やさか掲示板

過去ログ10 [500]〜[451]


[500] 真野時綱(続3) 投稿者:やさか 投稿日:2008/10/01(Wed)
『古今神學類編』のほかに、最近『神代圖解』も入手しました。
この古文書はいわゆる「写本」(書誌学でいう筆書き)なのですが、よく観察すると実に謎が多いのです。
この書物が真野時綱自身の手になる、自筆稿本であれば疑問は氷解するのですが、そのような貴重な稿本が私などの手に入るはずもなく、どのように判断すれば正解なのか全く判りません。それで書誌学風に書誌調査・報告の形を採っておきます。
もし、この掲示板を読まれた方で、この古文書について何かご存知の方、又は何か参考になるようなご意見がありましたらご教示頂ければ幸いに存じます。よろしくお願い致します。
(以下は真野時綱著『神代圖解』についての覚え書き)

1. 装 訂

@表紙は原装
A表表紙・裏表紙共墨絵付
B綴じ方は縒糸による明朝綴(四つ目綴)

表紙は袋形式ではなく、小口となる三方を内側に1寸(3センチ程)折り込んで糊付けしている。オモテ・ウラ両表紙共、墨絵付だが外題は無し。表紙裏はいずれも白地で絵・文字などは無し。

2. 料 紙
@料紙は美濃紙で表紙本文共紙
A紙の種類は薄漉きの楮紙

3. 書籍の形式
@ 大本(美濃判二つ折本)、縦形和綴
当該の本の寸法は、横190ミリ、縦258ミリなので大本(おおぼん)と判断。
(大本の正寸法は、横190に縦270ミリ)  

4. 写本か刊本か
当該本は字体や筆勢、文字の筆毛の擦れ具合などから写本であると見られるが、底本となる木板整版本があり、それから書写した転写本の可能性がある。

5. 書肆等
京錦小路新町西入町  永田調兵衛
上記のように記されて入るが、上記の版本から誰かが個人的に書写した可能性あり。

6. 外題・内題
「神代圖解」と前扉に墨書されているので内題である。

7. 前 付  前付は無し。

8. 本 文
本文は袋綴じ34頁。挿絵があり、要所朱墨入り。

9. 奥 付(刊・印・修等)
元禄四年辛未年正月吉旦
京錦小路新町西入町  永田調兵衛
書林 尾州本町両替町角  開板 木村五郎兵衛
 奥付には以上のように刊記が記されている。

 さて、ここで不思議なことに気付く。それは上記に「開板木村五郎兵衛」とあることだ。これは版本を意味する。手元にある『神代圖解』は、刊本といわれる整版本や活字版本ではなく、明らかに写本だと認められる。どういうことなのだろう。 調べてみると、

元禄四年刊、『神代圖解』
尾張木村五郎兵衛他板、荒木田広末旧蔵
という古書籍が実在するようだ。ネットで検索して本文の写真の一部をダウンロードして入手してみた。
よく観察すると、かなり文字が肉太になっているのが分かる。文字の濃さが均一で、字列に乱れも無いので活字版ではなさそうである。「かぶせ彫り」かもしれない。いずれにしても刊本であることには違いなさそうである。
では内容を検討してみよう。入手した部分は、本文の前半部分にある次の箇所だ。

圖解 時綱謹述…この条から続く八行の文列である。手元にある写本と比較すると、字体は全く違うが内容は一字として違わない、改行位置までそっくりだ。原本は同じであろう。
 手元にある写本は、まず原写本では有り得ないと考えられる。そのような貴重な真野時綱の直筆の稿本が私の手に入るわけは無いだろうと思うからだ。しかし、どう見ても写本としか判断できないこの本の奥付には、はっきりと「開板 木村五郎兵衛」と記されているのである。では、どう判断すれば良いのだろう。本来の「写本」には「開板」とは記さないはずだ。考えられるのは、
@ 原本は別にあった。
A 初めに刊本が出版された。
B その刊本をもとに、私蔵用として転写本を作った。
…と推理できる。つまり私の手元にある本は、転写本であると結論付けたい。
それでは、この転写本の作成年代はいつか?
刊本が出版された元禄4年は西暦1691年にあたる。慶安元年生まれの真野時綱43歳の時だ。この記述は信用できる。この時代の出版部数は現代から比べると驚くほど少ないはずだ。たぶん100部以下だろう。いや、もっと極端に少なかったかもかもしれない。内題から判断すると、一般向けではない。
この本はそれ故に、刊本といえども高価で貴重なものなのであろうことが想像できる。手っ取り早いのは、所有者から借りてきて写す事ではなかったか。そのように考えを巡らせると、刊本が世に出て間もなく、その本を拝借してきた人物が書写したものものではないか。
料紙の地色は、淡い肌色をしており紙厚は随分薄いものである。時代を経て少々黄変しているようだが虫喰いはあるものの、表面の美濃紙の質感は失っていない。袋綴じされている裏面を覗くと、文字がはっきり透かし見られるが、決して墨は通していない。刊行年と同時代の、楮を材料とした薄漉きの、いわゆる美濃紙であると思われる。
最後にまとめだが、この『神代圖解』は転写本で、元禄4年正月以降、あまり下がらない時代に、刊本より書写されたものと判断する。
装訂については表紙本文とも虫損があって、綴じ糸も綻びがあり、かなり傷んではいるものの、作成時のままの原装といえる。虫繕いや裏打ち等、まったく補修・改装はされていないからだ。
また、完本か否かについてはその内容をみると、「題辞」から始まって「奥付」まで連続しており、欠落が認められず完本と言える。
再述すれば、私が入手した古書誌『神代圖解』は、近世に刊本より書写された「転写本」であったと私は判断するのだが、はたして真実はどうなのだろうか。
(以 上)

[499] 真野時綱(続2) 投稿者:やさか 投稿日:2008/09/30(Tue)
『古今神学類編』昭和18年3月国幣小社津島神社社務所刊について―
当時の宮司伊達巽の序文によりますと、
真野時綱の自筆本百巻五十冊の完本を伝えた萬徳寺の了祥師が本書の刊行に協力。校訂は岡田米夫と記されています。その岡田米夫が書いた「古今神学類編解題」の項では、真野時綱の出自について触れている箇所がありますのでその部分を引用したいと思います。

「真野氏系圖では、弘治三年に歿した藤原綱清から記し…その出自を藤原氏としてゐるが、同條には[家ノ秘記ニ藤浪ヲ以為稱号云]とも亦[藤浪後眞野ニ改]とあって、近世に於いては始めに藤浪を称し、後眞野に改めたことが分かる。尾陽津島十一黨姓氏考(天明七年眞野豊綱撰)その祖竝改姓の由来について、始應永年中藤浪佐近大夫顯綱と云者我家祖たり。眞野式部少輔道資殊に睦まじくして我家に客たり。然るに顯綱男子無之故、道資男眞野蔵人道綱と云者を育ひ取て入婿とす。是より家號藤浪を改めて眞野とす。」

…とあって、ここに真野式部少輔道資との関連が記されています。また、略歴につきましたは、
「系圖によると時綱の父は重綱(天和二年歿)といひ、彼はその子として慶安元年に津島向島の邸に生まれた。天和二年(三十五歳)父の死により社職を継ぎ、元禄十五年(五十七歳)職を子綱廣に譲って隠居し、享保二年十一月六日七十歳で自邸に歿した。」となっています。

『古今神学類編』(ココンシンガクルイヘン)について―
本書は「神道の百科事典」ともいうべき性格の大著で、時綱35歳の頃に起稿して、完成したのは67歳であったとされているので32年ほど費やしていることになりる。しかし貞享4年(40歳)に成った『神家常談』をみると、古今神学類編の前身である『神学類聚』がこの時すでに出来ていることが分かる。
神学類聚は初め19巻本であったので、これが第一稿、次いで20巻に増加してこれが第2稿。その後の5年間に更に増補されて70余巻なってこれを第3稿。更にそれを元禄5年までに100巻にした第4稿で書名を改め、『古今神学類編』とした。その後更に改訂増補して、松下見林に添削を依頼するなどあり、書名も『古今神学類聚鈔』としたこともある。その後第5稿を経て、正徳5年から享保4年までに刊行されたものを第6稿と考えられる。
これらの刊本の他に自筆稿本があって、刊本にない訂正・加筆あるといい、それで昭和18年刊『古今神学類編』では、時綱が世に公にした第6稿本の版本を採らずに、時綱が歿する享保2年までに書き足し続けた自筆稿本を採用したのである。書名も自筆稿本により「古今神学類編」に統一している。
―以上同本「古今神学類編解題」を参考要約―

