上北山村

投稿者:やさか 投稿日:2011年12月24日(土)
  今まで上北山村の神社を一度も紹介したことがありませんでした。
それで、上北山の八坂神社、北山宮を参詣・撮影しようと思い立ちました。
道中の169号線川上村は、土砂崩れのため未だに本線は通行止で、北塩谷橋~白屋橋間が対岸を迂回するようになっています。
やっと大型車が通行できるようになったとのことですが、交互通行で迂回しているため、長い待ち時間がありました。
八坂神社は、北山川と小橡川の合流地点にあって地名も河合というところに、北山宮は小橡川の左岸に鎮座していました。
大阪からだいたい3時間ほどかかります。
天気は良いのですが時々粉雪がちらつくとても寒い日でした。
流れは深く澄んでいて、吸い込まれるような美しさでしたが、
寒いからか、魚影は一匹も見えませんでした。


 

高天原 部分改め

投稿者:やさか 投稿日:2011年12月20日(火)
  > No.76[元記事へ]

> ―――――――――――――――――――――――――――――――――
> …実はこれ、昨夜の夢なんです。
> この夢に出てきたような場所があれば面白い短編のネタになるのではないかと思いました。

×「…短編のネタ…」ではなく、
○「…短編の舞台にできるのではないかと…」でした。自己訂正いたします。

ちなみに書こうと思うファンタジーは、夢で見たものをモチーフとします。
少しネタの一部を言いますと、
滝壺で貝を捕る娘たちは傀儡(くぐつ)なんです。さてどうなることやら…
 

高天原

投稿者:やさか 投稿日:2011年12月19日(月)
  “段々滝”とでも言えばいいのでしょうか。
山中の川なのですが、小瀑が上から下に次々と続いています。
そこで、若い娘たちが滝壺から何かを捕っているのです。
「何を捕っているのか」と聞いても相手は答えてくれません。
近づいて覗きこむと、なんとアワビのような貝です。
周りを見るとすぐ近くに小さな神社があります。
道に迷って来たので、「ここは何処か」と聞くのですが、
相変わらず娘たちは一言も答えてくれません。
一つの滝に一人づつ張りついて、何とか捕ろうとしているのですが、
一人で一つ捕るのが精一杯のようです。
中程の大岩に一人の媼がいて、娘たちを監視している。
その媼に「ここは何処ですか?」と聞いてみました。
「ここはタカマノハラでよー」
やっと言葉を返してくれる人に出逢いました。
コロ コロ コロ…と歌うような水音が響いています。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
…実はこれ、昨夜の夢なんです。
この夢に出てきたような場所があれば面白い短編のネタになるのではないかと思いました。
それで、ふと頭をよぎったのが高天彦神社でした。初めて参詣してから、もう十年位経っています。
川があったような記憶はなかったのですが、久しぶりに参詣したくなって早速行ってきました。
以前は気付かなかったのですが、神社前に小さな水路がありました。しかし、とても川と言えるようなものではなく
おそらく付近の田畑を潤す為の用水路のようでした。でも狭い水路に清冽な水がたっぷりと流れていました。
でも、夢で見たような滝がありません。それに流れも小さすぎました。それで、水路を上に辿ってみることにしました。
細い山道の横を水路が通り、すぐに水路は山道を離れ山中に入って行きます。
するとサラサラ・コロコロと水音がしてきて、雑木越しに谷川が見えます。
枝葉を分けて覗きこむと、何と滝が見えるではありませんか。それも滝は一つではありません。
険しく足場も悪いので途中であきらめましたが、滝が三つ続いて見えました。
場所は高天彦神社から直線距離で100メートルあまりの所です。
あとから知ったのですが、「南太田川」と呼ばれる川だそうです。神社の南側を東流しています。

ホント不思議です。夢で見た“段々滝”のイメージです。
いいファンタジーが書ければ良いのですが…。

●高天彦神社、今回参詣・掲出頁/http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/kamigami/takamahiko.html
●高天彦神社 10年前巡拝時の頁/http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/oumi_002.htm

↓写真は「高天原舊跡地」石碑
 

サンカの護法神?

投稿者:やさか 投稿日:2011年11月24日(木)
  新住・八幡神社に参詣しました。
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/kamigami/atarasumi8man.html

そこで本殿に参拝して驚いたのは次の写真です。
何なのでしょうね。この紋章は。
どなたかご存知の方。又或いは、ああではないか、こうではないか…と思われる方がおられましたら
ご意見いただければ嬉しいです。

 

敬神の綱領

投稿者:やさか 投稿日:2011年11月24日(木)
  前掲[敬神の綱領]を見て気付きました。

ついこの前まで日本人の多くは自惚れていました。
経済は右肩上がりで成長を続け、もの造りの技術は世界一で
“ジャパン アズ ナンバーワン”とまで言われたものです。
ところが、バブルがはじけ、それからは凋落一途です。
いえ、厳密に言えば、「日本の独り勝ちは許さぬ」と
現代世界のエスタブリッシュメントから引導を渡された
あの「プラザ合意」が、謂わば夏至ポイントだったと思います。
あれから日本の斜陽が始りまったのです。あとは坂道を転がり落ちる一方でした。
特に米欧から様々な政略で日本の産業界が叩かれました。
それから、どれほど多くの優良な民族企業が彼らの傘下に取り込まれたことでしょう。

