やさか掲示板

過去ログ11 [550]〜[501]


[550] 宇智 投稿者:かまど 投稿日:2009/11/23(Mon)
「うち」なんですね。(^^;)
 
「うじ」だと思ってました。

[549] 真野時綱(11) 投稿者:やさか 投稿日:2009/11/17(Tue)
このほど真野時綱著『古今神学類編』中・下巻を入手しました。
と言いましても実は『神道大系』に所収のものをです。
『神道大系』首巻二・三・四巻に『古今神学類編』(上)・(中)・(下)巻がそれぞれ収載されていることが分り、
このほど三冊まとめて購入しました。昭和56年から同61年に発行されたものです。
以前からぜひ手に入れたいと思っていたところ、運よく見付けました。再版の予定は今のところないようだし、
この機会を逃すと二度と手にできないかも知れないと思い、私としては高価な買い物でしたが思い切って買いました。
以前より探していた津島神社が発行した津島叢書としての『古今神學類編』は、
昭和18年3月30日付発行の「上巻」を最後に、それに続く「中巻」・「下巻」は発行されなかったからです。

神道大系編纂会常務理事、大野健雄氏のことばによれば、
中・下巻用の残り原稿一切が昭和20年1月28日、
岡田米夫氏自らの手で西濃印刷会社に運び込まれてあったが、
同年6月9日、B29による熱田空襲で印刷所は岐阜市街もろとも灰燼に帰したからだそうです。
それで、中・下巻の発行が中断していたのだが、昭和50年11月、神道大系編纂会が発足して、
また岡田米夫氏が古今神学類編の校注をすることになった。
底本は、岡崎市亀井山萬徳寺所蔵の真野時綱自筆稿本を用い、
校合には、国学院大学蔵黒川本を板本とともに対校本として使用した。
作業進行中、岡田米夫氏が「上巻」刊行の前年に逝去したため、故人の学統を継ぐ皇學館大学の
西川順土教授に続編の指導・監修をお願いして完成をみたのだといわれます。
当時の熱田神宮、篠田康雄宮司は、
月報に寄せた短文「岡田米夫君を憶う」の中で、共に神宮皇學館・歴史科で学んだ同窓生であったこと。
昭和5年卒業で、岡田氏は良く勉励して成績が抜群、卒業時には恩賜賞を得たほどだったと記されています。
――参考:昭和61年2月付「神道大系 月報54」

[548] 真野時綱(10) 投稿者:やさか 投稿日:2009/11/16(Mon)
『津島の文化財』には、他にも次のような時綱関連の記事があります。
―――――――――――――――――――――――――――
市指定
●真野時綱の墓    一基
弥生町 延命寺
高さ一四五センチ

真野太郎太夫時綱(慶安元〜享保二年 1648〜1717)は通称逢殿之介。
晩年に蔵六翁、藤浪翁などと号す。心廓了堂居士は法名。
津島神社の神官家太郎太夫家に生れ、若くして向学の志篤く十八歳で京都に遊学。
久我雅通、卜部兼魚等に師事した。
三十五歳で家業を継いだ後も京都へ行き来し、勉学を続けた。
著書に『古今神学類編』(一〇二巻)『藤波私記』『元禄注進記』がある。


市指定
●真野時綱筆大祭勧例帳   三冊
   付 稿本一冊
南門前町一 津島市
縦三一センチ 横二三センチ

大祭勧例帳(上・中・下)三冊は、津島神社の神官であり神学者であった真野時綱が、
元禄十五年(1702)にまとめた自筆稿本で、筏場車の車屋大橋源右ヱ門家に伝来してきた。
「大祭元由考」・「車考」・「系譜考」などとともに、大永二年(1522)から元禄十二年までの
祭礼記録を漢文体に記している。
尾張津島天王祭の起源は古くて明確ではないが、
時綱によって貴重な記録がまとめられた意義は大きい。
稿本(和文)と称されるものは筏場車屋おいて記録され、数回にわたり追加編集たと思われる。
これは勧例帳著述の資料となったと推定され、類例が少なく貴重である。
―――――――――――――――――――――――――――――
以上、同書より引用

[547] 真野時綱(続9) 投稿者:やさか 投稿日:2009/11/09(Mon)
[523]真野時綱の書き込みの続きです。

過日、津島神社に「真野時綱筆絹本淡彩七福神図」を拝観させていただこうと、
『拝観願い』を書いて出してみたのですが、却下されました。
でも、神社のご好意でカラーコピーを戴いたので、コピー元の資料名が判りました。
昭和62年、津島市教育委員会発行の『津島の文化財』という書籍です。
早速ネットで検索して古書店より買い入れました。カラー写真版で中々の上製本です。
七福神図が掲載された頁には次のような説明文が添えられています。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
市指定 真野時綱筆絹本淡彩七福神図 一面
神明町 津島神社
縦五三センチ、横一二九センチ

時綱(縄)は慶安元年(一六四八)、津島神社社家真野門大夫家に生れ、若年から向学の志篤く、
十八歳で京都に遊学。久我雅通、卜部兼魚等について神道・国学を修め、多くの著書がある。
中でも『古今神学類編』(一〇二巻)は代表作で、その学績は今日なお高く評価されている。
本図はその余技で、松樹飛瀑の下、舞い上った一羽の鶴を中心に七福神が交歓する様を軽妙な筆致で描いている。右下に「藤波俚翁図」に双郭隅入角印(印文時綱)の落款がある。/同書まま
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
正確に撮影され印刷技術も上々だと思うのですが、想像していた以下の小さな写真だったので、
残念ながら細部がよく分りません。
いつ一般公開されるか分りませんが、ぜひこの目で見てみたいものだと改めて思った次第です。


