やさか掲示板

過去ログ12 [600]〜[550]


600] 補足 投稿者:かまど 投稿日:2010/07/15(Thu)
>丹生氏の立場から言えば違うとしか言えません。
 
上記の様な書き方をしましたが、これは「丹生とはやはり赤土のある土地、或いは丹土の産地を意味したのではないかと私は思います。」とのコメントに対してではなく、「丹生都比売さんは、「赤土の産地のお姫さま」とでもなるのでしょうか。」に対してのコメントです。
すいません。補足しておきます。

http://kamado.blog.ocn.ne.jp/niu/


[599] 投稿者:かまど 投稿日:2010/07/15(Thu)
>でも私が思うのに昔の人は厳密に区別せず、硫化水銀、四塩化鉛、褐鉄鉱、赤鉄鉱、酸化鉄、赭など、
朱色や赤紅色をした鉱物を総称して「丹(に)」と呼んでいたのではないかと思うのです。
 
「丹」は大きな意味で「赤」を表す様な気はします。魏志倭人伝でも丹木など丹を使っている箇所がありますし、赤い砂を丹砂、赤い土を丹土、延喜式では赤丹穂なども見受けられますしね。
平安時代?あたりでは水銀の朱を辰砂、鉛の朱を丹、酸化鉄を代赭(たいしゃ:延喜式ではこれに「あかつち」と読ませています)は明確に使い分けられていたようです。
なぜなら、古文書に残ると言う事は、それなりに由緒のある寺社であり、それを建築する人はそれらの赤色の特性を知ってないと使えません。つまり、建築していた人々にとっては、つまり赤色を使う塗装屋さんには色ははっきりと使い分けていたと言う事です。実際並べてみると以外と色の差ははっきりとしています。ベンガラは黒っぽいし、朱は鮮やかな赤です。また水銀朱は日があたると変色しやすいので、日の当たるところで使われることはほとんど無かったようです。日の当たるところ、つまり一般の人が目にするところの赤は酸化鉄が使われていたことが分析で分かっているそうです。
一般の人が、辰砂と丹と代赭を明確に使い分けていたかは分かりません。
ちなみに、中国では今でも酸化鉄の赤土を「赤土」と書くそうです。播磨国風土記の「赤土」も、中国から字が伝わったと考えれば酸化鉄なのですが、現存する播磨国風土記にはこの爾保都姫のご神託により赤土を塗った話は記載がなく、鎌倉時代?ごろの書物で播磨国風土記から引用したと書かれている程度であり、「赤土」の字を平安時代の表記と同じと言っていいかと言う疑問もあります。学者さんでもほんとに播磨国風土記に爾保都姫の話が書かれていたのか?と言う疑問を持っている方は意外といます。
 
>この記事ですが、“丹生都比売の丹生には意味はない”とは言うものの、地名の丹生には意味があったと私は思います。
 
その点についてはブログでも書きましたが、丹生都姫とは別で、「丹生」が何を意味するのかと言うのを研究するのは私も意味があることだと思います。
 
>つまり、丹生とはやはり赤土のある土地、或いは丹土の産地を意味したのではないかと私は思います。
…としますと、さしずめ丹生都比売さんは、「赤土の産地のお姫さま」とでもなるのでしょうか。
 
丹生氏の立場から言えば違うとしか言えません。なぜなら一族の縁起では水との関わりは多く書かれていても、赤土との関わりは書かれていないからです。紀伊続風土記では「丹生」は赤土ではないかとしていますが、証明できない推論によって自分の家のご由緒は変えられないからです。それが100%証明できれば私もそうだと言えますが。と言う事もあり「その可能性もあるかも知れませんね」とも書きにくいのです。お許しを。(^^;)
ちなみに、他に紀伊続風土記には「丹生」は「爾保」につながり、これには水の集まるところと言う意味があり、丹生は水の集まるところと言う説も出しています。
  

>また、ネット上の「空海外伝」の続編にも期待しています。
 
ほんまですね。なかなかうまい表現が思いつかず、とまってしまっています。(^^;)やさか様の文章力表現力に今更ながら感服しています。物語書くのはほんと難しいですね。
  
余談ですが、松田先生の本のppmと言う含有量単位の解釈が、1ケタ違っています。持論に有利な方に。これはたまたまだと思いますが。分析した矢嶋教授はさすが理科系の先生なので間違ってはないのです。そう言えば矢嶋教授の書いている水銀鉱床があった可能性を示す水銀濃度の範囲と松田先生が書いている範囲も違いました。これも松田先生の持論に有利な方になってはいるのですが、実際後世その範囲はどうなっているのか、どちらが正しいのか知りたいところです。また松田先生の書いている水銀濃度の数値が、ケタ間違ってないか本当は確認しないといけないのでしょうが、同じ大学の人でないと確認できないのであきらめています。(^^;)

http://kamado.blog.ocn.ne.jp/niu/


[598] Re[597]: 今は「丹」はベンガラ 投稿者:やさか 投稿日:2010/07/14(Wed)
はい、こんにちは。

> やさかさんは橿原考古学研究所附属博物館に行ったことあります?

はい、行ったことあります。が水銀鉱石が展示してあったような記憶がないのです。
かなり前のことなので、その頃はその展示は無かったのかも知れません。


> 水銀鉱石は古文書では「丹」ではなく「辰砂」と書かれていたそうです。で、「丹」と書くとベンガラあるいは鉛の赤を表していたそうです。
> 丹が水銀を表すと言うのは、40年前の早稲田の松田教授の仮説で、実際は実証されていませんでしたが、近年の科学的調査などからどうも想像の話で終りそうです。

私も、「丹=水銀」とは思いませんが、漢語でいうところの「丹(たん)」は、水銀の原料であるところの丹砂、辰砂を意味していたと思います。
和語でいう「丹(に)」は、『和名類聚鈔』によれば、「赤色の土、あかつち、あかに」とあるようになるほどベンガラだったかも知れません。
でも私が思うのに昔の人は厳密に区別せず、硫化水銀、四塩化鉛、褐鉄鉱、赤鉄鉱、酸化鉄、赭など、
朱色や赤紅色をした鉱物を総称して「丹(に)」と呼んでいたのではないかと思うのです。
なぜなら、色あいに微妙な違いはあるものの一般的には中々判別し難いし、いちいち分析もせず、
又分析の技術もなかったと思われるからなのですが如何でしょう。


上記に関連することですが、
ブログ「かまちゃん日記」の記事/「丹生都比売」の「丹生」についてを読んで、以下にすこし疑問ができました。

――― 紀伊丹生氏の古文書に書かれている、つまりこれはうちの家だけでなく、天野の丹生氏にも書かれているのですが、丹生都比売の「丹生」は地名からとったと書かれています。
 天野の丹生氏ではそれだけですが、かまちゃん家ではもう少し詳しく書かれています。それは神武天皇が奈良で苦戦しながらも勝利を得たおり、神武天皇は天神国神の神々を丹生の川上でお祀りしました。この時稚日女(わかひるめ)の神は祀られた地名である「丹生」をとって、「丹生都比売」とお名前を変えたのです。
 そうすると、この場合の「丹生」は意味をもってきません。なぜなら、たまたま「丹生」と言う地名で祀られたから「丹生都比売」であって、もし神武天皇が橿原でこの神様達を祀っておれば、橿原都姫となり、難波で祀っておれば難波都姫となるからです。
「丹生」は赤土を意味するのではないかと推論しております。――― 以上上記ブログより引用


「…この場合の「丹生」は意味をもってきません。なぜなら、たまたま「丹生」と言う地名で祀られたから「丹生都比売」であって、…」
この記事ですが、“丹生都比売の丹生には意味はない”とは言うものの、地名の丹生には意味があったと私は思います。
つまり、丹生とはやはり赤土のある土地、或いは丹土の産地を意味したのではないかと私は思います。
…としますと、さしずめ丹生都比売さんは、「赤土の産地のお姫さま」とでもなるのでしょうか。


●以下は少し話が変わります。(同ブログより引用)

「かまちゃん家が紀伊丹生氏の本流であることを証明できる東京大学史料編纂所出版の大日本史料を調べる人があまりいないこと。だから、かまちゃん家が本流だとはほとんどの人が気付かないからなのです。 という訳で、個人的には、かまちゃんの話を本気で調べて論文にする人が出てくれば、丹生氏や丹生都比売などについて結構斬新な論文が出来上がると思うのですが・・・。」

かまどさん自身の執筆による、素晴らしい論文が一日も早く単行本として上梓されることを期待しています。
また、ネット上の「空海外伝」の続編にも期待しています。

[597] 今は「丹」はベンガラ 投稿者:かまど 投稿日:2010/07/13(Tue)
こんばんは。
 
やさかさんは橿原考古学研究所附属博物館に行ったことあります?
 
