新ブロック [18] :2013年1月~2013年6月まで






古代部族【訂正】 投稿者:やさか  投稿日:2013年 6月30日(日)

●間違いに気付きました。訂正いたします。

×【間違い箇所】古代部族⑦の中段。以下の部分
古い時代に来た者達を[今来(いまき)]或いは[新来(あらき)]などと呼ぶ。
例えば「今来伎人(いまきのてひと)」とは、新しく渡り来た職人のことです。

○【訂正後】
古い時代に来た者達を[古渡(こわたり)]と言い、
その後に渡来した者等を[今来(いまき)]或いは[新来(あらき)]などと呼ぶ。
例えば「今来伎人(いまきのてひと)」とは、新しく渡り来た職人のことです。
 

古代部族⑦ まとめ

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 6月30日(日)
  古代、集団で日本列島に渡ってきた人々はかなり多くあったと思われます。
新天地を求め、東へ東へと理想の国造りを夢見て一族で移住してきたのでしょう。
また、侵略者に多くの民が殺され、国を略奪された王族や貴族らが、残った一族や配下の伎人(職人)や、
一部の下層民までも引き連れて渡り来たのもあったでしょう。
列島に辿り着くと原住民を討ち従えて、先住の支配者と交戦して殺し、殺されした戦いの歴史があった事でしょう。
戦争の勝利者は、敗者で生き残った者達を奴隷階級や賤民に貶め、隷属させることもあったはずです。

古代の日本列島には、先ず原住民がいた。
そこに、次から次へと周辺諸国から人々が渡来してきた。
古い時代に来た者達を[今来(いまき)]或いは[新来(あらき)]などと呼ぶ。
例えば「今来伎人(いまきのてひと)」とは、新しく渡り来た職人のことです。

日本には多くの渡来人達が侵略・移住してきたが、日本に定住するようになると、
それぞれの先祖を祀るための祠をつくりました。神社の原形です。
現代にも残る、歴史の証人とも言える神社を見てみると、
その神社名や祭神から、その地区の住民の先祖が大体判るものです。

もちろん、原住民だった人達も神を祭っていたと思われます。
彼らは主に自然を崇拝し、日・月・星辰を崇め、秀麗な山に神が住むと信じました。
神奈備・磐座・神籬も、自然崇拝からきた神の拠りどころと考えられたからでした。

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●『神と女の古代』楠戸義昭著/毎日新聞社 より引用


古代 人は神とともにあった

すべてのものに人は神の声を聞く

風に祈り 雨に感謝し 嵐におののいた

恵みと災いは紙一重 その意思は神にあると信じた

石にも神は宿り 木にも聖霊は棲む

小さな昆虫 地をはう蛇にも

神の摂理はあるとして敬う

人は自然に生かされていた

その自然におのずと頭を下げ

天と地 または海 山 川

そこにあるすべてのものを祭った
 

古代部族⑥ その他

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 6月29日(土)
  ここでは、「胡族」「南洋族」「その他部族」に分けてみます。

●胡族の中には、中国西域から中東の地域の人たちまで含めます。
●南洋族の中に、東南アジアや南アジアの人々も入れます。
●その他部族の中に、オセアニア地域、ユーラシア大陸北方から来た人達など、
 その他の様々な地域の人々を入れておきます。

日本人は、DNAから見るかぎり、実に多くの人種が混血した民族と考えられます。
これらの人々が、戦争や利害関係で結びつき、或いは排斥するなど、
婚姻や同盟で更に多くの部族(支族・氏族)を形成していったに違いありません。
戦争に勝利した部族は、支配下に置いた相手部族を、奴隷や下層民に落し使役したことでしょう。
日本列島に渡り来た集団は、まず進入を拒む先住民を討ち従えた。
更に後からやって来た侵入者たちは、先住民を討ち滅ぼして、そこの支配者に成り代わり新たな王国を築くなど、
古代日本の歴史は、原住民と渡来系各部族同士の政権争いだったと考えられます。
単純に言えば、[原住民]×[古渡人]×[今来人]の対立の歴史でもあると思えるのです。
 