●真野時綱に関連して―――
津島市に真野時綱の墓所があります。
6月に墓所のある延命寺へ墓参したのは[523]で書いた通りです。
この折、親切に応対してくださったご住職が、このほどある本を送ってくださいました。
『辻正信と七人の僧』橋本哲夫著/光人社/ という本です。
これは帝国陸軍の鬼才と謳われた高級参謀の敗戦後の逃避行と、
それを陰から支えた青年僧七人のドキュメントです。
この七人の若者たちは熊谷陸軍飛行学校特操生で、
なんとその内の一人が津島延命寺の現住職その人だったそうです。
ここには現代の我々が知らない近代史が描かれてあり、
当時若者はどのような思いで戦争と向き合ったかがわかります。
興味深い本です。一読をお薦めします。

[546] Re[545]: ありがとうございました 投稿者:やさか 投稿日:2009/11/06(Fri)
こちらこそ、ありがとうございました。
また話をお聞かせください。
いろいろ学びたいと思います。

[545] ありがとうございました 投稿者:吉野の旅人 投稿日:2009/11/05(Thu)
やさか様
本当に神様のお導き 感謝いたしております
今後とも ご活躍の上
ご指導いただきたいと思います
ありがとうございました 

[544] 秋色の吉野路 投稿者:やさか 投稿日:2009/11/04(Wed)
昨日11月3日文化の日、朝から吉野へ向かいました。
午前中に丹生川上神社下社へ参詣し、午後は大淀町あらかしホールで文化祭を観ようと思ったからです。
大阪からは、サンマルク(309号線)一本で丹生川上下社まで行けます。
吉野川を千石橋から下市町に渡り、善城を通り広橋に至る辺りから、山々は紅葉が始まっていました。
下社へは今年の正月に参拝して以来なのでほぼ1年ぶりでした。
このお宮には、毎年2回は来るのですが、今回は社務所あたりの雰囲気が少し前と違う気がしたのです。
それで、社務所前で普段着のまま片付けをしておられた若い女性の方にお尋ねしますと、
宮司さんが代わられたとの事。早速宮司さんに挨拶させていただきました。

…丹生川上神社はいわゆる別表神社なので、相当の階位と経歴でなければ宮司にはなれないはずです。
でもその一方で、過疎化が進む町村の神社にありがちな経営上の問題も抱えているとも聞きます。
この神社もその例にもれず、氏子数の減少で運営・維持も大変かと思われ、
有資格の神職でこのような神社の宮司を希望する人材はほとんどいないかも知れません。
そのような条件の中、鎮守の森を守るため、日本の心の伝統を守るために
着任を決意された新宮司さんに敬服するばかりです。…

午後になってサンマルクを北に戻り、途中で食事を済ませた後、大淀町のあらかしホールに行きました。
午後1時、舞台の緞帳が上がると
文化祭のプログラム第一番に「和太鼓・のら」さんのグループが、華やかに登場しました。
この日は他にも多数の出場者グループがあって、限られた短い時間内でしたが、
素晴らしい演奏で幕開けを飾りました。
この方たちは8年前、西吉野波宝神社での芸能奉納以来、私はファンになっています。
先月10月11日の丹生川上神社下社秋祭りにも、神前で和太鼓が奉納されたようです。
このグループはこの地域の有志で構成されたお囃子好きのメンバーですが、
こうして伝統芸能を守って行こうとする方々の志は、とても素晴らしいものだと思いました。
●「和太鼓・のら」さんは、吉野へようこそのリンク集で相互リンクしてもらっています。

↓丹生川上神社・関連物語(真朱の姫神)

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/himekami_002.htm


[543] 芳野監 投稿者:やさか 投稿日:2009/10/21(Wed)
『岩波日本史辞典』「芳野監」の項目には/
「8世紀前期の特別行政区、およびそれを統治する官司。和泉監と同様に中国の制に倣い、711-732(和銅4-天平4)の間に吉野宮の所在する大和国吉野郡を国に準じて格上げして設けられた。738年以降に廃止され郡に戻った。吉野宮の経営や監域の行政を担当したらしいが詳細は不明」/同辞典全文。まま。

この記述が正しければ、「芳野監」以前も以降も吉野郡であったということになります。…?

[542] 吉野郡 投稿者:やさか 投稿日:2009/10/20(Tue)
古代史の先生から下記のような質問がありました。

「古代、和泉監と共に芳野監が設置されていたというのは衆知のことだが、
それ以前の吉野は何郡に属していたのだろうか?」

そのようなことは疑問として考えもしていなかった私は、
「ええ?どうなんでしょう、よく分りません」とお答えしました。
『ウィキペディア(Wikipedia)』にも芳野監は、
「大和国吉野郡を分立して設けられた…」とあるように
吉野郡内に置かれた特別行政区分・機関と捉えていたからです。
つまり、芳野監が置かれる前ももちろん吉野郡であったと思っていました。
でもなお、「宇智郡だったのではないですか?」と言われるので、
よく分らない私は、「あ、そうかも知れませんね」と答えてしまったのです。
でも、あとからよく考えてみると、それは違うと思いました。
どう考えてもヨシノが宇智郡に属していたとは思えないのです。

『大和志料』下巻/奈良県教育会/大正四年刊に以下のような記事があります。
―――――――――――――――――――――――――――
「いにしえは吉野国と称して井光の子孫、吉野連及び吉野山直(あたい)、
国樔(くず)らが分領していた。大化の改新で国郡を定めるとき、
吉野は郡とせず吉野監と称せられた。
当時の情況は郡治を布くに適さなかったからである。
時を経て郡と成し、吉野をもってこれに名付け、
吉野(ヨシヌ)・賀美(カミ)・那賀(ナカ)・資母(シモ)ノ四郷を所轄した」
―――――――――――――――――――――――――――
大化の改新は大化元年(645)。
芳野監の初見は『続日本紀』天平5年(733)です。
吉野監と和泉監が同時期・同期間設けられていたとすれば、
和泉監の設置期間が明確になっているので、
それは716年〜740年まであったことになります。
ところが、上記『大和志料』の記述をそのまま信じると、
646年頃から芳野監が置かれていただろうとのことになります。

