Re: 丹生川上神社下社 例大祭

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 5月27日(金)
  自己訂正です。
下記の「丹生川上神社下社」の記事中、平成23年6月1日は火曜日ではなく、正しくは水曜日でした。
失礼いたしました。お詫びして訂正いたします。

×と き:平成23年6月1日(火) 午前10時より
○と き:平成23年6月1日(水) 午前10時より


 

丹生川上神社下社 例大祭

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 5月26日(木)
  丹生川上神社・下社の例大祭が来たる6月1日(水)斎行されます。
当日は年に一度の、きざはしを昇って上部本殿への参拝が出来る日とのことです。
【丹生川上神社 例大祭のご案内】

と き:平成23年6月1日(火) 午前10時より
ところ:丹生川上神社下社
     所在地:奈良県吉野郡下市町長谷1
     交 通 :近鉄吉野線下市口駅下車、天川方面行きバス約40分
      くるま:国道309号線沿い 駐車場あり
お問い合わせ:TEL.0747-58-0823


↓丹生川上神社(下社)
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yasiro_003.htm
 

震災義援金

 投稿者:やさか 投稿日:2011年 5月26日(木)
  昨日、歯科医院の待合室で週刊誌を見て、まさか?思うようなことを知りました。
それは、週刊現代 2011年5月28日号の記事で、
ソフトバンクの創業者孫正義氏が発表した、東日本大震災の被災者支援で、
義捐金100億円を寄付すると発表しておきながら、発表から1ヵ月半が過ぎたのに
未だ1円の送金していないというような報道されています。
どのような事情があるかは知りませんが、発表した以上せめて半分でもすぐに寄付しないと名がすたるのではないでしょうか。
反響が大きく、さすがは時代の寵児ともてはやされ、絶大な宣伝効果を上げたはずです。

また義援金といえば日本赤十字社も、全国から集まった凡そ1,300億円の義援金を一向に配分する気配がないようです。
何か赤十字社の組織自体も何か不透明感があるように私は思われてなりません。
こうした特殊法人の会計決算はどうなっているのでしょう。まったく庶民からみれば「闇の中」という外ありません。
街頭で集めた善意の献血はどのように流通して、必要としている患者さんに届けられているのかも疑問です。
まさか仕入れ無料の新鮮な血液を、病院に売っているのではないでしょうね?

大震災の被災者あての義援金jは、
日本赤十字社や、同社を経由する窓口に送金したりしないで、
直接地方自治体に送ったほうが、配分も早くて良いと思うのですが如何でしょう。
 

Re: 空海さん(物語の周辺4)

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 5月 7日(土)
 
5月3日付の書き込みの間違いに気付きました。
下記の部分を訂正します。

> でも、空海より遙かに上の僧であったとは言えないと、私は思うのです。
> では何故そう思うかですが、空海は遣唐使船の第一船に遣唐正使と同船したこと。
> 対して最澄は第二船に遣唐副使と乗っていたことが挙げられます。

この記述の中に間違いがあります。
遣唐副使は、正使とともに第一船に乗っていったようです。
ちなみに正しく表現すると、

「第一船に、遣唐大使・藤原葛野麻呂、副使・石川道益、橘逸勢、空海らが乗船し、第二船に判官・藤原清公、最澄、最澄の弟子の義真、最澄の通訳らが乗った」ということになります。

 

空海さん(物語の周辺7)

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 5月 6日(金)
  次は物語の蛇足、余話です。

●空海はどこで唐語や梵語を学んだのだろう。入唐してすぐに空海は不自由なく、唐語を操ったようである。
また都長安に上って、恵果和尚に会って、伝法灌頂を受ける際にも梵語に齟齬をきたさなかったようだ。
そのことから、日本国内にいる時、よほど唐語や梵語の修習に励んでいたと考えられるのである。
唐に実際足を踏み入れても、普通はとても一年や二年では外国語である唐語を自由に操れるものではない。
日本国内で集中的に習練したと考える方が自然である。
当時日本の平城京は紛れもなく国際都市だった。唐の長安ほどではないにしろ多くの外国人が往還していたのである。
唐語や梵語を習うのに、それほど教わる相手に不自由はなかったのかも知れない。

●密教も現代の私たちが考えているより前に渡来していた可能性がある。
道鏡、玄昉らがその密教の系譜である。
「でもそれらは雑密であり、旧密教だ」とする考えもあるようだが、区別が曖昧である。密教には違いないのである。

また、奈良には多くの渡来僧が居た。例えば、時代は遡るが、
聖武天皇が建立した東大寺大仏殿の盧遮那仏の開眼をしたのは、インドバラモン階級の僧、センナ(菩提僊那)だった。
天竺より日本の大仏の開眼のため渡来したインド僧のセンナは、奈良で余生を過ごしたとも言われている。
(その寺は現在、バラ園で有名な「霊山寺」である)

●現代の我々が全く知らない無名の僧や知識人が、想像以上に多く渡来していたと考えられる。
一部の羅馬系の人や、胡人や唐人、朝鮮半島から渡来した多くの人々がいたと思えるからである。
奈良時代から平安時代にかけて、多くの人々がこの列島に渡り来たことは間違いないところである。
遣隋使、遣唐使、遣渤海使・渤海使には多くの随員が付き従っていたはずでもある。
また遣唐使船の一員として入唐した者が、現地の女性との間にもうけた子供を伴って帰国した例もある。
(例えば玄昉の弟子、元興寺の浅野魚養は、吉備真備が在唐時の落しだね胤とも謂われる)
そのような訳で、当時の有名な大寺や都の政庁には、外国語を話し、読み書きできる多くの人人が居た可能性は大きい。
事実、大安寺や元興寺には多くの渡来僧が居住していたらしい。
吉野の比曾寺は、さながら中国寺院のようで、ひとつの治外法権的な権限を有していたとの説(村岡 空氏)もある。
奈良はたしかに「シルクロードの東の終点」と言えるのである。
それはご存知正倉院の宝物を見てもわかる。
 

空海さん(物語の周辺6)

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 5月 5日(木)
  神祇信仰にも篤い空海さんに惹かれます。

30代初め密教ブームの頃、空海さんに傾倒して高野山で修行の真似事をしたことがありました。
もう、30数年以上前の、季節は八月の終わり頃だったと思います。
日課のひとつに水行があるのですが、その水が随分冷たかったことを覚えています。
「南無大師遍照金剛」と繰り返し唱えていると、足もとに小魚がすり寄って来たのを憶えています。
人に近づくと僅かでも水温が暖かいからでしょうか。
上を見上げると梢越しに陽光が差し込んで来て、意味もなく涙があふれてくるのです。
あれは何なのでしょう。人もまた生き物の内のひとつ、
生かされているという歓びでしょうか。哀しみでしょうか。


“生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し”

              空海著『秘密曼荼羅十住心論』略本、『秘蔵宝鑰』より
 


空海さん(物語の周辺5)
投稿者:やさか  投稿日:2011年 5月 4日(水)
  空海さんは、唐の文人も驚くほど文筆に優れ、皇帝から「五筆和尚」の名を賜ったそうです。
『高野大師行状図画』には、両手両足と口で五行の書を同時に書いている絵がありますが、
これは全く荒唐無稽な話で、五つの書体を見事に書いたという意味だと理解すべきでしょう。
でも実際驚くべきことに、篆書・隷書・楷書・行書・草書のほか、様々な雑書体にも巧みだったようです。
書家の飯島太千雄氏の研究によれば、24歳で執筆した『聾瞽指帰』で既に、垂露、懸針、龍爪、虎爪などの
雑体書法を見事に駆使しているそうです。
また空海は漢詩もつくっています。(下記)
…………………………………………………………………
後夜聞佛法僧鳥/空海

閑林獨坐草堂暁
三寶之聲聞一鳥
一鳥有聲人有心
聲心雲水倶了了
…………………………………………………………………
夜明けに仏法僧鳥を聞く  /空海の漢詩(七言絶句形式)

閑林に独坐す、草堂の暁。
三宝の声、一鳥に聞く。
一鳥声有り、人こころ有り。
声心雲水、ともに了々。

空海が後年、高野山に常住していた頃の作どと考えられている。
『空海「三教指帰」』加藤精一訳には、次の説明が付けられている。
「コノハズクの啼き声は仏法僧という仏教で最も大切な三宝をあらわしている。鳥の声もそれを聞いている自分の心も、流れる雲も逝く水も、大日如来の活動そのものではないかと嘆じている」
 

空海さん(物語の周辺4)

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 5月 3日(火)
  空海さんと最澄さんについて書きます。
空海さんについて書きますと、比較上最澄さんに触れないではすまされません。

最澄は、近江国滋賀郡古市郷生まれで空海より7歳ほど年長。幼名を広野といったようです。
父は、三津首百枝と伝えられ、後漢王族の血を引く渡来人の家系と言われています。
空海と最澄を比較して、一般的に言われているのは、
最澄は当時の宗教界にあって、空海とは比較にならないほどの地位の高い僧侶だった。
一方、空海は入唐して恵果阿闍梨に会い、金胎両部の密教をすべて継承して帰るまで、
ほとんど無名だったように言われています。
最澄は、桓武天皇の篤い庇護を請け、大いに期待された高僧だったと言うのですがはたしてそうなのでしょうか?