現在は「丹」は酸化鉄を表していると言うのが一般的なようです。
 
奈良の文化財関係の方が古い建築物を調べたところ、昔は目にする表の部分に使われている赤はベンガラだったそうです。そこから、「青丹よし」の「丹」はベンガラを表すと言う事だそうです。
 
先日、前述の博物館に行ったところ、水銀鉱石がおいてあり、括弧書きで「辰砂」とかかれ、そのよこにベンガラ?が置かれ括弧書きで「丹」と書かれてました。
 
水銀鉱石は古文書では「丹」ではなく「辰砂」と書かれていたそうです。で、「丹」と書くとベンガラあるいは鉛の赤を表していたそうです。
 
丹が水銀を表すと言うのは、40年前の早稲田の松田教授の仮説で、実際は実証されていませんでしたが、近年の科学的調査などからどうも想像の話で終りそうです。
 
実際、松田教授の土の分析に協力した矢嶋教授も、「丹生の地名で水銀が検出されないところも多い」と書かれており、朱の考古学を書かれた市毛教授も、松田教授の説を押しながらも、「実際に古代において丹生の地で水銀が採れたと言えるのは1箇所のみであり今後の研究に期待する」と書かれています。
 
時代とともにいろいろと分かってくるものですね。そして歴史も変わって行きますね。
 
もし橿原に行く機会がありましたら是非橿原考古学研究所附属博物館にも寄ってみて下さい。

http://kamado.blog.ocn.ne.jp/niu/


[596] 五條市出身の有名人 投稿者:やさか 投稿日:2010/06/30(Wed)
【五條市出身の有名人】

堀 信増  南北朝時代、後醍醐天皇の忠臣 旧・西吉野村出身
鍵屋弥兵衛(江戸時代の花火師)
橋本若狭 1822-1865(丹生川上神社祠官)旧・滝村出身
堀 重信 1853-1912(吉野神宮初代宮司) 旧・西吉野村出身  
堀 丈夫  1881-1952(陸軍第一師団長) 旧・西吉野村出身
木村篤太郎 1886-1982(政治家、元防衛庁長官)
田村吉永 1893-1977(文学博士) 旧・西吉野村出身
川村たかし 1931-2010 (作家)
楳図かずお 1936- (漫画家)
山本集 1940- (画家)
田野瀬良太郎 1943- (政治家)
亜美伊新 (建築デザイナー)
鈴木康友(プロ野球選手・読売ジャイアンツ)
岡崎太一(プロ野球選手・阪神タイガース)
尾野真千子(女優) 旧・西吉野村出身
金剛富士源一郎(桐山部屋所属力士)
―[Wikipedia]等参照―

[595] Re[594]: Re[593]: Re[590]: 大和五條 (1) 投稿者:やさか 投稿日:2010/06/23(Wed)
> > さて、古代の宇智郡には、阿陀・賀美・那珂・資母の四郷があったことが知られています。
> 賀美・那珂・資母は上中下と見ていいのでしょうね?

他の地域にも用例がありますが、もちろん地域名称であるとは思うのですが、その区分は北からカミ・ナカ・シモと南に下がってくるのか?
それとも東からカミ・ナカ・シモと西に降りてくるのか?よく分りません。
行政区分であることには違いないと思われるのですが如何でしょう?

> この地名は吉野郡も同じような構成で、吉野と賀美・那珂・資母です。
> そうだとしますと、宇智郡は中臣が住み着く以前は阿陀郡だったのかも?

そうですね。確かに吉野郡の場合、吉野本郷のほか賀美・那珂・資母がありましたので、
阿陀郡の場合も阿陀・賀美・那珂・資母の四郷のうち、阿陀が本郷と思われ、
内臣が住み着く以前は宇智郡ではなく、阿陀郡であったと判断できると思います。
私はまったく気づいていませんでしたが、そう言えば仰るように、『五條市史』にも、
――『大日本地名辞書』は「阿陀は宇智郡の旧名なるべし、按ずるに旧名阿陀、後宇智に改めたる也」と論じている。――
…と記されています。
お陰様で新たな認識ができました。ありがとうございます。

[594] Re[593]: Re[590]: 大和五條 (1) 投稿者:神奈備 投稿日:2010/06/23(Wed)
> そうだとしますと、宇智郡は中臣が住み着く以前は阿陀郡だったのかも?

内臣です。

[593] Re[590]: 大和五條 (1) 投稿者:神奈備 投稿日:2010/06/23(Wed)
> さて、古代の宇智郡には、阿陀・賀美・那珂・資母の四郷があったことが知られています。

賀美・那珂・資母は上中下と見ていいのでしょうね?
この地名は吉野郡も同じような構成で、吉野と賀美・那珂・資母です。

そうだとしますと、宇智郡は中臣が住み着く以前は阿陀郡だったのかも?

[592] 大和五條 (3) 投稿者:やさか 投稿日:2010/06/15(Tue)
『日本霊異記』下巻第六縁では、
吉野山の山寺の大僧の使いで、その弟子が紀伊国に魚を求めに行っての帰り、
「…大和国の内市の辺りに至り…」という記事がでてきます。
これは平安時代初期、宇智の郡に市が開かれていたことを示すもので、この時代にも人々が集まる都邑であったらしきことが分ります。
では、この市が開かれていた場所はどの辺りだったのでしょう。
それは統(すえ)神社のある須恵町あたりだったのではないかと思われます。

古代の宇智郡では、盛んに須恵器の製造が行われていたといいます。
近年行われた「荒坂瓦窯群」の発掘調査によりますと、6世紀初めからこの地域で須恵器の生産が始まり、
7〜8世紀にかけて、盛んに瓦の生産が行われ 、作られた瓦の多くが飛鳥の諸寺院や藤原京の建設に用いられたといわれています。(五條文化博物館)

古代より宇智郡の須恵の地は水陸交通の要所で、大いに栄えたところだったようです。
統神社の神宮寺といわれる桜井寺前には、「いせ」や「かうや」と刻まれた古い道路標識(江戸時代?)が残っています。
現在でも、この本陣交差点は国道24号、168号、310号線の交差する重要な地点なのです。

●統神社↓

http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/subejinjya.htm


[591] 大和五條 (2) 投稿者:やさか 投稿日:2010/06/14(Mon)
吉野河の河尻」とは何処かですが、…

私が考える吉野河の河尻とは、吉野川に丹生川が流入する川合いのことではないかと思っております。
つまり、現在の五條市御山町の火雷神社のある辺りではなかったかと思うのです。

ところで、五條市一帯は昔より宇智郡と呼ばれていたことは先に述べましたが、ではいつ頃から「ウチ」の名称で呼ばれていたのでしょう。
「宇智郡の名称の史料における初出は、『続日本紀』文武二年二月丙申条の「車駕幸宇智郡」でしょうか。
ウチノコホリの漢字表記については、
この「宇智郡」の他、宇知郡・有智郡・内郡の用例がありますが、公式には“宇智郡”が用いられたようです。
五條市今井4丁目に宇智神社がありますが、ここの祭神は宇智大神と謂われ、内臣の祖、彦太忍信命を祀るといいます。
つまり、この辺りの古代の首長は内氏だったのでしょう。


●吉野川に丹生川が流入する辺り↓
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/hidaka_002.htm
 
●火雷神社(ほのいかずち)↓
http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/ikazuchi.htm

●宇智神社↓

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/uchi_001.htm


[590] 大和五條 (1) 投稿者:やさか 投稿日:2010/06/13(Sun)
“大和五條 柿の葉すし たなか” は全国区で知られるようになったようですね。

のっけから寿司のキャッチコピーになりましたが、
この「大和五條」の表現は、京都の五條と区別するためのように思われます。
大和五條は、現代の奈良県五條市のことですが、昔の大和国宇智郡と呼ばれた地域にほぼ該当します。
厳密にいえば、昭和32年に宇智郡内の2町6村が合併して五條市が成立した後、
昭和34年に南宇智村を編入した時点の五條市のエリアが、昔の宇智郡の全域にあたるようです。
五條の地名の由来は、古代の条里制から来たと考えるのが普通と思われます。
JR和歌山線の駅名は現在も「五条」と表記されていますが、ほとんどは「五條」の表記に統一されてきているようです。

さて、古代の宇智郡には、阿陀・賀美・那珂・資母の四郷があったことが知られています。
この内、阿陀が現在の五條市に「阿田」という地名で残っています。
また、阿陀比売神社という式内社がこの阿太地域に鎮座していて、その辺りが阿陀郷の中心地域であったことが窺えます。
『古事記』中巻には、この「阿陀」が以下のように出てきます。
※(以下原文)
從其八咫烏之後幸行者 到吉野河之河尻時 作筌有取魚人 爾天~御子問汝者誰也 答曰僕者國~ 名謂贄持之子【此者阿陀之鵜飼之祖】
(読み下し)―― その八咫烏の後より幸行(い)でませば、吉野河の河尻に到りましき。時に筌(うへ)を作りて魚(な)を取る人あり。ここに天つ神の御子、「汝(いまし)は誰(たれ)ぞ」と問ひ給へば、「僕(あ)は国つ神、名は贄持之子(にへもつのこ)といふ」と答へ申しき。[これは阿陀の鵜飼の祖(おや)] ――

ではここでいうところの「吉野河の河尻」とは何処をいうのでしょう?
『五條市史』上巻272頁には、
――「吉野河の河尻」というのは、阿陀の鵜養の祖が居たというところから、今の阿田がその中心であったことはもとよりであるが、「河尻」とあらわしている点では、五條・二見などの地を占めた、やや広い範囲を指していると見て差支えない。―― …と記されています。

●阿陀比売神社↓参照

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/adahime_001.htm


[589] 第77回 日本ダービー 投稿者:やさか 投稿日:2010/05/31(Mon)
まれに見る強力馬揃いで、白熱戦が期待された第77回日本ダービーは
好天に恵まれた東京競馬場で、今年も大観衆の中に行われました。

今年の日本ダービーは頭抜けた評判馬が二頭いました。
一番人気は、六戦五勝、連対率100%のヴィクトワールピサで皐月賞優勝馬。
二番人気は、四戦四勝、皐月賞は出走していないものの負け無しのペルーサ。
下馬評では上記二頭が一段抜けた実力馬とみられ、単勝人気もこの二頭が拮抗した1・2番を占めていました。
離れた三番人気が、六戦二勝二着三回で連対率83%。皐月賞二着のヒルノダムール。

ところがレース結果は大方の予想を裏切る結果で、1・2・3・4番人気馬が揃って三着以下となり、
結局、皐月賞では三着だったエイシンフラッシュ号が優勝。同四着馬のローズキングダム号が二着となり、
馬番号で1・2着馬を当てる馬番連勝式馬券は、1−8で16,720円の高額配当となりました。

