新ブロック [16] :2012年1月~2012年06月まで


祈らなくてよいのか

投稿者:やさか 投稿日:2012年 6月19日(火)
  初めて靖国神社に参拝いたしました。
以前より是非ともお参りさせていただこうと思っていながら参詣できてなかったのです。
境内には「遊就館」という建物があって、靖国神社に鎮まります英霊のまごころを伝える
史・資料が展示されています。また映画も上映されていて靖国神社や英霊に係わる
映像をみることができます。
広大な展示館には大小様々な展示物があり、映像ホールも二つあって、
一通り見回るだけでも数時間かかります。
展示品には、先の大戦で亡くなられた方々の遺書や形見の品が多くありました。
愛する妻や子、両親に遺した若い兵士たちの遺書は、読み進むうち涙をこらえられませんでした。


●ある若い特攻隊・航空兵の遺書(展示の現物は、端正な筆跡で墨書されています)
----------------------------------------------------------------------------------------
戦があり、いくつもの別れがありました。
防人たちの別れの言葉がそれぞれにありました。

「妻よまだ見ぬ我が子よ、行ってきます。生来不器用にして、
はかばかしい言葉は残せぬが、つきせぬ想いは胸に張り裂けるほど。
妻よ、君のために、生まれ来る小さき命のために、緑の故郷を
背に荒野へと向かいます。親を頼む。子を頼む」

「君に秘めた想いを告げぬまま、僕はあの大空を目指します。
無骨な戦闘服に包んだ思いのやわらかきを君よ知るや。
さようなら。ありがとう。君に逢えてよかった。逢えなければ
僕は恋を知らぬままだった」

「ふたりきり寄り添って生きてきた妹よ、人形をありがとう。
小さな手でこしらえた人形は戦闘服の背中にひっそり縫い付け
ようね。特攻する時に君の人形がこわがらぬように。嫁ぐ姿を
父親がわりに見られぬ兄を許しておくれ。幼き妹よ。泣くな。
元気で幸せに生きておくれ」

「拝啓母上様。笑顔でうち振る日の丸の、小旗のその陰で、
胸のうちなるすすり泣き、わたくしは聞いていました。
生んでくださってありがとう。あなたに頂きし命ゆえ、
あなたを護るために使います。
息果てるその間際には、母上様の名を叫びましょう。
お母さん!と」
---------------------------------------------------------


靖国神社へお詣りするもよし
お詣りせざるもよし
あるいは 氏神さまへのお詣りもよし
家の仏壇前でよし ただ静かに手を合わせて祈りたい

先の大戦で亡くなった方々すべての御魂に
慰霊と感謝の祈りをささげたい
今も英霊は 日本の行く末を案じ
列島に結界をめぐらして
安寧を護っていてくれる

いや 日本だけではなく
世界和平を願う英霊たちの思いが
日本に60年余の平和をもたらせた
あらためて 心からの祈りをささげたい
 

小雨にけぶる有楽町

投稿者:やさか 投稿日:2012年 6月18日(月)
  せめて一度だけでも、行ける内に行っておこうと思いながら未参拝だった靖国神社に参詣しようと
先週末に何十年ぶりかで東京方面へ向いました。

土曜日は鎌倉に行き、同様に参詣したことがなかった鶴岡八幡宮などに参拝。
夕方東京へ移動して、翌日早朝から歩いて皇居、そして靖国神社にお参りする予定で、
有楽町のホテルに宿泊しました。
そのホテルの22階客室からの眺めが下の写真です。
有楽町といえば、私はフランク永井の歌をすぐ思い出します。
甘いメロディーと、彼のソフトなバリトンは忘れられません。

YouTube:「有楽町で逢いましょう」
http://www.youtube.com/watch?v=7Nog3QNmCq4

ちなみにこの歌は、そごう百貨店が東京出店計画の際、有楽町に目を付けて
界隈の高級化キャンぺーンの一環として作られた歌だともいわれます。
有楽町への出店は大成功で、1957年5月の開店初日は雨にもかかわらず30万人の来店客で大賑わいだったそうです。
開店当初からこの曲はCMソングとして使われ続け、後の不況で2000年9月に閉店する時にも
店内にこの曲を流してフィナーレとしたそうです。
跡地はビックカメラ有楽町店となっていて、下の写真では有楽町駅左側(西側)に少し見えています。
シロヘビの蛇行のように見えるのは新幹線の車両が行き交うところです。



 

鶴岡八幡宮に参詣

投稿者:やさか 投稿日:2012年 6月18日(月)
  鎌倉駅前から観光客の傘の花が連なる中、鶴岡八幡宮に参詣しました。
さすがは元源氏の氏神で関東総鎮守とも言われたお宮さんですね。
雨降りにもかかわらず大勢の参拝客で賑わっていました。
おりしも舞殿では結婚式の真っ最中で、境内ではもう一組、挙式に向かうカップルにも逢いました。

参拝の後、江ノ電に乗って江ノ島の方に向かう路線は、手が届くほどの近くまで民家が迫っています。
小雨にけぶる鎌倉は、紫陽花がその艶やかさを競うように咲き誇っていました。


 

本日は晴天なり

投稿者:やさか  投稿日:2012年 6月 1日(金)
  本日六月朔日、丹生川上神社下社・例祭にお詣りしました。
今日は朝から清々しい初夏の風が頬を撫でる絶好のお祭り日和でしたが、
それもそのはず、今日は丹生の川上に「祈晴の白馬」が奉納されたのでした。