最澄は、桓武天皇に特別目をかけられ期待された一流の僧であったことは事実でしょう。
でも、空海より遙かに上の僧であったとは言えないと、私は思うのです。
では何故そう思うかですが、空海は遣唐使船の第一船に遣唐正使と同船したこと。
対して最澄は第二船に遣唐副使と乗っていたことが挙げられます。
思うに、第一船の方が船体も堅牢で装備も良かったのではないかと思うからです。
又それより先に最澄が乗船して渡海した時、遭難して九州に戻って待機していた経緯があります。
普通は失敗を忌み嫌い、すぐには乗船させないことが多いのが通例のようでもあります。
そのようなことからも、実際は最澄よりも空海の方に、より大きな期待を寄せていたと思えるのですが如何でしょう。

空海と最澄を比較すると、帰国以前は遙かに最澄が上だったというのが通説のようになっていますが、
その経歴を比較するなら、むしろ空海の方が入唐以前から上位だったのではないでしょうか?
五位以上の位階の師弟でなければ入学出来ないと言われた難関の、日本で唯一の大学寮に入学し、
高級官吏になれるほどの高等学問を学んでから、僧侶を目指した第一級の知識人が空海なのです。
渡唐以前、空海は伊予親王に渾身の上申書ともいうべき『聾瞽指帰』を手渡しています。
それが伊予親王の手を通して桓武天皇に渡っていることが濃厚です。
あの卓越した文書(戯曲風論文)を見た桓武天皇の驚きぶりが見えて来そうな気がします。
なにせ僅か24歳にして、唐の文人も驚くほど巧みな四六駢儷体で、存分に儒・道・仏、三教の優劣を論じています。
後に入唐した際、遣唐大使の代筆をして唐の高官が驚いたのが納得できるというものです。
王義之の書風を我がものにし、そればかりか、あらゆる雑書体を駆使して、見事に書き上げているのです。
おそらく、それを見た者は最高の評価を下したに違いありません。
空海の渡唐以前を見渡すと、この『聾瞽指帰』を上表した後より、空海の消息が消えていることからも、
入唐のための準備に入っているように思えるのです。
おそらく改めての四書五経の修習はもちろん、唐語や梵語を渡来僧や留学僧から懸命に習得していたに相違ありません。

あえて空海・最澄を並べて、その出自から比較するなら、
空海は、列島土人(ネイティヴ)の選良であり、最澄は渡来人系の選良と言えるのではないでしょうか。
いずれも平安時代初期宗教界の巨人だったと言っても誰も異存はないでしょう。
特に空海は、宗教の枠を超えた偉大な人物であったと誰もが認めるとところだと思います。
 

空海さん(物語の周辺3)

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 5月 2日(月)
  空海さんの父方の先祖について書いておきます。

空海の父、佐伯直田公は讃岐国多度郡の地方役人だったといわれます。(戸主は道長)
一般的に佐伯氏には二流あって、一は中央の「佐伯宿彌氏」。もう一つが讃岐の「佐伯直氏」といわれています。
ところが、『新撰姓氏録の研究』佐伯有清著によりますと、他に佐伯造氏、佐伯連氏、佐伯首氏の氏族がいたことが分かります。
『新撰姓氏録』には、
「佐伯直。景行天皇の皇子、稲背入彦命の後なり。…中略…己等は是れ日本武尊の東の夷を平けたまひし時に、俘にせられし蝦夷の後なり。針間、安芸、阿波、讃岐、伊予等の国に散け遣され、仍りて此に居る氏なり。後に改めて佐伯と為き。といふ。…以下略」。
また、「佐伯宿禰。大伴宿禰と同祖。道臣命の七世孫、室屋大連公の後なり」とあります。
『日本姓氏大辞典』丹羽基二著には、
「[佐伯(さへぎ)]さえき。種族姓。職業姓。古名族で大伴氏族。もともとサエグとは、障でこの族が荒々しい夷族であったことからくる。大伴氏の配下に属し、軍事に当てられる。播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波が古代佐伯部の本拠地。後代の氏はこれらの族の居住地からこるものが多い。」とあります。
つまり、空海の父方の先祖は蝦夷だったということになります。

もう一方の中央の佐伯氏…この氏族には造東大寺司次官にもなった佐伯宿禰今毛人がいますが、
この氏族も元の先祖は蝦夷だったのではないかと思われます。
つまり、空海と同じ蝦夷の出自ではあったが、いち早く帰順して中央で出世した一族ではないかと思うのです。
平城京の外京、元興寺の近くに佐伯院という佐伯宿禰の氏寺がありました。
空海は元同族のよしみで、そこに度々足を運び、佐伯宿禰一族の世話になったことと思われます。
 

空海さん(物語の周辺2)

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 5月 1日(日)
  弟子や信徒に遺したとされる『御遺告』や、高弟の真済が著わしたとされる『空海僧都伝』にも、
空海の幼名は真魚であったとは記されていませんが、この物語ではその他の伝記などと同様の真魚とすることにしました。
さて、この「真魚」ですが、幼年期から京の大学を出奔するまでと、そして24歳で『聾瞽指帰』を著わしてから
31歳で入唐するまでの10年間くらいがよく分かっていません。
そこで、この不詳の10年間(若き空海の謎)を物語にしようと思っています。

『續日本後記』の「空海卒伝」(承和2年3月21日と25日の条)には、
「…年十五舅従五位下阿刀宿袮大足。讀習文書。十八遊學槐市。時有一沙門呈示虚空蔵求聞持法…」とあります。
意訳すれば、「私は15歳のとき、伯父の従五位下阿刀大足に文書を習い、18歳で都の大学に学びました。ある時、一人の沙門から虚空蔵求聞持法を知らされました」と記されています。
歴史的に信頼できる記述としては、この空海卒伝の記事と聾瞽指帰ぐらいしかありません。
それで、ここから其の他の伝記を合せ類推し、想像を膨らませて物語にしようとしています。

では、幼年期から後の空海は何処でどうしていたのでしょう…?
續日本後記の記事では15歳から学んだとなっていますが、実際はもっと幼い4~5歳頃から手習いを始めたと思うのです。
学業の方も、本当は13歳で讃岐の国学に入り、16歳から都の大学寮に転学したのではないかとみています。
当時の入学年限は、国学も大学も13~16歳だったようだからです。
国学での学問に物足らずに転学した大学でしたが、そこでも儒教一辺倒の当時の授業内容に納得が行かず、
仏道修行を志して無断で大学を出奔したように思います。
それも、飛び出したのは大学に入学して、まだ二年にもなっていなかった頃のように思うのです。

それから真魚はどこへ行ったのでしょう。
これからが「もう一つの空海物語」のはじまりです。
 

空海さん(物語の周辺1)

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 4月30日(土)
  2月14日から、この掲示板で空海さんに関わる書き込みを続けています。
ここで、仮称:「もう一つの空海物語」を書く上で、その背景となる周辺を記しておこうと思います。

●名前について・・・・・
実名(諱名)は、この時代に於いても秘密だったようなので不明です。
俗名は、この物語では「幼名は真魚といった」という説を採ります。
のちに無空、教海、如空などと自称し、最終的に「空海」としたようです。

●父母について・・・・・
『續日本後記』には 「法師者。讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。」と記されているのみですが、
後の伝記などに従い、「父は佐伯直田公。母は阿刀氏の娘阿古屋」の説を採ります。