そして日本は、産業界だけでなく、日本人そのものまで自信を無くしたかのような現状です。
何か日本人は物事のスケールまで小さくなったのではないかと思わされます。
スポーツの世界でも…例えばゴルフ。
日本が右肩上がりの成長を続けていた頃、A.O.N.そしてK選手らは世界の強豪相手に
自信たっぷりな堂々たるプレーをしていました。
また、日本の商社マンは世界を股に掛けて大活躍をする、貿易立国日本の旗手でした。
かつては花形だった造船・鉄鋼・家電。
精密機械・電子機器・自動車は辛うじて命脈を保っているのが現状です。

どうしてこのようなことになったのでしょう?
様々な要因はありますが、一言で謂えば国家戦略の未熟さ、というよりも無さではないでしょうか。
…ということは、詰まるところ政治家不在ということです。
天下国家を論じられ、実行できる政治家がいなかったということに尽きると思います。

その一方で自分の立場・損得だけでしか動かない政治家や官僚たち。
また米国の風見鶏のような売国奴的政治家や官僚たちが多くいた。
どれだけ多くの日本の資産が、彼ら売国奴によって海外に流失したかです。
今も日本は巧妙な手段で収奪され続けています。
では、どうすればこうした負の連鎖から日本は脱却できるのでしょう。
それには、まず民族派の実行力のある有能な政治家を育てなければならないということです。

前置きが長くなりましたが、「敬神の綱領」を見て何に気付いたかですが、
政治は文字通りまつりごとです。政治家がまつりごとを正しく行うためには、
この「敬神の綱領」に基づいた政治姿勢を貫くことだと気付いたのでした。
分かりやすくするため、2ヶ所のみ文字を代えて[政治の綱領]として再掲します。

――――――――――――――――――――――――――
1、神の恵みと 祖国の恩とに感謝し
  明き清きまことを以て 政治にいそしむこと。

1、世のため人のために奉仕し、
  神のみこともちとして 世をつくり固め成すこと。

1、大御心をいただきて むつひ和らぎ
  国の隆昌と世界の共存共栄を祈ること
――――――――――――――――――――――――――
大和心を持った、有能な政治家の出現が待ち望まれます。
 

吉野の神社2

投稿者:やさか  投稿日:2011年11月23日(水)
  阿知賀・八幡神社を訪ねました。

このお宮さんの宮司さんが掲げたものでしょうか、
次のように書かれた木板が拝殿に掛けられていました。

[敬神の綱領]
――――――――――――――――――――――――――
1、神の恵みと 祖先の恩とに感謝し
  明き清きまことを以て 祭祀にいそしむこと。

1、世のため人のために奉仕し、
  神のみこともちとして 世をつくり固め成すこと。

1、大御心をいただきて むつひ和らぎ
  国の隆昌と世界の共存共栄を祈ること
――――――――――――――――――――――――――
この言葉は、今の日本の政治家に実践してもらいたいものですね。
政治はまつりごとですから。

「神のみこともち」とは、
神と人との仲立ちをする者。神意を人に伝える者。というほどの意味でしょう。

ところで、下の写真はこの阿知賀神社拝殿に掲げられている絵馬です。
どこかで見たような絵柄と思うですが、思い出せないのです。
大変迫力のある絵馬ですが、何がモチーフになっているのでしょう。
絵馬額には「明治二十三年奉納」とあったように思います。
絵には、連銭芦毛の悍馬と大男に少年が描かれています。
ここに描かれている大男は泥棒でしょうか?
大男は大太刀を二本腰にに差し、一本は鞘に入れたままで、少年の抜き身の太刀を受けています。
大男は大太刀を盗み、そのうえ馬まで盗もうとしているのでしょうか?
「逃がすものか」と、とうてい勝てそうにない相手に少年は果敢に斬りつけています。
「おいおい小僧、怪我するなよ」とばかり、この大男の表情は優しげに見えます。

昔から知られた物語の一場面なのでしょうが、思い当たりません。
どなたかご存知の方、お教えくださいませんか。


 

吉野の神社

投稿者:やさか 投稿日:2011年11月23日(水)
  このところ吉野郡は、下市町に所在する神社を訪ねています。
その多くの神社は、八幡神社を名乗っているのですが、特に古い歴史と伝統を感じさせてくれます。
たいてい宮山と呼ばれているような里山の上にあるので、
道路沿いの境内入口から急斜面の石段を上って社殿にたどり着きます。
どの神社も手入れが行き届き、神前の榊も新鮮で青々としたものが供されています。
境内で人に出逢ったことはないのに、どこに行っても枯れかけた榊を見たことはありませんでした。
神職の方は常勤ではないようですが、祭祀は厳格になされているように感じます。

下の写真は、善城・八幡神社:http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/info/zenkihatiman.html
の石段の一部です。上等の石材で加工され素晴らしい石組みがなされています。
そして、この神社の拝殿前には土俵が設えてありました。
古くは秋津里(あきつのさと)、安騎野(あきの)、桃花里(つきのさと)とも呼ばれたというこの地には、
大字ごとにこのような立派な神社があるのです。
例えばこの善城・八幡神社の北700メートルには同規模の下市・八幡神社が鎮座しています。
元は八幡神社ではなかったと考えられます。
部族の数だけ神社があったと言えるのではないでしょうか。
阿知賀・岡峰古墳の出土品からも分かる通り、この地は古くからに多くの入植者があり、
最も開けた地域の一つであったと言えると思います。  