[498] 真野時綱(続1) 投稿者:やさか 投稿日:2008/09/29(Mon)
以前7,8年前に書いたことがある真野時綱について、もう少し述べておきたいと思います。

――眞野時綱(1648〜1717)は、江戸時代中期の神道学者で時縄とも書き、トキツナと称して「藤波」と号した。
晩年上京して伊勢神道、吉田神道を学んだ。
尾張津島神社の神官で、著作には『古今神学類編』など多数。(以上略歴)――

●以下彼の出自について考えてみます。
『尾張志』には、津島牛頭天王社(津島神社)の神官家について、「後醍醐天皇・皇子の宗良親王の子、尹良王は吉野から来た。そして津島の神官となり、後に氷室氏を称して歴代の宮司家となった。」というようなことが記されております。
また吉野から供奉して来た公家四家、庶流七家の内の一人に真野式部少輔道資という人物がいたともいいます。
『新撰姓氏録』には、「大和國右京皇別下 真野臣 天足彦國押人命三世孫彦國■後也。…」とあり、『日本姓氏大辞典』丹羽基二著には、「真野 まぬ。古姓。間野に通用。近江滋賀郡真野郷より起こる氏は真野臣の裔という。佐々木氏族。秀郷流藤原姓。桓武平氏北条氏族。同三浦氏族など。」とみえます。

以上から判断しますと、真野時綱は真野臣の系譜の流れで、吉野から尹良王に供奉してきた真野式部少輔の子孫ではないかと考えられます。つまり先祖は、尹良王の配下として津島神社に累代仕えた神官ではなかったかと思うのですが如何なものでしょうか。
(真野時綱の墓所は、愛知県津島市今市場1丁目 延命寺)

[497] PL花火の日は晴? 投稿者:やさか 投稿日:2008/07/31(Thu)
本当にPL花火の日は雨が降っていないのでしょうか?
気になったのでPL教団の関係者の方に聞いてみました。

「本当に何年もの長い間雨はふっていません。パラパラッと来たことはあったかも知れませが、私の記憶では二、三十年前に嵐のような雨の中でやった(準備)覚えがありますが、それ以外この日が雨だったことはありませんでした。」…ということです。
8月1日の天気予報では、大阪富田林市は夕方から曇りになっています。
明日もきっと雨は降らないでしょう。
ここ南大阪では、PL花火は夏の風物詩として大人も子供もみんなが大いに楽しみにしています。

[496] PL花火の日は晴 投稿者:やさか 投稿日:2008/07/30(Wed) 21:31
毎日の天気をつけています。
毎年もらってくるカレンダーの最終ページに、付録として「晴雨表」というのがあります。
それを使って昨年からつけはじめたのですが、今年も半分以上過ぎました。
気象庁でも天気予報に統計を参考にしているらしいと聞いたので興味を覚えたからです。
丸印の中に快晴、晴、曇、雨、雪と、それぞれ天気別にマーカーで色分けをします。

天候は月日によって毎年同じような傾向がみられるとも聞いていたのですが、
比べますと今年は、昨年とはまったく違います。
特に七月を例に取ると、昨年は梅雨のせいでか7月20日頃まで毎日のように雨模様が続いていたのですが、
今年は一変して連日晴天で猛暑が続き、雨といえる日は8、18、28と丁度10日毎に3日雨があっただけです。

しかし統計的に、この日だけは雨が降らないという日もあるようです。
それはPL花火大会の日です。
この日ばかりは殆ど雨が降っていないようです。
大阪に住んでもう何十年にもなりますが、毎年八月一日の、
PL花火の日が雨だったという記憶は私にはありません。
さて、今年の花火大会も例年通り晴天に恵まれるでしょうか?

[495] かわいい、ポニョ 投稿者:やさか 投稿日:2008/07/29(Tue)
「崖の上のポニョ」を観ました。
文句なしに “ポニョはかわいい” ですね。
宮崎アニメは封切される度にほとんど観に行っています。

1.となりのトトロ
2.風の谷のナウシカ
3.もののけ姫
4.耳をすませば
5.紅の豚
6.魔女の宅急便
7.平成狸合戦ポンポコ

まったくの期待はずれは、「千と千尋の神隠し」でした。
この作品ばかりは私は好きにはなれません。
宮ア作品はそのほとんどが好きですが、あえて自分好みで七つ択ぶと上のような感じになります。
映画館で観たものでも、テレビで放映さればその度に又みるので、大抵2度以上観ることになります。
キャラクターの可愛さから言えば、私はポニョが一番だと思います。
どうしてあんなに可愛い絵が描けるのでしょう?。
柔らかいタッチの曲線が、実に見事に画面上で息づいていました。

マンガ絵といえば、娘(と言ってももう30歳です)が、よく河童の子供の絵を描きます。
もちろんそれは、宮ア作品には較ぶべくもない稚拙な絵なのですが、ほんわかと何か可愛いカッパの子なのです。
では私も試してみようと、娘の絵を真似て描いてみるのですが、どうしても可愛い絵にはなりません。
似せて描いてもどこかが違う。線に優しさがないといいますか、少しも可愛くないのです。
何か足りない感じがします。

ところが、プロとはいえ宮ア作品はどうしてあれほど可愛く仕上がっているのでしょう。
絵コンテ?、原画というのでしょうか、キャラクターのイメージはおそらく
宮ア駿氏自身の手で創られたものと思うのですが、あの年代の、しかも男性が、
どうしてあのような柔らかいタッチの絵が描けるのでしょうか。
テクニックだけでは描けない何かがありそうです。
優しい心、溢れる愛情がなければあのような作品は生まれないと思います。
氏は、いつも生きものたちに、また自然に対しても優しい目を向けているに違いありません。
宮アアニメは、低俗な映像が溢れる衢で、一服の清涼剤の役割をはたしていると思います。
また次の作品が楽しみになりました。

[494] 夏に思う 投稿者:やさか 投稿日:2008/07/28(Mon)
人生を四季に別けてみる。

○青 春: 誕生〜20歳まで
○朱 夏: 21歳〜40歳まで
○白 秋: 41歳〜60歳まで
○玄 冬: 61歳〜死に至るまで

上の別け方からすると、私はすでに冬の季節に入ってしまった。
人生の四季では冬の季節に入ったが、今、季節は夏。
思い起こしてみると様々な夏があった。

中学生、丹生川でキャンプ生活を楽しんだ夏。
タニノハローモアが優勝した、七夕ダービーの夏。
30代後半、挫折して毎日図書館に通うしかなかった、あの暑い夏。
今年の夏も、修行中のこの身には特に思い出に残る暑い夏になりそうである。

男性的な太陽。繁る青葉、生命が溢れ躍動する夏。
しかし、夏には別の側面もある。
強烈な太陽は死のイメージ、木陰は生のイメージがある。
無心に鳴き続けるセミの声に、死の予感がありはしないか。
夏は死人の気配が漂う季節でもある。

俊太郎の詩集『20億光年の孤独』の、ネロは夏に死んだのではなかったか?
あだち充『タッチ』の、天才投手の弟も夏に死んだのだった…
などと思いおこされる。
真っ白な夏の光の中に、死が潜んでいる。