古代部族⑤ 漢 族

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 6月28日(金)
  ここでいう「漢族」とは、古代日本に渡り来た漢民族に所縁の人たちのことです。
史書に記載されているものでは、『日本書紀』応神天皇14年春2月の条で、
弓月君の奏上に応え、天皇が葛城襲津彦を遣わすなど手を尽くし、
16年に弓月の民を迎え入れたことが記されています。
弓月君は秦始皇帝の子孫とされ、その時帰化した120県の民は2万人以上になるともいいます。
また弓月君は秦氏の先祖ともいわれ、彼等の末裔らは日本全国に増え広がったと考えられます。
この『紀』の記事以外にも、中国から日本に渡り来た人人は多数いたことでしょう。

他にも、徐福(徐市)が始皇帝の命令で不老長寿の霊薬を求め、
数千人の人々と共に日本にやって来たとする伝説もあります。
中国の史書には次のように見えます。
――『史記』「秦始皇本紀二十八年」――
「齊人徐市等上書言 海中有三神山 名曰蓬莱方丈瀛洲。僊人居之。請得齋戒 與童男女求之。於是遣徐市発童男女数千人。入海求僊人。」

●よろしければ、当方で書いた関連の物語を参照してみてください。
『真朱の姫神』
「黎明編」 http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/reimei_001.htm   
 

古代部族④ 朝鮮族

 投稿者:やさか 投稿日:2013年 6月27日(木)
  ここで言うところの「朝鮮族」とは、古代に朝鮮半島から日本列島に渡り来た人人を言います。
主に朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)に住んでいた人達で、弁韓諸国(伽耶・加羅・任那)の人も含みます。
日本人の凡そ4分の1は、朝鮮半島に先祖のルーツを持っていると思います。

例えば『記』『紀』に登場する人物の中では、
雄略天皇は高句麗系の人。
天智天皇は百済系の人。
天武天皇は高句麗系あるいは新羅系の人。
持統天皇は新羅系の人。
……というように私はみています。では、何故そう思うかですが、

●雄略天皇については、その即位宣言ともとれる、巻頭を飾る『万葉集』の歌に
「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ…」というのがあり、
原文では「籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持… 」と表記されていて、
このうちの「籠毛」はコモまたはコマで主に高句麗を意味するらしいので雄略は高句麗系と思われる。

●天智天皇については、百村江の戦で国を挙げて百済を支援した。百済王族・高向王の子であるらしい。
 等々のことから天智は百済系であろう。

●天武天皇については、崩御後、明日香の桧隈大内陵(ひのくまおおうちのみささぎ)の葬られたことから、
 天武は高句麗系であろうと判断。「ひのくま」とは日本の狛(高句麗)族の意か。

●持統天皇については、親新羅政策をとった事。天武の喪を知らせる使者を新羅に送ったこと。
 新羅が日本に朝貢したことなどから持統は新羅系と思われる。

そして天智・天武・持統に関しては、『日本書紀』が伝えることとは違い、
天智と天武は兄弟ではなく、天智・持統に関しても父子では無かったと筆者は見ています。
古代の日本には、朝鮮三国の子孫たちの政権争いが深く絡んでいたのではないでしょうか。
 

古代部族 ③アイヌ族

 投稿者:やさか 投稿日:2013年 6月25日(火)
  アイヌとエミシ、そしてクマソ、ハヤトの関係は皆同族ではないでしょうか。
よく判らないところもありますが、筆者は以下のように考えています。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「彼らアイヌ族?」は、呼び方はそれぞれ違うが日本列島の原住民ではなかったか。
すなわち、この列島に進入した渡来系征服者の支配下になることを拒み、
北へ北へと(列島では東北方向/鬼門)逃れて行った者達は「エミシ」と呼ばれた。そして、
南へ南へと(列島では西南方向/裏鬼門)逃れて行った者達は「クマソ」又は「ハヤト」と呼ばれた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