さて、今日のレースですが勝ったエイシンフラッシュの勝ちタイムは2400メートル2分26秒9。
決して速いタイムではありませんでした。
どちらかと言えば今日のダービーはスローペースのレースだったと思います。

結果論ですが、一・二番人気ヴィクトワールピサ、ペルーサの敗因を考えますと、
まず、スタートでペルーサが出遅れたこと。レースの中盤、ヴィクトワールピサの位置取りが後ろ過ぎたと思えること。
そして直線、ヴィクトワールピサの前が狭くなる不利があったことがあげられると思います。
タイムをみると前半の1000メートルが61秒台後半、優勝馬の上がり3ハロンが32秒7。
これは、かなりスローペースで完全な上がりの競馬です。
これでは不可能ともいえる1ハロン当たり10秒台の足を3ハロン使えなければ、後ろに居ては勝てないという理屈になります。

何故このような結果になったかですが、
一番の原因は先行馬が少なかったこと。
何が何でもハナ立ち、突っ走るというような先導馬がいなかったことに尽きる思います。
もちろん、勝った馬が強かったことは事実でしょう。
でもこの時点までは(2000メートルまでの距離なら)人気の2頭が実力は上だったような気がします。
競馬には様々な条件が加味されて勝負が分かれてきます。
あるいは2000mから2400mに距離が延びて、血統的な優劣が顕れたのかも知れませんね。

厩舎関係者も騎手も、競馬予想・評論家も先行馬が少ないのは分かっていたのです。
それで私も今回レース展開の予想は、前残りを考えていたのです。
それも、行った行ったの前二頭の前残り。
玉砕覚悟の強力な逃げ馬とそれに続く先行馬の二頭の粘りこみ。大穴狙いです。
見事に外れました。私がひそかに期待していた二頭は行く素振りも見せず馬軍に沈みました。
もともとそれだけの意欲も先行力も無かったのかも知れません。

競馬を初めて四十年以上にもなりますが、今でもクラシックレースはいつも楽しんでいます。
今日のダービーでは、とても当たりそうににもない大穴馬券2点と、本命筋の抑え馬券が1点。
穴馬券はもちろん外れ、残念ながら抑え馬券の方も一着三着の外れでした。
四十年前に比べると、競走馬の能力は飛躍的に向上しているようです。
2000メートルで4秒位、2400メートルで5秒位も走破タイムが短縮しています。
これは競馬場の芝生の整備が格段に良くなったこと。トレーニングや騎乗技術が進歩したこと等によるものでしょう。
馬券は外れましたが、競馬も近頃また少し面白くなってきました。
夏を過ぎて若駒たちがどこまで成長するか、秋の菊花賞が今から楽しみです。
(H22.5.30記)

[588] Save Our Planet, Save Our Water 投稿者:やさか 投稿日:2010/05/27(Thu)
巨大な海洋汚染がメキシコ湾で広がっています。
英国の国際石油資本が開発している海底油田が今年4月20日に爆発。以来、1か月以上も原油流出が食い止められず、
1日あたり5,000バレルから25,000バレル(80万リットル〜400万リットル)もの原油が流出し続けて、
多くの野生生物が生息する湿地帯や豊かな漁場、沿岸のリゾート地に深刻な影響を与え始めているようです。
場所は米国南部ルイジアナ州のメキシコ湾沖合80kmの石油掘削施設で、
開発主体はスーパーメジャーのBP社。掘削施設の管理は世界最大の沖合掘削請負会社トランスオーシャン社。
石油掘削施設を建設したのは韓国の現代重工業。

BP社のメキシコ湾開発担当の副社長は昨年9月、米国内務省に対し書簡を送り、
現行の自主的な安全対策は適切だとし、安全規則の厳格化に反対していたといいます。
にもかかわらず、このような大規模海洋汚染事故を起こした責任は重大と言うべきでしょう。
事故を起こして、もう1か月以上も経つというのに有効な対策は何一つ取れていません。
本日の新聞によれば、
“流出油田に泥で「栓」” の記事が見えますが、1日も早く流出が食い止められよう願うしかありません。
以上産経新聞5月27日夕刊及び、Wikipedia/Internet 参照

不思議なのは、これほど世界的な大事故なのに、テレビや新聞があまり報道しないことです。
(でも、インターネットで検索すればどんどん情報はでてきます)


[587] ワクチンについての疑問 投稿者:やさか 投稿日:2010/05/23(Sun)
H22.5.19付産経新聞によりますと、
「ワクチン(口蹄疫の)接種は有効か」という疑問に対して以下のように農水省の判断を記しています。
「農水省は現在70万回分の在庫があるとしている。感染を完全に予防するものではないが、ウイルスの体外への排出を抑制し、感染拡大を抑える効果が期待できる。家畜の体内にはウイルスが残るので、最終的には殺処分する必要があるが、計画的に処分や埋却を進められるメリットがある」
はたしてその通りでしょうか?
「殺処分」という結論を出したのでしたら、接種までの時間や接種の手間・費用を省き、
専門家ではありませんが、少しでも早くいきなり殺処分する方が良いのではないかと思えます。
どうしてすぐ有効性に疑問符が付くワクチンを使いたがるのでしょうか。大いに疑問です。

また、ワクチンと言えばインフルエンザ・ワクチンのことですが騒動後の現在、
「厚生労働省によると、国産ワクチン5400万回のうち、在庫は2月現在で3110万回分。輸入ワクチンは5300万回分のうち、出荷されたのは流行がほぼ終息した3月になってもわずか約4千回分で、計8410万回分が余っている」…産経新聞H22.5.19 夕刊より
どうしてこのような無駄をするのでしょう?
予想に反して感染者が激減したからだともいうのでしょうが、おそらく莫大な金額をその購入に使ったことでしょう。
もっと慎重に判断して慎重に買い入れをしていれば、こんなにも大きい無駄遣いはしないで済んだはずです。
結果論ですが輸入はまったく必要なかったのです。
有効性に大いに疑問のある高価なワクチンを、いとも簡単に大量輸入することの責任こそ追及しなければならないでしょう。
おそらく、このワクチンは来年には使えず廃棄処分になることは目に見えています。

[586] 口蹄疫無惨 投稿者:やさか 投稿日:2010/05/23(Sun)
宮崎県の口蹄疫感染のニュースは、見聞きする度やりきれない思いでいっぱいになります。
なんと30万頭もの牛や豚が殺処分されるというのです。
今まで手塩にかけて育ててきた農家の方々の無念さはいかばかりでしょうか。
畜産農家の深い悲しみと嘆きが聞こえてきそうです。
30万頭もの牛や豚が殺処分される現場は、想像するだけでも残酷な修羅場となることでしょう。
埋める場所もないほどの肉塊のことを考えてみてください。
いずれは食肉に供される家畜の運命ではありますが、食品として人に食されず、土中に埋却されてしまうのでは牛や豚たちの魂も救われません。

行政の今回の対処にはおおいに疑問があります。
ここまで厳格な処置は必要なのでしょうか?
自分たちの不手際さから、今後の責任追及をかわすため、責任逃れにことさら厳しい措置をとったようにも思えます。
どうしてこのようなことになったのでしょう?
感染ルートはどういう経路なのでしょう?
ワクチン接種後の殺処分にも、大いに疑問があります。
殺処分・埋却までの間の、汚染拡散防止に有効だというのですが本当でしょうか。
(時を経て抗体が出来てからは有効と考えられますが、それよりワクチンで人為的に感染させることの方が問題)
徹底した消毒?というのも処分後の薬品汚染の方が心配になります。

今回の口蹄疫汚染で、宮崎県の畜産業は壊滅的な打撃を蒙り、
ひいては日本の畜産業全体に深刻な影響を及ぼす政府の対応には大いに疑問を感じます。
農家を悲しませ、動物の命を粗末にするだけでなく、
ワクチン接種に費用がかかり、埋却に費用がかかり、農家の補償に莫大な費用がかかります。
このような措置は、薬品メーカーと海外の畜産業者を喜ばせるためと言われても仕方がないでしょう。
後は、完全に口蹄疫汚染を抑え込められることを願うばかりです。
そして、今後決してこのようなことにならないよう感染ルートを解明して万全の防御策を講じてほしいと切望します。
国内の畜産業が衰退すると、安全性に問題の多い食肉輸入を増やさなければならないようになるのが心配です。

[585] ご案内 投稿者:マルヤ 投稿日:2010/05/23(Sun)
丹生川上神社例大祭のご案内

と き:平成22年6月1日(火) 午前10時より斎行 
ところ:丹生川上神社下社 
     所在地:奈良県吉野郡下市町長谷1
     交 通 :近鉄吉野線下市口駅下車、天川方面行きバス約40分
      くるま:国道309号線沿い 駐車場あり


↓丹生川上神社(下社)

http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/niukawakami.html


[584] Re[583]: ありがとうございました 投稿者:やさか 投稿日:2010/05/16(Sun)
こちらこそありがとうございます。
いろいろ教わりました。
また学ばせていただければ幸いです。

[583] ありがとうございました 投稿者:吉野の旅人 投稿日:2010/05/15(Sat)
有意義な時間 感謝いたします
多くの経験 人の心との触れ合いから
多くを学びたいと思います

[582] 妻籠と馬籠 投稿者:やさか 投稿日:2010/05/07(Fri)
この連休に妻籠宿と馬籠宿を巡りました。
道路は混雑が予想されたので、電車で行くことにしました。
JR中央線・南木曽(なぎそ)駅で下車。駅前で早めの昼食をとると、そこから徒歩でまず妻籠宿を目指しました。
妻籠までの中山道・木曽路の道中では蒸気機関車が展示してあったり、もう五月だというのに満開の八重桜の花見ができるなど退屈しません。
南木曽駅から妻籠宿までは4キロ余り約一時間の道のりです。
その日は妻籠で、築後三百年にもなるという旅籠に泊まりました。
江戸時代そのままといった部屋の作りで、昔の雰囲気を満喫。
夕食はワラビやゼンマイ、この時期しか採れないという木の芽など数々の山菜と、イワナの塩焼き、紅マスの刺身などをいただきました。
夜は、ひんやりとした冷気で肌寒い感じでしたが、それが却って山里の情緒を感じることができます。
明くる日は、同じ木曽路を馬籠へ向かいました。
馬籠宿まで約8キロほど。山道でもあり歩き方にもよりますが三時間ほどでしょうか。
馬籠からの帰路は、とても歩く自信はなくバスで中津川駅まで出ました。