一方、真っ黒な冬の景色の中に、生命が息を潜めている。
凍土の下に、木枯らしが吹きすさぶ枝に、生の気配がある。
死と生の循環。いのちの壮大なドラマは続く。


[493] Save Our Soul 投稿者:やさか 投稿日:2008/07/27(Sun)
30年以上も前、雑誌『宣伝会議』や『ブレーン』などを読んでコピーライトの勉強をしていた頃でした。
このどちらかの雑誌に載った世界的に有名なキャッチ・コピーに、
“Save Our Planet, Save Our Water”というのがありました。
作者のコピーライターの名前は忘れてしまいましたが、コピーは良く覚えています。
当時、どのような日本語訳が付いていたかは忘れてしまいました。
“地球を救え、水を護れ!”とでも訳せば良いのではないかと思います。
この頃から地球環境保護の問題がクローズアップされていたのではないでしょうか。
この有名なコピーは、この時代に宣伝・広告に携わった者なら誰でも思い出せることでしょう。
このコピーをもじって、日本でも様々な二番煎じのキャッチフレーズが作られたように思います。

ところが今になって良く考えてみると、「水を護れ!」は良いのですが、
「地球を救え」は、ちょっとおこがましいように思うのですが如何でしょう。
ちっぽけな人間が、とてもではないが地球を救えるはずはないのです。
むしろ、人間などいないほうが地球の万物の生命にとっては、おそらく良いのかも知れません。
人間から見た環境がどうなろうと、ガイアたる地球は平気で生命活動を続け、宇宙で生き続けるでしょう。
人間は滅びてしまっても、様々な生命が地球で生き延び、栄え続けるかも知れません。

“地球を救え”ではなく、真っ先に人間の命が危ないのです。
人間が地球を救える訳は無く、他の生命を救うことも難しいでしょう。
私たち人間はもっと謙虚に、他の生物に助けてもらっていることを知らねばなりません。
自分達こそ、生き延びるために他の生物の助けを必要としているのです。
環境保全は、自分達人間自身のためなのです。

[492] 預言者のことば 投稿者:やさか 投稿日:2008/07/11(Fri)
天文学者が言った。時について話してください。
すると、アルムスタファは答えた。

時は計り知れない無限のもの。それを人は計ろうとします。
時間や季節に合わせて行いを決めたり、魂の進路さえ変えようとしたり。
みんな時を小川にして、その流れを岸辺に座って眺めようとしているのです。

しかし、あなたのなかの時を超えた存在は知っています。
生命とはそれこそが時を超えたものなのだということを。
昨日は今日の記憶でしかなく、明日は今日の夢にすぎないのだということを。
あなたのなかで歌ったり静かに考えたりしている存在は、
宇宙に星がちりばめられたあの最初の瞬間のなかに、今もまだ生きているのです。

愛の力には限りなどありません。
しかし愛は無限でありながらも、
あなたという人の心のなかでひとつに包み込まれています。
決してこの愛の思いとあの愛の思い、
この愛の行いとあの愛の行いとうふうに
ばらばらになっているわけではありません。
時もこの愛のように細切れにはできない、限りのないものなのです。

しかしどうしてもあなたが頭のなかで、時を四季に分けたいというのなら、
それぞれの季節のなかにほかのすべての季節を包み込みなさい。
同じように、今日という日のなかには、昨日と明日を包み込むのです。
過去の懐かしさと、未来への憧れをこめて。

『The Prophet 』 /Kahlil Gibran/有枝 春 [訳]より

[491] 役小角 投稿者:やさか 投稿日:2008/05/11(Sun)
『役行者』前田良一著/を読みました。
−修験道と海人と黄金伝説−とサブタイトルが付いた日本経済新聞社、2006年10月の初刊本です。
なかなか面白い本でした。
修験道と吉野の黄金伝説、吉野に残る海人の習俗について述べられ、吉野人は紀ノ川を遡って山地に定住した海人族ではないかといわれます。
私は、7年前にweb上で発表した小説、『真朱の姫神』−飛鳥編−で、役小角と天武天皇、井光の末裔・井角乗の三人の出会いを書いています。
『役行者』の著者前田良一氏も、三人の邂逅はあったとみているようです。
また、吉野三山についても述べられてあります。

内容全体については、記述の一部に2,3の間違いや、首肯できない点も気付きましたが、吉野と役行者と吉野の黄金伝説について、興味深く書かれています。
大胆な説は「吉野山は黄金鉱山である」という仮説?です。
吉野の伝説に興味をお持ちの方、一読をお奨めします。
私は面白くて一気に読了しました。

[490] 箱根にみどりの雨が降る 投稿者:やさか 投稿日:2008/05/06(Tue)
この休みに、箱根〜芦ノ湖めぐりをしました。
中学校の修学旅行以来ですので、もう何十年ぶりかになります。

中学生当時は、もちろんまだ新幹線がない時代です。
私達は、国鉄・和歌山線を走る蒸気機関の列車に乗って大阪に出ました。
大阪駅からは東海道線ですが、そこからは確か電気機関車が引く修学旅行専用列車だったと思います。
東京では、皇居や羽田空港、東京タワーなどを見学して、夜は後楽園球場で、巨人・阪神のナイターを観戦しました。
次の日は、箱根〜熱海方面へ向かったと記憶しています。
バスは箱根のドライブウエーを走りました。
箱根の山々から十国峠、芦ノ湖から熱海に続く車窓からの景観は素晴らしいものでした。
山は見慣れていた田舎中学生の私達でしたが、十国峠周辺の景観はまったく違う様相なのです。
それに、何よりも美しく舗装されたドライブウエーの快適さに魅了されたのでした。
そしてその時、車中でバスガール(当時はそう呼ばれた)さんが歌ってくれた歌、“みどりの雨”は忘れられません。

この歌が耳の底にいつまでも残っていて、時々思い出すのです。
歌詞も一番は今でもはっきりと憶えていて口ずさんでしまいます。
それで、この連休を利用して箱根めぐりをしようと決めたのでした。

行ってみると、想像通り、箱根・芦ノ湖は今でも素晴らしいところでした。
ドライブウエイも見事に美しく、十国峠は、まったく記憶と同じ素晴らしい景観を今でも保っておりました。
なだらかな稜線も遠い昔の記憶どおりで、むしろ不思議な感覚さえしたものです。
長い間、あの美しい均一な植生は何なのか気になっていたからでしょうか。
今回よく観察してみると、それは笹のような小竹が群生しているのでした。
あたり一面に密生しているので、遠くから見ると、どこまでも広がる草原の山なみの様に見えていたのです。

---旅行を終え自宅に帰り着いてから、ネットで調べると笹の正体が分りました。それは、箱根篠竹(すずたけ)または女竹という箱根特産の細い竹の一種だそうで、これが箱根の植生の特徴だそうです。---

近頃は「秘湯めぐり」などと言って、隠れた穴場とでもいうような、鄙びた温泉地に人気があるようですが、昔から有名だった大きな温泉地を訪ねるのも良いものだと思いました。
私の記憶の奥にいつまでも残っている歌“みどりの雨”、ネットで検索するとありましたので次に記しておきます。


みどりの雨
作詩:丘 灯至夫、 作曲:古関裕而、 歌:藤島一郎/昭和28年

1 夢をむすんだ あの芦ノ湖に
  浮かぶボートの 懐かしさ
  カラーフィルムに 残した君よ
  あああ 思いでの
  箱根にみどりの 雨が降る

2 ゴルフがえりの セダンが走る
  乙女峠に ほろほろと
  散り行く花よ 白山桜
  あああ 美しの
  箱根にみどりの 雨が降る

3 宿の小鳥も 別れを惜しむ
  登山電車に 昼の雨
  湯けむり淡く さよならさらば
  あああ ロマンスの
  箱根にみどりの 雨が降る

●HP「歌は世につれ 世は歌につれ」より↓

http://8.health-life.net/~susa26/natumero/26-30/midorinoame.htm


[489] 花影 投稿者:やさか 投稿日:2008/03/16(Sun)
昨日15日公開初日の、日韓合作映画「花影」を観ました。
本当に美しい映画で感動しました。
今の私達が忘れかけているなにかを想いおこさせてくれるものがありました。
驚いたのは、映画が終わると観客の大多数が大きな拍手をしたことです。
子供の頃映画館でよく見た光景ですが、それと同じ状況がそこに再現されたのでした。