では実際のところ、646年から715年までの69年間、
吉野は「吉野国」だったのでしょうか?それとも「吉野郡」だったのでしょうか?
『日本書紀』や『続日本紀』の記述には、「吉野」とあるものの、
「吉野国」とも「吉野郡」とも書かれていないようです。
この期間中には壬申の乱(672)もあり、行政上の混乱もあったことでしょう。

万葉集(巻1-36)には、柿本人麻呂(天武・持統・文武朝に仕えた歌人)の歌、
…山川の清き河内と御心を 吉野の国の花散らふ 秋津の野辺に宮柱 太敷きませば…
があり、ここに「吉野の国」の表現が出ています。
この頃の国郡の地名は、線引きしたように明確ではなく、大まかで、
ヤマトノクニ、ヨシノノクニ、クマノノクニ、キノクニなどと呼ばれていたのかも知れません。

これは想像の域を出ませんが、645年の大化の改新以降、天武・持統・文武朝を経て、
715年頃まで「吉野の国」と呼ばれ、716年から740年頃までは特別行政区として
「芳野監」の管轄下となり、一国と同様の扱いを受けた。
そして芳野監が廃止された後に、吉野郡(ヨシノノコホリ)と決められた……。
……とは言えないでしょうか。

[541] 宇智郡 投稿者:やさか 投稿日:2009/10/19(Mon)
[539]は言葉足らずでした。
ウチノコホリの「ウチ」は、「宇智」のほか「内」とも表記されていたようです。
『日本霊異記』でいうところの「内の市」が開かれていたと思われる須恵には、
櫻井寺、統神社、宇智神社(現在は今井町)などがあり、
この辺りが宇智郡の中心部ではなかったかと思います。

またこの地は交通の要所でもあって、本陣という地名の残る交差点には、
現在も /いせ、はせ、なら、大峰山上、よしの道/ かうや、わか山、四国、くまの道/ と刻された道標が残っています。

↓統神社(すえじんじゃ)

http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/subejinjya.htm


[540] 無題 投稿者:かまど 投稿日:2009/10/13(Tue)
やさか様

ありがとうございました。吉野郡って広いんですね。

[539] Re[538]: 無題 投稿者:やさか 投稿日:2009/10/08(Thu)
> おはようございます。(笑)寝起きで申し訳ないのですが…

おはよう?ございます。書き込みありがとうございます。
その節はお世話になりました。

そうなんです。ヘタなモノカタリを書いていましたので、
まだ少々寝ボケていますが、でもそろそろ起きだします。

> 宇智って言う地域はどの辺を言うんですか?下社入りますか?

宇智は、現在の五條市から旧の西吉野村と大塔村を除いた地域がほぼ昔の宇智郡です。
ちなみに『日本霊異記』下巻第六縁に、「大和国内市あたり」として出ていますね。新日本古典文学大系・日本霊異記の脚注には「内市は宇智郡に存した市、現在の奈良県五條市内」とありますが、この場所は現在の五條市須恵町辺りではなかったかと私は思っています。
丹生川上下社は、宇智郡ではなく吉野郡です。
 
> 中社は宇陀に入るのでしょうか?

中社は宇陀ではなく、これも吉野郡だったと思います。

[538] 無題 投稿者:かまど 投稿日:2009/10/08(Thu)
おはようございます。(笑)
 
寝起きで申し訳ないのですが、宇智って言う地域はどの辺を言うんですか?下社入りますか?
 
中社は宇陀に入るのでしょうか?

[537] 目覚めます 投稿者:やさか 投稿日:2009/10/03(Sat)
「掲示板」休眠していましたが、ぼちぼち目を覚まします。
吉野の旅人さん、お愛想なしですみませんでした。
[532]〜[535]読みやすいように割愛させていただきましたが、「過去ログ」には残しておきますのでご了解ください。

Re[534]:丹生川上
> 私は あれから 何度と 吉野めぐりをして
> 体験的に丹生川上について
> 面白い発見をしました 
吉野の旅人さん、上記もしよろしければご披露くだされば嬉しいです。

[536] 真朱の姫神 投稿者:マルヤ 投稿日:2009/10/01(Thu)
もう一つの大和物語『真朱の姫神』を、8年ぶりに見直し部分改訂して再掲出。
そして「黎明編」の連載をはじめています。
よろしければご覧ください。

↓吉野へようこそ

http://www.yasaka.org


[535] Re[534]: Re[533]: Re[532]: お休みにすいません 投稿者:やさか 投稿日:2009/09/03(Thu)
> 私は あれから 何度と 吉野めぐりをして
> 体験的に丹生川上について
> 面白い発見をしました 

また、ご披露ください。

[534] Re[533]: Re[532]: お休みにすいません 投稿者:吉野の旅人 投稿日:2009/09/02(Wed)
そうでしたか・・・お声掛けなくて良かったです
309で バイクに乗った方を見たので
てっきり やさかさんと思いました
今回は 休眠しているのに 起こしてすいません
私は あれから 何度と 吉野めぐりをして
体験的に丹生川上について
面白い発見をしました 

[533] Re[532]: お休みにすいません 投稿者:やさか 投稿日:2009/08/31(Mon)
> 昨日、309で
> やさかさんお見かけしたと思います。

吉野の旅人さん、こんにちは。
8月29日(土)は、309号線は通っていません。
その日は殆ど大阪で図書館に居ました。
なので、それは私ではありません。

[532] お休みにすいません 投稿者:吉野の旅人 投稿日:2009/08/30(Sun)
昨日、309で
やさかさんお見かけしたと思います。

[531] 休眠します 投稿者:やさか 投稿日:2009/06/30(Tue)
ご覧いただきありがとうございます。
勝手ですが、半年ばかり休眠したいと思います。
またどうぞよろしくお願いします。