アイヌ人と琉球人の血液から分析したDNAと、すでに判っている本土日本人のデータと比べますと、
共通点が多く遺伝的に最もアイヌ人に近いのは琉球人であること、
そして縄文人のDNAと非常に近いことが東大のグループによって80年代に証明されているようです。
また、本土の日本人は韓国人と遺伝子が近いことも分かっているといいます。


一方、2001年に放送されたNHKスペシャル「遺伝子」第三集「日本人のルーツをさぐる」によりますと……
ミトコンドリアDNAのタイプ別分布は以下のようになっています。

●日本人固有のタイプ: 4.8%
●韓国に多いタイプ :24.2%
●中国に多いタイプ :25.8%
●アイヌに多いタイプ: 8.1%
●沖縄に多いタイプ :16.1%
●その他      :21.0%
―――――――――――――――
 合 計       100  %

なんと!日本人に固有のタイプ(日本人だけに見られるDNA)は5%未満しかないのですね。
この表から、批判を承知で大ざっぱに日本人のタイプを無理に四分割すると以下のようになります。

●原住民系25%、 ●韓国系25%、 ●中国系25% ●その他25% となります。

 言うまでもなく、アイヌ族(蝦夷・熊襲・隼人)は、原住民系に入れています。
 

古代部族 ②吉野三族

 投稿者:やさか 投稿日:2013年 6月24日(月)
  ●日本人のルーツを考えようと思い、列島に住んだ古代部族について書こうとしています。
 でも、確かな文献資料や考古学に基づいた検証ができていませんので、
 筆者の想像や偏見に依るところが多いことを、申し述べておきます。
 この掲示板を見られた方で、ご意見がある方は
「それは違うのではないか。正しくは○○○と思う」等々書き込んで、ご教示いただければ幸いです。


古代吉野の三部族とは、『古事記』と『日本書紀』で言うところの次に示す部族です。
/以下それぞれ『記』『紀』と示します。(ここでは『記』の神武天皇巡幸順に記述)

1、贄持之子:『記』では左のように表記し(にえもつのこ)と読み、阿陀の鵜飼の祖と謂われ、
              『紀』では「苞苴担之子」と書かれている。
  中国南海岸の雲南省辺りから筏で黒潮に乗り、南紀に渡り来て吉野川周辺に住みついた漁労民か。

2、井氷鹿:『記』では左のように表記し (ゐひか)と読み、吉野首の祖と謂われ、
      『紀』では「井光」と書かれている。
  井氷鹿と石押分之子には「生尾」つまり尾があったように書かれているが、まさか本当に尾があった訳ではなく、
  鉱山労働者が腰に付ける「引敷」のことだろう。
  中国の北西部の辺境に「犬戎」という部族がいたが、その先祖は犬だとする伝説があった。
  つまり、井氷鹿や石押分の出自は「犬戎」ではないか。

3、石押分之子:『記』では左のように表記し(いはおしわくのこ)と読み、吉野の国栖の祖と謂われ、
        『紀』では「磐排別之子」と書かれています。
  こちらの部族も「生尾」とあるので、これも採鉱民だろう。後にツチグモなどと呼ばれた。


●筆者の考えは「吉野の古代部族」にまとめています。参照ください。
        http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/kodaibuzoku.html
 

古代部族 ①出雲族

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 6月22日(土)11時15分4秒
  「出雲」とは、ふつう現在の島根県出雲市辺りの地名のことと考えられています。
そしてこの地には有名な「出雲大社」がありますが、1970年以前は「杵築神社」又は「杵築大社」と呼ばれていたようです。
ところが、京都府亀岡市千歳町に「出雲」という地名があり、ここには「元出雲」と呼ばれる「出雲大神宮(出雲神社)」があります。
また、奈良県桜井市にも「出雲」という地名があり、「十二柱神社」があって、地元では相撲で有名な野見宿禰塚があったと言います。
『日本書紀』垂仁天皇七年秋七月七日条によりますと…
天皇は群臣の提案によって当麻蹴速と野見宿禰を戦わせることにし、その日のうちに出雲の野見宿禰を呼んだというような記事があります。
この記述から考えますと、当麻邑と出雲邑は案外近くだったように判断できるので、
本来の「出雲」という地は現在の奈良県桜井市の出雲だったかも知れません。