●何時、何処で生まれたか・・・・・
一般的には、宝亀五年(774)6月15日、四国の讃岐国多度郡屏風が浦で生まれたとされています。
でも『續日本後記』の入寂の年から逆算すると宝亀四年(773)の生れとなります。
また6月15日の生月日については、不空の生まれ変わりとする説に基づいて、その入滅月日にしたのであろうとされています。
この物語では生誕地を、阿刀宿彌の本貫地、河内國渋川郡阿刀郷としました。

「では續日本後記に、“法師は讃岐国多度郡の人”と記されているのはどうなるのだ」
「續日本後記は史料として信頼できる」と前に書いたのは間違いなのか?」…などと言われそうですが、
この時代は妻問婚の時代なので幼年期は母の里で過ごしたものと思います。
一般的に父が認知?すると、その父の本籍地に入れられるのではないかと思うので、
「讃岐國多度郡人」という記述は間違いではないと言えます。
ちなみに空海は三男のようで、他に兄が二人、後に弟子となる佐伯直姓の弟もいたようです。
いずれも異母兄弟のようです。
 

空海さん(2月14日の続き)

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 4月21日(木)
  仮称「もう一つの空海物語」を書きはじめました。
それで、毎日のように空海さんのことを考えています。
まるで初めて恋をした青年のようにです。

前にも書きましたが空海さんは、やはり「秘匿の人」と思います。
弘法大師の生涯を知るための資料は数多くありますが、伝記などでは脚色しているのも少なくないようです。
史料として信頼がおけるものは『続日本紀』の「空海卒伝」と『聾瞽指帰』、そして「最澄の空海宛の書簡」くらいでしょうか。
弟子や信徒にのこしたとされる遺言書、『御遺告』も、全てが真実とは思えない箇所があります。
また、高野山地蔵院所蔵の『高野大師行状図画』や、東寺蔵の『弘法大師行状絵詞』などは、
明らかに宗門側の潤飾があるように見受けられます。
空海の手になるものでも、何やら本人自身が秘密めかしているようにも思われます。

それらの内より、若い時代の空海を知る上で信頼できる資料(史料)としては、『聾瞽指帰』意外には無いと思うのです。
唐より帰国してから聾瞽指帰を書き改めたと考えられる『三教指帰』は、本文は『聾瞽指帰』と同じですが、序と巻末の部分が違います。
これは本人が帰国後、表題を改めた際に加筆したもののようですが、ここは或いは真実ではないところがあるようです。
それで、入唐以前の “若き空海" を知るための唯一遺されている資料は『聾瞽指帰』のみと言えると思います。

入唐以前の「若き空海」を書こうとする筆者は、この聾瞽指帰の記述からその他の伝記を類推して、
大いに想像力を飛翔させ、この偉大な天才の悩める若き日々を、凡人の目線で書き綴ろうと思っています。
 

被災者お見舞い

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 4月 8日(金)
  三月三十日、東京武道館へ天皇皇后両陛下が被災者の見舞いに行かれた。
この時の写真を見たのだが、被災者の一部が天皇皇后が膝を屈して、見舞いのお言葉を掛けておられるいうのに、
あぐらをかいたままの失礼極まる人が一部にいた。被災者と雖も言語道断だといえる。
一部の日本人の道徳観は地におちている。
天皇ではなくとも、一般人でも見舞いに来てくださった人に対して取る態度ではない。
しかし、どうしてこのような状況に天皇を導くのだろう。お立場に対して今ひとつの配慮が欠けている。
宮内庁の一部の人たちに問題があるように思えてならない。

このことで、以前にも引用したが、産経新聞、平成18年2月6日朝刊にあった石原東京都知事の言葉を思い出す。
「何か災害が発生したような折、天皇が防災服を着て被災地に赴かれるなどということよりも、宮城内の拝殿に白装束でこもられ国民のために祈られることの方が、はるかに国民の心に繋がることになりはしまいか」と書いている。
誠に尤もな意見だと思う。
 

Re: 上海の音楽シーン

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 3月26日(土)
 
とても興味ある書き込みありがとうございます。
早速YouTubeで山口淑子の「夜来香」を聞きました。
昔は何度も耳にしていた歌ですが、ラプソディーも李香蘭も本当に魅惑的でしたね。

「東洋史研究」で、ふと思ったのですが、Teri_Wilhelm さんは、上田正昭先生に師事しておられたのではないですか?
それにしても、Teriさんの守備範囲の広さにも脱帽です。
 

上海の音楽シーン

 投稿者:Teri_Wilhelm  投稿日:2011年 3月26日(土)
   昨日ようやく「東洋史研究」のVol.69,No.3を開いた。文化史特集ということで、
3本の論文があげられている。曾布川さんのものはとても興味深く、坂井さんのベトナムの
ものも結構面白く読めた(斜め読み、です)。
 で、これは私の学んできたものにはほぼ重なるところがない、榎本泰子さんの「中国音楽史から消えた流行歌-もう一つの「夜来香ラプソディー」-。
 これは私には全くなじみのない分野ながら、1945年当時の上海音楽シーンを頭の中で再構築する上で、とても面白すぎた。この分野に知識がないので、あげられる事実一つ一つがとても新鮮で、笠置しずこの東京ブギウギに繋がる服部良一の動き、李香蘭の大戦末期の姿など、吸い取り紙のように事実がしみこんで行くと同時に、新アレンジ、ブギウギ要素のつまった「夜来香ラプソティー」を聞きたくなったことはいうまでもない。
 「魔都上海」というイメージから、「楽都上海」なるイメージも出来た。

 こういう専門誌なので、目に触れる機会は少ないだろうが、こういう専門誌でこういうこともなされている、ことを広報しておきたい。
 

震災 第2ステージ

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 3月25日(金)
  「やさか掲示板」が再出発した今年1月5日ーーー
「今年から来年にかけては、戦後の私たちが経験したことのないような未曾有の経済危機をもたらす暗雲が日本を覆うような気がしてなりません」
…と書きましたが、その杞憂が現実のものになってしまいました。
東北大地震、大津波に続く福島原発事故は日本経済に大打撃を与えています。
自分にできることと言えば、僅かな義援金を送ること、電力や灯油、ガソリンを節約することぐらいしかできません。
あとは、この国難に立ち向かえるよう日本人が心を一にすることを願うばかりです。

でも、希望がまったく見えない訳ではありません。
ここまで日本の産業界が大打撃を受けると、円高傾向だった為替も反転して円安に向かうのではないかと思わされます。
そして徐々に円安が進み、対ドル相場が1ドル100円を回復し、さらに進んで150~200円位に落ち着けば、
海外に移していた生産拠点も国内に戻り、国内の産業も以前の活況を取り戻します。
そうすれば低落していた株価も上昇して、穏やかな経済発展も期待できるようになると思うのです。
原点に立ち戻り、2、3年日本中が一丸となって努力を続ければ、
その向こうの山辺から、花の香が匂ってきそうです。
 

櫻本坊

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 3月21日(月)
  櫻本坊へ行ってきました。
ここは、奥駆け入峰の修行者が立ち寄るお寺としても有名です。
空海さんは、大学を出奔してから一介の優婆塞となって
修験の人々と一時期、生活を共にしたように思うのです。
修験(道)といえばその本尊、蔵王権現を祈り出したと伝わる役行者小角です。
そこで、役行者ゆかりの櫻本坊に巽良仁住職を訪ねました。
ご住職は、ご多用中にも拘わらず時間をとって親切にいろいろと話をしてくださいました。
仮称「もう一つの空海物語」のプロット構築に生かしたいと思います。

●↓櫻本坊境内/前鬼・後鬼を従えた「役行者像」


 

Re: 円高

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 3月17日(木)
  引き続いてのご投稿、ありがとうございます。

“唯可信斯高僧説”とでもいうべきTeri_Wilhelm さんの Intelligence に敬服します。
何でもご存知のようですね。ご専門は国際政治学…あるいは哲学でしょうか?
もっと何かと教わりたいところですが、
誰でも見ることのできる掲示板なので、内容が難しいこともあり、
また、私もつい余計なことを言いそうでもありますので、この辺でこの話題は引き上げさせていただきたいと思います。
どうもありがとうございました。
またよろしくお願いします。
 