 

柿の里の神社

投稿者:やさか 投稿日:2011年11月 9日(水)
  しばらくの間とだえていた神社めぐりを再開しました。
手始めに西吉野、富有柿の里に熊野神社を参拝。
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/info/yusiokumano.html

五條市西吉野町は全国的に有名な柿の産地です。
なかでも富有柿は日本一の産地で、これからが収穫の本番を迎えます。
そのような時「JA奈良県西吉野柿選果場」の直売所に富有柿を買いに行ってきました。
そこは銀峯山北麓の柿畑の真ん中にあります。
訪れたのは早生種の平種無柿が終わって富有柿が出始めた頃でした。
店頭に柿が並びはじめる朝に大勢の人が買い求めに来て、
美味しそうな柿からどんどん籠につめて買い上げられて行きます。
何に使うのか皆さん大量に買い求めて車に積み込んで帰っていかれます。
富有柿がいちばん美味しいのは、11月末から12月初め頃に実ったものでしょうか。
【JA奈良県西吉野柿選果場】
http://www.nishiyoshino-kaki.com/

●下の写真は直売所の風景(撮影は11月3日午後)
 

お願い

投稿者:やさか 投稿日:2011年11月 8日(火)
  「吉野へようこそ」で検索しますと、
① http://www.yasaka.org (ドメイン)
② http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/
   以上の二つのアドレスが表示されます。
このうち①は、ドメインアドレスですが、このアドレスから入りますと表題目次以下の
●各頁のアドレスが表示されません。
憶えていただき易く、便利な短いアドレス表記を求めて取得したドメインですが、
管理人・私の頁登録の組立て不備のためか、各ページのアドレスが隠れてしまっています。
それで、もし当方HPの個別の頁にリンクを貼ってくださる場合など、個別の頁のアドレスが必要な場合は、
●非ドメインの②からお入りくだされば個別のアドレスが表示されます。
お手数ですがどうかよろしくお願いします。
 

“かりん” ―馥郁とした芳香―

投稿者:やさか 投稿日:2011年11月 7日(月)
  サンマルク(国道309号線)を走っていて、御所市戸毛で道路脇の神社の石柱を見、大倉姫神社に参拝しました。
帰宅してからネットで調べると「神奈備にようこそ」さんのサイトで、すぐ近くの吉野口駅前の地にも同じ社名の神社があることを教わり、別の日に改めて古瀬の大倉姫神社に訪れました。
http://kamnavi.jp/as/katuragi/ookura.htm

小さな境内に入ると、なんとも言えない良い香りが漂ってきます。
見ると、せまい境内いたるところに花梨(かりん)が転がっているのです。馥郁とした芳香はそのせいでした。
参拝してデジカメ撮影したあと、数個戴いて帰りました。
車の中に一個、居間と寝室に飾って毎日その香りを楽しんでいます。

ちなみに、『世界大百科事典』平凡社によりますと、
――「かりん」は、枝にとげのない中国原産の落葉高木。バラ科。…果実は長さ10~15㎝…食用にはあまり適しないが、かおりがよく果実酒のよい材料となる。中国では昔から薬用とし、衣類に香気をつけるためその中に果実を入れ、または飾りとして色と香気を楽しんでいる。材は床柱、家具、さし物、こうもりがさの柄などに用いる――とありました。
 

前日の続き 靈山寺バラ園

投稿者:やさか 投稿日:2011年10月31日(月)
  靈山寺バラ園の薔薇の花は、とても綺麗でした。
「バラは真紅が一番!」…と私は思います。
日本の紅いバラは「宴」、フランスの紅いバラは「チンチン」が見事でした。
 

靈山寺鎮守社

投稿者:やさか投稿日:2011年10月30日(日)
  秋晴れの土曜日、登美山の靈山寺鎮守社と菩提僊那の墓にお参りしました。
奈良市中町またの名、鼻高山霊山寺はバラ園でも有名ですが、
東大寺大仏を開眼したインドバラモン僧、菩提僊那(センナ)が余生を過ごした寺としても知られ、
重文・三重塔すぐ後ろの小山には僊那上人の墓があります。
また、境内北の高台には、十六所神社が南面して鎮座しています。
この神社は靈山寺の鎮守社で中央に本社殿。向って左に春日社、住吉社、
右側に龍王社、大神宮と五社が横一列に並んでいました。明治以前には割拝殿があったそうです。
中央の三社は、至徳元年(1384)の建立との棟札があり重文とのことです。
ここは寺にも拘らず、境内入口の大鳥居の他にも朱色も鮮やか鳥居が数ヵ所に建てられていました。
ここは随分ユニークなお寺で、「薬師湯」というお風呂や、懐石料理・宿坊などがあります。
他にも、境内にはバラ園やゴルフ練習場などもあって、大勢の参拝客で賑わっていました。






国旗掲揚

 投稿者:やさか  投稿日:2011年10月13日(木)
  家で押入れの片付けをしていて「國旗凾」と金文字の入った漆塗りの黒い小箱を見つけました。
百貨店の古い包装紙に包まれていたので、今まで広げて見たことがなかったのです。
たぶん、今の家に引っ越して来た時、亡き母がしまい込んだものと思います。
包んでいた紙を剥がし取って出てきたのが下の写真です。
箱の表には、以下のように書かれています
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