丹生川上神社下社 皆見元久宮司の「ごあいさつ」から―――
(皆様ご参集感謝のことばのあとに続いて)
…そもそも祭りとは他事の平安を祈り始まったと考えられ 丹生川上神社の創建は国の祭りの場と定められています
記紀に記された「豊葦原の瑞穂の国」が示す 日本の国の幸せとは 葦が生い茂る所には豊かに穂が実る
お米が豊作でのどかな瑞々しい原風景こそが国の幸せな姿なのです
そこで水神 丹生の川上の神に 国が 雨乞いに「黒馬」 止雨を祈り「白馬」を奉り祭りを行った歴史を有しています
この馬を神に奉り祈る文化が 日本人の思考変化によって個人の願いを書き記す絵馬発祥に繋がるのですが
祭りの歴史を鑑み 今年のご例祭に五百六十二年ぶりに 京都より白馬を神前に奉り
昨年起きた東日本大震災と紀伊半島大水害の被災地復興 また暗雲立ち込める日本の為に明るく光さす瑞々しい国の復興を
ご参列の皆様と祈りを重ね合わせ太古よりの祭りの場 丹生の川上に新たな歴史が刻めた事は大変重要な事です。
少しの時において忘れかけてきた 人と人との関わりの大切さを 本日の祈りで丹生川上の大神様のご神威が日本の国々に広がり
必ずや日本が人を思いやる本来の姿になるものと信じます
…(以下略)




 

旧高野街道 長野神社

投稿者:やさか 投稿日:2012年 5月20日(日)
  毎年正月の「えべっさん」で大賑わいする「長野神社」へ参詣しました。
さすがにこの時期は参詣者が少なく、ひっそりとしています。
この神社は、南海と近鉄の河内長野駅すぐ近くの旧高野街道沿いにあります。
今までも何度か参拝しているのですが、自分のホームページには未だ載せていなかったのです。
そこで今回は、この神社を昔のフィルムカメラで撮影してHPに使ってみました。
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/kamigami/naganoebis.html

●下の写真は、長野神社の境内正面入口前から西方向に向かって撮影したものです。
石垣の向こうに続く旧家は、河内鋳物師で有名な吉年家で、ここのクスノキは市の天然記念物になっています。
【撮影MEMO】
使用カメラ:   Nikomat FTn
使用レンズ:  NIKKOR 28㎜ F3.5
使用フィルム: 富士フィルム ASA100ネガ
露  出:    シャッター 1/125秒、 絞りf8
映像処理:  「カメラのキタムラ」でネガから直接CDに落としてもらったデータを利用


 

40年前の愛機 ニコマート

投稿者:やさか 投稿日:2012年 5月16日(水)
  40年ほど前、私がよくカメラを使っていた頃、メインは 「Nikon F Photomic FTn」でした。
ところが、これが重くて使いづらく日常的に持ち歩くのは、サブで使っていた 「Nikomat FTn」の方で、
使い始めると性能は殆ど変わらず、ニコマートの方が軽く機能的で使い勝手が良いからでした。
レンズは全て共通でしたので、もっぱらニコマートばかりを使うようになってしまったものです。
当時は仕事関連で使用する場合、同等機種を二台持つのが常識でした。
後に仕事を変えたので趣味以外に使用することが無くなり、
その時点で必要と思えるものだけを残して、全ての機材を処分したのです。
今でも悔やまれる名玉 「NIKKOR 85㎜ F1.4」 を手放したのは前にも言いましたように大失敗でした。
今では、もし見付けても高額でとても入手できない貴重品となっています。

以下は現在も手元に残しているニコン製品です。
[本機]:Nikomat FTn ブラックボディ
[レンズ]:標準レンズ/NIKKOR 50㎜ F2.0
     標準ズーム/NIKKOR 43-86㎜ F3.5
     広角レンズ/NIKKOR 28㎜ F3.5
     望遠レンズ/NIKKOR 135㎜ F3.5

[下段写真]:本機(標準ズーム付)、ブラケット&ストロボ/Panashot


 

12 ANGRY MEN

投稿者:やさか 投稿日:2012年 5月14日(月)
  素晴らしい映画を観ました。
それは、1957年のアメリカ映画「12人の怒れる男」です。
TSUTAYAで「100円で鑑賞できる旧作名画」とか?のコーナーから借りてきたものですが、
久しぶりに黄金時代のアメリカ映画を堪能できました。

昔ご覧になった方も多いと思いますが、私はこの映画は初めて観ました。
殺人の罪に問われた18歳の少年の裁判で、12人の陪審員が有罪か無罪かを評議するのが題材です。
評議から評決に至るまで、陪審員室のみの場面で構成されています。
12人の陪審員の内、11人が有罪とする中、唯一人が異議を唱えたことから審議が展開します。
そして全員一致で無罪の評決が成されるまで、12人の人間性がぶつかりあう論戦が見ものです。
アメリカの「陪審員制度」では、全員一致でなければ差し戻しとなるからです。

日本の「裁判員制度」では、原則として裁判官3名、裁判員6名の全9名で構成され、
有罪の判決をするには過半数の賛成者が必要で、加えて裁判官と裁判員それぞれの1名は賛成しなければ成立しません。
日本の裁判員制を考えるためにも、興味深い映画だと思います。
特に考えさせられたのは、多数決で物事を決めてゆくことの恐ろしさでした。
また、別の意味で感心したのは、陪審員室という限定された空間だけで視聴者を飽きさせず臨場感一杯に、
ぐいぐいとその世界に引き込んで行く脚本家の力量に舌を巻きました。