円高補足

 投稿者:Teri_Wilhelm  投稿日:2011年 3月17日(木)
   地震の保険金の支払問題も今回の円高パニックに影響を与えていますよね。
 日本生命などをはじめ、生保、損保の連中が保険金を払うために海外資産を売って円に換えるタイミングに売りつける算段を描いているのは間違いないでしょう。

 円対ドル以外は、脛に傷持つ通貨が多いので、ポンド、ユーロ、AUドル、などは2月の水準に戻っているのはそれを裏付けている気もします。阪神震災の時も79円台になりましたので。しかしながらこの状態を一発逆転できる方法があります。原発のメルトダウンです。

 あってはならないことですが、福島はアウト、は当然として、死の灰は20~30分でアメリカ西海岸に達します。すると牽引しているアメリカ情報産業は壊滅的打撃をうけることになり、結果、アメリカはおしまいです。ヘッジの連中も同じくです。更に3~4時間後には東海岸を通り過ぎ、ヨーロッパにも注ぐでしょう。西日本は地球の自転の関係で無事です。海沿いなので、東日本も風による汚染は大きな広がりを持たないでしょう。会津くらいにあれば、話は違ったんでしょうが。

 これはSF的発想で起こって欲しいと思っている訳ではないことはお断りしておきます。というか、なくなられた「原発○勇士」の方の意志を無にしないことを望んでいます。
 

円高

 投稿者:Teri_Wilhelm  投稿日:2011年 3月17日(木)
   円高が進行していますが、当然というしかないというか、少しでもましそうなところへ
 リスク配分して再投資というのが、コンピュータの上で「金」ならぬ「数字」を動かしている連中の思考でしょうし、アイスランドやアイルランド、ギリシャで引き上げタイミングを逸したエスタブリッシュメントにとっては、メルトダウンさえ意識せざるを得ない、というか、そのことに関する記事で埋め尽くされているNewYorkTimes、WashingtonPost、TheTIMES、などを見ていると、不思議に思えますが、ユーロは先の3カ国にポルトガル、スペインという爆弾もあるので、危険性では円と代わりませんし、中国の目論む「21世紀の国際通貨」へも乗れない、のでしょう。東京市場は今買い材料がありませんよね、正直。下手すると製品が核汚染になるかもしれない会社の株を買うお人よしはいないでしょうから。やさかさんのは深読みじゃないでしょうか。要するに下の現象が収まっていない、ということでしょう。

 安心して投資できる先が無くなった、というのが、今の彼らの動きではないでしょうか。ちょうどトヨタの復活が本調子に入ったところだっただけに。対ドル以外も下がっているのですが、対ドルほどではなく、かなり戻ってきていることを考え合わせると、結局利息の安い円を借金しても集めて、それで高金利の商品(外国債券)を買うという流れが断ち切れて居ないからでしょう。ゼロ金利政策を続けていたら当然起こる事象なのを止めないから、としかいえないですね。正直海外籍の人を排除する仕組みを作らない限りストップできないでしょう。本来は日本の企業を助けるためのゼロ金利が、自由化経済のせいで、却って不況を作り出している、というか、銀行も問題ですね。確実に金利含めて返してくれそうな、外資には積極的に金を貸したり、代理人として、債券を組んだりするのに対して、日本の企業には条件つけてなかなか貸さない、これではどこの国の金融機関なの、といいたくなりますね、正直。

 これも目先のかねこそが金、で、将来入るかねは、くずでしかなく、夢語ってんじゃねえ、と踏み潰しているのは、まともな金融家のすることではないでしょうが。

 それにしても「かねがかたき」の世の中になったものです。
 

謙譲の空回り

 投稿者:Teri_Wilhelm  投稿日:2011年 3月17日(木)
   謙譲の美徳なるは、美しい。
 しかしながらこの時代には向かない。
 周りが悪魔に魂を売ったような世界では、肉食獣の中に草食獣が一匹という状況である、ともいえようが。善意は悪意の前に無力である。
 この国では人命よりも責任の所在が争点になっているのではないだろうか。東電でも、「誰が責任を取るんだ?」が事後処理よりも優先されていたように思える。
 未曾有(某さんのミゾユウ)の事態の中、責任回避のみが機能しているとも思える。円安もそういうところが見透かされているのではないだろうか。
 日本銀行は東大と一橋の草刈場であり、自分の任期の間責任を取るような事態が起こらないこと、起こったら無かったことにして店晒しにすること、を自家薬籠のものとして、エリート金融官僚化したといって差し支えない。前例にないことをやって問題が起こった時に「誰が責任を取る」の方が優先されている結果だろう。歴史に積極的にして失敗した方の事例が多いのが臆病にさせるに十二分な理由となろう。そもそも経済政策というのは劇薬なので、大抵その時は効いても後の副作用がこわい。
 政府も政府券を発行したのが、この間の戦争時だったこと、が災いしている。これを失敗したら戦時債券みたいな異常な事態を再現するから、云々という責任論が出てくる。要するに成功のシナリオを脳裏に浮かべることが出来なくなっているのである。
 福島の原発についても、肝心なところは直営でやるべきだったのを、労働者派遣法の改正が足を引っ張ったという気がしてならない。委託、派遣、の人たちが「もうあかん」のところですくんじゃったとしても人情として理解できぬでもないが、それがどんな結末を齎すかには気が回らなかったのだろう。またその後この下請け業者と東電で、責任の所在で悶着があったろうことは想像がつく。今の東電の態度も責任追及を恐れる余り、情報のかく乱をもくろんじゃった、という一面はあったろう。
 政府の方は第二次世界大戦トラウマが作用しているのではないか、と思われる。戦時中に余りにも企業体を半国営化、コントロール化においたことに対する反発と、「マスコミ」と証する志を感じられない連中からの攻撃を恐れて、踏み切れないのではないか。
 灯火管制の黒歴史があったので、逆に東電の唐突かつ具体性に欠ける停電に対しても指導力が発揮できないのは、WWⅡトラウマが作用しているといっていいのではないか。
 最近の日本政府の経済政策を担ったのはハーバードやMITで学んだ人が多く、アメリカ信仰が強い。彼らに棄教させない限り舵取りを戻すのは無理ではないか。
 ただやさかさんが指摘されるほど、計画的につぶしにかかっているのではないと思われる。彼らとても正直読みきれないと思えるのだ。アイスランドやアイルランドで損をした分の保険の一つと考えている、というか、リスク分配を図っているのだと思うのである。経済とは数式を使うが、数学ではない。パターンはあるが、公式はない。読みきれないからリスク配分して、今円をすておいて局面変われば、どーと攻勢、回収というところではないか。けちをつけるつもりではないが、微分積分のような曲線を生じるが、経済はインテグラルで書けはしない。そこは忘れてはいけない。経済政策というのは百年で見たら、成功したものは人類史上にないのだから。集団心理はこわい。
 ともかく謙譲の美徳はいいのだが、空回りして、「お人よし」になってはいけない、とつくづく思う。いま「お人よし」は食い物にされる「おバカさん」と同義であるという悲しい現実があるのだから。
 

大震災に寄せて

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 3月17日(木)
  Teri_Wilhelm さん、書き込みありがとうございます。
ご意見二つとも、大いに首肯できます。

一方、為替の動きが不自然に思います。
普通なら、大打撃を受けている日本の経済界を展望すると、円安になってしかるべきではないでしょうか。
それが本日の円は一時76円台、現在は79円台と震災後急激な円高で推移しています。
どうやら欧米のエスタブリッシュメント(Ruling classes)は、
この際、一気に日本を潰してしまおうと、こぞって円高誘導を仕掛けたように思います。
日本の産業構造をみると、円高に誘導する方が潰し易いからです。

哀悼の憂いを含んだ表情の奥に彼らの冷徹な目が光ります。
円高の対策に最も有効な方法は、日銀券を大増刷することです。
ところが、日本銀行とは名ばかりで日銀は彼らの傘下同様と思われます。増刷はしないでしょう。
それでは政府発行でと思っても、現状は少額の500円玉以下の貨幣を発行しているのみです。
日本国政府が高額紙幣を発行しても良い(と思います)はずなので、
額面一万円以上の高額紙幣を刷って刷って刷りまくり、市中に放出して、
円の価値を下落させれば良いという理屈になるのですが………。
これも実際にはある理由があって、現実には実行できないようです。