[530] Re[529]: ありがとうございます 投稿者:やさか 投稿日:2009/06/28(Sun)
> [526]参考になりました
>
ご丁寧にどうもありがとうございます。

[526]間違いに気付きました。
…四至がどの地に否定されているのかを記します。…
この「否定」→「比定」の間違いです。

[529] ありがとうございます 投稿者:吉野の旅人 投稿日:2009/06/28(Sun)
[526]参考になりました

[527] [526]訂正 投稿者:やさか 投稿日:2009/06/23(Tue) 19:23
[526]の四至の比定地の記事中、
同郡とは吉野郡のことです。
訂正いたします。

[526] 丹生川上神社考 投稿者:やさか 投稿日:2009/06/23(Tue)
やさか掲示板[514]で丹生川上神社「中社」の四至について書き込みましたが、
では「下社」についてはどのような解釈がなされていたのでしょうか。
『官幣大社丹生川上神社下社考證書』を最近読む機会を得たので、その中で四至についての記述がある部分のみ、
下記に要約して記しておきます。(太政官符についての内容は殆んど同じ)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
四至
類聚三代格に曰ふ。
太政官符
應禁制大和國丹生川上雨師神社界他事

東限鹽匂
南限大山峯
西限板波瀧
北限猪鼻瀧

右得神祇官解。
大和神社主大和人成解状?別社丹生川上雨師神…(後略)…
寛平七年六月廿六日
――――――――――――――――――――――――――――

では以下に、四至がどの地に否定されているのかを記します。(同書要約引用)

●東限鹽匂  :大峯の東麓舊熊野三山領の交界、即ち、今の上北山村と川上村との交界に位置する
        同郡川上村大字「入之波(しほのは)」なるべし。
●南限大山峯:今の山上ヶ嶽に求むるを至當とす。
●西限板波瀧:旧宇智郡布々伎丹生管川の地。
●北限猪鼻瀧:同郡吉野町子守山の北に發し、泉湯谷丹治を過ぎて吉野山に注ぐ河口附近にあらざるかと思はる。
         何故となれば此附近一帯の地を今尚猪鼻と稱し、以前は小瀑布となり居りしもの。

また、四至とは直接には関係ありませんが以下の記述があります。
「而して丹生村の東方約一里餘の地に、萬葉集の歌に知られたる青根ヶ嶺在り、西約一里餘にして白銀嶽あり、
東南約二里にして赤瀧あり、東北約一里に黒滝村…」、
「佛教の渡来するあり、本地垂迹の説行はるゝに及び、この名に因みて此れを須弥山に准じ、
青根、赤瀧、白銀、黒瀧をその四金山に擬し丹生はその中央なるが故に…」以下略。

…と、青は東、赤は南。白は西、黒は北と五行説を巧みに取り込んでいるのが興味深いところです。

[525] ホタルの便り 投稿者:やさか 投稿日:2009/06/23(Tue)
一年間の予定で三重に単身赴任していたのですが、2ヶ月あまりで大阪に帰ってきました。
それで、次の仕事までたっぷりと時間ができたので、チビ四駆で海辺、山辺めぐりをしました。
海辺は伊勢・志摩を、山辺は丹波方面に行きました。
丹波方面では、南丹市埴生(はぶ)の本梅川(ほんめがわ)のホタルが印象的でした。
これほどのホタルの乱舞は、50年以上も前、子供の頃丹生川支流の小川で見て以来でした。
今年はホタルの便りがあちらこちらから聞かれます。
お聞きしたことによりますと、自然を愛する方々のお蔭のようです。
川を掃除し、周辺の農家の方にお願いしてまわって、農薬を出来るだけ使わないように協力を呼びかけ、
カワニナを放流してホタルが成育できる環境を整備しているといいます。
最近各地でホタルが戻って来ていると話をよく聞くのは、こうした方々の地道な活動が実のってきたからでしょう。
私達も環境に配慮した生活を心掛けたいものですね。

[524] 赤桶の杜 投稿者:やさか 投稿日:2009/06/22(Mon)
このほど赤桶の杜・水屋神社に参拝しました。
平成16年3月29日の「北畠織田敵味方鎮魂地球平和祈願祭」に参列して以来なので五年ぶりになります。

久しぶりで訪れた赤桶の杜は、以前と同様の厳かで静謐な空気が満ちていました。
まず本殿に参拝し、境内をゆっくりと巡り、御神木の楠の大木の根っこに、
そっと手を触れていると魂が洗われるような気がしました。
そして、せっかく来たのだから宮司さんにお目にかかっていこうという気になりました。
事前に連絡もせず、急に思い立って参詣に来たので逡巡したのですが、思い切って社務所のブザーを押しました。

突然の訪問にもかかわらず、宮司さんは快く迎えてくださいました。
長時間、大いに語りあってくださったこと、お蔭様で大変嬉しい一日となりました。
特に記憶に残るのは、二匹のムササビの同時滑空をご一緒に見ることができたこと、
それに境内に隣接する「和光神社」の神前に坐らせて頂けたことです。
宮司さん大変お世話になりました。ありがとうございました。

↓フランスにできた和光神社分社

http://www.mizuya.org/03_shimbun/shimbun_181110.jpg


[523] 真野時綱(続8) 投稿者:やさか 投稿日:2009/06/21(Sun)
(やさか掲示板[504]、真野時綱の書込みの続きとなります)

先日、愛知県津島市へ行きました。
まず初めに、神明町1番地の津島神社に参拝。そこで禰宜さんと思しき方に自分の名を名乗り、
真野時綱氏について研究していることを申し上げ、
「真野時綱筆絹本淡彩七福神図」を拝観させては戴けないかと率直に申し出ました。
するとやはり、以前に電話で聞いたときと同様、
「『拝観願い』」を書いて出してみてください。内容を見て宮司が判断します」ということでした。