上映時間:1時間35分、主演:ヘンリー・フォンダ /モノクロ作品
原作:レジナルド・ローズの元舞台作品で、アメリカ・テレビドラマだったもののリメイク映画とか。
 

50ccバイクの最高峰

投稿者:やさか 投稿日:2012年 5月 5日(土)
  60年代の50cc原動機付自転車の最高峰は何と言っても「ランペット」だったと思います。
1960年発売のトーハツ・ランペットは50ccで最高の性能を誇ったゼロハン・バイクでした。
このバイクは、東京発動機が製造した小型オートバイで、当時圧倒的な性能を有していました。
1961年発売のTOHATSU Runpet Sport CA2型は、¥61,000で6PSの高性能。
対してライバル車HONDA Sport Cub 50 C110型は、¥58,000で5PSの出力でした。
ちなみに私は当時高校1年生でスポーツカブ(但し中古で買って¥38,000)に乗っていました。
友達がランペットスポーツに乗っていて借りて乗ったことがありましたが、びっくりするほどの速さでした。
私のカブは、改造してマフラーを取り外し、真鍮のパイプに直結。シリンダーを削ってピストン・リングを取り換え、
実質排気量を拡大していました。更に高オクタンガソリンを入れていたのですが、性能差は歴然。
ランペットは2サイクル(2ストローク)、カブは4サイクルエンジンで出足が全くと言っていいほど違います。
スタートしてすぐに置いて行かれてしまうのでした。
ランペットのエンジンは、低速では囁くように静かなのですが、一旦アクセルを噴かすと一変します。
たちまち、かん高い金属音で咆哮し、2スト特有の白煙を出して疾走するのです。
(ランペットは、5車種ほどあったと思います)

カメラといい、バイクといい、日本の精密機械製造技術は、
戦後わずか15年で世界の最高水準に達するほどに復興していたと言えるでしょう。
写真:ランペット・スポーツ/Honda Collection Hall ホームページから

 

機能美の極致 Nikon SP

投稿者:やさか  投稿日:2012年 5月 3日(木)
  小型カメラで歴史的名機といえば、やはりドイツのLeica、Contaxでしょうか。
1960年代以降、世界にその名をとどろかせたNikonといえども、
そのライカ、コンタックスを目標に、両機を研究しつくして、そのイミテイトから出発したようです。
そして技術的にそのレベルに追いつき、そして追い越して行った35㎜カメラ開発の歴史があります。
ニコンは、その製品から見るとコンタックスのイミテーションから始めたと思われます。
1957年に発売した「Nikon SP]は、レンジファインダー・カメラのジャンルでの名機といわれ、
現在でもヴィンテージ・カメラの最高人気機種として高額で取引されています。
そのニコンSP発売のわずか2年後に、ペンタゴナル・ダハ・プリズム式、
いわゆる一眼レフの世界的名機「Nikon F」が誕生します。
このニコンFの廉価版普及機として、TTL測光の露出計を付けて発売されたのが「Nikomat FTn」でした。

↓以下の写真は、
(上)何度見ても飽きない機能美の:Nikon SP /「撮影機材の部屋」さん
(中)一眼レフ 世界の名機:Nikon F /「いそさんのおもちゃ箱」さん
(下)ニコンFと同等性能の普及機 : Nikomat FTn  /www.tarosworld.com さん







 

寺ケ池公園

投稿者:やさか 投稿日:2012年 4月26日(木)
  この日曜日、HP用のデジカメを新しくしました。
以下は早速テスト撮影した写真です。
最新のデジカメはすごいですね。その性能に驚きました。

写真は、小山田・住吉神社 北800メートルの寺ヶ池公園です。
ここの八重桜の開花は、ソメイヨシノより2週間以上も遅れます。






 

修理から戻ってきたNikomat

投稿者:やさか 投稿日:2012年 4月17日(火)
  前時代の一眼レフ、ニコマートが昨日修理から戻ってきました。
レンズ装着の不手際で故障させたのですが、なにせ40年も前のカメラなので分解修理してもよい頃でした。
カビは出てきていたし、モルトは剥がれ落ちていたし、動作もスムーズではないようでしたので
丁度修理に出す良いタイミングだったかも知れません。
70年代、日常的にカメラを使っていた頃、Nikonの「フォトミックFTn」も持っていたのですが重くて肩が凝るので、
よく使うのは軽くてほとんど性能の変わらないニコマートの方でした。

でも、最近はフィルムカメラを使うことはないので、久しぶりに持ったニコマートは随分重く感じました。
下の写真は、Nikonの元祖標準ズームNikkor43-86で写したものです。
やっぱりピンが甘いですね。目が悪くなって来てピントがしっかり合わせられないし、腕も悪くなっている(もともと?)し、
それに紙焼した写真からチビデジで複写したので、ピンが甘くなるのは当然と言えば当然とも言えます。

それでも久しぶりにシャッターを押した感触は中々いいものでした。
フォーカル・プレーンのシャッター音が、心地よく耳に響きます。
“カシャッ ” …時間と空間を切り取った瞬間がたまりません。
 

白山桜と賀名生の里

投稿者:やさか 投稿日:2012年 4月16日(月)
  西吉野・賀名生にある北畠親房公の墓所にお参りしました。
場所は奈良県五條市西吉野町和田「賀名生の里歴史民俗資料館」北側、小山の上にあります。
参道は白山桜が今を盛りと咲き競っていました。
『北畠親房の研究』を著わされた皇學館大学の白山芳太郎教授に
大変お世話になったことを思い出しながら参拝しました。
この墓所のすぐ前の広場は、1,950年に開校した奈良県立五條高校・賀名生分校の跡地です。