        國旗凾
      ――――――
       國旗掲揚日
      ――――――
●四方拝  一月一日
●原始祭  一月三日
●新年宴會  一月五日
●國旗制定記念日 一月二十七日
●紀元節  二月十一日
●地久節  三月六日
●陸軍記念日  三月十日
●春季皇靈祭  三月二十一日
●神武天皇祭  四月三日
●天長節  四月二十九日
●靖国神社祭  四月三十日
●海軍記念日  五月二十七日
●支那事變記念日  七月七日
●秋季皇靈祭  九月二十三日
●始政記念日  十月一日
●神嘗祭  十月十七日
●靖國神社祭  十月二十三日
●明治節  十一月三日
●新嘗祭  十一月二十三日
●皇太子殿下誕生日  十二月二十三日
●大正天皇祭  十二月二十五日
―――――――――――――――――
      創立十周年記念
保証責任 大和繭絲販賣購買利用組合
―――――――――――――――――
※書かれている文字は以上。
※ちなみに地久節は皇后誕生日、天長節は天皇誕生日、明治節は明治天皇誕生日のことで、大正天皇祭は大正天皇崩御日の靈祭のことです。また、春と秋の皇靈祭はそれぞれ春分・秋分の日であり、新嘗祭の日は勤労感謝の日として残されています。

箱の中からは、日章旗と飾り玉(旗竿のてっぺんに付ける国旗玉)が出てきました。
これは、おそらく戦前に繭糸関係の組合から貰ったものと思われます。
私が子供の頃でも、正月など門口に掲げられていたような記憶があります。
日の丸を出してみると、薄汚れて黄変しているような感じだったので、まず慎重に水で手洗いしました。
布は破れもせず、大丈夫のようだったので、洗濯機で「最弱」にして洗剤で洗いました。
その後、アイロンを低温でかけて皺を伸ばすと何とか掲げられそうになりました。
布は真白ではなく、淡いクリームをしています。そして目のさめるような日の丸の紅色。
布は幾分変色しているようですが、なにせ貰った先が繭糸組合のようなので、或いは絹布製品かも知れません。

もうすぐ、伊勢神宮の神嘗祭が始まりますね。
「日の丸は侵略戦争の旗印だ」…という人達もいるようですが、
「日章旗は日本の誇り、平和を願う日本人の心の象徴」だと私は思います。
日本国民が日本国旗を掲揚するのは、まったく普通の行為であることは言うまでもありません。

この古い国旗を見て、改めて「日の丸」はいいな、と思いました。
70年以上も経ているのは確かなのに、赤が鮮やかなのです。
せめて正月と天皇誕生日くらいは、忘れずに“国旗掲揚”しょうと思ったのでした。

■10×10×21センチ位の黒色・漆塗りの木箱↓
 

日本の聖地

 投稿者:やさか 投稿日:2011年 9月28日(水)
  日本には、特に大切な聖地が二つあって、ひとつは海辺の聖地伊勢、
もうひとつは山辺の聖地高野だと、私は思っています。
聖地伊勢とは、言うまでもなく伊勢神宮に代表される神宮の森一帯で、
聖地高野とは、高野山・奥之院に代表される宗教施設のある全域です。

現在、高野山といわれているこの地は、古くは高野(たかの)と呼ばれ、
また或いは高原(たかはら)、高天原(たかあまはら)とも謂われたと想像できます。
正に天に開けた高地だからです。
空海は遣唐使の一員として入唐しましたが、留学僧に選任される以前に、
この地を訪れていたことが『性霊集』に記されています。
おそらく若き修行時代に山伏の一員として訪れたことがあったのでしょう。
あるいは、優婆塞として仏道修行の頃、山人の案内で高野山に来たのかも知れません。
ここは標高1000メートルもの高地ですが、盆地となっていて高原ながら水に不自由はありません。
峯々に囲まれたこの地にはじめて足を踏み入れた空海は、これこそ密教道場にふさわしい聖地だと
大いに喜び、ここに開創しようと心に刻んだに相違ありません。
そして後、帰国した空海は嵯峨天皇に上表して、念願通りこの高野の地を賜ったのでした。

さて、この若き日の空海さんを主役にした物語、大体書き上げました。
それで先日、書きあげれば足を運ぼうと思っていた高野山・奥之院に参詣してきました。
史書や伝記の記述を元にはしましたが、大いに想像力をはたらかせて若き凡人空海を書いたので、
或いは事実と異なる部分があり、空海さんに失礼になったやも知れません。
それで勝手に物語にさせていただいたお詫びと挨拶に参拝したのです。

●高野山・大門より西方の眺望

 

斜陽

投稿者:やさか 投稿日:2011年 9月18日(日)
  WILD TURKEY TRADITION ― Aged 14 Years ― を今飲んでいます。
ちょっぴり高いので自分では中々買えない代物です。
よう買わんのです。ですから貰いものです。

しばらく怠けていましたが、先程ラジオを聞いてちょっと久しぶりに掲示板書こうと思いました。
私がバーボン好きだと知って送ってくれた人のことを思い出してタイプってます。
…といいましてもタイトルの“斜陽”とは関係ありません。