●木曽路の風景/妻籠・馬籠↓

http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/tsumago.html


[581] Re[579]: 祈りとは 投稿者:やさか 投稿日:2010/05/04(Tue)
あとから気付いたのですが、[579] の書き込みは言葉足らずでした。
[579]で言うところの祈りとは、個人レベルの祈りのことで、
神社や寺院で斎行されるところの、人々の幸せを願う祈り、国民の安寧を願う祈り、国のいやさか願う祈りや、
世界平和を願う祈り等々とは全く違うものであることを付け加えておきたいと思います。

[580] おみくじ 投稿者:やさか 投稿日:2010/05/03(Mon)
御神籤(おみくじ)には不思議な力があるように思います。
神仏の前で願い事をしないようにしている私ですが、御神籤は折にふれて頂きます。
寺院にはあまり参詣しませんが、神社にお参りした時は時々御神籤を引いてみます。

人生には様々な決断が必要です。
普段の生活の中にも、小さなことから大きなことまで、
右か左か決めなければならないことが多くあります。
また、どうしょうかと悩むことや迷うこともあるのではないでしょうか。
そのような時、御神籤は一つの指針を示してくれるように思います。
御神籤に記されている文言を繰り返してよく読むと、
その中に求めている答えが必ずあると私は思っています。
つまり、神籤文をヒントにして自分でその答えを見出すのです。
もちろん、自分が下した判断や結論には、
自分自身が責任を負わなければならないのは言うまでもありません。

[579] 祈りとは 投稿者:やさか 投稿日:2010/05/03(Mon)
祈りとは 今日一日を感謝し
     今日の一日を反省して
          明日への希望を誓うことです
     (当HP初出:平成13年5月10日、彌栄工房・祈りとは)

上の言葉は十年ほど前に私が作って墨書し、今も机の前に貼り出している言葉です。
つまり、祈りとは神に願うことではなく、その日の神の恵みに感謝して
その日の反省に基づく明日への覚悟を誓うことだと思うのです。

ミレー作[晩鐘]の、夕暮れの畑で祈りを捧げる農民夫婦の、あの有名な絵を見ても思うのですが、
夫婦は神様に願い事をしているのではなく、その日一日の感謝の言葉を述べているように思えます。

「いつもお恵みくださり感謝いたします」
「今日も健康で働き、作物の収穫もありました。有難うございます」
「明日も生命(いのち)いっぱいに生きます」
また或いは、
「今日も健康に生かしていただき感謝します。明日も精一杯働きます」
……と言っているのではないかと私には思われます。 

●ミレー[晩鐘]↓出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Jean-Fran%C3%A7ois_Millet_(II)_001.jpg  


[578] 驕れる白人… 投稿者:やさか 投稿日:2010/04/27(Tue)
『驕れる白人と闘うための日本近代史』という本があります。
これは松原久子氏がドイツで、ドイツ語で出版した『Raumschiff Japan』の日本語訳本で、
田中敏 訳/文芸春秋刊行のものです。
この本は、欧米人の日本や日本人に対する偏見を糺すために著されたものと思われるのですが、
日本人として是非知っておかなければならない史実や 
「日本人かくあるべき…」というような教訓がいっぱいつまっています。
もしまだ読んでおられないようでしたら、一読をお薦めします。私は大いに感銘を受けました。

この本の前書きで、訳者の田中敏氏が次のように記しています。
「なぜ日本人は“日本の弁明”をしないのか。理由はいろいろ考えられる。西洋崇拝、西洋人の歴史観に洗脳もしくは汚染されている、語学力がない、日本人の美学、事なかれ主義などが挙げられよう。しかし、それでは黒を白とまでいっても自己正当化を憚らないしたたかな白人に伍して厳しい国際社会を生き延びていくことはできない。今、防衛論が盛んであるが、我々はまず、言葉で自国を防衛することに死力を尽くさなければならない」

最後に、この本の著者自身の言葉を232pの「著者あとがき」から、重要な一部を引用しておきます。
「アメリカの国益とは何か。戦略は国防総省や国務省、CIAのみならず、各地のシンクタンクで長期的展望のもとに練られている。戦略実行となれば、マスコミはなんのかんのと議論しつつさまざまなリークを伝え、扇動し、結局は戦略を正当化する。すべては複雑にして巨大なシステムであり、これこそが世界を震撼させるアメリカの武器である」

[577] 日本たたき 投稿者:やさか 投稿日:2010/04/27(Tue)
日本たたきで、一番はじめに狙われるのは自動車会社。それもハイブリッド車を作っているメーカーではないでしょうか。
まずトヨタ、そしてホンダでしょう。それから電気自動車を開発して大量生産が軌道に乗りはじめた自動車会社。
それは石油の消費量が激減するようになると思えるからです。石油資本からみると苦々しい限りの存在でしょう。
売り上げの減少をカバーするため石油価格を上げるとしても、それには限度があるからです。

また自動車メーカーではないからと言っても油断はできません。
先進の技術を誇るメーカーもその標的にされかねません。
たとえば液晶やLEDのメーカーです。
口火を切るのは消費者からのクレームでしょう。
日本国内から火の手があがる場合も多くあります。
過去にも様々な欠陥を指摘され苦慮をしたメーカーがありました。
それはいまだに尾を引いているような所も見受けられます。

不思議なことに、何者かの意を受けて呼応するかのように大袈裟にマスコミが騒ぎはじめます。
そして、これがリコールに発展して行くのです。
メーカーとしてはたまったものではありません。
企業として一番いま大事なのは、リコール問題に対する危機管理能力です。
ところが残念ながら日本のメーカーは、大企業といえどもマスコミに無力のようです。
日本のメーカーは、消費者に誠実だし、作られている製品の品質も高品質だと思うのですが
そうした優良メーカーが叩かれるのは、日本人にとって本当に無念なことというほかありません。
政府は無力で、一企業を弁護してくれるはずもなく、
残念ながら企業は、今のところ自衛する以外ないようです。

[576] 日本いじめ 投稿者:やさか 投稿日:2010/04/25(Sun)
話が前後しますが、4月22日産経新聞夕刊を見ますと

――「トヨタ 3→360位」 米紙番付 リコール問題響く――
という見出しのもとに、米経済誌フォーブスが発表した2010年の有力企業番付の記事を載せています。
「トヨタ自動車が前年の3位から360位に急落した。100位以内の日本勢は前年の11社から3社と大幅減となり、世界経済の中で日本企業の存在感が低下していることが鮮明になった」
ちなみに「日本勢はNTTが41位、三菱商事は78位、ホンダが86位だった」と載せられていいます。
(ただしこの順位基準は、どういう経営指標によるものかは記されていないようです)

自動車産業といえば、日本の基幹産業といっても良いのではないでしょうか。
その日本の自動車会社トップのトヨタが袋叩きにされているのです。これは日本が攻撃されているのと同じことでしょう。
にもかかわらず、政府は独自に事実を調査しようともしないで見て見ぬふりをしています。
以前、「日本株式会社」と世界から揶揄されたこともありましたが、今は逆に「アメリカ株式会社」の様相を呈しています。
当時、たしかに日本政府は日本企業の世界進出に協力したことは事実だったでしょう。
政府が国の産業を支援するのは当然のことだからです。でもそのために他国企業を攻撃したことはなかったと思います。
現状をみると、超国家の資本グループがアメリカ政府に圧力をかけ、日本たたきに向かわせているような気がしてなりません。
本当に日本のトヨタ車はそんなに欠陥が多いのでしょうか。どうも信じられません。

「トヨタ車たたき」は、一自動車会社たたきだけには終わらないような気がします。
様々なクレームをつけて、次から次へと日本の有名会社たたきが続くのではないかと心配されます。
新聞やテレビなどの報道メディアも、これを助長するような動きをすることでしょう。
このようにして体力を無くしたところに、待ってましたとばかりハゲタカが襲いかかります。
今まで日本企業とばかり思っていた有名会社が、いつのまにか外資にその経営権が奪われてしまっているのです。
公器たる新聞やTVも、正論と思える主張を述べることに躊躇しているようでもあります。
このままでは、日本の優良会社が次々と元気を無くして行きます。
このような時代、今の日本政府はいかにも無力です。
このような体たらくでは、いざというとき、政府は国民の命すら守ることができないでしょう。
その器でない人物が政府の中枢に立つと、国家の衰退がはじまるのは歴史が示す通りです。
わたしたち一人一人が現状に目覚めて、まず選挙から、
地道に国家のためにつくす政党と政治家を選ばなければならないと思うものです。

[575] 日本いじめ 投稿者:やさか 投稿日:2010/04/23(Fri)
本日4月23日の産経新聞夕刊に、
――「日本けなし時代到来」 と題する記事が出ています。

それは、米紙ウオールストリート・ジャーナルのアジア版(電子版)に掲載されたものだそうで、
筆者は米大手シンクタンク「アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所」日本部長のオースリン氏とのことです。
その記事には「今までジャパン・バッシング(日本たたき)、ジャパン・パッシング(日本素通り)、という時期があったが、今やジャパン・ディッシング(日本けなし)という時代に入った」と言い、
鳩山首相への信頼が弱まっているとして、
「米政府高官は、日本人を内心でますます見放しつつある」
「米国との親密な関係がなければ、日本は(アジアにおいて)今以上に孤立するだろう」などと述べ、
「ワシントンとの話し合いができる状態になるか、鳩山首相が辞任しない限り、ジャパン・ディッシングはアジアにおける数十年にわたる安定と繁栄を一変させる脅威になる」
と結論付けした記事が掲載されていると伝えています。