私は、自作の『もう一つの大和物語・真朱の姫神』の中で、
「出雲大社と出雲大神宮の関係は、亀岡の出雲大神宮の方が元出雲と云われてその歴史は古く、イツモ族の元宮だ。このイツモ族は元々、吉野・熊野山系の山の民であった。その一派が吉野から丹波地方へ移住した。更に彼ら一派は天孫族に追われ、杵築地方へ逃れて行った」としました。

●写真は桜井市出雲・十二柱神社
 

日本ダービー(続)

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 5月26日(日)
  日本ダービーが終りました。
勝ったのは①キズナ、2着に⑨エピファネイア、3着は③アポロソニックでした。
馬連は01-09番で、1番人気と3番人気馬が来て、まずは順当な結果と言えます。
1番人気の馬が勝ったのでファンの予想通りといえばその通りですが、
驚かされたのはキズナの強烈な末脚でした。
凄い追い込みをする馬だとは前走のレースを見て分かっていたのですが、
今回は2,400メートルだし、レースのペースも若干遅くなると見ていたので、
後方に位置取ったキズナでは差しきれないのではないかと思っていたのです。
レースは前半の1,000メートルが60.3秒で、良馬場としてはスローぺースといえるものでした。
三角付近でキズナは最後尾から3、4番手でしたので、この時点でキズナは無いと思いました。
このペースではとても届く位置ではないと思ったからです。
ところが、この馬の末脚は桁違いでした。最後の直線数百メートルだけで一気に差し切ったのです。
上がり3ハロンは何と33.5秒もの驚異的タイムだったのですから他の馬ではとても勝てません。
本当に凄い馬がでてきたものです。
フランスの凱旋門賞に登録しているとか。きっと活躍してくれると楽しみです。

●前掲の【大穴作戦】の訂正
 …行った行ったの前残り 3-13の⑬は⑫の間違いでした。
  逃げ馬二頭の前残りを言っているので3番と12番の馬のことでした。
 

日本ダービー

 投稿者:やさか 投稿日:2013年 5月24日(金)
  明後日の日曜日、5月26日に日本ダービーが開催されます。
この華やかな競馬の祭典は、正式には「東京優駿競走」と言い、今年で第80回にもなるそうです。
三大クラッシック・レースと言えば皐月賞、ダービー、菊花賞ですが、中でもダービーは別格です。
私は、キーストン・ダイコーター1・2着の頃から、ダービーは欠かさず見ていますので、
40年以上も見てきたことになりますが、一番印象に残っているのが昭和43年のダービーです。
毎年この時期になると、この第35回目の勝ち馬、タニノハローモアのことが思い出されます。
「天翔よハローモア」 http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/info/tanino.html

さて前置きはこれ位にして今年のダービーの馬券予想をしておこうと思います。

◎本命: ⑧ロゴタイプ
○対抗: ②コディーノ
▲単穴: ①キズナ
△着穴: ⑬マイネルホウオウ、 ③アポロソニック

【私の馬券】8-13の馬連一本買い
【大穴作戦】確率は極めて低いのでお勧めできないが…行った行ったの前残り 3-13の馬連はどうか?