円高ということは、円の価値が相対的に高いこと、日本経済が強いことです。
これは、日本の国力が強いこと同じ意味だと思われます。
また、世界中から嫌がられるほど生産・技術力がある日本は、あらゆる意味で経済敵国として、
その標的にされていると言っても過言で無いと思います。
今回の東日本大震災がなくても、水面下では世界中が日本に攻め込んで来ているのです。
国の周りは敵だらけ、国内にも数々の災難が起こり得ます。
市場原理主義、経済戦争とはそうしたものでしょう。

大新聞も政府筋も評論家も誰も知らないのか、知ってて言わないとなれば損得勘定があるのでしょう。
国民の大多数はメディアに誑し込まれ正しい判断ができなくなっているとすれば政府の責任は重大です。
この際、平成維新が必要ですね。
 

地震に寄せて

 投稿者:Teri_Wilhelm  投稿日:2011年 3月17日(木)
   3/11の地震からそれなりに日数が過ぎたが、一日一日が長く感じられている。
 3/13にウォールストリートジャーナルに「不屈の日本」と題する社説が載った。
 中国のネット住民でもさすがに今回に関しては目茶目茶いう人間は「恥さらし」と糾弾されているらしい。
 地球での人間はリソスフェアの表面に寄生するウイルス以下の存在であり、マントルという固まっていない豆腐の上に浮かぶ湯葉の上にいるウイルス以下と表現していいと思うのである。明日はわが身。
 見ていてつくづく思ったのだけど、日本人は諦観の生物だな、と感心した。
 アメリカ人や中国人、韓国人自身も語っていたけど、これがアメリカや中国なら、我先と駆け込んだりして、何人か死んでいるだろうし、もっと頻繁に強盗殺人が起こるだろう。
 何時間もレジに並ばず、略奪が起こっているだろう。
 階段で整列して座り、上ろう、下ろう、とする人の場所を取るという行為は日本人以外は皆不思議に思ったようで、イギリスの新聞も感心していた。確かに成田空港闘争を最後に内乱的な暴動はない。時々当の日本人である私もこの従順さ、或いは覇気のなさ、は何なんだろうなあ、と思うことがある。この牙の抜かれた感じの代償が、熱い「オタク・腐女子」の行動かな、と思うこともまたある。
 蓬莱島としてのイメージが加算されているものの「魏志倭人伝」でも純良な倭人を紹介しているところを見ると、暴発するまでの日本人は大人しい、といえるのかもしれない。結果世界でも例の見ない、軍閥が支配する構造が「歴史」の時代の大半を占める形に繋がったのではないか、と思うのである。鎌倉幕府体制というのは「軍」による支配であり、それ以降1945年まで、実質的に軍閥政権が日本を支えてきたのは間違いない。
 民度が高い、ことを誇りに思いながら、リセット・リブートしたい、と思う。
 

あきれた暴言者たち

 投稿者:Teri_Wilhelm  投稿日:2011年 3月17日(木)
   プロ野球の開幕を巡って結論ありきだと思ってはいたが、またわたなべが暴言を吐いた。
 「こんな時だからこそやろう」と手下に言わせていたので、さもありなんとは思っていたが、片肺飛行になることについて(パ・リーグなんてついてこれないなら)勝手にしろ、知らん、とかいう趣旨の発言が飛び出した。なら、計画停電とかしてる中で、昼でも照明が必要な東京ドームで娯楽なんかやってる場合なのか、原発がどうかなったら東京は無事なのか、見にくる人の足の確保が不明瞭なんだけど、など、不安の方が多いのに。しかも東京都知事の天罰発言で東北での東京のイメージが問題なところで、気楽に野球などやってる、というイメージはどうなんだ、と思うのだが。それに東北高校、そんなに甲子園で野球することが大事なのか。そもそも野球留学とかがいそうだから、東北の人じゃないからなのかもしれないが、周りの人を元気付けるというけど、生きるのに一杯一杯の人々と、映らない可能性の方が高いTV中継なんぞ、屁のツッパリにもならん、と思うんだけど。いい加減「球児=神聖、美しい」という構図は勘弁して欲しい。正直高校野球のプロの大会なんだから。
 まあともかく勘違いの人が多いのはどうしたものか。世紀末は過ぎてるのだが、雰囲気は世紀末だというしかない。
 石原も「これは天罰といえるのかもしれない。我々の文明社会を見直せという啓示だ」とかいえばいいものを・・・・・ 思っているから出るんだろうけど。
 わたなべも新聞という立場なんだから、KY発言くりかえすんじゃない。今新聞に何ができるか、何をすべきか、というヴィジョンというか、志がまったく見えない。
 正直黒猫ではないが、みんな潰れてしまえばいいのよ、といいたくなってくる。
 

Re: 二宮によせて(続)

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 3月12日(土)
  > 江戸時代は時代劇に描かれるような腐敗は殆どなく、…

うんうん。少なくとも「悪代官」など殆どいなかった。

五條と言えば、天誅組に梟首された五條代官、鈴木源内は災難でしたね。
彼は60代の温厚な人柄で、領民にも慕われていたといいますのに。

●五條代官
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/info/gojodaikan.htm
 

二宮によせて(続)

 投稿者:Teri_Wilhelm  投稿日:2011年 3月12日(土)
   二宮というと戦前の修身の権化みたいに感じられて、戦後は無視に等しい扱いを受けてきましたですね。しかしながら荒廃した村の再建を請け負って田畑を復旧したり、という意味でエコの先駆者といえると思います。思想的には心学の影響を受け継いだ「道徳」の線であることは事実でしょうが、ある意味潔さすら感じられます。ジョージ秋山が漫画で書いた二宮はある意味彼の実像を描いていたと思います。(漫画のタイトルは今思い出せません)
 五條の代官であった、池田仙九郎但季は後半生を出羽・柴橋代官として過ごし、ここで飢饉などの際に窮民を救い、息子に代官職を譲って直にそこで亡くなりましたが、現在の山形県寒河江市を中心に「池田代官の碑」が建てられています。彼の行動も二宮と同軸の「奉仕」の精神に基づいているのでしょう。江戸時代は時代劇に描かれるような腐敗は殆どなく、むしろこうした「公」の憐憫というか、福利がしっかりしていたといえましょう。
 それを否定した明治政府にとっては「江戸時代」を貶める必要もあり、時代劇での描かれ方もそれを踏襲しているのかもしれませんね。
 

Re: 二宮によせて

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 3月12日(土)
  Teri_Wilhelmさん、こんばんは。
書き込みありがとうございます。

「金ちゃん」が好き!という訳ではないのですが、
二宮金次郎像、この姿ええなあ と思うんですよ。
子供達に良い影響を与えていたのではないかと。

 

二宮によせて

 投稿者:Teri_Wilhelm  投稿日:2011年 3月11日(金)
  二宮金次郎像、読ませていただきました。小生の出た小学校の正門から入ったところに池があり、その校舎側に銅製のものがあったのを覚えていますが、校舎の移転とともにどこかへ消えてしまいました。
さて、過日滋賀県犬上郡豊郷町へ参りまして、ヴォーリズ設計で、土地の出身の伊藤忠の番頭古川鉄次郎が寄付した、旧豊郷小学校へ行きました。
ここは現在アニメ「けいおん!」のモデルとして聖地と化しているところですが、ここの校舎に入った左側に、さすがに近江、中江藤樹の像があります。ここが地域性というのか。
ちなみに二宮本人は吝嗇家で、妾も沢山いる、という艶福家でもあったことは忘れてはいけませんが。ただやったことは立派の一語につきることも多いですが。
 

二宮金次郎の像

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 3月 8日(火)
  先日の休日に西吉野へ行った際、二宮金次郎の石像をみつけました。
何度かいったことのある場所なのですが、いままでまったく気がつかなかったのです。
そこは村の小学校のあったところですが、現在はゲートボール場になっています。
トイレを捜していて偶然みつけたのですが、民家と広場をへだてた植垣の片隅に
ひっそりと佇んでいました。
昔はおそらく、ここにあった小学校の校門近くにあって、
誰もが、この金次郎の話を聞いていて、勉強の励みにしていたと思います。

背負子(しょいこ)で柴を担ぎ、歩きながら本を読んでいる石の像です。
ひと昔前の子供達なら、みんな知っていた人物の像ですが、
今は邪魔者のように端に追いやられて、誰にも見向きもされないようで台座も壊れそう。
一方、屋根付きの広いゲートボール場では、老人達が試合だろうかゼッケンを付けて
大声をあげながらゲームに興じていました。