今、正に日本は斜陽への道を歩んでいるかに見えます。そのような時、
先ほどNHK第二ラジオ放送で、太宰治の小説『斜陽』をぶっ続けで聞きました。
私が20代の頃、太宰治ブームであのデカダン?な作風がもてはやされました。
それで、ご存知『人間失格』など何作か読んだのですが、『斜陽』はあまり記憶に残ってなかったのです。
そして当時私は太宰の作品は好きではありませんでした。
ところが何気なくつけたラジオの朗読小説、太宰の『斜陽』につい引き込まれました。
味のある、いい小説だと思いました。奈良岡朋子氏の朗読の良さと相まって
一時間も聞き入ってしまいました。
この小説は作家、太田治子の母・太田静子の日記が素材になっているとも言われているようですが、
もしそうだとしても太宰の作家としての味付けが良いからでしょう。
三島由紀夫なども、言葉づかいが登場人物(没落貴族がモデル)と合わないと言っていたようですが、
小説では言葉づかいを当時そのままという訳にはいかないと思います。
でも私は好い小説だと聞き惚れました。奈良岡さんの朗読に酔ったのかも知れません。

ところで、近年の直木賞、芥川賞の受賞作の中には「これが受賞、何故?」と
私には首を傾げる作品があります。自分に理解力がなく、良さが分らないということでしょうか。
『限りなく透明に近いブルー』に始まり、『蛇にピアス』等々。最近では『アサッテの人』などが
私にはその良さが分らないのです。
小説も時代とともに人気の傾向が変わってくるのでしょうね。

良い小説の良い朗読を聞き、上等のバーボンを飲んで、久しぶりに書き込みしました。
もう少し飲んでから寝床にいきます。
 

吉野神宮へお参りしました

投稿者:やさか 投稿日:2011年 8月15日(月)
  今日8月15日は66回目の終戦記念日です。
終戦の年生まれの私は、実際にはこの日のことは生まれたばかりで知る由もありません。
でも、もの心がついた頃に聞かされたのでしょう、戦後当時の様々な事を思い出します。
敗戦国となった日本。上陸してきた鬼畜米英に大人の男は殺され、
男の子は去勢されるという噂が流れていたのでした。
もちろん、そこまでのことはありませんでしたが、連合国側・米軍の占領支配政策のもと、
戦前の日本の道徳や教育、価値観は全て否定され、自虐史観を植え付けられました。
間違った自由主義、個人主義を、巧妙に日本人へ刷込み、そしてそれは
社会の最小単位であった家族・家庭を崩壊させる原因になったと思います。
昭和30年代以降は、諸外国も羨むほどの経済発展を遂げましたが、
その時点から、現在日本が抱える「日本経済」と「日本人の心」の、貧困の問題点を胚胎していたのです。

昨今の日本経済の低迷衰退、災害の多発、凶悪犯罪の増加、政治の混迷等々を考える時、
日本を取り巻く環境は年々悪化の傾向をたどっているように思われてなりません。
様々なことを考え、「どうにかしなければ…」と思っても所詮、個人では無力という外ありません。
凋落一途の日本を救い、世界平和を推進する、“大和心”を持った有能な政治家の出現を祈るばかりです。

●暑さ真っ只中の吉野神宮にお参りしました。
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/info/jingu.html
ささやかなお祈りをささげた後、
数年前に天橘会の宮田紀子氏が奉納された<ヤマトタチバナ>が
どのように育っているか気になっていましたので覘きました。
地味が痩せているからでしょうか、あまり大きくは成長していないのですが樹勢は良さそうでした。
宮田さんは、全国の神社にヤマトタチバナの献木・奉納の活動を続けておられる方です。
↓ヤマトタチバナの稚木
 

吉野のアユ

投稿者:やさか 投稿日:2011年 8月 8日(月)
  吉野にアユを食べに行きました。
「のりちゃんず」のりちゃんさんのブログで、美味しい鮎の塩焼きの話題がよく出てくるからです。
宮滝遺跡の近くの道路沿いのお店とかで、場所の見当はついていました。
一度は行ってみたいと前から思っていたので、鮎の塩焼きが大好きな家内と屋台に立ち寄りました。
姿の良い食べごろの大きさの塩焼きは美味しく、家内は二本食べました。
ノンアルコールビールが置いてないので、運転手の私は良く冷えたお茶でがまん。
店頭に持ち帰り用の、「一夜干しの鮎」と地元で採れたという「ゼンマイ」があったのでゼンマイを2パック買いました。
私はゼンマイやワラビが大好物なんです。

ところで、吉野に来て、鮎でいつも思い出すのは『書紀』に出てくるあの有名な童謡「吉野のアユ」です。
もちろん覚えているのは部分だけで、「何とも意味不明な現代語訳だった…」と特に印象に残っています。
それで、今一度調べてみました。

/天智天皇十年(671)十二月の記事/
<原文>
美曳之弩能 曳之弩能阿喩
阿喩挙曾播 施麻倍母曳岐
愛倶流之衛
奈疑能母縢 制利能母縢
阿例播倶流之衛

<訓み下し>
ミエシヌノ エシヌノアユ
アユコソハ シマヘモエキ
エクルシヱ
ナギノモト セリノモト
アレハクルシヱ

<『日本古典文学全集』の現代語訳>
み吉野の、その名も吉野の川にすむ鮎。その鮎こそ、川の中州の清い瀬も結構だ。
だけど今の私はほんとに苦しいね。水葱の根もと、芹の根もとの浅い水。
私はほんとに苦しいね。