【注意】キズナの追い込みは強烈だが、今回は届かないのではないかと思う。
     やはり好位差しのロゴタイプ、コディーノ、エピファネイアに安定感。
 

桜満開

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 4月 3日(水)
  南海高野沿線の桜は満開となっています。
初めの写真は、南海高野線・大阪狭山市駅構内の写真です。この駅は以前「狭山遊園前」という駅名でした。
ところが「狭山遊園」が平成12年に閉園となったため、それ以降現在の「大阪狭山市駅」となりました。
すぐ近くの狭山池は『古事記』『日本書紀』にもその名が出てくる日本最古のため池で、
ここではつい近年まで「ワカサギ釣り」が楽しめました。
また、この池のほとりにあった遊園地は当時遊具も充実していて、夏は円形に流れるプール、
冬はスケートリンクと、南大阪では大人気の遊園地だったのです。
私も昭和50年代は子供達を連れてよく行ったものでした。
現在は当時の面影は全くなく、跡地は戸建て住宅やマンションに様変わりしています。
家族連れで大賑わいだったこの駅も、日曜日だというのに写真のように閑散とした有様です。
駅員も不在の自動改札となって寂しいかぎりです。
狭山池の周辺は公園として整備され、平成13年3月には「大阪府立狭山池博物館」も開館しています。

●撮影:平成25年3月31日
●撮影機材:カメラNikon S2/ Nikkor SC 5cm F1.4/ フィルムKODAK GOLD100
●露出:シャッター125分1秒、絞りF8
●映像処理:カメラのキタムラでCDに変換
 

セコニック露出計

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 3月26日(火)
  PCで写真を扱う時はデジカメの方が便利なので旧式カメラを使うのはどうしても少なくなってきます。
でも機械式のフィルム・カメラの方が撮影する楽しみは大きい気がします。

露出を決めてシャッターを押す。これが楽しいのです。
露出とはつまり露光量のことなので、絞り値とシャッター・スピードを決める訳ですが、
写真を撮るだけなら、以前からの経験だけで露出は決められます。
しかし制作意図に沿った写真を正確に撮ろうとすると、やはり露出計が必要となってきます。

写真は55年前の機械式フィルム・カメラと、最近通販で見付けて購入した露出計です。
カメラはNikon S2、露出計はSEKONIC/L208です。
今でもこのような旧式の露出計が作られているのですね。
旧式とはいえ、この製品は入射光・反射光の両用測定ができるようになっています。
それに測光範囲が格段に広くなっているのです。

これでまた楽しみが増えました。
ただ、旧型フィルム・カメラで撮影すると、銀塩フィルム代やCD落し代など出費が増えます。
そして撮影結果がすぐ判らない。でもこれは逆に待つ楽しみでもあります。

 

西除川を散策しました

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 3月22日(金)
  西除川は、河内長野市の天野山を源にして北流しています。
河内長野の北部から富田林市に入る辺りから急に水質が悪化して
殆ど魚類は棲めないほど流れは汚濁して底が見えないような状態になっています。

1枚目の写真は河内長野北部を流れる西除川ですが、
この辺りの流れはまだ美しく魚類も棲息しています。
2枚目の写真はマゴイのようです。この川で私は初めてみました。
もう少し暖かくなれば、オイカワ(ハヤ、ハイジャコ)を多く見ることができるはずです。
3枚目はカルガモの夫婦?のようです。時々白鷺も飛来して来ています。
この川はここから4~5kmほど北へ流れて狭山池に流入しています





 

昼の銀座

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 3月11日(月)
  1枚目の写真は、銀座4丁目交差点にある「Le Cafe Doutor」 のテラスから銀座三越の方向を見た眺めです。
この日の都内はポカポカと暖かく、テラスでサンドイッチと珈琲の遅い朝食を楽しみました。
道行く人々はほとんどコートは身につけていませんでした。

2枚目の写真は、高級クラブがひしめく銀座・並木通りです。
バブルが去った今でも、夜はパーキングスペースに高級車が並び、華やかにネオンがきらめき艶めいているのでしょうか。
でも、もちろん私などが行けるような酒場ではありません。



 

