源吾氏の書かれている道筋だったかと思います。途中道を間違ってとてつもないところも通られたようですが。時間があれば、私も寝袋をもって同じ道を歩いてみたいものです。するならやっぱり夏でしょうか。

そうですね。暑くても夏が私は好きです。
ご存知司馬遼太郎「街道を行く」第八巻に
「熊野・古座街道, 種子島みちほか (豊後・日田街道, 大和丹生川(西吉野)街道) があって、
奈良県西吉野村を通る、県道・下市から城戸線を司馬遼太郎は「丹生街道」と仮に名づけてこの地を通った記事を書いています。

[71] Re[70]: Re[69]: 楠木正成 投稿者:なにがし 投稿日:2002/03/26(Tue) 19:23
マルヤ様
〉先日、楠木氏ゆかりの千早赤阪村から、金剛山へ登山をしました。片道1時間10分かかり、脚力が落ちていることを実感したことでした。

お天気はどうでしたか。山を歩くのって気持ちいいですよね。マルヤ様も神奈備様も神社めぐりをされて、結構歩かれていると思うので、そういった気持ち良さってたくさん味わられておられるんでしょうね。うらやましい。
司馬遼太郎は吉野から高野山に歩いて登っているようですね。多分空海の上表文の道を行こうと思われたんでしょう。多分大山源吾氏の書かれている道筋だったかと思います。途中道を間違ってとてつもないところも通られたようですが。時間があれば、私も寝袋をもって同じ道を歩いてみたいものです。するならやっぱり夏でしょうか。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[70] Re[69]: 楠木正成 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/03/26(Tue) 00:22
なにがしさん、こんばんは。

> 先日海堀氏の事でカキコしましたが、そういえば真偽の程は分かりませんが、楠木正成の妻は九度山の海堀氏の出とか。

南河内では楠木正成は特に人気がありますね。
楠木氏は典型的な山の民の出自とか。奥方が海人族の裔とすれば、山幸彦と海幸姫で理想的な組み合わせかも知れませんね。
先日、楠木氏ゆかりの千早赤阪村から、金剛山へ登山をしました。片道1時間10分かかり、脚力が落ちていることを実感したことでした。

[69] 楠木正成 投稿者:なにがし 投稿日:2002/03/25(Mon) 00:21
マルヤ様
先日海堀氏の事でカキコしましたが、そういえば真偽の程は分かりませんが、楠木正成の妻は九度山の海堀氏の出とか。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[68] Re[66]: 吉野に海部の峰が! 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/03/23(Sat) 02:01
神奈備さん、こんばんは。
>  『日本霊異記 下巻』第六の話。(講談社学術文庫:中田祝夫)
>  吉野山に一つの山寺あり。名は海部の峰と号く。帝姫阿倍の天皇の御世に,云々。
>  とあります。この海部の峰は吉野郡小川荘麦谷村薊岳(あざみ)にあったと言われていますが,未詳とのことです。
小生もこの地名は聞いたことがありません。
>  山奥に海部の名の峰も不思議ですが,これが海神社などの関連するのかどうか,また海部氏が丹砂を採取した氏族であることとの関連が興味部会ところです。
西吉野村夜中(波宝神社の近く)に 「海神社」がありました。今も所在するかどうかは分かりませんが、あるいは海部氏と関連があるかも知れません。
(西吉野村史には記載されています)
古代この地に上陸(南紀か?)した海人族は、沢伝いに鉱脈を求めてこんなところまで遡ってきたのでしょうか。 
>  また『日本霊異記』は紀の国の出身の僧が記述したそうで,紀の国の仏教説話が頻繁に登場するのも面白いのですが,吉野の話もそこそこあるのですが,丹砂や水銀,丹生と言う言葉も出てこないようです。
その頃(9世紀?)には、吉野では丹の生産は減少し、主産地は他の地方へ移っていた?でも疑問は残りますね。

なにがしさん、こんばんは。
「What's 丹生」の掲示板で海堀さんの書き込みを拝見して、興味をそそられていたところです。古代海人族と丹砂や精錬は大いに関係があったのではないでしょうか?
海人族と云いましても「渡来系氏族」と言い換えてもいいと思います(ただし、この列島の90%以上は、元を正せば渡来人といえる?)