この記事は、夕刊第3面の「米紙また批判」という小さな扱いのコラムですが、これは日本にとって重大な意味を持つメッセージと私は感じられます。
つまり、米国の意思を日本が無視するのなら、今迄のような安定と繁栄は保障しないという恫喝だと思われてならないのです。
前にもこの掲示板に書きましたが、
日本は今、国内には山積する問題を抱え、国際的にも孤立化の傾向にあり、
大きな曲がり角に来ていると多くの人たちは感じていると思います。
迷走するばかりで大局が見えない政治家と、事なかれ主義に堕落した官僚などには、
今おかれて日本の危機的状況に気が付かないのでしょうか?
米国の執拗な「トヨタたたき」は、一連の日本に対する姿勢と無関係ではないと思われます。
米国のエスタブリッシュメントは、素直に(信頼して)追従する日本を求めているのです。


一方、国際社会から日本や日本人はどのように見られているのでしょうか。気にかかります。
今でも、日本の工業技術や日本文化の伝統には敬意をはらって評価してくれていると思います。
でも、むかしの日本人にあった勤勉さや道徳心、気高い精神性といったものは今の日本人には無く、
世界の人たちからの日本人に対する評価は地に落ちているかに想像できます。
これは一つの見方だけですが、その国テレビの娯楽番組を見れば一目瞭然だと思うのです。
そこで日本のテレビの娯楽番組ですが、
低俗な放送のオンパレードです。(もちろん、いい番組も本数は少ないですがあることはありますが)
これでは世界中からバカにされても仕方ないかも知れません。
番組提供の企業さん、どうか低俗な番組のスポンサーにならないでください。

子供たちのためにも製品を売るためだけに、視聴率に惑わされて、くだらない番組のスポンサーにならないでください。
くだらない番組を提供していると、その会社も企業理念を問われることになるでしょう。
それではその企業も製品が売れなくなり、会社の存続も危ぶまれることになるでしょう。
企業の良心とは、そういう番組提供にも現れます。
くだらない番組では、スポンサーがつかないとなれば、TV各局はおのずといい番組をつくるようになります。
どうか企業の経営者の方、宣伝広告担当の責任者の方、いい番組が増えるよう協力をお願いしたいと思います。

[574] 唐の都・長安と漢詩 投稿者:やさか 投稿日:2010/04/19(Mon)
西安と言えば古の唐の都・長安ですね。
長安で私がすぐ頭に思い浮かぶのは漢詩のひとつです。
漢詩というよりも正しくは唐詩ですね。
思い浮かぶと言っても勿論、その詩の全文が口遊めるわけではありません。
憶えていたのは、「笑って入る胡姫の酒肆の中」。このラストの一句だけです。
それで調べてみました。
それは「少年行」という李白の七言絶句でした。

――――――――――
五陵年少金市東    
銀鞍白馬度春風    
落花踏盡遊何處
笑入胡姫酒肆中
  
(読み下し/書き下し)
五陵の年少 金市の東
銀鞍 白馬 春風を度る
落花踏み盡くして何れの處にか遊ぶ
笑って入る胡姫の酒肆の中
――――――――――

銀の鞍を付けた白馬に跨り春風を切って、我が物顔で長安の盛り場で遊ぶ若者たちは 
五陵の邸宅街に住む、富裕層の子弟か科挙及第の選良だろうか
落花を踏みしめ、何処に行くかとみれば、
西域美女のいる酒場へ笑いながら入って行った。
…とでも解釈すればよいのでしょうか。
国際都市として栄えていた長安の華やかな春を謳ったものでしょう。

一方、杜甫の五言古詩「石壕吏」や、白居易の七言古詩「売炭翁」では、兵役や徭役に喘ぎ、
収奪に苦しむ哀れな民衆が映されてています。いわゆる「諷諭詩」といわれているものですね。

盛唐の大詩人 王維は詩仏、李白は詩仙、杜甫は詩聖といわれたそうですが、
あの「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌で有名な阿倍仲麻呂は、
王維や李白と親交があったことが分かっています。
もちろん李白と杜甫は親交がありましたので、或いは仲麻呂は杜甫とも会ったことがあるかも知れません。

世界で最も美しいともいわれる漢詩ですが、作詩上の体裁・決めごとが整ったのは唐の時代だということです。
つまり平仄や押韻、対句など作詩上のきまりのことです。
この時代に多くの名詩人が輩出し、秀作が多く生まれています。なので漢詩と言うよりも唐詩と言うべきなのでしょう。
誰だったかは忘失しましたが、「漢詩はジグーソーパズルのようだ」と言ったと思います。
つまり、平声と仄声(上声・去声・入声)を合わせるきまりと、韻を踏む規則などに従いながら韻文をつくります。
例えば上記「少年行」七言絶句でしたら、一句七字四行の二十八文字で、起・承・転・結に基づく作詩をするのです。
誰かが言ったようにジグソーパズルのような趣があり、それは精密機械のように端正で、そしてまた琴(きん)のように
妙なる音を奏でるように思われます。

唐詩を鑑賞する場合に思うのですが、幸い日本人は漢字の素養がありますので、欧米人よりは唐詩を理解しやすいと思われます。
意味は漢文を読む方法である程度分かるからです。
でも原語で朗読する場合の発音がよく分りません。唐時代の中国語の発音は現代中国語(ピンイン)とかなり違うようです。
唐代長安音の上記、平声・上声・去声・入声の四声と、現代中国語の四声はまったく違うそうです。
なので古代の平仄や押韻の、響きやリズム、音感など正確には判らないと言える思います。

『唐代の人は漢詩をどう読んだか』大島正二/岩波書店によれば、
「古代の音韻を探るのにとても役立つものの一つに<韻書>があります。この韻書という韻引きの字典には<反切>という、古代中国で発明されたユニークな表現法で、韻書におさめられている漢字すべての音が記されているのです」とあるのですが、「(古代中国語の)声調については、(正確には)わからないとお答えするほかありません」ともあります。
また、「現代中国語を知っていることは平仄を見分けるのにとても有利です。でも、それだけでは、残念ながら、その字が平字か仄字か見分けがつかないことがあります。でも、がっかりすることはありません。みなさんおなじみの日本の漢字音がその足りないところを補ってくれます」
何故かと言うと、「その中国に由来する日本の漢字音には現代の中国ではとっくに消えてなくなってしまった古い中国音の一部が残されているのです」
と記されています。
つまり簡単に一言でいえば、日本の発音で平仄や押韻がかなり分かるということだと思われます。
唐詩というのは本当に奥行があって興味がつきませんね。

[573] 古都西安 (続) 投稿者:やさか 投稿日:2010/04/11(Sun)
西安近辺には様々な王朝の興亡がありましたが、どのような順序でどんな王朝が起こり、そして滅びていったのか、
中国人でも中々覚えづらいようです。
すべてが漢民族の王朝ではありませんが、中国の小学校では下記のような「中国歴史朝順序歌」が教科書に載っており
その歌で歴史を覚えているようです。

―――――――――――――――
中国?史朝代?序歌

夏商与西周、?周分?段 
春秋和?国、一?秦??
三分魏蜀?、?晋前后延
南北朝并立、隋唐五代?
宋元明清后、皇朝至此完。
――――――――――――――― 

(読み下し)
夏商と西周、東周は両段に分かれ  …(夏は歴史的に認知されていない。商は殷とも言い、ほぼ実在したことが確認されている)
春秋と戦国、一統して秦両漢     …(両漢とは、西漢と東漢。又は前漢と後漢ともいう)
三分して魏蜀呉、両晋は前後に延びて…(両晋とは、西晋と東晋のことである)
南北朝並立す、隋唐五代と伝わり
宋元明清の後、皇朝はここに至っておわる。

――――――――――――――――――――
●兵馬俑坑見学写真をアップしました。↓

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/china.html


[572] Re[571]: Re[570]: 古都西安 投稿者:やさか 投稿日:2010/04/10(Sat)
神奈備さん、書き込みありがとうございます。

寒くなく暑くもなく、いい季節に行きました。
西安は気候的にも日本の近畿地方に似ているようです。
市内は日本から移植された桜が街路などにも植えられてあり
手入れもよく、満開寸前の最高の花見が中国で出来ました。
街路樹はやはり柳が多く、いたるところで柳絮が舞っています。
市街の大通りはほとんどがポプラ並木でした。
定期的に散水車が巡回してよく手入れされているようです。

帰国便で、上海から乗り合わせた日本の若者が話してくれました。
彼は30歳前後の青年で、日本の電気メーカーの社員だそうです。
杭州へ1ケ月出張していての帰りだそうで、
「中国の若者がうらやましいですよ」と言います。 
何故かといいますと、今中国の会社では業績が正当に評価されており
成果に見合う収入があり、将来においても昇給が見込まれていると言います。
彼らは勤勉で、将来に希望を持って働いているとも話す。
そして「杭州の人達は誰もが親切で優しく思いやりがあるんです」とも聞かせてくれました。

私も今回の旅行で、西安市古文化街の屋台横のベンチで、
その地区に住む中年女性と長話をして中国の人たちに親しみを持ちました。
私は「?好」と「対」「不是」しか言えないのですが、筆談と手まねで話が通じるのです。
二人で話していると、周りに屋台の男など四、五人集まって来て話に加わります。
みんな愛嬌のある笑顔で話してくれます。
ここで話した女性は、顔立ちまで日本のおばちゃんとそっくりでした。
故郷に来た感じで、なぜか懐かしい思いがしたのです。