「花影」とは、俳句の季語にもなる、月光などによってできる桜の花の陰をいうそうですが、
満開の桜というのは、本当に妖しい雰囲気をかもしだす舞台装置だと思います。
この映画の場合の花影は、すでに亡くなっていた恋人の「たまゆら」とでもいうものでしょう。


なお、大阪での上映は「シネマート心斎橋」だけのようです。
この映画のロケは、奈良県五條市、新町通りの山田旅館でも行われました。
キャストは、在日三世・尚美を演じるのが山本未来、その恋人役がキム・レウォンです。

[488] 遅い春 投稿者:やさか 投稿日:2008/03/06(Thu)
啓蟄の昨日、朝から西吉野へ福寿草と梅林を見に行きました。
五條市西吉野町の福寿草は、国道168号線から続く県道下市-城戸線、
川岸から山手に入った集落に自生しているのですが、それは咲き始めたばかりで殆どが未だつぼみのままでした。
今年は寒い特に寒い日が続いた為か、開花が遅れているようです。
それでも、枯葉の残る草むらの所々で、真黄色の可憐な花がひっそりと咲き始めていました。

その後、168号線に戻り、賀名生の梅林へ行きました。
昼頃になり、雪がちらつきはじめた梅林の周回道路を巡りましたが、蕾みはまだかたく、ここも一部の梅が咲き始めたばかりです。
地元の人の話によりますと、今年は寒さで開花が遅れており、見ごろは3月20前後でしょうとのこと。
去年の今頃は満開だったといいます。
ここ賀名生の梅林は、元々「青梅」の名で出荷する果樹として育てられた梅なのですが、
開花が遅れた年は必ずといって良いほど豊作になるとのことです。
なぜかと言えば、ミツバチの活動は季節が暖かくなると活発になり、受粉が良好になるからだと考えられるとのこと。
寒いので、うどんを食べに入った食堂で、草餅と甘酒を頂きながらお店の若奥様に聞きました。
本業は農家で、梅や柿を作っているそうです。
●西吉野・津越の春↓

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/fukujuso.html


[487] 阪神ファンをやめました 投稿者:やさか 投稿日:2008/03/02(Sun)
昨日は、午前中映画「明日への遺言」を見て、午後は京セラドームでオリックス―阪神戦を観戦しました。
ファンであった阪神の濱中選手が放出されたこともあって、阪神球団に嫌気がさし、今年から濱ちゃんの移籍先のオリックスファンになることにしたのです。
50年に以上も前の、「走・打・守、三拍子揃った牛若丸、吉田義男」の時代からタイガースのファンだった私ですが、
今年から思い切ってオリックスのファンになると決めました。
それでドームのオリックスのファンが多い一塁側で観戦したのですが、不思議なものですね。
ここに来てオリックス側に座ってしまうと、今は今岡や桜井がホームランを打っても、少しも嬉しくは無く、むしろ苦々しい思いがしたのです。
もうすっかりオリックスファンになっていました。
でも、セ・リーグ同士の試合なら虎ファンになると思います。
濱ちゃんは残念ながら3打数ヒット無しでした。

それで、今日は活躍してくれると、ホームランを期待していたのですが、
試合中捕球動作の際、チームメイトと接触して、胸部を打撲したようです。軽症であれば良いのですが。

[486] 明日への遺言 投稿者:やさか 投稿日:2008/03/02(Sun)
昨日、公開初日の映画、「明日への遺言」を観ました。
これは、いわゆる「横浜裁判」で裁かれたBC級戦犯の、法廷闘争を映画にしたものですが、
その主役は、藤田まことが演ずるところの東海軍司令官岡田資中将です。
この映画の原作は、大岡承平の史実に基づいた小説『長い旅』といいます。

その内容は、

――1945年3月12日、連合国側が名古屋を空襲して無差別爆撃をした。この時日本側の高射砲で撃墜されたB29からパラシュートで降下した搭乗員があり、これらの搭乗員を東海軍が処刑した。
これに対して戦後、連合国側は不法として、その罪を問う裁判をしたのである。いわゆる「横浜裁判」である。
岡田中将は部下をかばい、全ての罪は命令をした自分にあるとして、自分一人で罪を背負おうとする。
岡田は、これを“法戦”としてとらえ、勝ち抜こうとする。そして一人絞首台の露と消える。――

…といった内容ですが、問題はこの映画の首題通り、いかにこの戦争の歴史的真実を「明日への遺言」として次の世代に伝えていくかにあると思うのです。
戦争に於いて、その行為を犯罪として裁くのは如何なることなのか。
国際法上において、人道上においてはどうなのかという問題です。
これら戦後の裁判は戦勝国による、一方的な敗者への裁判でした。
特にBC級裁判は、戦争という国家責任を、敗戦国の個人に負わせた過酷なものでもありました。
連合国側は、約千名もの多くの人々を戦犯として処刑しており、これは勝者の戦後報復の様相を呈しているともいえるでしょう。
事実「東京裁判」では、無罪とした判事もいたからです。

連合国側はA・B・C級戦犯として多くの日本人を処刑したが、
では国際法上、都市上空からの無差別爆撃は戦争犯罪ではないのか?
兵器工場とはまったく関係のない都市に、上空から焼夷弾を雨あられと投下し、絨毯爆撃をして、
火炎で退路を断ち、機銃掃射までして、赤子から病人、老若男女まで皆殺しにしようとしたのは犯罪ではないのか?
また、広島・長崎で原子爆弾を投下して、何十万人もの命を瞬時に奪ったのも戦争犯罪にはならないのか?
…ということなると思います。

昨年、「原爆投下はしょうがない」という意味の発言を防衛相がした。国防を担う大臣ですらこのような認識なのです。
戦後のGHQの日本人に対する戦後政策が奏功してか、日本人の歴史認識は歪に曲げられてしまっているように思えてなりません。
平成19年7月14日の産経新聞夕刊によれば、
――『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』米カリフォルニア州立大教授ロナルド・シェイファー著に、1945年8月、長崎に原爆を落とした2日後に、トルーマン大統領は「けだものを相手にする時は、けだものとして扱わねばならない」と声明を出した。
相手は人間ではないのだからモラルは必要ない。すべてを焼き尽くし、とことん殺戮することになんの痛痒も感じていなかった。
戦後になってからアメリカ政府は、原爆投下の正当性を主張するようになった。「日本がポツダム宣言を黙殺したため」といった類である。戦後の日本では、特に左翼の学者達が、その尻馬に乗って唱えた。日本が悪いのだから「原爆投下はしょうがない」という考え方である。防衛相の発言はそれに似ている。(同記事から部分要約引用)

私達は「明日への遺言」として、正しい歴史認識を後代に伝えなければならないと痛感するものです。
あの戦争を私達は忘れてはなりません。

●許すまじ、忘れまじ、あの無差別爆撃、原爆投下。
http://www.tokyo-sensai.net/
http://www.youtube.com/watch?v=5yJLhZescY8
http://www.ne.jp/asahi/k/m/kusyu/kuusyu.html
http://history.independence.co.jp/ww2/phtop.html

[485] ネコの子、子ネコ 投稿者:やさか 投稿日:2008/02/19(Tue)
雪のちらつく播磨国、宍粟郡の神社を巡りました。
あたり一面が雪に覆われた一宮町森添の御形神社参詣した際、
戴いた兵庫県の神社庁の宍粟支部報、「鎮守の杜」に次のような記事がありました。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
「子子子、子子子」。さて皆さんはどう読まれますか?  「ネコのコ、コネコ(猫の子、子猫)」と読むのだそうです。
 中国には昔から十二支の絵があり、その鼠に「子」という漢字を当てたり「子」をネと発音していたようですが、
その理由は分かっていないのだそうです。
『「子」の意味は「滋」と同意で、この時節には万物の滋る芽生えのあること』なのだそうです。
もし「子」年がこの意味に合っているならば、内憂外患こもごも来たる時ではありますが、
何とか良い方の芽生えであって欲しいものです。――以下略
※以上は同紙に掲載の、神社庁宍粟支部支部長進藤千秋氏「ご挨拶」より部分抜粋――   