[67] Re[66]: 吉野に海部の峰が! 投稿者:なにがし 投稿日:2002/03/22(Fri) 22:58
関係ないかも知れませんが、神奈備様もご存知の九度山の海堀氏は淳仁天皇に仕えた榊山式部が、淡路での港築の功績で「海手」の姓を賜り、後吉野千本桜あたりに堀を作った功績から「海堀」と名前が変わったとか。海堀氏は吉野丹治あたりを領していたと九度山の海堀様は書かれていたかと思います。これもあとの人がみると一見吉野の山なのに、なぜ海堀って海があるの?って思うかも知れませんね。なんか同じような内容かなって思って書きましたが、やっぱりちょっとずれてるかなって最後には思ってしまいました。いらないこと書きましたすいません。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[66] 吉野に海部の峰が! 投稿者:神奈備 投稿日:2002/03/22(Fri) 19:05
 『日本霊異記 下巻』第六の話。(講談社学術文庫:中田祝夫)
 吉野山に一つの山寺あり。名は海部の峰と号く。帝姫阿倍の天皇の御世に,云々。
 とあります。この海部の峰は吉野郡小川荘麦谷村薊岳(あざみ)にあったと言われていますが,未詳とのことです。
 山奥に海部の名の峰も不思議ですが,これが海神社などの関連するのかどうか,また海部氏が丹砂を採取した氏族であることとの関連が興味部会ところです。
 
 また『日本霊異記』は紀の国の出身の僧が記述したそうで,紀の国の仏教説話が頻繁に登場するのも面白いのですが,吉野の話もそこそこあるのですが,丹砂や水銀,丹生と言う言葉も出てこないようです。

[65] Re[64]: アヒルと紋 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/03/18(Mon) 22:13
神奈備さん、ようおこし。

> http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/kamo44.htm
> の中の「カモとアヒル」面白いことが書いてあります。

情報ありがとうございます。さっそく拝見しました。
たしかに鴨族の内でも山城の鴨は天つ神系のようですね。
ちなみに出雲族も、出雲国造が斎祀る神(出雲大社)は天つ神系のようで、丹波の出雲大神宮の神は国つ神系ではないかと思います。

>  それで,アクセスできるようになったら,自由な投稿者として現れたらよかろうとアドバイスしておきました。その内出てくるでしょう。

独特の語り口(文章表現?)に又お目にかかりたいものです。

[64] アヒルと紋 投稿者:神奈備 投稿日:2002/03/17(Sun) 19:34
こんばんは。
http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/kamo44.htm
の中の「カモとアヒル」面白いことが書いてあります。
1.鉱山(主として水銀)関係の仕事をしていた大陸系の氏族である海部系の部族
2.古代文字が見つかっているのが、伊勢の丹生村神宮寺、日光の二荒山神社、下野郡の赤間古墳、群馬県の貫前神社(上野国一宮)、石上神宮
などです。水銀も大きい広がりをもって,この国の歴史を語るのかもしれませんね。

所で,『ほにゃらか』の紋氏ですが,未だにmacは直っていないようです。中古を買う方が安いよとアドバイスしていますが,HPや掲示板には特定の人しかこないことがわかったようで(それもキチガイじみたのしか)興味を示していないことなどで,興味を失ったようです。当たり前の事ですのに,幻想をいだいていたようですね。
 それで,アクセスできるようになったら,自由な投稿者として現れたらよかろうとアドバイスしておきました。その内出てくるでしょう。

[63] Re[62]: Re[61]: Re[60]: 贄持命と丹生とは? 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/03/06(Wed) 22:49
> 武雄は武内宿禰誕生の地・・・
「武雄」は、武内宿禰や甘美内宿禰の父?「武雄心命」所縁の地名ですね。

> 金立は徐福上陸伝承の地で金立神社もあります。
> 藤津郡は水銀の産地のようで丹生神社ぎっしり・・
> ついでですが、五十猛命上陸伝説もあります。
神奈備さん、ありがとうございます。そういうことでしたか。

[62] Re[61]: Re[60]: 贄持命と丹生とは? 投稿者:神奈備 投稿日:2002/03/06(Wed) 08:17
昨年佐賀を歩きました。
武雄は武内宿禰誕生の地とも言われる温泉地です。
金立は徐福上陸伝承の地で金立神社もあります。
藤津郡は水銀の産地のようで丹生神社がぎっしりですが時間の都合で参詣はしていません。
ついでですが、五十猛命上陸伝説もあります。
またゆっくりと行きたいと思っています。

[61] Re[60]: 贄持命と丹生とは? 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/03/05(Tue) 23:01
> 福井県武生市入谷町に鵜甘神社が鎮座、祭神は贄持命です。
> 贄持命を祭神とする神社は奈良県にもルーツらしき九州にも探せません。
> 福井の入谷はイリタニと読むようですが,この北のほうに金立,また北西には丹生郡がありますね。
> 武雄,金立,丹生と並べると佐賀県を思い出しますね。