調べてみますと、「金次郎像」には様々なものがあるようです。

 

室生・龍穴神社

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 3月 1日(火)
  女人高野・室生寺から南へ約1,000メートル位。すぐ近くです。

神社名:式内社 室生龍穴神社 (むろう りゅうけつじんじゃ)

祭  神:高龗神(たかおかみ)
配  祀:天兒屋根命 大山祇命 水波能賣命 須佐之男命 埴山姫命
鎮座地:奈良県宇陀市室生区室生1297

龍神の室生として信仰を集め、度々雨乞いが行われたという室生山ですが、
室生寺と龍穴神社は、創建当時より密教の道場として密接な関係があったようです。

●写真は上から
①朱色も鮮やかな「本 殿」
②拝殿の扁額[善如龍王社]
③三個の鈴が掛けられた「拝 殿」





 

神奈備・室生山

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 2月28日(月)
  室生寺に行きました。ここは「女人高野」として有名ですね。
台風で壊された国宝の五重塔は、完全に修復され
美しく甦っていたのが印象的でした。
ご存じこの五重塔は、日本で二番目に古く、
屋外に建つものでは一番小さいということです。
奥の院へ上る石段は、反り返るほどの急角度で何段も続いていました。
上りきったところにある御影堂には空海さんが祀られています。
その前の位牌堂の横手には、先日に降った雪が残っていました。

●写真は上から
①境内社の弁財天社
②同、大黒天神社
③五十塔と寄棟造の金堂大屋根





 

ミスタイプ訂正

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 2月28日(月)
  ●ミスタイプに気付きました。訂正いたします。

訂正1.×大徳寺僧勤操ではなく→○大安寺僧勤操
訂正2.鎌倉時代の絵巻『×弘法大師行状図画』ではなく→『○高野大師行状図画』
 

前文補足

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 2月24日(木)
  今朝前文を読み直して、補足が要ることに気づきました。
空海の幼名を「真魚」と書きましたが、真魚だったかどうかは疑わしいと思います。
鎌倉時代の絵巻『弘法大師行状図画』などには、真魚と名付けられたとされていますが、
後代の付託かも知れないと思います。
長安で景教の影響を受けた空海が、帰国後から「貧道の幼名は真魚であった」
などと言いはじめたような気がするからです。
ちなみに『御遺告』には、真魚とする記述はないようです。

そして、ここで特におことわりしておかなければならないのは、
ここに書いた空海についての記述は、全て筆者・やさかの偏見と想像によるものです。
特に根拠があって述べているのでは無いことを、改めて付け加えさせていただきます。
 

空海の秘密

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 2月24日(木)
  空海は秘匿の人だ。
密教も文字通り秘密の教え。
ことに空海の密教は、仏教とはいえないかも知れない。
そのように思えるのである。

たとえば幼名の真魚。
そして教海、如空、空海と名乗って行ったようである。
空海の名は、教海と如空から後ろの一字をとって、
つなぎ、逆に読んだ命名だろう。
真魚とは、真の魚と書く/マ・イヲ。

この魚から筆者が思いつくのはイエス・キリストの
シンボルは魚だったことである。空海は長安で、おそらく景教を知ったと思われる。
長安には、他にも清真寺と呼ばれる回教寺院もあった。
もちろん、好奇心・向学心の旺盛な空海のこと、
いずれの教会へも行って、宣伝使から教義を聞いたと思われる。
そこで景教に特別興味を覚え、あるいは心から信奉したのかも知れない。

空海は自ら書物を書き、その論文で自分そのものや仏教について
さも確かな論を連ねる。
しかしながら、実は、そのことによってかえって真理を隠蔽、
秘匿しているようにすら思える。
実際、空海は反仏教者かも知れないと思うふしがあるのである。

空海は様々なところに仕掛けをほどこしているように思えてならない。
彼の作だとも言う「いろは歌」や「君が代」の歌詞にしても
秘密のにおいが離れない。
これらは空海の作だといい、一方でそうではないと、否定もされる。
何処かに、どちらとも言えるような言質や証拠をを残しているようだ。

また、日本の地に、たとえば高野山に、後の時代の人々が、あっと驚くような大仕掛けをしているかも知れない。
日本の、世界の未来を読んでの、もちろん人々を救うための仕掛けである。
超人空海は、きっと大仕掛けを後の時代の人々のために残しているはずだ。
もちろん仕掛けと言っても機械仕掛けではない。
最も空海が大切にした形而上の、秘密の仕掛けであることは言うまでもない。
 

空海ゆかりの地(続5・吉野)

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 2月23日(水)
  若き日の空海が修行したのは、吉野、そして讃岐だといわれています。
空海は、入唐二年後に帰国して高野山を訪ね、後に勅許を得て高野山を賜っていますが、
入唐以前、おそらく得度もしていない優婆塞の頃、吉野から紀伊にかけての山塊を跋渉して、
すでに高野へ足を踏み入れ、よくこの地を知っていたようです。

その真魚と呼ばれた若き頃、いわゆる「山民」とのつながりが出来たものと思われます。
山民には大まかに、杣人・狩人・金堀人が居たといえましょう。
生業(なりわい)が重なる部分もありますが、
樵夫、木地師、竹細工人、焼き畑耕作人、山菜採取人、川漁人、狩猟民、採鉱・精錬・鍛冶職、などを生活の糧とする人々です。

南山の犬飼とは猟師でしょう。或いは採鉱探査師かも知れません。
南山とは、後醍醐天皇の歌 “玉骨はたとひ南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ”
とあるように、それは都から見ての表現で、吉野の山々のことと思われます。

大学を出奔した真魚は、24歳で聾瞽指帰を著わし31歳で入唐しています。
この大学を中退してからの4年位、そして24歳以降を合せた10年ほどが不明です。
この間に山岳修行をしていたのだろうと言われていますが、実際どのような生活をしていたのでしょう。
この不詳の、真魚の10年間が最も興味深いところです。
この真魚と呼ばれていたであろう若き空海の姿を物語にしてみたいと思っています。

それにしても空海とは、あまりにも無謀ですよね。
偉大な空海さんは、とても書ける対象ではありません。
それで、等身大の凡人「真魚」を書いてゆきたいと思います。
仮称「もう一つの空海物語」です。
この物語では、若き時代の空海、真魚を主人公に、
大安寺僧の戒明、阿刀大足、真魚の学友伊予親王、優婆塞の前鬼、吉野丹生族の娘、犬山師家信、狩人犬黒比…
等々の人物を登場させようと思っています。
近く執筆にかかり、一年以内を目標に書き上げるつもりでいます。
 

空海ゆかりの地(続4)

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 2月23日(水)
  受戒以前の若き空海(真魚)が、大学を中退して最初に向かった先は、求聞持法の一大道場、吉野の比曾寺だったのではないでしょうか。
大学には入ったものの、仏教を学びたい欲求に我慢できず、
いわゆる抖擻して独自に悟りを得ようとしたのでしょうか。
そのために、まず以て求聞持法を成就させようとしたのかも知れません。

●比曾寺:http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yosinoji2_002.htm
●比曾寺の鎮守社、天照大神社:http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/hisoamatel.html


ちなみに真魚が大学に入った年齢ですが、
当時、国学も大学も入学年齢は13~16歳だったと言われます。
私は、真魚は13歳で国学に入り、16歳の制限ぎりぎりで大学に転学したのではないかと思うのです。
国学の授業がもの足らなかったのでしょう。
ものの本では、空海は18歳で特別に許可され大学入ったなどと、されているのもありますが、
律令制のこの時代、いくら伊予親王の侍講阿刀大足が働きかけようと、佐伯今毛人が嘆願しようと、
それは無理というものでしょう。
実際勉学の方も、4、5歳の幼年期から始めているはずです。私はそのように見ています。
 

空海ゆかりの地(続3)
投稿者:やさか  投稿日:2011年 2月23日(水)
  京の大学に入った空海さん、でも、ほどなく中退したようです。
京といっても大学があったのは、長岡京ではなく旧京の奈良・平城京のようです。
大学を出奔した若き空海さん(真魚)は何処へ行ったのでしょう。