[484] 中国の検索エンジン 投稿者:やさか 投稿日:2008/01/24(Thu)
中国の検索サービス大手、百度(Baidu)が、
日本で本格稼動し始めているようです。
利用率は今のところ3パーセント位とのことですが、なにせ13億もの人口をかかえる大国ですので、さらに大きく成長しそうです。
もちろん、中国国内ではGoogle,Yahooを抑えて利用率は第一位だそうです。
日本でも株式を上場したいとかで、このエンジンの日本版は、特に日本の若者の利用を意識したものだそうです。
何件か検索して試してみると、中々動きは良いようです。
気がついたところでは、
検索したサイトの、その頁の掲出日が表示されること。
入力検索窓が大きく文字が読みやすいこと。などです。
他社の大手の検索サービスに比べて、特に不自由な点は試した中では見受けられませんでした。

[483] 大寒 投稿者:やさか 投稿日:2008/01/22(Tue)
昨日は大寒。今年初めての積雪でした。
私が住んでいる大阪南部でも屋根や植木の上には、5センチほど雪が積もりました。
大寒のこの日、大阪は文字通り今年一番の寒さだったかもしれません。
幸い道路は殆ど雪が解けていたので、雪景色を撮影しようと思い立ち、吉野方面へ向かいました。

午前9時頃大阪を出て309号線で水越峠を越えて行きました。
山間部に入ると所々は道路にも雪が残っています。
御所市から大淀町に入り、吉野川沿いを大名持神社のある妹山の方へ走り、まず比蘇寺へ向かいます。
比曾口のバス停から北へ曲がり、坂道を上ってゆくとその辺りはもう一面の素晴らしい雪景色でした。
10センチ近く雪の積もっている比蘇寺境内の駐車場に車を停め、まずは鎮守社の天照大神社に参拝。
神社の横では、雪にもめげず紅色の桜(寒桜の一種か)が咲いています。また南天も雪の中から真っ赤な実を覗かせていたのが印象的でした。
雪景色に堪能した後は、五條市西吉野町の「谷の宮」に参詣しました。

二年前もこの季節に、雪の降り頻る中を丹生川上神社下社に参詣したことを思い出します。

[482] Re[481]: こんにちは 投稿者:やさか 投稿日:2008/01/14(Mon)
あざらしさん、こんにちは、ようおこし

> これまでの興味の対象は、遠く古代でしたが、今度機会があれば、市川団十郎を観に歌舞伎座まで行こうと思います。

もう10年ほど前になると思います。
大阪松竹座で公演された、スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」、これがはじめて見た歌舞伎です。
それ以来見たことはなかったのですが、私も「歌舞伎座」での団十郎を見てみたいと思うようになりました。
機会を作って見に行きたいと考えております。

[481] こんにちは 投稿者:あざらし 投稿日:2008/01/14(Mon)
ちょっと、立ち寄らせてもらいました。

これまでの興味の対象は、遠く古代でしたが、今度機会があれば、市川団十郎を観に歌舞伎座まで行こうと思います。

[480] 日本一の大杉 投稿者:やさか 投稿日:2007/11/15(Thu)
高知県長岡郡大豊町杉の八坂神社に参詣しました。
明石海峡大橋・大鳴門橋を渡り、徳島の「阿波の土柱」、
吉野川の「大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)」の渓谷美、
そして吉野川の支流・祖谷川に架かる「祖谷のかずら橋」などを訪ねたあと、
やはり吉野川の支流・穴内川(あなない)沿いにある「八坂神社」に参拝。

この八坂神社境内にある大杉は、日本一といわれているだけあって全くスゴイ。
神々しいばかりに、大地から屹立しています。
私ヤサカは、屋久島の縄文杉は見たことはないのですが、樹齢は縄文杉の方がはるかに上回るものの、
樹高は「杉の大杉」の方がはるかに高いそうです。
写真で見るとそんなに大きく見えないのですが、実際目の前にすると飛びぬけて巨大です。
いい角度から撮影しようとすると引きしろが無く、どうしても画面からはみ出してしまいます。
何千年も寿命をつないだ存在感に圧倒されます。

以前にテレビか新聞で、この大杉と美空ひばりの話は聞いたことがあったのですが、
その頃は特別神社に興味があった訳ではなかったし、美空ひばりがさほど好きな歌手ではなかったのです。それが彼女の死後、時々テレビで何となく見るようになりました。
そして50歳を過ぎる頃から、だんだん歌手「美空ひばり」が好きになってきて、
その歌声に魅了されるようになってしまったのです。
最近になって知ったのですが、美空ひばりは5月29日生まれとのこと。誕生月日は私と同じです。

●以下:八坂神社/日本一の大杉

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/kotiyasaka.html


[479] 播州の神社 投稿者:やさか 投稿日:2007/11/11(Sun)
東播地方の神社をまわりました。
まず、熊野神社。そして笠形神社、岩戸神社、田川神社と参詣。
このうち、田川神社は二度目の参拝でした。

次は西播方面を訪れてみたいと思っています。

[478] 写真が無い! 投稿者:やさか 投稿日:2007/11/04(Sun)
最近、少し時間ができたのでHPに載せようと、
以前に参拝した神社の写真探してみたのですが、
必要な写真がありません。どこを探しても残っていないのです。
後でホームページにアップしようと思い、その内何年も経ってしまっていました。
PCのトラブルや、入れ替え、保存ミスなどで多くのDATAを無くした中に神社の写真もあったようです。
やっぱりこまめにバックアップを取って置くことが大切ですね。

惜しいのはやはり、遠いところの写真です。
特別有名な神社は、もともと自分のHPには載せようと思っていないのでいいのですが、
八重垣神社、伊和都比売神社、田川神社などは特に残念に思います。
機会を作って、また参詣したいと思うこの頃です。

[477] Re[476]: Re 神々の杜・続編 投稿者:やさか 投稿日:2007/10/21(Sun)
神奈備さん、ようこそ!ありがとうございます。

> 目次の宝来神社は山抜きの表示になっています。

ご指摘ありがとうございます。
まったく気がつきませんでした。早速訂正いたしました。

ご無沙汰していますが、いつも貴掲示板は興味深く読ませていただいています。
大方の掲示板が、一時にくらべて寂しくなって来ているように見える昨今ですが、さすがに「神奈備」さんは賑やかで、人気の程に敬服します。
また、最近は何年振りかに懐かしいお名前を拝見しました。
神社詣では止めていませんので、又よろしくお願いします。

[476] Re 神々の杜・続編 投稿者:神奈備 投稿日:2007/10/20(Sat)
参詣していない神社が並び、見応えがあります。
目次の宝来神社は山抜きの表示になっています。

[475] 神々の杜・続編 投稿者:やさか 投稿日:2007/10/16(Tue)
神々の坐す杜を、【続・神々の杜】と改題して再開しました。
第一回目は、天川村へ行き、伊波多神社から参拝しはじめました。

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/zokukami.html


[474] 五條地区の神社 投稿者:やさか 投稿日:2007/05/03(Thu)
しばらくの間、神社詣でをしていませんでしたが、この休みから又、始めました。
やはり吉野・宇智方面から先に行きたくなります。
まず、JR和歌山線五條駅と北宇智駅の中間近くの、線路北側にある浮田の杜・荒木神社に参拝。北宇智駅は全国でも珍しいスイッチ・バックの駅として有名です。
その次は、吉野川に丹生川が合流する地点の吉野川左岸にあります火雷神社参拝しました。順次HPに掲出して行きます。
●以下は荒木神社のページです。

http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/araki.htm


[473] 五條で「花影」のロケ 投稿者:やさか 投稿日:2007/05/02(Wed)
大和五條は、古くから伊勢街道・西熊野街道・紀州街道・河内街道などの要衝で、宿場町として栄えていたようです。
江戸時代、徳川幕府はこの五條に代官所を置き、天領としての宇智・宇陀・吉野の三郡を支配していました。
この五條市に、通称「新町通」という古い町並みがあります。
この界隈は、タイムスリップしたように江戸時代の風情がそのまま残されていることで知られていますが、
ここで4月に映画ロケが行われました。
その映画は、キム・レウォンが特別出演する日韓共作映画「花影」で、
ストーリーの中で在日韓国人として登場するのが、ヒロインの山本未來です。