神武天皇・・・吉野河の河尻に到りましし時、筌を作りて魚を取る人あり・・・これが阿陀の鵜飼の祖・・「古事記」 ということですが、この「河尻」というのは吉野川と丹生川の合流点、つまり丹生川の川尻のことではないかと小生は思うのです。この辺りには阿陀隼人や二見首(隼人)が住んでいたはずで、ここに式内社の二見神社があり、(五條市二見町二丁目)祭神は水波能売命となっていますので、吉野の丹生系神社との関連があるかのようにみえますが、それ以外に贄持と丹生のかかわりは思いつきません。
姓氏録大和国神別に「二見首、富須洗利命の後なり」とあるので阿陀隼人と同祖でしょうか。

> 武雄,金立,丹生と並べると佐賀県を思い出しますね。
ちょっと小生には思いあたるものがありません。お教えください。

[60] 贄持命と丹生とは? 投稿者:神奈備 投稿日:2002/03/05(Tue) 21:27
福井県武生市入谷町に鵜甘神社が鎮座、祭神は贄持命です。
贄持命を祭神とする神社は奈良県にもルーツらしき九州にも探せません。
福井の入谷はイリタニと読むようですが,この北のほうに金立,また北西には丹生郡がありますね。
武雄,金立,丹生と並べると佐賀県を思い出しますね。

[59] 春夏秋冬 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/03/04(Mon) 23:29
信長の十八番、敦盛でしたか?人間50年・・・ではなく現在は人生80年の時代。そこで一生を四季に分けてみました。
【春の季節】 0歳〜20歳まで
【夏の季節】21歳〜40歳まで
【秋の季節】41歳〜60歳まで
【冬の季節】61歳〜80歳(没年まで)
このように自分に都合の良い別けかたをしても、私の場合「秋の季節」でしかも晩秋になりそうです。
秋と言えば収穫の季節ですが、収穫らしいものは未だにありません。
急いで頑張らなければ・・・もう間に合わないか、どうだ・・うーん。

【季節の連想】
春→青春→青→ 3月→木→少年期
夏→朱夏→赤→ 6月→火→青年期
秋→白秋→白→ 9月→金→壮年期
冬→玄冬→黒→12月→水→老年期

58] 「奈良県遺跡地図」4文冊 投稿者:神奈備 投稿日:2002/02/27(Wed) 22:01
堺筋本町のセンタービル3号館に天牛堺書店と言う古書店があり、ここで見たことがあります。
値段はわすれましたが、天理市の東方面を見たのですが、ほとんどめぼしい遺跡はありませんでした。
ないのか未発掘なのか、ここいらが遺跡の怖さですね。

[57] 遺跡 投稿者:なにがし 投稿日:2002/02/27(Wed) 20:49
伊都郡には下市などの様にこれといった遺跡がありません。それだけ伊都郡は時代が新しいと言うことかも知れません。私が下市の遺跡に興味があるのは、伊都郡には遺跡がないので、下市の情報をベースにそれらしきものがどこかにないか山道でもあるいてみようかなあ、なんてとてつもないことを考えているからです。でも年に数回しか戻っていない、それも戻っても自由な時間がなかなかない私にはいつになることやら、また調べるのに何年かかることやら。調べてなにもなかった、なんてなることもあるのですが。

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[56] 遺跡地図 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/02/27(Wed) 00:45
「奈良県遺跡地図」4文冊が大阪府立図書館にありました。【禁帯出】の印しがある本です。
編集は奈良県立橿原考古学研究所、発行は奈良県教育委員会。昭和50年初刊、同59年3月1日改訂発行と奥付にあります。
この本で下社の遺跡の位置確認をしようとしましたが、54の内容と少し違うのです。
地   名:「かの垣内」、「川原手垣内」(下社東200メートルくらい)
種   類:遺跡物散布地
時   代:(未記入)
遺   物:サヌカイト
これ以外にはそれらしい記事は見つかりませんでした。昭和59年4月以降の発見なのでしょうね。そういえば川上村の上社旧社地遺跡のことは全く何の記載もされていませんでした。
この遺跡地図を見ると、奈良県はいたるところ遺跡ばかり、これでは発掘調査はしきれませんね。もしやったとすると何処も彼処も穴だらけになってしまいます。

[55] 下社遺跡 投稿者:なにがし 投稿日:2002/02/20(Wed) 18:03
私は上社よりも下社に非常に興味を持っています。
もちろん、丹生都姫神社に近いこともありますが、下社あたりの
文化・民俗は伊都郡よりも古く感じております。ですから、下社
あたりの民俗をベースに伊都郡の民俗を見ていく必要があるかと
その共通性に期待しております。
下記の情報ありがとうございます。マルヤ様の行動力はすごいで
すね。電話することは思いつきませんでした。すご〜い!!!