●写真(上)北畠親房公の墳墓
●写真(下)参道の白山ザクラと賀名生の里




 

ニコマート大好き

投稿者:やさか 投稿日:2012年 4月13日(金)
  一時期カメラに凝っていたことは書きましたが、今は誰もがデジタルカメラを使う時代ですね。

デジカメ以前は、すべてが銀塩フィルムを使い紙焼する、いわゆるフィルムカメラでした。
中でも私は、オートで動くカメラは信頼できず苦手で、いつまでもマニュアル式に拘っていました。
今まで小はミノルタ16QTから、中判のマミヤRB67まで、多くのカメラを持ちましたが、現在手元に残っているのは、
フィルム供給が途切れて使えなくなってしまったミノルタ16QTとニコマートFTnのみです。
Minolta 16QTは、使用不能ですが可愛いので本棚に飾っています。
Nikomat FTnは、 十年ほど前までよく使っていました。
ホームページを始めた頃は、銀塩フィルムで撮った写真を、
発売されたばかりのデジカメで複写してHPにアップしていたものです。

最近、フォーカルプレーンのシャッター音が懐かしくなって、取り出してきました。
するとボディーにカビが出ています。レンズやファインダーには幸いカビや曇りはありません。
裏ブタを開けて中を見ると、ここには少しカビが見られます。
シャッターはどうかと、各スピードで切って試しましたが異常はありませんでした。
TTL測光の露出計は、ボタン電池を新品に取替ると正常に作動します。
望遠や広角レンズなどもカメラ本体に装着して試しました。
実は、ここで大失敗をしたのです。
ズームレンズを装着しようとした時、ニコン独特の「ガチャガチャ操作」を間違ったようなのです。
結果的に不具合を生じさせました。しまったと思っても後の祭です。
すこし堅かったので「おかしいな?」と思ったのに、ムリヤリねじこんだのがいけなかったようでした。
標準レンズでもう一度試してみましたら、今度は標準レンズすら装着できなくなっています。
修理に出しました。

先日その見積書が来ました。カメラ本体・ズーム・標準レンズの修理調整代合計¥36,950
これも失敗の一つですが、カメラに凝ってから、今思い出しても残念でならないのは貴重な名玉を手放したことです。
●Nikkor 85㎜ F1.4
大口径で明るく、素晴らしいボケ味の出せる名レンズでニコンの傑作中の傑作でした。
 

Re: 河内長野・上原八幡宮

投稿者:やさか 投稿日:2012年 4月12日(木)
  小山田・住吉神社参道の桜が今日開花し始めました。
ここの桜の開花はソメイヨシノより一週間ほど遅れます。

写真[上]境内摂社・高天原神社/この桜はソメイヨシノです。
写真[中]馬駆け神事が行われる参道/この桜はヒガンザクラか咲くのが遅いのです。
写真[下]赤峰運動場/向こうに鉄塔の先端が少し見えています。桜はソメイヨシノ。住吉神社南500メートル






 

もう一つの空海伝

投稿者:やさか 投稿日:2012年 4月11日(水)
  以前より何時かはきっと書いてみたいと思っていた、修業時代の若き空海を昨年書き上げました。
それを推敲・校正して仕上げ、西吉野の郷土史家辻本武彦氏に一読いただこうと先日送付申し上げたのです。
そうしましたら、奥様からお手紙が来て、昨年末ご他界なさったとのこと。
辻本氏は郷土史研究の大先輩で、光明寺の村岡空住職とともに「空海の道」についてご教示いただくなどお世話になっておりました。
残念ながら、村岡空師は7年前の3月に、そして今度は辻本氏が昨年末にご逝去なされていたのです。
ご存知のとおり村岡空師は、詩人でもあり空海研究者としても著名な方です。
お二人は、まだまだご活躍なさるはずだったのにと思うと残念でなりません。

お二人からお聞きした「空海の道」についてのお話がモチーフになって書き上げた「もう一つの空海伝」ですので、
辻本氏だけにでも、ぜひ一読していただきたかったのです。
でも此岸ではもう適わないことことです。
この作品今回はネットに載せないでおこうと思っていたのですが、ネットで流すと或いは彼岸の国で、
退屈しのぎにお二人で読んで、拙い文章だと笑ってくださるかも知れません。
そのようにふと思ったので考えを変え、ネットに掲出することにしました。

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/henjokongo/kuukai_001.htm
 

Re: 河内長野・上原八幡宮

投稿者:やさか 投稿日:2012年 4月11日(水)
  > 下段の写真は、伝・仲哀天皇陵跡に建てられている関電鉄柱横の桜です。

間違っていますので自己訂正いたします。

×関電鉄柱横の桜です。
○関電鉄塔横の桜です。

「鉄柱」ではなく「鉄塔」でした。
 

河内長野・上原八幡宮

投稿者:やさか 投稿日:2012年 4月 8日(日)
  下段の写真は、伝・仲哀天皇陵跡に建てられている関電鉄柱横の桜です。
この桜は「ソメイヨシノ」ではなさそうで、満開になるのは2、3日先でしょうか。
本日4月8日は八分咲きといったところでした。

●上原八幡宮/仲哀天皇宮 http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/ueharahatiman.html
●小山田・住吉神社   http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/nisigori_001.htm