撮影は主に、新町通りの「山田旅館」を中心に行われたそうです。
五條地区の神社参詣に行った際、ふと立ち寄った新町通のこの旅館でこのことを知ったのでした。
美味しい和菓子と珈琲をいただきながら、この宿の女将さんとご主人から話を聞きました。
見せていただいた記念の写真には、ご夫婦と山本未来さんが写っているのもあります。
4月17・18日の映画ロケの話だけではなく、昔のこの町やこの宿についても、色々な話を伺いました。
この宿は、吉野川の木場に出入りした商人達がよく利用した筏宿がその発祥だそうで、
外観内部とも時代そのままで、今に残し継がれています。

山田旅館は宿泊しなくても一階で喫茶が楽しめます。
気さくな女将さんがおられ、むかしの話もよくご存知なので歴史・民俗好きの方には特におすすめです。
毎年恒例の行事となった「かげろう座」自由市場は、関西でも最大級のフリー・マーケットに成長しているそうで、
大道芸などで賑わうそうです。(今年は5月27日/日曜日に開催予定)



[472] バイクで神社めぐり 投稿者:やさか 投稿日:2007/05/01(Tue)
少し冒険だと思ったのですが、この休みにチビバイクに乗って遠出をしました。
冒険と言うのは、専らこの小さなバイクは、足代わりに街中でしか乗っていなかったからです。
素晴らしい天気だったので遠くに出かけたくなり、朝からリュックサックに水の入ったペットボトルと菓子パン、デジカメを入れ、
バイクに乗って大阪を出発しました。
今年1月に97歳で亡くなった母の100日の喪が明けたので、吉野方面への神社詣でをバイクで再開した訳です。

まず、310号線で金剛山を越え五條市に向かう。
途中、チンタラ走っている私のバイクを、軽四ばかりか女の子が乗るスクーターまでもが軽々と追い越してゆく。
平地をしばらく走り、山間部に差しかかると、素晴らしい天気とはいっても朝は寒く、ジーンズの上下服を通して冷気が身体にしみて来る。
400CC超のビッグバイクが、この金剛山の登り坂を、蛇行する国道に沿って右に左に車体が路面に擦れるほど傾斜させて駆け上って行く。
邪魔な私に「そこのけ!そこのけ!」と言わんばかりに、心地よいエキゾースト・ノートを響かせながら抜き去って行く。
中には内側から爆音と共にあっという間に抜き去って行った者もいた。
内側から大排気量バイクに攻められると身体がふるえる。恐怖と怒りのためだ。
負けるものか昔取った杵柄だ、と言いたいところだが、こちらは100CCのチビバイク、とても敵わない。
それより何より腕が伴わないではないか。正直あそこまでは、怖くてとても身体を傾斜させては走れない。
中途半端なスピードで走っているとかえって危険なのである。
このルートはバイク野郎が多く、練習サーキットのように利用されているようだ。
対向車も多いのでこの山道では絶対に中央線をはみ出さないようにしないといけない。
また、どんどん追い越しを掛けてくる車やバイクがあるので、車線はできるだけ左端を走るのが安全であろう。
そのように考えて峠道のツーリングを楽しむことにしよう。

峠の小さなトンネルを抜ける頃には、このワインディングロードにも慣れてきました。
五條市の標識からは下り道になっています。
下り坂は、ついスピードが出すぎてしまうので特に注意をして、絶対に中央ラインを越えないように四速で降りてゆきました。
バイクには四輪ではとても体感できない楽しさがあります。
待ち受けるカーブ、迫りきたる路面。
身体を駆け抜ける風。
きしむタイヤ、うなるエンジンの金属音。
心地よいミュージックを奏でるエキゾースト・ノート。
とても若者のスピードにはついて行けませんが、
やっぱりモーターバイクは魅力です。


[471] Re[469]: 賀正 投稿者:やさか 投稿日:2007/01/05(Fri)
新年おめでとうございます。

かまどさん、ありがとうございます。
ご無沙汰していますが、かまどさんは東奔西走、公私共に近年は特にお忙しいようですね。
ブログいつも拝見しています。丹生都比売神社での三が日は有意義だったようですね。
将来を見据えられての、修行を兼ねたご奉仕というところでしょうか。

> 今年初詣はどこに行かれましたか?
>
今年は地元の氏神様のみの参拝でした。
例年のように31日の午後11時半頃参詣して鳥居前に家族で並んで、年明けとともに参拝します。
そして昨年の神宮の大麻、氏神様の神札、破魔矢などを納めて新しいのを頂きます。
そのあと「とんど」にあたり、甘酒をいただくのが楽しみなんです。
このあたり新築マンションが増えて、年を追うごとに人出が多くなり今は境内一杯の大賑わいです。

> その他生まれて始めてな事がいくつかありました。

生まれて始めてのご経験?また折に触れて教えてくださいね。
今年もよろしくお願いします。

[470] 賀正↓ 投稿者:かまど 投稿日:2007/01/05(Fri)
やさか様

すいません↓の書き込み、ねぼけてて、名前のところに題名いれてしまいました。m(_ _)m

[469] 無題 投稿者:賀正 投稿日:2007/01/05(Fri)
やさか様

あけましておめでとうございます。
今年初詣はどこに行かれましたか?

さて、私は31日から3日まで丹生都姫神社でいました。生まれて初めて神社で年を越しました。その他生まれて始めてな事がいくつかありました。いい経験ができた三が日でした。

では、とりいそぎごあいさつまで。

[468] 迎春於是地平天成 投稿者:やさか 投稿日:2007/01/01(Mon)
まずは昨年に続き『安岡正篤一日一言』から

○1月1日/年頭自警
 一、年頭まず自ら意気を新たにすべし
 二、年頭古き悔恨を棄つべし
 三、年頭決然滞事を一掃すべし
 四、年頭新たに一善事を発願すべし
 五、年頭新たに一佳書を読み始むべし

ふーむ、この教訓を全うするのは中中むつかしい。
今年はせめて三項目を目標にやってみますか。
---------------------------------------------

三輪明神 第23番 小 吉
「もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも」 万葉集巻3-264 柿本人麿

このクジ運の人はそこまで仕合せが近づいてゐる
待てしばし幸運は向ふから必ずやってくる
心静かに急ぐべからず焦るべからずが肝心
心も言葉も皆朴を保て

[467] 12月31日 投稿者:やさか 投稿日:2006/12/31(Sun)
安岡正泰著『安岡正篤 一日一言』致知出版社に、以下のように記されています。

●12月31日/萬燈行
内外の状況を深思しましょう。このままで行けば、日本は自滅するほかはありません。
我々はこれをどうすることも出来ないのでしょうか。
我々が何もしなければ、誰がどうしてくれましょうか。
我々が何とかするほか無いのです。
我々は日本を易えることが出来ます。
暗黒を嘆くより、一燈を点けましょう…以下略------

安岡正篤氏は昭和58年(1983)12月に没していますので、この一言は23年以上も前の言葉と思われます。
政財界の指南役ともいわれたこの碩学は、この時すでに日本の行く末を憂いていたようです。
一人一燈の「萬燈行」、これこそ私達21世紀の日本人に、安岡正篤氏が残した遺言ではないでしょうか。

[466] 一休さん 投稿者:やさか 投稿日:2006/08/17(Thu)
とんち小僧で知られる一休さん、一休宗純は禅僧でした。
一休は、後小松天皇の第二皇子、つまり称光天皇の弟で、いわゆる御落胤だといわれています。
宮内庁も一休を皇族扱いしているそうなので、間違いないようです。
この一休さん、25歳の時、京都で琵琶法師の語る『平家物語』の、祗王が平清盛の寵を失い落飾する段を聞いて悟りを得たのだそうです。
堅田の興禅庵で修業中だった彼に、師の華叟が「一休」の道号を与えたのはこの直後だったといいます。
祗王が落飾する段というのは、出家するということでしょうが、一休さんはこの場面から何を感じたのでしょう。
琵琶法師が語る『平家物語』は、ここでも大きな影響をあたえています。