その後、すぐ近くの津島市今市場1丁目延命寺に真野時綱の墓所を訪ねました。
みるからに歴史が古いこの延命寺には、御住職夫婦が住んでおられて、
お寺の本堂内部も拝観させてくださり、御座敷で親切に真野氏について説明くださいました。
そのお話の中で、以前やさか掲示板[498]で書いた「吉野から尹良王に供奉して来た公家四家、庶流七家」の家名が分かりました。
●吉野から来た四家七党とは、
  四家:大橋、岡本、恒川、山川
  七党:堀田、平野、服部、鈴木、眞野、光賀、河村
  の各家ということが分かりました。ここに眞野氏がでています。
そして見せて頂いた寺の過去帳にはその筆頭に、眞野時綱門之太夫の名がありました。
また境内にある眞野氏の墓所には十基ほどの墓石があって、住職はその中の少し大きい墓石を指し示されました。
そこには、「心廓了堂居士」の戒名と、享保二年十一月六日歿と没年が刻されていました。(西暦1717年)
大神道家にしては、あまりにも質素な墓石の佇まいが印象的でした。

そのほか様々なお話を伺いました。
住職さん、連絡もなしに急に訪問したにも係わりませず、ご親切にありがとうございました。

[522] 人の死とは 投稿者:やさか 投稿日:2009/06/20(Sat)
「『脳死は人の死』」衆院可決」
という大見出しが6月19日サンケイ朝刊の第一面のトップに飾られています。
つまり、臓器移植法改正案A〜Dの4案の内より、A案が衆院の本会議で可決されたというのです。
まだまだ紆余曲折があり、このまますんなりと参院も通過することは無いとは思うのですが、
これは由々しい問題だと思います。
筆者は「臓器移植」そのものも反対です。
まるで自動車が悪くなった部品を取り替えるような医療行為だからです。
まして「脳死」を人の死と認定するとは、
これはどうしても看過する訳には行かないと思うのです。
現行では「臓器移植に限り、脳死を人の死と認める」というものでしたが、
改正案Aでは「脳死は一般的な人の死である」とし、
本人の拒否がなければ家族の同意で年齢に関係なく、
臓器提供を可能とするというのだから驚きです。
これでは更に大幅にハードルを引き下げることになり、
これは狂気の沙汰という他ありません。

考えてみてください。たとえば交通事故で脳死に至った場合、
本人の意思に関係なく家族さえ同意すれば臓器提供ができるのです。
極端な場合、幼児が脳死と認定された時も
(親の暴力による場合でも、判らなければ)臓器提供が可能です。
臓器売買が裏のビジネスになり、子供がさらわれたり
行方不明になる青年男女が増えるかも知れません。

●最も恐ろしいと思うのは心(霊魂)の問題です。
「脳死は人の死」とした場合、この人の臓器を他人に移植するには大きな矛盾があります。
例えば心臓移植の場合を考えて見ましょう。
「脳死」とは、生命維持装置によって心肺は動いているが、
脳機能が停止した状態を言うそうです。言い換えると、
身体は生きているが脳は死んでいる状態ということになり、
これは、心臓や肺や肝臓は心臓停止後では移植できないため、
臓器移植をやりやすく(正当化)するために造られた概念だとも言えそうです。
普通の死では、心肺が停止すると脳に新しい血液が送られなくなり、
従って脳が壊死し脳の機能が停止して死に至るのが順序でしょう。
いかに機械による生命維持装置とは言え、心臓が動いていて、脈拍があり、体温がある。
これは明らかに生きているのではありませんか。
五体が全く動かなくても臓器の一部が動いていれば、
その部分の活動をつかさどる脳が機能していることになり、
脳の僅かな一部でも機能していれば脳死とは言えないのではないでしょうか。
またある意味意識があるとも考えられます。

その証拠に、ある臓器移植反対運動を展開している人に聞いたのですが、
●脳死者から臓器を摘出する場合、麻酔をして摘出手術をするそうです。
なぜ麻酔がいるのでしょう?
●それでも、痛い、いやだとでも言うように身体を反応させるとも言います。
●意識があるが声は出せず、目も見えない、身体も動かせない。
このような状況で心臓を摘出される本人の、
極限の残酷な状況を想像してみてください。
それでもあなたは臓器移植に賛成できますか?
とても賛成できるものではありません。
手術が成功して元気になり、何が食べたいか聞くと
今までビールを全く飲まなかった人が「まずビールが飲みたい」
と言ったという話もあります。(これはドナーがビール好きだった)
●身体が処分されてしまったため、霊魂の行きどころが無くなり、
ドナーの心臓にドナーの霊魂が憑いたまま患者の身体に居ついたのか、
二重人格者のようにになった人もあると報告されているそうです。

宗教界は大部分がこぞって反対をしているそうですが、生命倫理にももとる、
このような法律が成立しないよう参院での慎重な審理が望まれます。
6月19日産経新聞のコラム「産経抄」に次のようにありました。
「先天性の心臓病を抱える10歳の女の子の言葉が、耳から離れない。
『誰かが死んで、私が生きていいの?』
命の大切さをかみしめる」


改正法案以前の現行法はどうだったのか?
また改正法案のA〜Dとはそれぞれどのような内容なのかを次ぎに掲げておきます。

「臓器の移植に関する法律」1997年10月16日施行
この第6条には、死亡した者が臓器移植の意思を生前に書面で表示していて、遺族が拒まない場合に限り、「脳死した者の身体」を「死体」に含むとしてその臓器を摘出できると規定されており、臓器移植の場合に限り脳死を提供者の死と認めています。
「臓器移植改正法案」
●A案:脳死を人の死とし、本人の拒否の意思表示がなければ家族の同意で年齢に関係なく臓器提供を可能とする
●B案:臓器提供が可能な年齢を現行の「15歳以上」から「12歳以上」に引き下げる。
●C案:脳死の定義を現行より厳しくする。
●D案:虐待などがないと確認したうえで家族の同意があれば15歳未満からの臓器提供を可能とする。
B,C,D案は廃案となったが、この4案をみるとC案を除き、どれもが現在のハードルを大幅に低くするものでした。