写真↓関電鉄柱横の桜


 

河内長野・上原八幡宮

投稿者:やさか 投稿日:2012年 4月 8日(日)
  河内長野・上原八幡宮といっても誰もご存知ないかも知れません。
でも、かつて河内國錦部郡長野庄上原村に所在したらしく、
江戸時代の浮世絵師であり、作家でもある暁鐘成によって描かれた観光案内書、
『西国三十三所名所図会』に掲載されています。
この絵図に描かれている向かって右側の「上原八幡宮・仲哀天皇宮」の部分が削り取られて
現在では「赤峰市民広場」と呼ぶ大運動場になり、「御陵」の部分には関電の鉄塔が建てられました。
いつも土日祝日には、子供達の野球やサッカーの試合が行われています。
たっぷりの広さがあり、晴天に恵まれた今日は小学生たちの野球試合が2試合同時に行われていて、
応援する父兄や、試合中の子供達のかけ声が広場に響いていました。







 

みどりの雨

投稿者:やさか 投稿日:2012年 3月30日(金)
  雰囲気を変えて、なつかしい日本の曲はいかがですか。
前にも紹介しました「みどりの雨」ですが、この曲を耳にすると
私はその昔、少年時代の様々なことを思いだします。
http://www.youtube.com/watch?v=2aLtMgMhAI4 (YouTubeより)

【みどりの雨】作詞:丘 灯至夫/作曲:古関裕而/歌:藤山一郎

1 夢を結んだ あの芦ノ湖に
  浮かぶボートの 懐かしさ
  カラーフィルムに 残した君よ
  ああ 思い出の
  箱根に みどりの 雨が降る

2 ゴルフ帰りの セダンが走る
  乙女峠に ほろほろと
  散り行く花よ 白山桜
  ああ 美わしの
  箱根に みどりの 雨が降る

3 宿の小鳥も 別れを惜しむ
  登山電車に 昼の雨
  湯けむり淡く さよならさらば
  ああ ロマンスの
  箱根に みどりの 雨が降る

この曲を初めて聞いたのは修学旅行の時、箱根のドライブウエーを走るバスの中でした。
もちろん、カラオケなんてありません。当時バスガールと呼ばれていたガイドさんが
手持ちマイクだけで歌ってくれたのです。

その頃、奈良県の中学生の修学旅行の行く先は殆どが東京方面だったと思います。
五條市から国鉄の蒸気機関車で大阪に出て、大阪から電気機関車が引く
修学旅行専用列車で車中泊しての旅行でした。寝台車ではないので座席でそのまま寝たのです。
僕のようなワルは上部の荷物棚で足を伸ばして寝ました。
東京での行く先は定番の「東京タワー」「皇居二重橋」「羽田空港」等だったと思います。
夜は後楽園球場で巨人・阪神のナイターを観ました。
翌日から箱根・熱海方面だったと思います。今考えると、強行日程でとても窮屈な旅だったはずです。
でも今思い出しても、とても楽しい旅行でした。その内でも箱根のバス中で聞いたこの歌は、
私には特別印象的だったのです。

この歌詞からすると、この時からすでにカラーフィルムがあったのですね。
ちなみに私は父に買ってもらった「フジペット」という子供用カメラを持って行きました。
カラーフィルムなんて、とてもとても手の届く代物ではありません。
フィルムは白黒12枚撮り、それでもブロニー版だったので中学生にはとても高価なものでした。
35ミリ判フィルムの倍以上もの値段です。それで二本しか買ってもらえず、
24枚しか撮れないので場面を選んで慎重にシャッターを押した記憶があります。
このカメラが私が手にした初めての写真機でした。
定焦点レンズ、F11。レンズ・シャッターで1/50秒の固定と開放。絞りはF11・16・22の三段階のみでした。
ピントが合いやすいようにF値を絞ったものだったのですね。
それでもこれで写真の面白さ知った私は、高校生になると、入学祝に貰ったお金を注ぎ込んで
35ミリカメラを買いました。「リコー・メイト」というカメラでした。
セイコー倍数配列レンズ・シャッターで 、T・ B ・ 1 - 1/400秒。セルフタイマー付。
これで写真の腕を磨きました。それがカメラの凝り始めです。
また、カメラと同様にバイクにも一時期夢中になりました。
ダメですね。勉強のことは、ほとんど思い出すものはありません。
 


JUSTICE

投稿者:やさか 投稿日:2012年 3月27日(火)
  世界警察を標榜するアメリカだが、そのアメリカの正義というのはどうなっているのか疑問に思う。
というのは、日本の企業に難癖をつけて賠償や罰金を取るような日本たたきをしているからである。
最近ではホンダが公示燃費通りではないので損害を被ったとして損害賠償の請求をされた。
その前はトヨタのプリウスがアクセルやブレーキに不具合があるとしてリコール問題になった。
いずれも経営に大打撃を与えるような莫大な損害を受けたはずである。

60~70年代アメリカは輝いていた。もっと鷹揚で寛容な国だった。
その頃、日本の若者達の多くはアメリカに憧れ、正義の国だと羨望していた(と思う)
正義を行う国だったはずが双子の赤字を抱えはじめてから、背に腹は代えられぬ、というところだろうか。
この国はすぐに“ジャスティス”と言う言葉を持ち出すが、
近年のアメリカはInjustice、いや Unfairともいうべきものではないか。