新宿の昼

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 3月11日(月)
  写真は昼の新宿・花園神社です。境内の桜は、つぼみが大きく膨らんできていました。
[御由緒]によりますと、徳川氏が武蔵国入国以前からの鎮座で、
「その昔大和の吉野山より御勧請(おうつし)された」と伝えられているそうです。
元の社名は「稲荷神社」で、1800年代から「花園稲荷神社」となり、
1965年に社殿を鉄筋コンクリート造りとした時より「花園神社」に改名したといいます。

 

新宿の夜

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 3月10日(日)
  週末に東京・新宿で飲みました。
新宿と言えば私はすぐに青江三奈の
「新宿サタデー・ナイト」を想い浮かべます。
http://www.youtube.com/watch?v=GgG5h4dbh9Y

大阪に帰ってから早速YouTubeで聴いてみました。
雰囲気たっぷりに歌う青江三奈のブルースには聞き惚れてしまします。
元クラブ歌手だったそうですが、
まず歌が上手い、ハスキーで魅力的な声、そして何より色っぽくて魅了されます。

●写真は夜の新宿、歌舞伎町です





浪速恋しぐれ

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 3月 2日(土)
  とてもいい雰囲気の二人、坂本冬美と五木ひろし。
まず、このデュエットを聴いてください。
http://www.youtube.com/watch?v=nfYe_6e5Y5s

近頃私はパソコンにスピーカーを外付して、“YouTube”で昭和の歌謡曲を時々聞いています。
一昔前、スナックなどで人が歌っているのを聴いたり、自分で歌いもした流行歌です。
聞いていると、あらためて「昔の歌はいいな」と思います。情緒があるのです。
特にフランク永井、青江三奈の歌声が私には深く心に響きます。
比較的若い歌手の中では、坂本冬美の歌声がとても好きです。

そこで「浪速恋しぐれ」ですが、元歌は都はるみ&岡千秋だったと思います。
しびれるほど聴かせてくれる演歌でしたが、
それにも増して、坂本と五木が歌うこの「浪速恋しぐれ」は特別素晴らしいと思いました。
一度じっくり聴いてみてください。
 

「マディソン郡の橋」とNikon F

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 2月21日(木)
  映画「マディソン郡の橋」を、TSUTAYAで借りてきたDVDで観ました。
1995年9月公開されたクリント・イーストウッド監督・主演のアメリカ映画ですが、劇場版が公開された当時は興味がわかず鑑賞していませんんでした。
内容は、1965年秋のアイオワ州マディソン郡の農場を舞台にした大人のラブストーリーです。
恋の当事者の母が二人の子どもに宛てた遺書がきっかけとなって、成人している兄妹が母が残した手紙と日記を読むことからこの物語がはじまります。
1930年生まれのクリント・イーストウッド65歳の作品ですが、
さすがに演技力は磨きがかかっていますが、私が中学生の頃よく見ていたTV西部劇「ローハイド」での若々しい姿があまりにも印象濃く残っているためか、あまりにも年老いているのでちょっぴりがっかりしました。でも相手役女優のメリル・ストリープの演技は光っていたと思います。

さて、映画そのものの感想は置き、何故この映画を見る気になったかですが、
それは、次の「Nikon F」のコマーシャル動画を目にしたからでした。

●YOUTUBE動画 http://www.youtube.com/watch?v=Ahv15I1mUig&feature=player_embedded

「マディソン郡の橋」で、プロカメラマンのクリント・イーストウッドが演じるところのロバートが愛用するカメラは「Nikon F」だったのです。
私が心憎い演出だと思ったのは、ロバートの相手役の人妻フラン・チェスカ(Francesca)
イニシャルは『F』。このFのイニシャルはニコンカメラのペンタ部分に印象深く刻まれています。