…全く意味不明な現代語意訳ですね。「ほんとに苦しい」説明文だと思います。
みなさんはどのように思われますか。
ほんとに上代日本語とは何なのでしょうね。


さて鮎の塩焼きに話を戻します。
実は…屋台で鮎を食べていて「店の感じが少し違う」思っていたのです。
帰ってから調べて分ったのですが、
何と…のりちゃんさんお薦めの「美味しい鮎の塩焼きの屋台店」とは違っていたのでした。
私たちが寄ったお店は、下市側から行って宮滝遺跡手前の左側。
行きたかったお店は、1kmばかり先の右側だったようです。
 

寂しい夏

投稿者:やさか 投稿日:2011年 7月22日(金)
  今日になって、やっと複数のセミの声を聞きました。
今年の夏は特に少ないように思います。
夏は喧しいほどに鳴くセミの声を聞かないと、ひときわ寂しい思いがします。

また、以前からツバメが少なくなっていると感じていましたが、
今年は、あの巣作り・子育てに励む愛らしいツバメの姿をほとんど見かけません。
私は20年ほど前に今の住まいに引っ越して来たのですが、
当時は、家から駅までに通る民家の軒先で飛び交う多くのツバメを見たものです。
長い旅路を経て戻って来ても、以前の家がなくなってしまっているという現実もあるからでしょうか?
ネコやヘビに襲われない巣作りに格好の軒下が無くなったからでしょうか?
子育てに必要な餌となる昆虫が少なくなっているのでしょうか?
大陸から渡って来る途中の条件が、年々厳しくなってきているのでしょうか?
日本ではカラスやヘビがツバメさんの天敵のようですが
あるいは、大陸で天敵となる猛禽類が増えているのでしょうか?
今年ツバメが少ないのは、今私が住んでいる地域だけなのでしょうか?

否、ネットで調べてみると全国的にツバメの数が少なくなっているようです。
様々な条件が重なってツバメの生息数を減らしているようですが、
でも、今年は特別に少ないように思うのです。
今年は何かがやはりおかしい…
すでに大災害を被っている日本ですが、更なる災害の予兆でなければ良いのですが。
 

66回目の夏

投稿者:やさか 投稿日:2011年 7月 8日(金)
  終戦から66年経た夏を迎えようとしています。

「戦後60周年総力特集 新証言、秘話満載/1945」と朱書きされた
「文藝春秋」2005年2月号の特集記事を読みなおしました。
そこには、どのように終戦を迎えたかの著名人の手記があります。
その中から山口淑子の寄稿文より。
/中国人女優・李香蘭が日本の敗戦を迎えたのは上海だった/

─「やっと戦争が終わった!これで中国も日本も、若い人たちが死なずにすむのね」
喜びが胸に溢れて、表に飛び出すと洋車(ヤンチョ/人力車)をつかまえ、
上海の町並みをぐるぐる走らせました。
町中が銅鑼を叩いて祝い、日の丸を引きずり下ろして踏んだり火をつけるのを見るうち、
いつしか私の頬に涙が伝っていたのは、李香蘭と山口淑子という、
二つの顔に引き裂かれる日々が終わったという思いだったかもしれない。
いえ、そこまで考える余裕はなかった。当時私は25歳。
このあと自分は軍事裁判にかけられ、死刑が噂されるなんて思いもしませんでした。─

…と書かれています。
事実、巷では李香蘭と東洋のマタハリこと川島芳子、東京ローズの三人が “漢奸” として死刑されると噂されていたようです。
(漢奸とは売国奴の意味なので、李香蘭は中国人と一般に認識されていたことが分かります)
結果的には、ロシア人女性の幼な友達から日本人形の帯に縫い込んだ戸籍謄本を届けられ、
日本人である物証が得られて軍事裁判での死刑を免れたそうです。
この手記によると、李香蘭の名は、父・山口文雄が義兄弟の契りを結んでいた李際春将軍につけてもらったものだそうです。
李将軍は、名目上の父「乾爸爸(カンパアパア)」でもあったそうです。
また、李香蘭は、下記の日本の要人とも交流があったことを記しています。

陸軍大将・山下奉文(マレーの虎)
陸軍中将・吉岡安直(満州国皇帝の側近)
憲兵大尉・甘粕正彦(後の満映理事長)
中華電映創立者・川喜多長政(後の東宝東和会長)
松岡謙一郎(当時の外相、子息)
野口久光、長谷川一夫、服部良一、等々。

●夜来香/李香蘭
http://www.youtube.com/watch?v=Dt7QJ9_nY38&feature=related
 

吉野三山

投稿者:やさか 投稿日:2011年 6月25日(土)
  ○吉野三山の標高訂正について

十年前に掲出した私のHPの記事の内で、
「吉野三山とは」: http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/sanzan_001.htm 及び
「吉野三山と三神社」: http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/3jinjya_001.htm の記事中、
金岳と銀岳のそれぞれの標高が、現在発表されているものと相違があるようなので以下に訂正しておきます。

[金岳]標高:517M → 531M(新しい計測ではこれが正しいようです)
[銀岳]標高:612M → 614M(        〃        )
[銅岳]標高:781M …訂正なし
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○吉野三山の神宮寺について