「パール・ハーバー」という映画を見た。かなり前、2001年公開の映画だ。
大体の内容が想像できたのでイヤで見に行かなかった映画だが、
ふと、一度見ておこうという気になり、TSUTAYAで借りてきた。三時間にも及ぶ大作である。
内容は、ほぼ想像していた通りだった。
これは恋愛映画を装っているが反日映画だと思う。
少なくとも同盟国である日本との友好関係を良好にするためにはならないだろう。
鳥居に掲げられた旭日旗は愛嬌だが、
真珠湾を奇襲した零戦が執拗に市民にまで機銃掃射あびせる所や病院を爆撃する場面等々、
ジャップ憎しの感情が増幅するように作られている。
沈没する艦船から脱出した海兵に、超低空飛行をして執拗に機銃を浴びせている場面もあるが、実際はそのような事実はなかったはずである。
このような映画によるプロパガンダは、日本に対する悪い印象を与えるために有効である。
遺憾ながら卑怯な日本人というイメージ付けが、この映画でまた広げられた事だろう。
残念ながら今のアメリカは以前のアメリカではない気がしてならない。
 

Re: 宇智・吉野歴史勉強会4月

投稿者:やさか 投稿日:2012年 3月26日(月)
  Kuboさん、書き込みありがとうございます。
通常は、毎月第四日曜日の午後1時半からのところ、
四月は会館の行事の都合で、1週繰り上げての開催となるということですね。

歴史に興味をお持ちの方はお気軽にご参加ください。

 

宇智・吉野歴史勉強会4月

投稿者:Kubo 投稿日:2012年 3月26日(月)
  4月15日(日曜)13:30より、五條市中央公民館
内容は五條地域の概観(中世以降)窪田発表
参加費:300円(資料費等にあてます)
中世武士団、五條代官、などについて発表者の考える五條地域の像について。
 

Re: 宇智・吉野歴史勉強会3月例会

投稿者:MARUYA 投稿日:2012年 3月23日(金)
 
> 今回は平安以降のお話ですが、江戸から来た代官の話が主体となるか、と思います。
> 勝海舟の血縁者とか、山形で神様扱いになっている人とか、多士済々です。

興味深い内容になりそうですね。
期待しています。
 

Re: 宇智・吉野歴史勉強会3月例会

投稿者:Kubo 投稿日:2012年 3月23日(金)
 
今回は平安以降のお話ですが、江戸から来た代官の話が主体となるか、と思います。
勝海舟の血縁者とか、山形で神様扱いになっている人とか、多士済々です。
 

Re: 宇智・吉野歴史勉強会3月例会

投稿者:MARUYA 投稿日:2012年 3月14日(水)
 
歴史はとても興味深いと思います。
文献に記された歴史は、必ずしも史実ではなく、作られているという側面があります。
それは、為政者や歴史家、記録者の立場・視点によって書き残されたものだからです。

例えば「天誅組の乱」ですが、視点を変えて捉えてみると、とても義挙とは言えないと思います。
善良な代官が血祭りにされ、下市町は今も語り継がれる大火となるなど、大災難が住民に降り掛かりました。
また本陣のあった白銀岳周辺の村々も多大な迷惑を被った事実も残っています。
※五條代官所 http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/info/gojodaikan.htm

そしてまた「赤穂浪士」の討ち入り」にしても冷静にみると、浪士たちは武装して徒党を組み、他家に夜襲をかけたのです。
忠臣蔵などと美談にされていますが、これも上杉・吉良両家側から記せば、もっと別の物語になったことでしょう。

そのような訳で、歴史書も事実とは少し違ったものになっているかも知れません。
六国史の『日本書紀』と雖も、その全てが史実とは言い切れないので、じっくり俯瞰してみる必要があるのではないでしょうか。
つまりは文献史も伝記や語り伝えられた物語と全く同様の成り立ちとも言えるのではないかと思います。
(理想としては文献史学の隙間を考古学的事実で補完して、史実を確認してゆくのが筋なのでしょうが、発掘した事物の科学的な年代測定に誤差もあり、年代や作者の鑑定にも間違いがあったりで、中々歴史は一筋縄では語りきれないと思います)


歴史は本当に興味深いですね。
HP/吉野へようこそ/MARUYA も「宇智・吉野歴史勉強会」に参加しています。
勉強会なので語り合いの中から、ざっくばらんに学んでゆければ良いのではないかと思います。
興味のある方はお運びください。入会金なし。月会費実費程度。
 

宇智・吉野歴史勉強会3月例会

投稿者:Kubo 投稿日:2012年 3月10日(土)
  五條市の中央公民館で行っている、宇智(五條のこと)・吉野歴史勉強会の3月例会は3月25日日曜の13:30分より、五條市中央公民館2階クラブ室で行われます。
宇智・吉野地域のアウトライン(後)という内容で、宇智吉野地域の全体像を発表者の視点での説明と質疑応答です。関心がある方はどうぞ。参加自由です。
 

Top of the world

投稿者:やさか 投稿日:2012年 3月 6日(火)
  カーペンターズの曲をもう一つ。
この歌も本当に素晴らしい。
カレンは、低音から高音まで音域が特に広いそうだが、神様から特別に授った声のようで
魂にまで届いてくるような美しい響きがある。歌詞も美しく脚韻が印象的だと思う。

「 トップ・オブ・ザ・ワールド」
http://www.youtube.com/watch?v=Q8AM356TXZ4&feature=related

Top of the world /Carpenters

Such a feeling’s comin’ over me
There is wonder in most everything I see
Not a cloud in the sky
Got the sun in my eyes
And I won’t be surprised if it’s a dream