でも、ここで見聞きしたことは事実でも、これは多くの内の一面かも知れません。
この地では至る所で工事の槌音が響き、急造の目隠し塀の向こう側では、
古い商店や住宅の取り壊しがなされているようでした。
或いは立場の弱い住民が強制退去させられているのかも知れません。
また、とてつもなく貧富の差が拡大しているともいわれています。
今回の旅行では現代中国の良い面ばかりを見たようです。 

> いいですね。西安、昔の長安。
> 兵馬傭を見てみたいものです。
>
「兵馬傭」みてきました。近日中にアップしたいと思います。

[571] Re[570]: 古都西安 投稿者:神奈備 投稿日:2010/04/10(Sat)
いいですね。西安、昔の長安。
兵馬傭を見てみたいものです。

みんなが生き生きしているのはいいですね。
あるレベルになれば、もうすこし民主化するのかも。

[570] 古都西安 投稿者:やさか 投稿日:2010/04/10(Sat)
16年ぶりに中国に行ってきました。
前回は北京と上海を巡りましたが、今回は西安のみでした。
ご存じ現在の西安近辺は、古代より大いに栄えた都がおかれたところです。
30km位の圏内に中国歴代王朝が都したわけです。
咸陽は、現在の陝西省咸陽市秦都区
長安は、現在の陝西省西安市長安区
西安は、現在の陝西省西安市新城区…といった具合です。
「西安」は、明・清の時代に西安府と称したことによるもので、
ちなみに唐時代の都長安は、西安(現城壁区画内)の九倍の広さがあったそうです。
この城内には145寺もあったと謂われます。

二度目の中国は驚きの連続でした。
まず乗り継ぎの上海空港の広さに圧倒されました。前回訪問時とはまったく違い、
空港の建物も端が見えないほどの大きさなのです。
目的地の西安空港も私が想像していたよりも遙かに大きく、建物も設備も新しく清潔でした。

日曜日の夜の市内中心街は若者たちであふれていました。
西安は大学が多く、若い男女が特に多いようです。
若者たちの眼はきらきらと輝いて、胸は明日への希望に膨らんでいるかに見えます。
昭和30〜40年代の日本を彷彿とさせるものがあります。

●よろしければ西安のスナップ写真ご覧ください。
写真では市街地も高速道路も空いている場面が撮れていますが、実際は市街地は人が溢れ、市街の道路も高速道路のいたるところ大渋滞が現実です。↓

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/xian.html


[569] Re[568]: 不思議な発見 投稿者:やさか 投稿日:2010/04/03(Sat)
吉野の旅人さん、書き込みありがとうございます。
こちらこそ、ご無沙汰しております。
また何かとお話していただければ勉強になります。
今後ともよろしくお願いいたします。

明日から四日間、中国西安に滞在します。

[568] 不思議な発見 投稿者:吉野の旅人 投稿日:2010/04/03(Sat)
ご無沙汰しております
あれより多くの出会い沢山の情報があり
より一層に丹生の奥深さを実感いたしました
またお話できる機会があれば嬉しいです


[567] 田楽座堺公演のお知らせ 投稿者:やさか 投稿日:2010/02/10(Wed)
相互リンクしていただいている「和太鼓のら」さんが手解きを受けた、
信州歌舞劇団「田楽座」さんの堺公演があります。
私も奈良県橿原市で田楽座さんの公演を観たことがありますが、
心から楽しめる素晴らしいものでした。
その田楽座さんが大阪府堺市へ来ます。この機会に一度お運びください。
伝統の民俗芸能がお楽しみになれます。
和太鼓のらさんからのメールより以下引用します。
-----------------------------------------------------------
「万歳楽」は、和太鼓の魅力はもちろん、津軽三味線や踊り、民謡などの各地の伝統芸能の活力に満ちあふれています。
 山伏たちの漫才や、和製パントマイム《とりさし舞》に心から笑ったり、心に染みるような唄声に懐かしさを感じたり、手拍子やかけ声で一緒にお祭りに参加したり。日本各地のすばらしい芸能の数々に、たっぷりと触れていただけます。 役者さんたち一人ひとりのほとばしるような命のきらめきに触れ、元気をもらえる田楽座の舞台。他の団体では味わえない和太鼓やお囃子の魅力、私たちが生まれるずっと前から、この日本で大切に大切に受け継がれてきたお祭りや和太鼓の原点に触れられます。
 小さな子どもさんから、おじいちゃんおばあちゃんまで、どなたにも楽しんでいただける作品です。
どうぞよろしくお願いします。

●歌舞劇団 田楽座 堺公演「万歳楽」
  2月21日(日)13:30開場 14:00開演
  堺市立 栂(とが)文化会館
  堺市南区桃山台2−1−2 TEL.072-296-0015
  大人3000円  こども・障がい者1500円

[566] 御神箸 投稿者:やさか 投稿日:2010/01/29(Fri)
“朝夕に箸執る度に思ふかな 神の恵みの灼然なるを”
                        食前感謝 一禮一拍手 戴きます
                        食後感謝 一禮一拍手 御馳走さまでした
神は人の敬いによって威を増し 人は神の恵に依って愈々運を添ふ (御成敗式目 鎌倉時代)
末の世の末の末まで我が國は 萬の國に秀れたる國        (東巖和尚 鎌倉時代)
 

折折に神社で戴いた「お箸」が、食器棚の抽斗にたまっているので、時々使用させていただくことにしました。
今日の、丹生川上神社上社でいただいた「延壽箸」のお箸袋には、上のように記されていました。
丹生川上神社下社で戴いた「神箸」には、
“水清き丹生の川上くしたまの いのちやしなふ吉野杉箸”
と記されています。
神社によって箸袋(包紙)には、「御神箸」「延壽箸」「長壽箸」「延命箸」「福授」…と様々に名付けられています。

ちなみに、お伊勢さん「神宮会館」のお箸包みには、次のように本居宣長の詠んだ和歌が書かれています。
●食前 静座一拝一拍手
たなつもの百の木草も天照す 日の大神のめぐみえてこそ (いただきます)
●食後 端座一拝一拍手
朝宵に物くふごとに豊受の 神のめぐみを思へ世の人 (ごちそうさま)

[565] 2012年の噂 投稿者:やさか 投稿日:2010/01/11(Mon)
2012年に世界が終末を迎えるなどという噂があるようです。
「2012」という映画が放映され、大勢の観客を動員しているようでもあります。

国際的には、
●2012年はロンドン・オリンピックの年ですが、
国内的にも、この年の前後には様々な寺社行事があります。
●2009年/住吉大社/第49回式年遷宮(斎行済)
●2011年/知恩院/法然上人800年大遠忌
●2011年/東・西本願寺/親鸞上人750回大遠忌
●2013年/伊勢神宮/第62回式年遷宮
●2015年/金剛峯寺/高野山開創1200年記念大法会
…と宗教的行事が目白押しですが、
世界経済の破綻・世界的な株価大暴落・地震などの大災害、戦争や飢餓・食糧難等々様々の不安な要素から、
近未来の世界には暗雲が垂れこめているように思われてなりません。

理想を言うは易く、行うは難しかも知れませんが、もう少しゆっくりと歩めないものでしょうか。
そんなに早く走らなくても良いのではありませんか?人も・車も・電車も・飛行機も。
そんなに働かなくても生きていけるのではありませんか?
そんなにお金が必要ですか?
富の集中をなくし、無駄をなくし、世界中の人々全員が生活のペースを落として、贅沢をしないで皆で分け合えば、
雨露が凌げるつましい家をもち、朝夕二食で昼寝つきの、健康な生活が営めるのではないでしょうか?
物が溢れ、欲望が大きく膨らんでしまった飽食の現代文明。
その一方で世界の片隅では貧困に喘ぎ、その日の食にも事欠く飢餓が広がっているようです。
すべてをスローダウンして世界中の人々が心豊かに暮らす、そんな世界ができないものでしょうか。
いずれ来る大災害を最小に抑えるためにも、世界の英知を集めて「おだやかに暮らせる社会」の構築を目指すよう望まれます。

年頭にあたり、まずは小さなことから、自分自身の日常の行動から見直し、少しずつ改めて行きたいと思います。

[564] Re[563]: Re[562]: 謹賀新年 投稿者:やさか 投稿日:2010/01/02(Sat)
神奈備さん、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

>  一度、鶴橋あたりで盃をかわしたいもの。

「鶴橋で一杯」いいですね。
夕方六時以降でしたらいつでも(木曜以外)OKです。
ご連絡ください。

[563] Re[562]: 謹賀新年 投稿者:神奈備 投稿日:2010/01/02(Sat)
 あけましておめでとうございます。

 一度、鶴橋あたりで盃をかわしたいもの。

[562] 謹賀新年 投稿者:やさか 投稿日:2010/01/02(Sat)
   桜花朝日ににほふ木下かげ我を忘れて立ち仰ぐかな
   ―― 住吉神社 御神籤 第二十一番 中吉 ――

あけましておめでとうございます。
本年もどうかよろしくお願いいたします。 

[561] ありがとうございました 投稿者:やさか 投稿日:2009/12/30(Wed)
頼みつるこのひとむらの人ごとに千年をゆづれ住吉の松 (藤原頼輔)
― 住吉みくじ「波のしらふゆ」第六番 中吉 ―

第四十九回正遷宮が斎行され、真新しく蘇った住吉大社を昨日29日に参拝しました。
境内は年末年始の準備で大わらわでした。
その時に手にした御神籤です。
私にとってのこの一年は、“中吉”正にそのような一年でした。
みなさま、どうぞ良いお年を―――。

[560] 有馬記念競走 投稿者:やさか 投稿日:2009/12/28(Mon)
有馬記念が開催される12月末頃になると、「今年も終わりだな」と思う。
競馬を始めて40数年が過ぎた。
ずっと馬券を買い続けてきたのではない。
何年も買わなかったこともあった。
近年大レースだけは時々買っている。