[521] Re[520]: Re[519]: 丹生川上について 投稿者:吉野の旅人 投稿日:2009/05/10(Sun)
人の身勝手な世の中でおかしな事ばかりです
古きよき時代に思いを馳せ丹生川上神社の話
楽しくお相手ありがとうございました。
また書き込みさせていただきます
 

[520] Re[519]: 丹生川上について 投稿者:やさか 投稿日:2009/05/10(Sun)
> でも旧の上社もお参りの経験はありますが
> やはり体験的に考察すれば以前と変わらない
> 意見です

私も旧の上社へ参拝したことがあります。
いかにも歴史が長いというような、神さびた雰囲気のお社でしたね。
上社で思い出すのは、ダムのことです。
多目的ダムとのことでしたが、地盤沈下の問題が起きて満足に貯水ができず大変なムダ使いになってしまいました。
結果論ですが御遷座する必要はなかったのでした。

[519] 丹生川上について 投稿者:吉野の旅人 投稿日:2009/05/10(Sun)
本日、中社を参拝しました
三川合流の地であって素晴らしい神社と感じました
体験も含めこれから楽しみながら調べたいと
思います。
でも旧の上社もお参りの経験はありますが
やはり体験的に考察すれば以前と変わらない
意見です
神武天皇の熊野から大和までのルートも
気になるところです

518] Re[517]:歴史とは 投稿者:やさか 投稿日:2009/05/09(Sat)
> どうも歴史は作られる感もわいてきます。
> しかし古に思いを量る。歴史は楽しいですね 
>
そうですね。丹生川上の話とは関係ありませんが、
どこの国の歴史でも正史とされるのは、
時の為政者の意を受けた歴史家が作為したものが多いとみるべきでしょうね。

[517] Re[516]: Re[515]: Re[508]: 丹生川上について 投稿者:吉野の旅人 投稿日:2009/05/08(Fri)
やさか様 こんな記事をみつけました
”社伝では中世以降たびたび造改築されたことが伝えられており、当神社所蔵の慶安3年(1650年)の造営の上梁文には、当初の鎮座地に丹生神社を新造するとともに、本社を金剛峯寺の鎮守神に倣って「蟻通明神」と改称した旨が記されている。”
(ウッキペディア引用)
こんな事になるとよけいに判らないですね・・・
どうも歴史は作られる感もわいてきます。
しかし古に思いを量る。歴史は楽しいですね 

[516] Re[515]: Re[508]: 丹生川上について 投稿者:やさか 投稿日:2009/05/07(Thu)
> 本当に吉野・川上・天河あたりが好きで
> 月に1度は、水汲みに行っています

最近は途絶えていますが、昨年までは私も月一回は吉野へ行っていました。
天川村へ行く309号線、途中に下社がありますね。
丹生川上神社をまだよく知らない頃、天河神社(天河辨財天社)へお参りする際、ふと立ち寄ったのが下社でした。
もう20年以上も前のことです。

> では何故、中社・上社が名乗りをあげそれが認められたのが逆> に不思議にも思います

たしかに言われてみれば、何故そうも簡単に?上社・中社が認められたのだろうかとは思います。
このことについては別の機会に触れてみたいと思います。

[515] Re[508]: 丹生川上について 投稿者:吉野の旅人 投稿日:2009/05/07(Thu)
いえいえ、そんな学識はありません
本当に吉野・川上・天河あたりが好きで
月に1度は、水汲みに行っています
通りがかりに、気になる神社が丹生川上神社下社でした。
そこでネットで調べていたらどんどん興味がわいてきて
やさかさんの掲示板に書き込む事となりました
全くの薄学者ですがどう考えても丹生川上神社は
下社であるとしか思えません。
では何故、中社・上社が名乗りをあげそれが認められたのが逆に不思議にも思います
今はそれが興味あるところでもあります
しかし、やさかさんの知識は凄いです
機会をみてメールさせていただきたいと思います  


[514] Re[513]: Re[511]: Re[510]: Re[509]: Re[508]: 丹生川上について 投稿者:やさか 投稿日:2009/05/07(Thu)
> では 下社に その四至をあてはめるとすれば
> どうなるのでしょうか?

返信が遅くなってすみません。
連休は実家に居たのですが、今は赴任先に戻っています。
なので手元に資料(史料)がなく十分な返答ができないことを諒解ください。

>では 下社に その四至をあてはめるとすれば
どうなるのでしょうか?

それがよく分からないのですが、
ふつう南限の大山峯は、大峰山のことと解釈されているようですね。
それで、北限の猪鼻瀧が論文でいうように中社の北側にある地名だとすると、
南限〜北限の範囲内には下社は入ります。
問題は、東限の鹽匂と西限の板波瀧の、この二つの地名がよく分からないことです。
森口奈良吉の論文ではこの辺りの説明がされているのですが、
なぜ中社が四至に合致すると言えるのか、吉野生まれの私でも何度読んでもよく分かりません。
その意味では下社も太政官符に記されている四至に合致しているとは言えません。
つまり、この東西の地名、鹽匂と板波瀧が現在のどの地名を謂うのかがはっきりしないからです。
その様な訳で、上・中・下の三社とも四至に合致するとは言えないと私は思っています。

ところで、吉野の旅人さんは、この掲示板で質問をしておられますが、実際は私(やさか)より吉野のこともよくご存知だし、丹生川上神社のこともよく研究されてご存知なのではありませんか?
「吉野の旅人」さんのH.N.は初めてですが、私のこともご存知の方かも知れませんね。

どうかご遠慮なくご自身の意見を、ここにご披露ください。拝聴します。

[513] Re[511]: Re[510]: Re[509]: Re[508]: 丹生川上について 投稿者:吉野の旅人 投稿日:2009/05/06(Wed)
ありがとうございます
では 下社に その四至をあてはめるとすれば
どうなるのでしょうか?