以下は全く私の想像です。
私は、まず吉野・比曾寺に向かったと思うのです。当時の比曾寺には渡来僧が多く居て、
さながら求聞持法の特訓道場の観があったようです。(村岡空氏の説もある)
そこで、どのルートで比曾寺に行ったかですが、
いわゆる山辺の道といいますか、都の東側を南下したように思います。
大学寮があったと思われる興福寺、元興寺周辺から、ほぼ現在の169号線に沿ったような形で、
和爾下神社~大神神社を経て、飛鳥を通って、壷阪山を越えて吉野へ行こうとしたのではないかと思うのです。
ところが、距離的に見ますと平城京の北部から吉野へは1日では無理(夜の山道は通行不能)です。
なので壷阪山・南法華寺に一泊したのではないかと、私はみています。
それで、壺阪寺を空海ゆかりの地に入れてみました。

●写真上:南法華寺(壺阪寺)鎮守社・龍蔵宮
●写真下:現在の壺阪寺には近年 インドから送られた石像仏が多数ある



 

Re: 空海のこと/追伸

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 2月21日(月)
 
> 唐へ渡ってからの空海は、八面六臂の人であります。唐の人が驚く、言語・書道の達人であり、…
> ちなみに公式の歴史書である「唐書(旧・新)」に実名が載る日本人は確か3人くらいで、…
> インドから当時長安へ来ていた、般若三蔵のところへ行って3ヶ月くらいで、サンクスリットがぺらぺらになり、「お前のような者は見たことがない」と感心されているというのもすごいことです。

本当に、ものすごいスーパーマンですね。
「虚空蔵求聞持法」の威力もあるのでしょうが、生来の秀才だったのでしょうか。

> …日本における密教、及び民族宗教としての(学問でない)仏教確立に寄与できたといえましょう。ただ彼は完璧に過ぎたので、真言宗自体は硬直化するという二律背反を余儀なくされたことも事実ではあります。

そうですね。私もそのように思います。
たしかに、最澄の比叡山延暦寺門下から、名を成す名僧が輩出しましたが、
空海の高野山からは、さほどの人材はでていないようですね。

偉大すぎる創業者からは、人材が育ちにくいと言われるのは、古今東西一緒なのでしょうか。
 

Re: 空海のこと

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 2月21日(月)
  Teri_Wilhelm さん、はじめまして。
書き込みありがとうございます。

空海は、讃岐国多度郡で生まれ育ったとされていますが、
高野山大学の武内孝善教授は、『弘法大師空海の研究』で、
空海誕生地は讃岐ではなく畿内だと言っていますね。
たしかにその可能性は充分あると思われます。
讃岐に阿刀氏の痕跡はなく畿内には、大和国(平城京)と河内国に
阿刀宿彌、阿刀連の拠点があったことが『新撰姓氏録』で分かります。
中でも河内国渋川郡跡部郷には、式内社跡部神社が鎮座しているので
阿刀氏の本貫地ではないかと思わされます。
竹内氏の説が正しいとなれば、空海の幼年期は畿内で生まれ育ったのかも知れません。
興味深いですね。
またいろいろとご教示ください。
今後ともよろしくお願いします。

●↓参照【跡部神社】
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/oosakafu/atobe.htm

ところで、Teri_Wilhelm さんのH.N.は、ドイツ語読みすれば、テリ・ヴィルヘルムさんですか?
ニーチェも、ヴィルヘルムの名が入ってましたね。
 

空海のこと

 投稿者:Teri_Wilhelm  投稿日:2011年 2月21日(月)
  槇尾・施福寺と大安寺、拝見しました。
少し私も書いてみたいと思います。
空海、始め如空、と名乗っていたようですが、施福寺は大安寺・勤操の関連のお寺であったことは間違いない事実であろうと思われます。
久米寺での大日経との邂逅は伝説くさいですが。
施福寺は付け加えておくと西国巡礼4番札所でありますが、大変な山登りを要する、西国巡礼きっての難所であります。
空海の渡唐までの事実というのは分かっていることの方が少なく、伝説の域をでません。
唐へ渡ってからの空海は、八面六臂の人であります。唐の人が驚く、言語・書道の達人であり、後に天台宗の円珍が、唐人より「五筆和尚は健在か」と問われて、はじめは誰の事か分からなかったが、空海のことだと悟り、「その人は先年亡くなられた」と答えると、「ああ、非常の人、異郷に果てるか」と嘆息した、という話も残るほどの著名人でした。
ちなみに公式の歴史書である「唐書(旧・新)」に実名が載る日本人は確か3人くらいで、空海はその一人であることからも著名度が知れるといえましょう。最澄は載っていませんし、遣唐大使でも名前の載っている人はありません。
インドから当時長安へ来ていた、般若三蔵のところへ行って3ヶ月くらいで、サンクスリットがぺらぺらになり、「お前のような者は見たことがない」と感心されているというのもすごいことです。恵果のところへ密教を習いに出かけた時には「お前が来るのを待っていた」と、これも驚くようなことになっています。
東アジア人にどうしたらインド臭過ぎる密教を広められるか、が分かっていたからこその日本における密教、及び民族宗教としての(学問でない)仏教確立に寄与できたといえましょう。ただ彼は完璧に過ぎたので、真言宗自体は硬直化するという二律背反を余儀なくされたことも事実ではあります。
「南無阿弥陀仏」と唱えようが、「オンアボキャ」と唱えようが、呪文的な声明は真言確立以降に一般に広まったことで、仏教の土着化においての空海の役割は大きいと思います。
 

空海ゆかりの地(続)

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 2月14日(月)
  空海さんが、大徳寺僧勤操により剃髪・得度した寺だという槙尾山・施福寺を訪ねました。
槙尾山は600メートルの標高ですが、施福寺は500メートル位の位置にあります。本堂前の見晴らしの良い高台には、「槙尾明神」という小社がありました。
この施福寺境内の茶店は、登山好きの元サラリーマンだったご主人が、2年前から前任の八十何歳かのお婆さんのあとを引継いで、ご夫婦で経営されているとか。
毎日麓から歩いて通っているそうですが、大晦日の日は初日の出を拝むために、お店で寝泊まりするそうです。
「夜はよく、テンやタヌキが顔出しするんですよ」と話してくれました。
この茶店の、おでんや甘酒は特別美味しいのでおすすめです。

①弘法大師剃髪堂 ②槙尾明神社


 

空海ゆかりの地

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 2月14日(月)
  空海さんの大ファンです。
神祇信仰にも篤い空海さんが好きで、若い頃、密教に傾倒していたこともあります。
最近また空海さんに興味を覚え、大師ゆかりの場所を訪ねています。
浅学非才を顧みず、無謀にも、「空海物語」でも書いてみようかと、思いつくままに尋ね歩きを始めました。

↓大安寺・興福寺・元興寺など。
①大安寺 ②大安寺の鎮守社、八幡宮(元・石清水八幡)

ご存じ大安寺は、百済大寺、高市大寺、大官大寺とも謂われた大寺院で、奈良時代は887人もの学僧を擁していたといいます。空海さんもここで学んだと言われ、後にこの寺の別当に補任されています。
ちなみに現在の敷地3000坪は、往時の4パーセントとか。鎮守社と言えども広大です。


 

今日の新聞より

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 2月10日(木)
  2月10日、産経新聞・朝刊第一面トップに、
「露、北方領土の軍増強」の記事がみえます。
「ロシアのメドベージェフ大統領は9日、クリール諸島(日本の北方領土と千島列島)は、/私たちの戦略地域だ/と述べ、軍備増強を進める方針を強調した…」また、「軍備増強は、ロシアの一体不可分の領土として、この島々の安全を確保するために不可欠で、充分かつ最新の装備が供給されるべきだ」と述べたように書かれています。
これに対して外務省幹部は9日夜に、「極めて遺憾だ」と述べたとする記事があります。

関連して、櫻井よしこ氏は、「中露が一体となって、日本の主権と国益を脅かす構図を作ったことを認識し…。」
「黙って見ていてはならない。日本の領土を不法占拠し続け、第三国の経済力や労働力の導入で既成事実を積み重ねるのを傍観してはならない」
…と言っています。まったくその通りだと思います。
日本にとって、決して看過できない由々しき問題です。
戦後の日本外交上、今や最悪の状態にある政府・外務省は汚名を挽回するためにも、
ここは全力を挙げて抗議すべきではないでしょうか。