Everything I want the world to be
Is now coming true especially for me
And the reason is clear
It’s because you are here
You’re the nearest thing to heaven that I’ve seen

I’m on the top of the world lookin’ down on creation
And the only explanation I can find
Is the love that I’ve found ever since you’ve been around
Your love’s put me at the top of the world

Something in the wind has learned my name
And it’s tellin’ me that things are not the same
In the leaves on the trees and the touch of the breeze
There’s a pleasin’ sense of happiness for me

There is only one wish on my mind
When this day is through I hope that I will find
That tomorrow will be just the same for you and me
All I need will be mine if you are here

I’m on the top of the world lookin’ down on creation
And the only explanation I can find
Is the love that I’ve found ever since you’ve been around
Your love’s put me at the top of the world
 

Yesterday Once More

投稿者:やさか 投稿日:2012年 3月 6日(火)
  カーペンターズのこの曲を久しぶりに聞いた。
私の最も好きな歌のひとつである。
いつ聞いても素晴らしい、感動する。
早世したカレンの、心に沁みいるような歌声は琴線に触れ、涙が自然とあふれそうになる。

「イエスタデイ・ワンス・モア」
http://www.youtube.com/watch?v=t0oroGJusBg

Yesterday Once More /Carpenters

When I was young
I'd listen to the radio
Waitin' for my favorite songs
When they played I'd sing along
It made me smile
Those were such happy times
And not so long ago
How I wondered where they'd gone
But they're back again
Just like a long lost friend
All the songs I loved so well
Every Sha-la-la-la
Every Wo-o-wo-o
Still shines
Every shing-a-ling-a-ling
That they're startin' to sing
So fine
When they get to the part
Where he's breakin' her heart
It can really make me cry
Just like before
It's yesterday once more

Lookin' back on how it was
In years gone by
And the good times that I had
Makes today seem rather sad
So much has changed
It was songs of love that
I would sing to then
And I'd memorize each world
Those old melodies
Still sound so good to me
As they melt the years away
Every Sha-la-la-la
Every Wo-o-wo-o
Still shines
Every shing-a-ling-a-ling
That they're startin' to sing
So fine
All my best memories
Come back clearly to me
Some can even make me cry
Just like before
It's yesterday once more

※Every Sha-la-la-la
  Every Wo-o-wo-o
  Still shines
  Every shing-a-ling-a-ling
  That they're startin' to sing
  So fine ※
※~※ Repeat
 

真野時綱の書画

投稿者:やさか 投稿日:2012年 2月15日(水)
  徳川時代中期の神道家、真野時綱は絵も描いています。
それは「真野時綱筆絹本淡彩七福神図」というもので、
愛知県津島市の津島神社に保管され、現在津島市指定文化財となっています。
非公開となっていて残念ながら一般には公開されていません。
私は以前より是非現物を間近でこの目にしたいと思い続けております。
そのようなことから先日ある方にこの図画のお話をしたのですが、間違った説明をしてしまいました。
実際の絵は縦型ではなく横型でした。それに「風景画」というよりも「七福神図」というべきでした。
『津島の文化財』という書籍に写真が載せられていますので、
掲示板上でお詫び訂正して、その写真(左部分)を複写して以下に掲出しておきます。
現物は絹布に描かれているため、かなり黄変しているようです。
当書説明文には、/縦53センチ 横129センチ/
「…松樹飛瀑の下、舞い上がった一羽の鶴を中心に七福神が交歓する様を軽妙な筆致で描いている…」と記されています。
いつか一般公開される日を待ち、ぜひとも拝観したい思っています。



 

石窯で焼くピザ

投稿者:やさか 投稿日:2012年 2月11日(土)
  柿つくり農家の息子さんが、手作りで創った石窯で焼くピザが絶品です。
西吉野町湯塩の、柿畑のてっぺんにある、このお店はCAFEでピザを出しています。
美味しいのでビールが飲みたくなりますが、運転する方はノンアルコールで我慢ください。
店の窓からの眺めは抜群で金剛・葛木山を一望できます。
もう少し暖かくなれば、テラスでも楽しめますよ。
三月初め頃になれば、「賀名生の梅林」と「津越の福寿草」が見頃を迎えますので
「賀名生歴史民俗資料館」に立ち寄るコースで、南朝歴史の里めぐりはいかがでしょうか。
時節柄、積雪が無いかどうかの確認はしてくださいね。
なお民宿は季節営業なのでご注意ください。

●民宿とピザの店「こもれび」 http://www.0141kaki.com/
http://www.pref.nara.jp/miryoku/nouka/tomaru/komorebi.html
http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/105980/CUSTOM/105980100810164925.html


●賀名生梅林 http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/anobairin.html

●津越の福寿草 http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/fukujuso.html
 

日本の黒い霧

投稿者:やさか 投稿日:2012年 2月 9日(木)
  松本清張のノンフィクションに『日本の黒い霧』というのがあります。
1960年初めに書かれたようで、当時話題になっていました。
その頃にいわゆる「下山事件」や「帝銀事件」などを、部分的に読んだ記憶があります。