近頃競馬ファンも随分と様変わりしたようだ。
ファンも減っているようだし、競馬にロマンがなくなったように思う。
「1番の馬は強いぞ」「いや、7番が早い」などと言って検討している。
そしてスタート後、4コーナーを回ると、「行けー7番!」などと怒鳴っている
昔はそうではなかった。オープン馬クラスは名前で呼ばれていた。

“行けーッ シバフジ!”  “勝てーッ サトヒカル!”
このように名前で叫ばれた。

昔はこんな馬がいた。
いつも華麗な逃げで人気の乙女がいた。その名は “ヤマピット”
いつも好位からの差しで勝負に挑む名花がいた。その名も “ファインローズ”
小柄ながら男どもを蹴散らす大まくりの女傑がいた。その名は “トウメイ”

シンザンのようにエリートコースは歩んではいないが、豪傑がいた。
怪物の名をほしいままにした “カブトシロー”
大井競馬から中央に来た豪脚 “ヒカルタカイ”
特にこの二頭は圧倒的な強さだった。その強烈な印象は今も脳裏に焼き付いている。
昔の中央競馬にはロマンがあった。
もちろん、その後も多くの名馬はいた。
でも昔の競馬と何かが違う。

競馬場の雰囲気が違う。場外馬券場の雰囲気も違う。人がつくる気配がちがうのだろうか。
第一、馬券の種類が多様化してしまって、なんと3連単などという高額配当志向の馬券ができている。
これを的中させるのは、宝くじ並みに困難極まりない。これが逆にファン離れの一因になっているのではないか。
マークシート式投票券で買うのだが、複雑で買うことすら難しい組み合わせの買い方もあるようだ。
昔は「連複」が主だった。今でいう「枠番連勝複式馬券」である。
これは、穴狙いさえしなければ当てるのはさほど困難ではなかった。
競馬の大きな楽しみの一つはレース展開の推理である。
これが読めるようになると馬券は当たるようになってくる。
推理した通りのレース展開になり、ズバリ的中した時の快感といったらない。
合わせて単勝馬券でも取れようものなら、もう有頂天になる。これが競馬の醍醐味だったのである。
本当に昔の競馬にはロマンがあったのだ。

有馬記念が終わると、「今年も終わったな」と思う。
今年一年の反省である。
自分の平成21年はどうだったか。
年頭、自分自身に立てた大きな目標は二つ。
その一つは幸いクリアできたが、あとの一つは成就おぼつかず中途挫折した。
さて、来たる平成22年はどうしよう?こりずに再挑戦してみるか……?
また来年、有馬記念が終わった時、後悔することがないようにしてみたい。
ああ、とりとめもない文字列になってしまった。


↓青春の競馬ロマン

http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/tanino.html


[559] アマテラス考(8) 投稿者:やさか 投稿日:2009/12/15(Tue)
神宮の杜は、とりわけ森厳です。
特に早朝、宇治橋を渡り、参道を南に向かって進み、五十鈴川の御手洗場から緩やかに左折して、
東に向って内宮正宮の方へ進むと、屹立する杉の大樹の枝葉の合間から、神々しい陽光が差し込んでまいります。
正に日神(ひのかみ)を実感する瞬間です。

   “何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる”

先哲が詠んだこの歌の通り、感慨で身魂がふるえる思いがいたします。
この神宮がここに御座あるかぎり
千三百年以上も引き継がれてきた祭祀が続くかぎり
まだまだ日本は大丈夫という安心感に満たされます。
伊勢の神宮に限らず、日本各地の神社では八百万(やおよろず)の神様が
神職の方々によってお祭りされています。
もちろん、各地の寺院においても平和への祈りがなされていることでしょう。
日本はやはり “神の国” と思います。
こうした「神々の祭り」が、永久(とこしえ)に続けられるよう願わずにはいられません。

[558] アマテラス考(7) 投稿者:やさか 投稿日:2009/12/14(Mon)
宮内省のHP[宮中祭祀]には、
「天皇皇后両陛下は,宮中の祭祀を大切に受け継がれ,常に国民の幸せを祈っておられ,年間約20件近くの祭儀が行われています。皇太子同妃両殿下をはじめ皇族方も宮中祭祀を大切になさっています」と書れています。
日々の拝礼などについては触れられていませんが、
賢所で四方を拝し、伊勢の方向を向かれ、天照大御神を遥拝しておられるのでしょうか。
天皇の最も大切な御役割は、国の彌栄(いやさか)と民の安寧を、日本国の祭司王として神にお祈りなされることだと認識いたします。

日本は今、国内には山積する問題を抱え、国際的にも孤立化の傾向にあり、
大きな曲がり角に来ていると誰もが感じていると思われます。
迷走する政治家と、事なかれ主義に堕落した官僚。
本来の使命を忘れたかに見える教育現場、低落する経済と雇用不安。
荒んだ世情を反映するかのような凶悪犯罪の増加等々。
先行き不安な兆候を挙げればきりがありません。
このような時代こそ、大和ごころの復活が求められると思います。
戦後の占領軍による統治政策で戦前の教育はすべて悪として否定され、
間違った個人主義と自由主義の横行で、日本人の美徳が地に落ちました。
この混迷する時こそ、日本人の心の支柱としての天皇のお力添えが、ぜひとも必要と考えるものです。


●以下に「やさか掲示板」[407]に掲出した一文を、過去ログより抽出して再掲します。
慎太郎の「天皇論」 投稿者:やさか 投稿日:2006/2/6

最近になって皇位継承問題が取りざたされているが、石原慎太郎は、皇位相続議論以前に日本の天皇とはいかなるものか考え直す必要があるとして、本日の産経新聞で次のように述べている。(以下部分抜粋、引用)

「私は天皇こそ、今日の世界に稀有となったプリースト・キング(聖職者王)だと思っている。人類の歴史の中に同じものを探せば、古代エジプトのファラオに例を見ようが、現今の世界には他に例がない。さらにいえば天皇は神道の最高の祭司にに他ならない…」といい、そして、
「日本の風土が培った独特の汎神論はその後伝来した、これまた他の一神教と異なり多様な聖性を許容する仏教と容易に混交融和して今日の日本人独特の、決して宗教的なものにとどまらぬ、いわば融通無碍な価値観とさらにそれに育まれた感性をもたらした…」と日本人の心を述べる。
続けて石原はいう。「それらの時代を通じて天皇に関わる事柄として日本人が一貫して継承してきたものは、神道が表象する日本という風土に培われた感性に他なるまい。そして天皇がその最大最高の祭司であり保証者であったはずである。私が現代に改めて天皇、皇室に期待することは、日本人の感性の祭司としてどうか奥まっていただきたいということだ」と。
そして戦後の皇室の在りかたにふれ、その本質からずれているような気がしてならないと言い、例えて、
「何か災害が発生してような折、天皇が防災服を着て被災地に赴かれるなどということよりも、宮城内の拝殿に白装束でこもられ国民のために祈られることの方が、はるかに国民の心に繋がることになりはしまいか」と書いている。
さすがに石原らしい見事な天皇論だと思う。
●産経新聞 2月6日朝刊 第1面/日本よ/のコラム 「祭司たる天皇」と題した記事より。

[557] アマテラス考(6) 投稿者:やさか 投稿日:2009/12/13(Sun)
天皇家にゆかりの神には、アマテラス神やタカミムスビ神などの神々、そして
前文に挙げた広瀬・竜田の神のほかもうひとつ興味深い神名があります。
それは、前記『延喜式』・「神名帳」記載、宮中神三十六座の内の宮内省坐神三座、園神と韓神のことです。
園神は新羅系で大物主命。韓神二座は百済系で大己貴命・少彦名命だという説もあるようですが、
いずれも渡来系の神のようで、平安遷都以前から宮内省にまつられていたといいます。
平安時代の宮中神楽の演目のひとつに「韓神」というのがあって、その歌詞は以下のようです。
 “三島木綿 肩にとりかけ われ韓神は 韓招ぎせむや 韓招ぎせむや” /宮中神楽歌(鍋島本家本)/
「カラオギセムヤ」は、原文では“加良乎支世牟也”となっており、
折口信夫は「枯荻」としたが、上田正昭氏は、『日本の神話を考える』のなかで、
「韓神のまつりには“韓招ぎ”こそふさわしい。その点では本居宣長説の“枯萩”という解釈よりも、
賀茂真淵の“韓優”とみた考えの方が妥当であった」としています。
このように宮内省坐神三座のなかに「韓神」が坐し、それが宮中神楽の演目にある。
…ということは韓神の降臨を願う神祭り(神降ろし)が、
宮中のいずれかの神前で執り行われていたのではないかと思わされます。

[556] アマテラス考(5) 投稿者:やさか 投稿日:2009/12/12(Sat)
天照大御神は皇祖神で、全国にあまた坐す神々の頂点、本宗の主祭神です。
この天照大御神が坐す伊勢の神宮は、いわば天皇家の宗廟ともいえると思います。
ところが、この極めて重要な祖神を祀る神宮に、明治二年の明治天皇参拝まで、
歴代天皇自らの参拝記録はないようです。『書紀』には、
「天武天皇元年6月26日朝、朝明郡の迹太川のほとりで天照大神を遥拝された」とありますが、参拝とは記されていない。
「持統六年3月6日、天皇は諫めに従われずついに伊勢に行幸された」とありますが、ここも参拝とは記されていません。
天武・持統、両天皇ですら参拝なされていないようなのです。

『書紀』天武・持統朝の記述の中、特に目を引くのは、
天武天皇の広瀬・竜田の神への奉幣の多さと、持統天皇の吉野宮への行幸の多さです。
吉野は距離が近いということはありますが、皇祖神の坐す伊勢の神宮へは、
一度も参拝した記述はないのとは対照的に、
広瀬大忌神と竜田風神へは、20回以上も祀らせたとする記録があります。
天皇自らの参拝はほとんど無かったようですが、天武・持統両天皇にとって、
この広瀬・竜田の神を丁重に祀ることはどのような意味を持っていたのでしょう。
また、天照大御神との係りはあったのでしょうか?