最後にこの映画の感想を少々…。
原作ではもっと自然にストーリーが展開しているのかも知れませんが、
私には少なからず不自然に思えたシーンがありました。
例えば、夫と愛を確かめ合っていた同じベッドで人妻フラン・チェスカが、
ロバートと愛を交わす場面とか、一緒に同じバスタブに入る感覚も私は不自然に感じました。
夫や子供のある主婦が、家族と暮している家での不貞な行為に、
人妻としての夫に対する背徳の恐れや迷いなどが伝わって来ませんでした。
またカメラマンのロバートも、人妻の家での振る舞いとしては常識に外れるように思われました。
実際ラストシーンの雨中のクリント・イーストウッドが演じるロバートの顔姿は、
残念ながら、とても設定50歳前半の魅力的な中年男性には見えませんでした。

映画で使用されたカメラは、画面をよく見ると「Nikon F」のモータードライブ付。
レンズは広角 Nikkor-S Auto 35㎜ F2.8で、レンズフードを付けていました。
フィルムは黄色い小箱が見えたので、KODAKのライカ判のようでしたが…
ロバートのカメラの扱いはぎこちなく、とてもプロカメラマンとは言えないようなお粗末さでしたし、
撮影中一度もモータードライブ音はしていませんでした。
ここの撮影状況では、初めからモータードライブは必要が無かったと言えます。(重いので普通は取り外しているはず)
それに、フランチェスカの家に入った際、彼女に許可を得て大量のフィルムを冷蔵庫に保管するシーンがありますが、
ピックアップの荷台にしまっていたものを、今更冷蔵庫に入れるのも実際はおかしい。
アメリカ映画は詳細に見ていくと不自然なシーンが一杯ありますね。
 

お伊勢さんの旧正月

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 2月11日(月)
  昨日2月10日、旧正月朔日に伊勢神宮にお詣りしました。
整備工事の進む伊勢市駅前から外宮に向かう参道は参詣者で一杯。
外宮正宮をはじめ別宮も、参拝者の長い行列ができていました。

内宮は勿論、大勢の参拝客で参詣道路には車があふれ、
月読宮前辺りからは殆ど動かないような有様でした。
今年は御遷宮の年で特に参詣者が多いように思われます。
神宮さんのお陰で「おかげ横丁」も大繁盛の賑わいでした。

「内平らかに外成る」、「地平らかに天成る」と、
史記、書経からひかれたとされる平成の年号に込められた願い通り、
平和で穏やかな世の中がいつまでも続くよう願わずにはおれません。







 

犬飼山/丹生・狩場明神社

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 1月21日(月)
  奈良県五條市の犬飼山転法輪寺へ行きました。
境内は10年程前に参詣した時とは様子が一変していました。
丹生明神社・狩場明神社も彩色鮮やか改築されたようで、
対となった両明神社の前には、白黒二頭の犬の石像が
社殿の護りについていました。

駐車場横には「高野山発祥の霊場」と書かれた大看板が掲げられていました。
●写真:左/丹生明神社、右/狩場明神社





 

謹賀新年

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 1月 3日(木)
  あけましておめでとうございます。
私の初詣は、三箇日の間に氏神さんと産土さんへ参拝します。
そして住吉っさん(住吉大社)へは1月中に、神宮へは旧正月(今年は2月10日)にお詣りするようにしています。
私が住む地域の氏神さんである旧小山田村の鎮守住吉神社と、故郷の産土さんの波宝神社は祭神が同じ。
もちろんのことですが住吉大社も住吉三神と神功皇后なので同じ祭神となります。

今年も住所地の鎮守さんの住吉神社と、故郷の産土さんの波宝神社へ初詣に行きました。
写真は、波宝神社の本殿の御神饌です。(背景は海に三羽の鶴と太陽の壁画)

[波宝神社壁画]参照:「いこまかんなび」さん
http://www.geocities.jp/iko_kan2/hahou-nitsyoku.html
私、やさかも全く気付いていなかったし、また知らなかったのですが、
「この壁画は日食画である」と最初に発見してネットで公表して教えてくださったのは
いこまかんなび・原田修氏でした。ありがとうございました。