先日改めて読み直してみようと図書館から借りてきました。
版を重ねていて文庫版もあり、借りてきたのは2004年の新装文庫版です。
今読んでみると、当時は良く理解できていなかった日本を取り巻く状況がよく分かります。
終戦当時から、世界の中での日本の立場は基本的に何も変わっていないという事が思い知らされます。
敗戦の後、講和条約を締結して独立国になったはずの日本ですが、そのまま米軍が駐留していて、
その実態は昔も今も米国の属国の域を出ておりません。
世界を支配しようとする勢力はアメリカという国を通して日本を支配しているようです。
有事には日本を護るはずの自衛隊も、実のところは米軍の指揮下にあると思われます。
災害救援は別として、軍事的には日本政府の指示系統では動かず、命令は米軍から出されることでしょう。
一方、日本経済は極端な円高誘導で市場は逼塞し青息吐息の状態です。
この円高の元凶は日銀にあると思われます。
日本銀行というこの国の名を冠した銀行ですが、実態は株式会社で外国資本の支配下にあると見えます。
経済界のみではありません。世論を導く重要な報道界・マスコミも………。

どうしてこのようなことになっているのでしょう。
それは敗戦以降、外国に利益供与しようとする国内勢力が存在するからでしょうか。
しかし、よくよく考えてみると、日本にとっての負の仕組みはもっと遡って見られます。
その萌芽は黒船来航から始ったと言えるのではないでしょうか。
薩長と徳川幕府間の内戦を仕組まれ、古き良き伝統の国日本は破壊されました。
そして戦費を貸し付けられて富国強兵のスローガンのもとに海外派兵。
国威発揚になったと日本中が歓喜した日清・日露の戦勝も実のところは代理戦争をさせられていたようです。
その後はご存知日米開戦を経て、悲惨な被爆後の敗戦を迎えたのでした。
戦後見事な復興を遂げたと見えた日本経済でしたが、それもつかの間のこと。
そして現在、日本経済は目も当てられない状況です。
このままでは本当に「日本沈没」となりかねません。
今手をこまねいていては将来で悔恨することになるでしょう。
今こそ、神道界・仏教界がこぞって立ち上がるべき時ではないでしょうか。
実行力のある強力な政治家集団を創り育て始めてほしいと思います。
 

宮滝は本当に吉野宮跡地か?

投稿者:やさか 投稿日:2012年 2月 6日(月)
  宮滝の地は近年、吉野宮(あるいは吉野離宮)の旧跡であるかのように喧伝されているが、はたしてそうだろうか。
確かに宮滝遺跡は、古代史を研究する上で重要な遺跡である。
しかしながら筆者は、宮滝が吉野宮の跡地だとする見解には疑問が残る。何故か?
それは、以下の疑問点があるからである。

●宮滝遺跡のある地域は、那賀郷と呼ばれたうちの、中荘村に該当し、ここに吉野宮があったとするのは無理があると考えられる。
つまり「吉野宮」というからには、古代の吉野郡の四郷、すなわち吉野、賀美、那賀、資母 のうちの吉野本郷に所在するものでなければならないからである。

●宮滝へは、飛鳥から芋峠、壺阪峠あるいは芦原峠越えではあまりにも険しく、都人(みやこびと)が乗る車駕が通行できない。
緩やかな車坂峠越えで宮滝まで行くと29.1km(現在の道路で計測)もあり遠すぎる。

●宮滝のような両岸が切り立った景観の吉野川では、万葉集にあるような舟遊びはできない。

●吉野の地は都人から見ての異境で、古より“吉野国”と憧れられた神仙境であった。
その桃源郷と俗界は吉野川で隔てられていたので、仙郷吉野は国中(くんなか)から来て、吉野川を向こうに渡った南側でなければならない。
いわゆる河内と呼ばれた吉野川南岸の、河岸段丘に吉野宮はあったはずである。
なので吉野川の北岸にある宮滝は吉野宮旧跡地ではあり得ないと思う。

●「吉野宮」と「吉野離宮」は別個の施設だと思う。
前者は壬申の乱以前に山頂の要害の地にあった施設で、後者は壬申の乱以降平地に建設された天皇の別荘のような性格の施設ではなかったかと判断できる。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
吉野町HP「吉野歴史資料館」の[展示のみどころ]の記事に疑問?
http://www.town.yoshino.nara.jp/shiryoukan/midokoro/midokoro.htm の記事のなかで、
「…飛鳥時代に入ると宮滝には吉野宮が造営されました」
「…奈良時代には吉野宮の西側に吉野離宮が造営されました」
…というような記述がされているが、このような表現は如何なものかと思う。

宮滝が古代の重要な遺跡であることは事実であるし、誰もが疑問を挟まないであろう。
しかし、宮滝を古代の吉野宮の旧跡であったとするには様々な疑問が残る。
発掘跡は埋め戻されていて写真で見るしかなく、まして素人の筆者がいうのはおかしいかも知れない。
しかしあの宮滝遺跡は筆者にはどうしても吉野宮跡とは考えられない。
あれは、縄文遺跡の上に弥生遺跡が重層した複合遺跡としか思えないのである。
再述するが宮滝が吉野宮跡地とは、まだ確定できないはずである。

では「吉野離宮」はどこにあったか?
筆者は、吉野郡下市町の、新住(あたらすみ)から阿知賀(あちが)辺りにあったはずだと思っている。
いずれも吉野川の南側河岸段丘で、この地区から近い将来に歴史的発見があると見ている。
 

年頭自警

投稿者:やさか 投稿日:2012年 1月 1日(日)
  年頭自警

1.年頭自ら意気を新たにすべし
2.年頭古き悔恨を棄つべし
3.年頭決然滞事を一掃すべし
4.年頭新たに一善事を発願すべし
5.年頭新たに一佳書を読み始むべし

●以上『安岡正篤 瓠堂語録集』/関西師友協会より