「とんち小僧一休」の話は、ほとんど江戸時代に作られたものだそうで、史実とはいえないそうです。
ではこの辺で、一休さん、一休さん。 一休み、一休み。         
                                    産経新聞H18.8.9.「近江時空散歩」より

[465] 祈らなくてよいのか 投稿者:やさか 投稿日:2006/08/15(Tue)
靖国神社へお詣りするもよし
お詣りせざるもよし
あるいは 氏神さまへのお詣りもよし
家の仏壇前でよし ただ静かに手を合わせて祈りたい

先の大戦で亡くなった方々すべての御魂に
慰霊と感謝の祈りをささげたい
今も英霊は 日本の行く末を案じ
列島に結界をめぐらして
安寧を護っていてくれる 

いや 日本だけではなく
世界和平を願う英霊たちの思いが
日本に60年余の平和をもたらせた
あらためて 心からの祈りをささげたい


--------------------------------------------

祈りとは 今日一日を感謝し
     今日の一日を反省して
         明日への希望を誓うことです

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/inori_001.htm


[463] 平家物語/続2 投稿者:やさか 投稿日:2006/08/11(Fri)
小泉八雲の作品に、ご存知「耳なし芳一」がある。

『怪談・奇談』平川裕弘編より
赤間関に住んでいた芳一という名の盲人は、琵琶を弾いて語るのが上手で、
特に源平・壇ノ浦合戦の段を語る様子は「鬼神ヲモ泣カシム」といわれたほどであった。
ある夜、鎧兜に身を固めた武士に、大きな屋敷連れて行かれ、大勢の中、御前様に琵琶を弾き平家を語るように言われる。
芳一は声を張り上げ苦海の合戦を語る。

――― 弾ずる琵琶の音はさながら櫓櫂の軋るがごとく、矢が唸りを立てて飛び交うごとく、もののふの雄叫びや船板を踏み鳴らす音、兜に刃が砕ける音、さらには切り殺された者があえなく波間に落ちるがごとくであった。芳一はいよいよ力がみなぎって、前にもましてたくみに歌いかつ演じた。
あたりは感嘆の沈黙が深まった。
――― 女子供の哀れな最期と、幼帝を抱いた二位の尼の入水を語る段となった時、聴く人々はみな一斉に悲痛の嘆声を発した。そして狂おしいまでに大きな声で泣き叫んだ。それで目の見えぬ芳一は自分がつくり出した悲哀の激しさに思わずおびえたのであった―――。

どうであろう、自分がつくり出した情景に自分が怯えたとある。
ところがこの芳一は、実は平家の亡者に呼ばれ、なんと安徳天皇の墓の前で鬼火の飛び交う中、
壇ノ浦合戦の段を琵琶をかき鳴らし大声で語っていたのだ。
宿を芳一に提供している和尚が、心配をして後をつけるように命じられた下男たちがそれを見つけた。
それはそれは鬼気迫る情景であったことであろう。 怨霊がいたるところで跋扈していた時代である。
下男らが連れて帰った芳一を救うため和尚は、芳一の全身に般若心経を書き込んだ。
ところが耳だけを書き忘れたため、結果的には助かるのだが耳を武士に引きちぎられることとなる。

この物語は子供の頃、教科書か何かで知ったような気がする。
この種の怨霊ものの怪談は、日本人の心の底に残る物語のひとつと思われる。
そして何かいかにもありそうなことのような気がする。
考えてみれば喜びも悲しみも、恐怖さえ、我々の感覚器官の感応により心が起こすものだ。
感官がそのように認めれば、それは事実たり得る。

ところで和尚さん、芳一の耳には般若心経を書き忘れたが、ヘノコにはしっかりと書いていたんだな。




[462] 平家物語/続 投稿者:やさか 投稿日:2006/08/10(Thu)
『平家物語』(巻第一、祇園精舎)
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の世の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高・漢の王莽・梁の周伊・唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にもしたがはず、楽しみをきはめ、諌をも思ひいれず、天下の乱れむことをさとらずして、民間の愁ふる所を知らざッしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、是等はおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、伝へ承るこそ、心も詞も及ばれね。

以上が、齋藤孝著『声に出して読みたい日本語』CDブック編に載っている平家物語の冒頭部分であるが、脚注にによれば、
「朗読暗誦の定番だ。ただし普通は/風の前の塵に同じ/までが暗誦範囲だが、私が中学校の時は、/心も詞も及ばれね/までを覚えた。琵琶法師は、全文を暗誦して、節つきでやったのだから大変なものだ。琵琶法師の語りは、現代の感覚からすればひどくゆっくりで、/塵に同じ/までで何分もかかる」とある。

『世界大百科事典』平凡社によれば、
   平家物語は琵琶にのせて語られた文学である。
   これくらい語り物としての平曲と不可分の関係にあるものはない。
   平曲家諸流の語り本として諸異本が伝わり、一方、読み本としても諸本が伝わったため、
   日本の古典文学中、この物語ほど諸異本が多い作品は他にない。
   作者としては、信濃前司行長が最も有力な一人で、葉室時長、源光行、吉田大弐資経らも、
   作者候補としての根拠はある…と、いうように書かれている。

[461] 平家物語 投稿者:やさか 投稿日:2006/08/09(Wed)
平家物語は鎌倉時代、琵琶法師によって琵琶の伴奏で節をつけて語られた物語で作者は不詳とされる。
一章一曲で全体では二百曲にもなるという。この長大な物語を盲目の琵琶法師がすべて暗誦したといわれることも驚きだが、
さらに驚くべきは「平曲」といわれる二百にもなる伴奏曲を、おそらく譜面もなしに弾き得たことである。
まさに驚嘆すべき記憶力といえる。
別に作者がいたとして脚本があったとすれば、琵琶法師は殆どが盲目であったであろうことから、
聞き覚えたに違いないので、法師は大変な記憶力の持ち主であったことが窺い知れる。
この時代、録音機のように一度耳に入れたら決して忘れない能力の持ち主は多くいたと考えられはしないか。
現代でも長い経文を、経本を見ないで読誦できる僧侶は多くいる。
もちろん彼らは一度読んだだけで憶えたのではないだろうが。

平家琵琶の起原については『徒然草』の記述から、後鳥羽院に仕えた雅楽の達人藤原行長が慈鎮和尚の擁護のもとに作り、これを生物(しょうぶつ)という盲人が語りはじめたという説がある。
琵琶法師らは研ぎ澄まされた霊的な感性の持ち主であり、神憑り的に言葉が口をついて出てくるのであろう。
異界あるいは霊界からの通信を受け取ったまま、そのままを語り続けたのかもしれない。
物語とはそもそもモノ(神、鬼、もののけ)が語るから「モノカタリ」なのであろう。
宮城谷昌光『史記の風景』に、
「小説とは、巷で聞いたことを路傍で伝え説く者のことらしい」とあった。

[460] 美しい日本語 投稿者:やさか 投稿日:2006/08/08(Tue)
齋藤孝著『声に出して読みたい日本語』というのがミリオンセラーになっているそうです。
この一連のシリーズに、「CDブック」編があって、これにまた美しい日本語が詰まっています。
このなかに収録されている日本語には、その言葉のひとつひとつに深い味わいがあります。
「言霊」といわれるほど、やはり言葉には力があるということが、このCDを聞くと感じさせられます。

♪旅ゆけば駿河國に茶の香り…で始まる『清水次郎長伝』の浪曲。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」で始まる平家物語。
これら日本の伝統芸能の「語り芸」も収録されています。