[555] アマテラス考(4) 投稿者:やさか 投稿日:2009/12/09(Wed)
伊勢神宮崇敬会発行の、『お伊勢さんを歩こう』という小冊子に、
――お伊勢さん、大神宮さん、と親しまれる伊勢の神宮は、ただ“神宮”というのが正式な称号です。
お伊勢さんは、天照大御神をお祭りする皇大神宮(内宮)と豊受大御神をお祭りする豊受大神宮(外宮)を御正宮として、
十四の別宮と百九の摂社、末社、所管社、合わせて百二十五の宮社から成り立っています。――
…と書かれています。このように神宮には多くの神々がお祭りされているようですが、内宮入口の案内表記では、
――――――――――――
  皇大神宮(内宮)
御祭神 天照大御神
御鎮座 垂仁天皇二十六年
――――――――――――
…と上記のように御祭神として天照大御神の御神名しか記されていません。
ところが、一般にはあまり知られてはおりませんが、『皇大神宮儀式帳』によれば、
内宮正殿には、アマテラスの相殿神として左に弓を置いてタチカラオ(天手力男命)、
右には剣を置いてヨロズハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師姫命)を祭るとあるようです。
伊勢の神宮では、合計百二十五の宮社で多くの神々がお祭りされていますが、宮中ではどうなのでしょう。

皇居におけます祭祀は、いわゆる宮中三殿といわれる賢所、皇霊殿、神殿、で行われているといわれます。
『延喜式』・「神名帳」に記載の宮中神三十六座のうち、その御巫祭神八座は次のような御神名になっています。
●神産日神(かむむすびのかみ)
●高御産日神(たかみむすびのかみ)
●玉積産日神(たまるづめむすびのかみ)
●生産日神(いくむすびのかみ)
●足産日神(たるむすびのかみ)
●大宮売神(おおみやのめのかみ)
●御食津神(みけつのかみ)
●事代主神(ことしろぬしのかみ)
  以上の八神ですが、ここにはタカミムスビの御神名はありますが、アマテラスの御神名はみあたりません。
座摩巫祭神五座に無く、御門巫祭神八坐に無く、生嶋巫祭神二座にも無く、
宮内省坐神三座の中にもその御名はありません。
大膳職坐神三座の中、葛木坐火雷神社の配祀の一柱として大日貴尊の御名が見出されるのみです。
更に、造酒司坐神六座に無く、主水司坐神一座でもありません。

天照大御神は、皇祖神であり神宮の主祭神であられるはずです。
その本宗の御祭神が、延喜式神名帳・宮中神の中に何故その御神名が無いのでしょう?
宮中では天照大御神は奉祭されていないのでしょうか。

神道に興味を持つ者の一人として素朴な疑問を持ったのですが、
●宮内庁のホームページ「宮中祭祀」では―― 
賢  所:皇祖天照大御神がまつられています。
皇霊殿:歴代天皇・皇族の御霊がまつられており,崩御・薨去の1年後に合祀されます。
神  殿:国中の神々がまつられています。
…と明記されています。http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi.html

[554] アマテラス考(3) 投稿者:やさか 投稿日:2009/12/07(Mon)
伊勢神宮(神宮司庁)では、天照大御神の伊勢御鎮座の年を垂仁天皇26年としています。
神武天皇元年を西暦紀元前660年として逆算しますと、垂仁26年は紀元前4年頃でしょうか。
二周干支120年を加えても西暦116年、2世紀の初め頃の大昔となります。
『書紀』神代の巻以降を見てみましょう。
●雄略天皇元年3月、稚足姫の皇女が伊勢大神の祠に侍る
●継体天皇元年3月、荳角(ささげ)皇女が伊勢大神の祠に侍る…等と記されていますが、
ここでは、天照大神の神名ではなく、「伊勢大神※」となっています。
――――――――――――――――――――――――
※全現代語訳『日本書紀』宇治谷孟/講談社学術文庫では、
「この皇女は伊勢神宮の斎宮となられた」と書かれているが、
原文は、「是皇女侍伊勢大~」であり、正しい訳ではない。
これでは、意訳でもなく違訳である。
他でも原文に正しくない記述や私見があるので注意がいる。
――――――――――――――――――――――――
『書記』では、その後の記述でも「伊勢大神」という表現が続いて、
●天武二年4月14日、「欲遣侍大来皇女于天照大神宮。而令居泊瀬斎宮。」と、
ここで初めて「天照大神宮」の名称が出て来ます。
大来皇女を天照大神宮に侍らせるため、泊瀬斎宮に居らさせた記事です。
●天武十年5月11日、皇祖の御魂を祭ったとする記事がみえます。
(以下には筆者の私見と想像が入り込んでます…)
ここで初めて皇祖神としての天照大神を伊勢の神宮にお祭りしたのではないでしょうか。
つまりこの時点以前は、この伊勢の地には「伊勢大神」という別の神格があったのではないかと。
天武〜持統朝を経て、この国が「日本」と国号が定まる前、伊勢地方には別の勢力があって、
伊勢大神を奉祭していた。そして、そこの支配者はサルタヒコではなかったかと思うのです。
伊勢・志摩地方とサルタヒコの繋がりは非常に濃く感じられてならないからです。

さて、天照大神は女神か男神かの続きですが、これを斎宮の制度から考えてみたいと思います。
斎宮というのは、神に侍る側・祀る側であるということについては誰も異存はないと思います。
そして斎宮は神の妻でもあると思います。それから考えますと、祀られる対象の神は男神とする方が自然でしょう。
斎宮は、しばしば神主にもなったようです。勿論この場合でいう神主は神の依代の意味です。
託宣する神が男神であれば、巫(めかんなぎ)の方が神託を受けやすい(憑依されやすい)と思えます。
このことからも祭られる側の、天照大神は本来男神だったかも知れません。

また他に、まったく別の見方もあります。
それは、前記の素戔嗚尊が天に天照大神を訪ねた場面のことです。
天照大神が神衣を織るため機殿に居り、ここでは神に仕える側に立った記述がなされています。
このアマテラスが神宮に祭られている天照大神だとしましたら、それは女神といえるでしょう。
しかし、その場合、天界でアマテラスが仕えた神、アマテラスに祭られていた神とはどのような神だったのでしょう?
アメノミナカヌシノカミ、アメノトコタチノカミ、カムムスビノカミでしょうか?
それとも、タカミムスビノカミなのでしょうか?
この場合、そうした疑問が残ります。

[553] アマテラス考(2) 投稿者:やさか 投稿日:2009/12/05(Sat)
アマテラスさんは女神なのか男神なのかですが、あてられた漢字表記からみますと、

●天照大神……………女神、男神、いずれともとれる。
●大日?貴神…………女神との認識で字があてられている。
●天照国照彦火明命…男神としての神名。
                  …となってこれでは女神・男神いずれとも判断しかねます。

ところが古事記・日本書紀の記述からみますと、『記』で須佐之男命が高天原に天照大御神を訪ねる段では、
天照大御神が髪を解いてミズラに結うという記事があるので、これは男装をしたのだから女神と考えられます。
そしてこの時、須佐之男命のことを我が弟と言っているので自分は姉だったのでしょう。
一方『紀』では、素戔嗚尊が天に天照大神を訪ねた記述で、
天照大神が神衣を織るため機殿に居る記述があるので、ここでも女神と認識できます。
そして、『万葉集』巻2-167でも「天照日女之命」と表現されているので、大方の認識は女神だったと思われます。

さて、皇祖神のことですが、『日本書紀』巻第二の本文、初めの部分に、
「皇祖高産霊尊」とみえ、また神武天皇即位前記には「皇祖天照大神」とあります。
この『紀』の記述からは、
タカミムスビさん、アマテラスさん、両神共に皇祖神とされていたと考えられるのですが如何でしょう?

[552] アマテラス考 投稿者:やさか 投稿日:2009/12/03(Thu)
恐れ多くも「アマテラス」と、神名を書きましたが、
言うまでもなく、この神は皇祖神といわれ伊勢神宮の主祭神でもあります。

でも、この御神名には多くの別名があります。普通には、
●天照大神、あるいは天照大御神と表記されていますが、伊勢神宮においては、
●天照皇大神、あるいは皇大御神と表記され、祭事で神名を唱えるときは、
●天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)ともいわれているようです。

現在の学術文書では「アマテラス」と片仮名書きするのが一般的と思います。
『古事記』では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と表記されており、
『日本書紀』では、天照大神と表記されています。また別名では、
日神(ひのかみ)とあり、大日?貴神(おおひるめのむち)と言うともあります。
そのほか、異名同神かどうかは定かではありませんが、
●天照御魂神(尾張氏や畿内の豪族が祭祀)や、
●天照国照彦火明命(『紀』第八の一書など)のほか、
●天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(あまてらすくにてらすひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)
と『先代旧事本紀』に記されたような随分長い神名もあります。

普通アマテラスさんは女神と思われていますが、はたして女神なのでしょうか?
それとも男神なのでしょうか?
また、本当にアマテラスさんは皇祖神なのでしょうか?

[551] Re[550]: 宇智 投稿者:やさか 投稿日:2009/11/23(Mon)
> 「うち」なんですね。(^^;)
> 「うじ」だと思ってました。

二年前まで残っていたスイッチバックで知られた
JR和歌山線・北宇智駅のローマ字表記にもあるように
宇智郡の場合は「ウチ」と思われます。

↓参照:JR和歌山線・北宇智駅(つれずれ日記さん)

http://www36.tok2.com/home2/mrtshk/image/turezure/kitauchi/kitauchi.html