吉野三山に鎮座する神社には、それぞれ神宮寺があったことが知られています。ところが、
[金岳]波比売神社/金山寺
[銀岳]波宝神社/波宝神社神宮寺(寺名は不明)
[銅岳]八幡神社/雲仙寺
…と以上のように波宝神社の宮寺の名が不詳です。

社伝によれば、文化二年(1802)社僧寛教が奥の院建立。五百羅漢を石窟に祭る。というような記述や、
嘉永五年(1852)(有栖川家)妙勝定院宮より阿弥陀・薬師両尊に体内仏奉納の記事があるのですが、
この宮寺の名が記されていません。
また、役小角が修行したという古伝承から、修行したのは仏道ではないかと考えられ、
飛鳥時代から、ここに寺があったと思わされます。

最近、村の古老が残した郷土史の記録に、
「孝謙女帝の頃、750年位に海部峯寺が銀峯山に建てられたとする土地の口碑があった」
…とする覚え書きがみつかりました。
「海部峯寺」といえば、『日本霊異記』に出てくる寺名ですね。
私は充分そうであった可能性はあると思います。
この辺り吉野の山々には、海の残像の気配が濃厚にあるように思うのです。
銀峯に南接する竜王山には海津神社。金峯、銀峯の波比売・波宝の神社名。
また、波宝神社の祭神は海に所縁の住吉三神です。
ここの宮寺として、「海部峯寺(あまべのみねでら)」という寺名はぴったりだと言えるのではないでしょうか。
ちなみに、吉野町河原屋の大名持神社・神宮寺は「大海寺」でした。
吉野の山奥いたるところに、いにしえの海の残照があるようなんです。
 

生かす言葉

投稿者:やさか 投稿日:2011年 6月16日(木)
  関西師友協会発行の『安岡正篤 瓠堂語録集』より
──何が言葉を生かしたり、殺したりするか。いうまでもなくそれはその人の心情、心がけと教養であります。“一言人を生かし、一言人を殺す” そこで昔から挨拶ということがやかましく言われるのであります。
 挨拶のことをまた辭宜と申します。それを伸ばして仁義とも申します。侠客仲間などではこの仁と義の二字を用いまして、仁義を交わすとか仁義をきるということがとてもやかましい問題になっておって、一言でも無礼なことをしゃべりますと、納まりのつかない大事にたちいたるのが彼等の社會の常でありました。
 小にしては家族間から友達のつき合い、大にしては国家の外交まで、いかに辭宜・仁義が大切なことでしょう。
 しかるに現代人はいかにもこの大切な言葉づかいが、ひどく荒んでおるということは誠に残念なことであるし、また非常に弊害のあることであります。
『師と友』(昭和三十八年四月号)より
               以上、『安岡正篤 瓠堂語録集』より引用。ママ。
 

安岡正篤・一日一言

投稿者:やさか 投稿日:2011年 6月16日(木)
  『安岡正篤・一日一言』/心を養い、生を養う/とサブタイトルが付いた
この本の、今日の日付6月16日の項。
───人間が浅はかで無力であると、いわゆる「宿命」になる。人間が本当に磨かれてくると「運命」になる。即ち、自分で自分の「命」を創造することができるようになる。それを「命は吾よりなす」という。───同語録より
 

[此噺昨夜夢]コノハナサクヤヒメ

投稿者:やさか 投稿日:2011年 6月15日(水)
  以前にも同じタイトルで当掲示板に書いたことがありますが、昨夜も関連の夢を見ました。
今回は、
○○○インターナショナルという団体の日本事務所が引っ越しをしている所(夢ですからいきなり)。
何故か?と聞くと、「フジヤマ災害」と言うのです。
何時か?と聞くと、「LAST FRIDAY」としか言いません。

ふと、故、山内光雲氏の歌を思い出しました。
氏は、「歌は予言」と言っていました。そして予言(預言)は大抵音律を伴って伝えられるということです。
その歌の一部に以下の歌詞があります。

…山すべて動きーーー
汚れたる大地を をーーーーーー
清める波来て 山をむしり 崖を落とし 地の底にーー
悪しき土塊(つちくれ)を その割れたる赤き土の火の間に投げ込む
海狂うて叫び 風鳴いて走り 夏の空に火の花を咲かすとき
冨士山(ふじやま)動き その日がその周りの町 全て海の底に入るときーー
……

この歌から、季節は夏で夜であろう思われます。
氏は、この日は2000年前後の7月23日と言っていたのですが、その日はとっくに過ぎています。
以前より「全ての災害は世界に先駆けて日本に現れる」と言っていました。
実は、それを先延ばししてもらうのだと言って、天界に旅立ったのでした。
ちなみに、来月の7/22と7/23は、(金)(土)となります。
全く「荒唐無稽の話し」とも言われそうですが、気になりますので、ここに記しておきます。
 