[459] 小説 『紀ノ川』 投稿者:やさか 投稿日:2006/08/08(Tue)
注文していた有吉佐和子の小説、『紀ノ川』が届き、一気に読んでしまいました。

この十年間くらい私は、あまり小説を読んでいなかったのですが、その中で
梁石日著の『血と骨』、浅田次郎著の『蒼穹の昴』、同じく『壬生義士伝』は特に印象に残っています。
この三作は小説の醍醐味を十分に堪能させてくれる作品でした。

『紀ノ川』は、これらの作品とはまったくジャンルが違う小説ですが、読後感がさわやかだし、
それでいて充実感もあります。
心がほんのりとあたたかくなるような、本当に「いい小説を読んでよかったな」という感じです。

[458] 浪曲 投稿者:やさか 投稿日:2006/08/07(Mon)
子供の頃、よく浪曲を聞いたような記憶があります。
聞いたというより、大人たちの周りで浪曲が流れていたといった方がいいかも知れません。
縁日のお寺の本堂で、村の青年団が呼んだ興行で、氏神祭礼宵宮の当屋でと、
様々な機会に浪曲が演じられていました。
当時は地方まわりの芝居や、漫才、浪曲が村人の大きな楽しみの一つだったのだと思われます。
意味も分からず、内容も憶えていないのですが、浪曲独特のあの節回しが耳の底に残っています。

浪曲といえば、やはり二代・広沢虎蔵、『清水次郎長伝』でしょうか。
この浪曲が入ったカセットテープを、先年衝動買いしてしまいました。
有名な「石松金比羅代参」・「石松三十石船道中」の一巻です。
これがまた面白いのです。車に入れておいて何回も聞きました。
続いて、「石松と見受山鎌太郎」・「石松と都鳥一家」を見つけてきて買いました。
聞くとこれが又面白い。とにかく面白いので次から次へと聞きたくなるのです。

でもこの次はどこを探しても見つかりません。
どこにもないので、ここ数年忘れていたところ、先日通販で見つけました。
「秋葉の火祭り」〜「血煙荒神山」まで、全十六巻、解説書付。
この中で、「お民の度胸」の巻があるのですが、このお民(たみ)、男も顔負けの度胸の持ち主。
お民は石松の兄貴分、七五郎の女房なのですが、石松を匿いながらも小気味の良い啖呵を切り、
卑怯な都鳥一家の追っ手を追い払うのです。

さて、これは余談です。七五郎の女房、お民(たみ)がでてきましたが、
幕末の天誅組、丹生川上神社神官・橋本若狭の女房も「おたみ」です。
この女房も男勝りで、家を焼かれたおたみは護身用の「仕込み杖」を手に、
子供達を連れて各地を放浪しながらも、子供たちを立派に育てたそうです。

ところで、浪曲の魅力って何なのでしょう。
それは口演者の魅力によるところはもちろんですが、
その独特の節回しと共に、三味線の音色、曲師の掛け声、
小気味良い語調の、言葉そのものの魅力・・・でしょうか。
素晴らしい語り芸だと思います。 ほんとに何度聞いても飽きません。

[457] Re[456]: Re[455]: Re[454]: Re[453]: 紀ノ川・吉野川 投稿者:やさか 投稿日:2006/08/04(Fri)
> 良くご存知で。昔はプールがなかったので、私の祖母も紀ノ川で水泳したそうです。
> 今は昔と比べると水が少なくなったのか、水深が浅く、私の家の近くのほうでは泳ぐことができそうにありません。
>
> 吉野あたりでは泳げますか?

私も子供の頃は、もちろんプールなどは無く、もっぱら川や池でした。すぐ近くの川は小さくて物足らないので、少し遠いのですが、よく丹生川や吉野川まで行って泳いだものです。
現在でも五條から上流の下市の千石橋までの間では(例えば栄山寺近くの通称音無川近辺)では、深く淵になっているところがありますので、泳ぎは楽しめると思います。
でも昔に比べますと流量が少なく、流域も随分と狭くなっています。
私達が中学生の頃よく泳ぎに行ったのは吉野川では「滝」といわれていた地区です。
ちなみにこの宇智郡滝郷は、幕末の丹生川上神社の神官、橋本若狭の生まれ育った村でもあります。

[456] Re[455]: Re[454]: Re[453]: 紀ノ川・吉野川 投稿者:かまど 投稿日:2006/08/04(Fri)
やさか様

> ところで、この有吉さんは和歌山生まれですが、“前畑ガンバレ!”で有名な前畑さんや、フジヤマのトビウオといわれた古橋さんも橋本生まれで、この紀ノ川で水泳を覚えたのだそう
ですね。

良くご存知で。昔はプールがなかったので、私の祖母も紀ノ川で水泳したそうです。
今は昔と比べると水が少なくなったのか、水深が浅く、私の家の近くのほうでは泳ぐことができそうにありません。

吉野あたりでは泳げますか?

[455] Re[454]: Re[453]: 紀ノ川・吉野川 投稿者:やさか 投稿日:2006/08/04(Fri)
かまどさん、ありがとうございます。

> 実は、天野の丹生氏も、花の遠い縁戚と言う設定で出ています。(^^;)
>
そうでしたか、やっぱり面白そうですね。
すぐ近くの書店にいったのですが、なかったので注文しておきました。小説はあまり読まないほうなのですが、届き次第早速私も読んでみます。
ところで、この有吉さんは和歌山生まれですが、“前畑ガンバレ!”で有名な前畑さんや、フジヤマのトビウオといわれた古橋さんも橋本生まれで、この紀ノ川で水泳を覚えたのだそうですね。

[454] Re[453]: 紀ノ川・吉野川 投稿者:かまど 投稿日:2006/08/04(Fri)
やさか様
ご無沙汰してます。

> …とこの小説のプロローグに触れています。
> 小説『紀ノ川』は読んでいないのですが、読みたくなります。

実は、天野の丹生氏も、花の遠い縁戚と言う設定で出ています。(^^;)

[453] 紀ノ川・吉野川 投稿者:やさか 投稿日:2006/08/02(Wed)
産経新聞の「流域紀行」と題したコラムで、
―紀ノ川・吉野川をあるく― という連載が始まりました。
有吉佐和子氏の小説に、『紀ノ川』というのがありますが、
そのことが8月1日の第二回目に紹介されています。
   
   「見、紀ノ川の色かいの(見てごらん、紀ノ川の色を)」
   青磁色の揺らめきが、二人の目の前に横たわっていた。
   「美っついのし」
   花は思わず口に出して感嘆した。
   「美っついのう」
   小説『紀ノ川』は、花と呼ばれる主人公が、紀ノ川上流の九度山から下流の六十谷に嫁ぐ朝のこのシーンから始まる。
   九度山にある慈尊院で、花嫁と祖母は故郷の川をしみじみとながめながら、そのその美しさをたたえているのだ。

…とこの小説のプロローグに触れています。
小説『紀ノ川』は読んでいないのですが、読みたくなります。
また、このコラム「紀ノ川・吉野川をあるく」も次の記事が楽しみになってきました。

[452] Re[451]: 失礼しました 投稿者:やさか 投稿日:2006/07/28(Fri)
> ずっと書き込みしていたのは‘女’の方の千葉でして・・・
> 失礼がなかったか心配ですが、どうぞお許し下さいますように・・・
>

奥様でしたか。こちらこそ失礼しました。
ご主人にもどうぞよろしくお伝えください。

梅雨明けは間近なようです。
これからが、みんなが楽しみにしている「お祭りの季節」の到来ですね。
ご活躍を期待しています。ではまた、お会いできれますように。

[451] 失礼しました 投稿者:和太鼓のら 千葉 投稿日:2006/07/27(Thu)
のらへの書き込みありがとうございました。
ずっと書き込みしていたのは‘女’の方の千葉でして・・・
では、当日主人には声を掛けていただいたのですね。
すみません。千葉は千葉でも女の方でした。
主人にもやさか様のことは伝えていたのですが、なにせ向こうも沢山の方とごっちゃになってはいなかったかと・・・
失礼がなかったか心配ですが、どうぞお許し下さいますように・・・
またの機会にお会いできるのを楽しみにしております!
暑いですね・・・梅雨はもう明けたのでしょうか。
季節がら、ご自愛下さいますよう・・・