[511] Re[510]: Re[509]: Re[508]: 丹生川上について 投稿者:やさか 投稿日:2009/05/06(Wed)
> 四至とは具体的に何なのでしょうか?

寛平七年六月太政官符に記載せる四至
東限鹽匂
西限板波瀧
南限大山峯
北限猪鼻瀧

●ただし「鹽」この字は少々違います。
 よく似た字なのですが、正しい文字が表示できないのです。

●もう一つ、前述の私の記述を訂正させてください。
>(1)については、古い時代の地名を現在の東吉野村に残る地名に無理やりこじつけた感が拭われません。

○(1)については、古い時代の地名を現在の吉野に残る地名に無理やりこじつけた感が私には拭われません。

参照:「丹生川上と鳥見靈畤」森口奈良吉

[510] Re[509]: Re[508]: 丹生川上について 投稿者:吉野の旅人 投稿日:2009/05/06(Wed)
早速の返信、ありがとうございます。
確かに下社は最初に認定された理由と根拠はあります。
しかし太政官符に示す四至に適合しないとする異論があり 
川上村の郷社だった高オカミ神社こそが丹生川上神社に比定
すべきだという説がでました。
四至とは具体的に何なのでしょうか?
ここにこそ真実を紐解くものがあるようにも思いますが・・・
しかし、時代が時代だけにそれが正確なら本社説論争は起こらなかったのでしょうが
勉強不足の上、思いつくままの質問ですいません

[509] Re[508]: 丹生川上について 投稿者:やさか 投稿日:2009/05/05(Tue)
吉野の旅人さん、はじめまして。
書込みありがとうございます。

式内・丹生川上神社の比定社は、ご存知の通り上・中・下の3社があり、一般的には中社がその中心に考えられているようです。
でも天武天皇が創建したと伝わる「丹生川上神社」は三ヶ所にもあったはずはありません。
古来より「丹生」と呼ばれた地域の、丹生川の川上に坐す長谷の丹生川上大明神社こそ本来の「丹生川上神社」と思うのが普通ではないでしょうか。
この丹生川の下流には西吉野に、大日川の丹生神社。丹原地区に式内・丹生川神社が鎮座しています。

吉野の旅人さんと同様に、私も現在の「下社」が本来の丹生川上神社であったと確信に近いものを持っています。
なぜ「中社」説が有力になったかですが、
それは、森口奈良吉の論文によるところが大きかった思われます。

その論文では、もと蟻通神社と言われていたこの神社を、「丹生川上神社」とする根拠として次の三つが主な同氏の論点です。
1.平安時代の寛平七年(895)の太政官符に記載されると四至と合致すること。
2.鎌倉時代の弘長三年(1263)「丹生社」銘の石灯篭を有すること。
3.江戸時代の慶安三年(1650)の丹生宮造営の棟札の存せること

他にも何点かの傍証を掲げ、蟻通神社が本来の丹生川上神社であると主張して、
下社・上社に次いで、遂に大正11年10月12日内務大臣より「丹生川上神社中社」の裁可を受けたのです。
そして今まで「下社」にあった社務所は中社に移されました。
法人登録の際、「中社」の文字を入れなかったこともあり、中社が丹生川上神社の中心的名存在として世間から見られるようになったのだと思われます。

森口奈良吉氏が主張した「根拠」には多くの無理があります。
(1)については、古い時代の地名を現在の東吉野村に残る地名に無理やりこじつけた感が拭われません。
(2)、(3)については、一言でいえば、「丹生神社」と「丹生川上神社」は全く違うということに尽きます。
(丹生社や丹生宮、丹生神社は吉野に限らず日本中何処にでもある)
やはり丹生川上神社は、古来より「丹生」といわれた地域の、丹生川の川上に鎮座していたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/niukawakami.html


[508] 丹生川上について 投稿者:吉野の旅人 投稿日:2009/05/05(Tue)
丹生川上神社は中社説です
私は、現在なくなっている鳥居の事や
社殿の雰囲気、丹生川の存在を見て
どう考えても下社しかないと思います。
では何故、中社説が今通説になっているのでしょうか?
ぶしつけな質問お許し下さい

[507] Re[506]: 柳原物鑑 投稿者:やさか 投稿日:2009/02/05(Thu) 20:24
銀峯仙人さん、はじめまして。
書込みありがとうございます。

> 吉野郡下市町の古い石碑で柳原物鑑なるものを見つけました。この方について情報ありましたら教えてください。

「柳原物鑑」? よく分かりません。
人物名?それとも書名?でしょうか。
石碑に刻されている文字のことですか?
いずれにしても、私には判りません。

> 又、インターネットで丸山様という方が西吉野の歴史に詳しい記事を書いておられるように思いましたが、この方は西吉野出身の方でしょうか。このサイトと関係がある方でしょうか。

「丸山様」?私は存じません。
また、このサイトとは関係ありません。

[506] 柳原物鑑 投稿者:銀峯仙人 投稿日:2009/02/05(Thu)
吉野郡下市町の古い石碑で柳原物鑑なるものを見つけました。この方について情報ありましたら教えてください。
又、インターネットで丸山様という方が西吉野の歴史に詳しい記事を書いておられるように思いましたが、この方は西吉野出身の方でしょうか。このサイトと関係がある方でしょうか。