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[54] 丹生川上神社・下社の遺跡 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/02/20(Wed) 17:02
電話で奈良県立橿原考古学研究所に聞いてみました。

> >下社の近くからも古代祭祀あとが発見されていますし、
> 「下社の西南200メートルの畑地から6世紀後半の須恵器、土師器壺、杯が出土している・・・下社にかかわる遺物の可能性がある」と日本の古代遺跡/保育社に書かれている。

伊藤勇輔先生は退官されて、直接話は伺えませんでしたが、資料室関係の担当官の方と話ができました。
下社の遺物のことをにお尋ねしたところ、その事実はあるそうです。
橿原考古研の遺跡・遺物調査員が発見したと思うとの話ですが、各地を廻り遺物を発見しても、なかなか発掘の手が回らないとのことでした。
「上社」のようにダムの底に沈んでしまうようなことでもなければ、重要な発見ができる相応の確証がないと発掘調査の順序は後送りになるそうです。

[53] 丹生川上神社・下社の遺跡 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/02/20(Wed) 15:50
>下社の近くからも古代祭祀あとが発見されていますし、
「日本の古代遺跡 6.奈良東南」奈良県立橿原考古学研究所 伊藤勇輔、奈良県教育委員会 楠本哲夫共著/保育社の239頁に、
「下社の西南200メートルの畑地から6世紀後半の須恵器、土師器壺、杯が出土している・・・下社にかかわる遺物の可能性がある」と確かに記述されているので、
下市町観光文化センター2F、図書館併設の遺跡文化財展示コーナーに展示中の中にそれが含まれているのかと私は思っていましたが、実は少々違うようです。

下市町教育委員会で聞いたところ、下市町では「阿知賀岡峯古墳」、「野々熊古墳」の二つの古墳が発掘されていますが、野々熊は盗掘にあっており、めぼしいものは殆んどなく、展示しているのは主に阿知賀岡峯古墳の出土のものだそうです。それで下社の遺跡について聞いたのですが、「知らない、聞いていない」ということでした。念のため下社にも問い合わせをしましたが、やはり知らないということです。
ちょっとどういうことか判りかねます。「橿原考古研」の佐藤先生に聞くほかないと思っています。
ちなみに阿知賀岡峯古墳は下市町阿知賀(吉野川の左岸、標高160メートルの尾根の先端)にあって下社とは随分離れています。ここで発掘されて公開展示されているのは、黒漆塗太刀、鉄刀、刀子、鉄斧、鉄矛、須恵器多数。

[52] 「式内社のしおり」を読んで 投稿者:なにがし 投稿日:2002/02/16(Sat) 21:54
主題の件報告致しますと。発見物より
1)丹生川上神社上社境内地は奈良時代後半〜平安時代前期の祭場であったことがわかった。
2)社は平安時代末期〜鎌倉時代初頭ごろに造営されたことがわかった。
3)今回の調査で丹生川上神社上社=丹生川上社として直結はできないとの事です。

上社も周りの風景など非常に見とれるようなところですが、あんな山の奥に奈良時代には人が住んでいたというのは改めて感心させられました。奈良時代に何をして暮らし、何を主食としていたのか。興味のそそられる場所ですね。ただ、丹生都姫と関係があるかと言えばないような気がします。私の丹生都姫のイメージは水銀もなくはないのですが、稲作の神、水の神といった生活に直結した神様のイメージの方が強いので、上社のようなところでは稲作ができないのではと思ったので丹生都姫とは繋がらないかなと(丹生都姫をある特定の神様と考える必要はないのですが)。
私は「丹生」は民俗的文化だと思っていますので、丹生都姫と関わり無くても、水銀などの丹生という文化があったところには丹生という地名が残っていたり、丹生神社が残っている可能性があると私は思っております。
ちなみに、丹生大明神告門の丹生川上は下市あたりか伊都郡の筒香あたりと見ています。これは丹治氏と丹生氏との関わりを考えると、明日香以東の丹治氏の痕跡をさらに調べないといけないのですが、今のところ痕跡がうかがえないので、丹生氏の活動範囲を考えると、明日香が東の端と思えるので、その範囲で丹生川は吉野と伊都の2つという事になります。

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[51] Re[50]: 式内社のしおり 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/02/16(Sat) 09:04
なにがしさん、こんにちは。さすがに行動が素早いですね。
「下社遺跡資料」の件は分かりました。
吉野方面はよく行くので、もし何か資料らしきものが入手できるようでしたらお知らせします。