北方領土での、ロシアの一連の軍備増強の展望には、北方四島はおろか、
北海道も、その領土的野心の延長に見据えられているのではないかと思われます。
喉元に突付けられた匕首は絶対に排除しておかなければなりません。
ここは絶対に厳重な抗議をしておかなければ、国の将来に大きな禍根を残すことなるでしょう。
政府の、迅速で適格な、断固たる対応が望まれるところです。
 

北方領土

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 2月 8日(火)
  昨日2月7日は「北方領土の日」でした。
これは、北方領土返還運動の推進をはかるため、昭和56年1月6日に、毎年2月7日を「北方領土の日」と閣議によって決められたものです。
この日に決められたのは、安政元年(1885)に、日本と当時の帝政ロシアとの間で、
最初に国境の取り決めが行われた日露和親条約締結日の2月7日に由来するといいます。
ところが、昭和五〇年代以降今日まで、領土返還運動が継続されているにもかかわらず一向に進展をみていません。
それどころか最近のロシアの挑発的な行動には目に余るものがあります。
サンケイ新聞の報道によりますと、
ロシアは最近、特に北方領土の軍事強化に乗り出しているとの事。国後島に大型船が接岸できる港を完成させたり、
大型機が離着陸できる空港や道路の整備を急ピッチで進めているといいます。

相手は、終戦後に突然、日ソ中立条約を破り対日参戦して、
武装解除した日本兵を強制連行してシベリアに抑留し、多数の死者がでるほどの過酷な労働をさせた国です。
そういう非道な国家であることを思わなければなりません。
北海道の属島ともいうべき歯舞群島、色丹・国後・択捉は日本の重要な領土です。
この北方領土周辺を俯瞰してみると、択捉島など正に日本の喉元に匕首を突付けたような格好になっています。
ここをロシアは、重点的に軍事基地として強化しているらしいのです。
これは北海道を領土的野心の対象としているのではないかと思われても仕方がないでしょう。
ロシアがその気になれば、いとも簡単に北海道を侵略できる事になります。

ご存じ北方領土は、古来より我が国の歴とした領土でした。
その我が国の領土に、終戦のどさくさに紛れ、昭和20年9月より不法占拠し続けているロシアには、
何としても退去してもらわなければならないでしょう。
現在のロシアの動きは、日本の国家的な危機といえるものではないでしょうか。
「日露の経済協力…」などと言っている時ではないのです。
今政府はロシアに対して断固抗議すべき時です。広く国際社会に訴えてロシアを牽制して
すぐにでもこれらの挑発的な行為を止めさせるべきでしょう。
今の政府に領土的な危機感はないのでしょうか?
些末なことに拘わっている場合ではないと思うのです。

私たちがこのようなことを言っても殆ど無力とおもわれます。
それで期待したいのは強大な影響力を行使できるマスコミ媒体ですが、
このマスコミの「報道の正義」に疑問があります。
「大相撲の八百長…」も棄てては於けないでしょうが…
「小沢氏の政治資金規正法違反…」も大事でしょうが…それに、
「高速無料化の追加…」「朝鮮学校への補助金…」等々の問題も大切でしょう。でも、
何よりも優先して正しく報道されなければならないのは、上記のような国家危機に繋がる問題だと思うのです。
その他諸々の報道についても私には、サンケイ以外の大新聞、それに大手民放テレビの報道には、
どうも偏向があるように思われてならないのですが皆さんは如何でしょう?
 

Re: どか雪

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 1月24日(月)22時07分14秒
  > 温暖化は 人的なもの
> 地球は冬に向かっていると言われています
> どんな環境にも感謝の気持ちをもって生きたいと
> 思います
>
そうですね、実際は冬に向っているのかも知れませんね。
私も今年、いい年にしたいと思っています。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。
 

どか雪

 投稿者:吉野の旅人  投稿日:2011年 1月24日(月)
  白山教授の本は 読んでいませんので
是非 購入したいと思います

本当に 吉野は例年になく凄い雪でした
古老曰く 今年はこんな凄い雪を見れて長生きしてよかった と
大晦日朝から降り始めた雪は大祓い神事には 3、40Cm程になり
元旦明け方には70Cm程でした

温暖化は 人的なもの
地球は冬に向かっていると言われています
どんな環境にも感謝の気持ちをもって生きたいと
思います

今年は いい年にしたいです
よろしくお願いいたします
 

Re: 大和心

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 1月21日(金)
  吉野の旅人さん、書き込みありがとうございます。
こちらの方こそ、いつも学ばせて頂いています。

> 無は有
>
> 言挙げせぬ国 とは 言靈の幸ふ国
>
> 大和心とは 心解き放ち 全て認め受け入れる
>
> 清清しい 神のような心では ないでしょうか?
>
> いつも 勉強させていただいています
>
> ありがとうございます

なかなか説明しにくい「大和心」を、短文で見事に表現していただきました。
含蓄のある深い意味合いのある説明だと思います。
よく咀嚼して考えさせていただきます。ありがとうございました。

このことで皇學館大学、白山芳太郎教授の著書『日本人のこころ ー神道ー』を思い出しました。
それで改めて読み直してみました。

その巻頭の「自序」に次のような一文があります。
「(神道は)…自然と神々と人間との関係が同じはらから(同胞)から生まれた一体のものとみるものである。したがって、山川草木は神々から生まれ、人間も神々から生まれたという観念を持つ。そしてあらゆる万物自然は神であるという八百万神(やおよろずのかみ)の信仰へと発展し、人間はそのような八百万神によって生かされてきたと考え、それらの神々に感謝しつつ生きていくべきものと解されるようになる…」

白山先生は、このように神道に依った考え方が日本人の心であり、また大和心でもあるというようなことを書いておられます。


ところで今年の吉野の冬は、何十年ぶりかの豪雪だったそうですね。
私の子供の頃もよく雪が降った記憶がありますが、聞いたところではそれ以上の大雪だったとか。
温暖化といわれている昨今、正月のドカゆきには本当にびっくりしました。
 

Re: 大和心

 投稿者:吉野の旅人  投稿日:2011年 1月21日(金)
 
無は有

言挙げせぬ国 とは 言靈の幸ふ国

大和心とは 心解き放ち 全て認め受け入れる

清清しい 神のような心では ないでしょうか?

いつも 勉強させていただいています

ありがとうございます 
 

大和心

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 1月 8日(土)
  「しきしまの大和心を人問わば朝日に匂ふ山ざくら花」
本居宣長は大和心とは、朝日に匂う山ざくらのようなものだと謳っています。
言挙げしない、いにしえの日本の心を、宣長はこの歌にこめたのだと思います。

一方、柿本人麻呂は、
「葦原の瑞穂の国は神ながら 言挙げせぬ国 しかれども言挙げぞ我がする 言幸くま幸くませと障みなく 幸くいまさば荒礒波 ありても見むと 百重波千重波しきに 言挙げす我れは」万葉集13-3253
と謳い、日本は言挙げしない国だが、私は敢えて言挙げしたい。
“ことさきく、まさきくませと、つつみなく、さきくいまさば、ありそなみ、ありてもみむと、ももへなみ、ちへなみしきに”…と言挙げしています。

「大和心」とは何なのでしょうか?どのように表現すればいいのでしょう?
大和心について皆さんはどのようにお考えになりますか?
 

掲示板引っ越し

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 1月 8日(土)
  2010年12月31日限りで、当方がレンタル掲示板の提供を受けていた「www.jouney-k.com」が
サービスを休止(終了)したと言うのです。
それで、過去ログへの保存に収録もれができてしまいました。
先方の言によれば何度も連絡したと言うのですが、当方は寝耳に水の感じで、
全く知らず、2011年1月1日午前零時過ぎ、急に掲示板が繋がらなくなりびっくりしました。
手を尽くしましたが、結果的に復旧は無理のようです。
それでレンタル会社を変えて再出発することにしました。よろしくお願いします。
 

春の山べは遠けれど

 投稿者:やさか  投稿日:2011年 1月 5日(水)
  かすみたつ春の山べは遠けれど吹きくる風は花のかぞする
・・・・・(寝屋川)住吉神社 御神籤 第四十四番/末吉・・・

今年から来年にかけては、戦後の私たちが経験したことのないような
未曾有の経済危機をもたらす暗雲が日本を覆うような気がしてなりません。
でも、この平成23年そして24年を大事なく乗り切れば、
その向こうの山辺から、花の香が匂ってきそうです。