[505] 大和 投稿者:やさか 投稿日:2008/10/10(Fri)
大和(だいわ)のこころ

純真多感な少年時代を大和河内(やまとかわち)の間に過ごし、日本を大和(やまと)の国と教えられ、
   しきしまのやまとのこころをひと問はば
   朝日に匂ふ山桜花
という、本居宣長の歌を心に刻んで育った私は、大和という言葉が好きであった。
その後いろいろと学ぶにつけ、また世間を知るようになって、
ますます会心の言葉となってくるのであった。
宇宙も人間も、皆、大和(だいわ)から成りたっている。
悪意邪念をもって相争うことはすべて破滅である。
和 ― 大和なくして、何が存在し得ようか。

関西師友会発行の
『安岡正篤 瓠堂語録集』より

[504] 真野時綱(続7) 投稿者:やさか 投稿日:2008/10/05(Sun) 00:26
[補足]

昨年、編纂が完結したという『神道大系』には、
下記のように、古今神學類編(上)、(中)、(下)が所収のようです。
でもこの底本は、萬徳寺に伝わる真野時綱の自筆稿本とは違うかも知れません。
―――――――――――――――――――――――――――――――――― 
           
『神道大系』全120巻 発行所:財団法人 神道大系編纂会(1977年設立) 
       財団法人神道大系編纂会 会長 松下幸之助

1.神道集成  校注者真壁俊信
2.古今神學類編(上)  校注:岡田米夫
 惣篇目: 松下見林序、真野時縄序、凡例、援引所考之書目
3.古今神學類編(中)  校注:岡田米夫
4.古今神學類編(下)  校注:岡田米夫

[503] 真野時綱(続6) 投稿者:やさか 投稿日:2008/10/04(Sat)
ネットで知ったのですが、真野時綱は絵画も描いていたようです。
それは、「真野時綱筆絹本淡彩七福神図」というもので、
津島神社所蔵ということですが、津島市指定文化財になっていて非公開とのこと。
神社に直接問い合わせてみたのですが、公開の予定は今のところありませんとのことでした。

私の手元にある『古今神学類編』は上巻のみですが、
その序文に当たる昭和18年2月3日付、岡田米夫の「古今神学類編解題」によりますと、
「校訂原稿の成るに従ひ、同年(昭和16年)11月30日岐阜市西濃印刷株式会社に依嘱して印刷に着手した。印刷の関係上、全一百巻はこれを上中下の三巻に分って編輯し、ここに先づ上巻の刊行を見るに至ったのである」
とあるのですが、どうも戦時中ことなので資材など様々な事情からか、引き続いて中・下巻の刊行はできなかったのでしょうか。
以前より中・下巻も手に入れたい(…と言っても高価で買えないかも知れません)と思って、
古書店(展)を覘いたり、ネットで探すなどしているのですが、何処にも無いようなのです。

『類編』の中・下巻を入手すること、「七福神図」を見ることがこの先の課題のひとつになりました。

[502] 真野時綱(続5) 投稿者:やさか 投稿日:2008/10/03(Fri)
早稲田大学東洋哲学会発行の『東洋の思想と宗教』第25号所収の矢ア浩之氏の論文、
「眞野時綱小論 ―神代圖顕彰に注目して― 」を読みました。
その論文では「時綱と延佳」の項を立てて、次のように述べられています。(以下引用)

「…松下見林との學的交流は終生變わらなかった。だが彼に決定的な影響を及ぼしたのは伊勢神宮の外宮祠官出口延佳(1615-90)との出合いであった。『古今神學類編』自序には、[頃歳伊勢の権禰宜度会延佳神主に叩て、若然(ひとなみにと傍記)神話の緒諸を聞に興れり]とみえ、両者の交流は若い頃に始まっていたらしい。延佳が元禄3年正月に没すると、時綱はその半年後には『神代圖解』を著して、いち早く先師顕彰の意を表明した。この『神代圖解』は延佳が42歳の時に認めた『神代の圖』と、その27年後の天和3年に認めた『神代圖鈔』を解説した作品である」(引用終わり)。

この論文を読んで知ったのは、時綱の『神代圖解』より先行して、
彼の師とも目される出口延佳の「神代圖」に係わる著作があったということです。
それを顕彰するために時綱が著したのが『神代圖解』ということになるようです。
延佳の『神代之圖』は漢文で、当時一枚の刷物で大量に配布されたものだったらしいといいます。
ちなみに時綱は1648年生まれ、その師ともいえる出口延佳は1615年生まれなので、
時綱は延佳より33歳年下になります。
この論文は、他にも興味深い記述が多くありました。

[501] 真野時綱(続4) 投稿者:やさか 投稿日:2008/10/02(Thu)
昭和20年3月19日の、いわゆる名古屋大空襲で名古屋市立図書館が全焼しました。
その際書庫も焼けて特別集書のうちの、真野文庫(真野時綱の遺蔵書)もすべて焼失したといいます。
真野文庫の蔵書目録を見たことがないので想像の域を出ませんが、多数の古書籍が失われたと思われます。
特に神道関係の、多くの貴重本が灰燼に帰してしまったことでしょう。まったく残念なことです。

古今神学類編に記載されている「古今神学類編援引所孝之書目」を見ても、時綱がどれほど多くの書籍を読んでいたかが分かります。
そこには國記、儒書・諸子・佛書と項目別に、驚くほど多くの参考文献書名が羅列されています。その最後には、
「右目録終」   
「都三百一十一家 和漢通會七百三十七家」と記されています。
つまり、737書もの文献名が挙げられているのです。
もちろん、ここに記された文献をすべて所蔵していたのではないでしょうが、ここに挙げられた文献以外の、
更に多い蔵書を保有していたのではないかと想像できます。

時綱本人著作の書誌・図書は、各方面各機関に保存(※)されているようですが、
本人が蒐集して大切に保存していたであろう蔵書の中には、随分貴重な、
希少価値の高い書物や、一点限りの古文書もあったやも知れません。
特に大切な文物は耐火書庫に保管するように望まれます。

※岡崎市・萬徳寺、津島神社、天理大学図書館、成田山仏教図書館他、個人所蔵もあり。