天照大神と大日如来

投稿者:やさか 投稿日:2011年 6月 4日(土)
  大和・五條市の宇智陵へ初めて参拝しました。
参拝したその日は梅雨の合間の好天に恵まれ、五條市御山町の高台にある宇智陵は、美しく手入れが行き届いておりましたが
平日のことで訪れる人もなく、燦々と照りつける太陽のもとに、ひっそりと佇んでいました。
この宇智陵には、以前より特に興味があり是非ともお参りしたいと思っていたのです。
それは、この宇智陵は空海が開創した高野山の、まともに鬼門(東北)方向に位置するからです。
空海が作ったとも言われる「いろは歌」には、[トガナクテシス]という言葉が隠されています。
空海は裏鬼門(西南)の方向から、井上皇女親子の恨みを慰め、鎮魂を祈念していたものと私は思います。
「民衆が平安に暮らすためには国家が泰平でなければならない」 この考えのもとに、日本の国王である当時の天皇を守護していたと思うのです。
彼は桓武系の天皇4代に仕えました。第50代から第53代まで、桓武・平城・嵯峨・淳和と4代の天皇です。
その内、空海が最も愛されたのは嵯峨天皇で、空海も嵯峨天皇なくしてはあの名声は得られなかったと言っても過言ではないと思います。
空海が一途に願ったのは、民衆の安寧でした。そのためには国王が安泰でなければ、それはおぼつかないものと考えたからでしょう。
それは全く現代でも同様で、その国の国民が安心して暮らすためには、先ず以て国家が安泰でなければならないのは言うまでもありません。

ところで、空海と井上内親王には、大きな繋がりがあります。
共通の繋がりとは、それは日輪、太陽です。
空海は仏教の太陽の神・大日如来に仕え、井上内親王は伊勢神宮の斎宮として日の神・天照大神に仕えていたからです。

●井上(いのへ)内親王について───
この井上皇女(いのへのひめみこ 717―775)は、 聖武天皇の第一皇女で、は11歳から伊勢に斎宮として下向され、15年余も天照大神に奉仕していましたが、弟・安積親王の死を忌みて帰京、その後しばらくして33歳頃、白壁王(後の光仁天皇)に嫁がされたのでした。
ところが、皇后となって2年後、皇位をめぐる政争から夫天皇を呪詛したとして皇位を剥奪され、同時に息子の他戸親王も皇太子を廃されました。
その無実の罪を抗議して母子で憤死したようです。また或いは暗殺されたのではないかとも言われています。(井上内親王59歳、他戸親王15歳頃?)
この事件の後、皇太子に立てられたのは山部親王(のちの桓武天皇)でした。
他戸親王は、天武天皇の曾孫の娘・井上内親王と、天智天皇の孫・白壁王の間に生れた皇子なので、次期天皇として最も理想的な、高貴な血筋であったといえます。もちろん順調なら第50代天皇は他戸親王が即位していたはずなのです。

冤罪で死んだ井上内親王は怨霊となって祟り、竜に変身して藤原百川を蹴殺したとか、様々な天変地異が起こるのは井上内親王の恨みの故と恐れられ、桓武天皇は宇智郡(現在の五條市)に御陵を改葬したり、吉野皇太后の称号を贈るなど、怨霊しずめをしたのでした。
(また桓武天皇は、弟の早良親王をも冤罪で餓死させたことから、早良親王の怨霊にも悩まされ、平城から長岡へ、そして山城の平安京へと逃げるように遷都を続けたのだともいわれています)
 

若き日の空海さん

投稿者:やさか 投稿日:2011年 6月 2日(木)
  仮称:『もう一つの空海物語』、約200枚ほど書きました。
これを推敲して冗長な部分を除き、更に校閲・校正をして150~180枚位までに纏めたいと思っています。
今回はネットで公開せずに、おこがましいことですが投稿しようかと思っているからです。

入唐以前の若い時代の空海を描いてみようと思い立ったのは、
昨年10月高野山に一人旅をしたときでした。
高野山・霊宝館の「秋期企画展」を観て、30年ほど前に泊まったのと同じ宿坊で
独り酒を飲みながら持参してきたモバイル・ノートに数行を打ち込んだのがきっかけでした。
それから、空海に係わる伝記や小説などを、以前に読んだものも含めて読み直しました。

2月初め頃から、空海ゆかりの地を訪ね歩いてメモを取り、プロットを創りました。
実際に物語の執筆を始めたのは4月21日からです。
一ヶ月で約200枚を書き上げ、それをこの程180枚に纏めた上で、尊敬する先輩に今読んでいただいています。

「若き空海」、つまり入唐以前の空海を書く上で、一番のテーマにしたのが青年僧と恋の問題です。
空海は、宗教者として偉大なだけでなく、一人の男性としても魅力にあふれる「男」だったと思われます。
その卓越した知性といい、並外れた行動力といい、明るくエネルギーに満ち溢れた人だったと想像されます。
そのような人物が生涯女性を知らなかったはずはないと思うのです。
また、多くの女性が空海に思いを寄せたのではないでしょうか?
まして得度前(20歳頃?までは未出家)の空海さん、恋をして当然と言えます。

一方の最澄さん、この人は生涯女性を身辺に近づけなかったような気がします。
最澄、空海、二人とも生涯妻帯はしていませんが、女性観はかなり違っていたように思うのです。
『理趣経』にもいうように空海密教は、必ずしも女犯を厳しく咎めることはなかったと言えましょう。

もう一つ、この物語で問題にしたのは、「虚空蔵求聞持法」の秘術です。
この記憶力を増大させるという秘法を、空海はどのようにして成満させたのでしょう。
また、求聞持法の修行とは、具体的にどのような修行なのかに焦点を当てて描いてみました。

○今のところ、何度見直しても、気にいらない箇所が見つかり、自信の持てる作品にはなっていません。