50] 式内社のしおり 投稿者:なにがし 投稿日:2002/02/14(Thu) 19:14
マルヤ様
「式内社のしおり」は電話したら¥500でした。あとは送料がかかります。と言うことで購入することに致しました。
下社は何か本か冊子かないですか?以前行った時はみつけられなかったので、もし下社の遺跡の資料がどこかで入手できそうでしたら教えて下さい。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[49] 下社 投稿者:なにがし 投稿日:2002/02/12(Tue) 00:15
マルヤ様
>下社の近くからも古代祭祀あとが発見されていますし、
そうでしたよね!以前行ったときに図書館?なんとかセンターやったか
なあ。そこで写真みて、次回は下社近辺を歩く予定をしてたんですよね。
これ確か私のHPで書いて忘れておりました。しかし、なかなか行けず
じまいでいつになることやら(−−;)。申し訳ない次第で。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[48] Re[47]: 丹生川上神社 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/02/11(Mon) 14:02
なにがしさん、こんにちは。

> 丹生川上神社には3社ありますが、どこも自社であると主張されておられます。

そうですね。江戸時代、丹生川上神社は今でいう「下社」だけだったそうですが、明治になってタカオカミ神社の「上社」、蟻通神社の「中社」が丹生川上神社を主張し始めたのが、本社争いの経緯のようです。
古代、丹生川上神社は大倭神社の支配下にあったらしいので、この大倭神社に古記録が残っていれば、はっきりと分かるかもしれません。
また、都が遷り遷って京都になった時、大切な雨師明神が(あまり遠くなったので)鞍馬の貴船神社に丹生川上神社(下社)からクラオカミ神を勧請しているので、私はやはり下社が本社筋ではないかと。

> しかし、上社の丹生川上神社の根拠が、もともと上社に丹生川上神社があって、洪水でしたっけ、それで下社の位置に流されて下社のところに丹生川上神社が再建されたと。こじ付けにしてもひどい話です。
>
これに近い話があります。
西吉野村大日川の丹生神社、この神社の鳥居に「正一位勲八等丹生大神」の立派な扁額が掲げられています。この扁額は大水が出た時、上流の丹生川上神社(下社)から流れて着いたものと言われています。里人は「神がこちらへお越しになりたかったからだろう」とか言って返さなかったとかの話です。
吉野郡の丹生川沿いの神社で、一番上流に位置するのが丹生川上神社(下社)です。その次が丹生神社(大日川)。一番下流域にあるのが丹生川神社(五條市丹原町)で、このすぐ下流で吉野川に合流します。(五條犬飼はこのすぐ南)
つまり、丹生川沿いにあるのは下社だけなのです。
吉野郡は奈良県の中でも広大で、面積も半分以上を占め南北に大きく広がり、
吉野の川や山々は位置関係が複雑で分かりにくいと思います。
丹生川上神社「上社」は吉野川本流の上流沿いにあり、「中社」は吉野川支流の高見川沿いにあります。ですから「上社」の下流には「中社」も「下社」もありません。
> ちなみに、そうはいっても上社にもこの話とは別に興味があります。最近の地方紙に「式内社のしおり」(式内社顕彰会)に奈良県吉野郡川上村所在の宮ノ平遺跡(上社)の発掘調査について載ったようです。お問い合わせは、
> 〒151−0053東京都渋谷区代々木1−1−2神社本庁内 (tel:03−3379−8048)
> 価格が分からないのですが、安ければ買ってみようかなと思っています。

私もとても興味があります。きっと上社の旧社地の発掘調査のことでしょうね。
教えていただいた電話番号で問い合わせて、やすければ私も買いたいと思います。
下社の近くからも古代祭祀あとが発見されていますし、中社付近もその地形から、発掘すれば何らかの古代の遺物がはっけんされそうですね。

[47] 丹生川上神社 投稿者:なにがし 投稿日:2002/02/10(Sun) 18:38
丹生川上神社には3社ありますが、どこも自社であると主張されておられます。上社の遺跡が出る前は、「丹生の研究」から先ず上社は外れるとなっていたのですが、ちょっと上社も息を吹き返したか。ただ、その遺跡について記紀には書かれていなかったと思うので証拠にはならないと思います。ただ、古くよりこの場所にてある民族が活動していた事を示す重要な発見である事は間違いありません。個人的にはその水銀の鉱石がむき出しているのを、また合戦するなら私だったらここがやりやすいかなと思ったのが下社付近ですね。水もあり、高地より見下ろせ、駆け下りて攻めこめるかなあと。
しかし、上社の丹生川上神社の根拠が、もともと上社に丹生川上神社があって、洪水でしたっけ、それで下社の位置に流されて下社のところに丹生川上神社が再建されたと。こじ付けにしてもひどい話です。

ちなみに、そうはいっても上社にもこの話とは別に興味があります。最近の地方紙に「式内社のしおり」(式内社顕彰会)に奈良県吉野郡川上村所在の宮ノ平遺跡(上社)の発掘調査について載ったようです。お問い合わせは、
〒151−0053東京都渋谷区代々木1−1−2神社本庁内 (tel:03−3379−8048)
価格が分からないのですが、安ければ買ってみようかなと思っています。

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[46] Re[45]: 女心の高野山 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/02/07(Thu) 13:39
神奈備さん、書き込みありがとうございます。
2・3日前からひどい風邪にやられて、熱と咳で昨夜は意識が朦朧としていました。それでも医者にかかるのが嫌で、布団をかぶって先ほどまで寝ていましたら少し熱が下がりました。風邪で休んだ記憶は殆んど無いのですが今回は別のようです。
ところでこの「内神社」のウチとは何なのでしょうか?地名?それとも古い神名?でしょうか?
ワカフツヌシ、シタテルヒメと言えば、私は剣や精錬(銅)を連想します。大和鍛冶ですか?
丹生都比売は、やはり私は水銀朱の神と思いたいですね。
「紅乙女」へのあこがれですね。
高野御子は鉱山探査・採掘の頭領で、大勢の鉱山部民(犬)を従えた鉱山師だと思っています。

[45] 女心の高野山 投稿者:神奈備 投稿日:2002/02/04(Mon) 18:44
 『出雲国風土記』秋鹿郡の条に女心高野(めごころたかぬ)と言う地名があります。
 高さ百八十丈、周り六里あり。土體豊かに沃えて,百姓の膏腴(うるほひ)の園なり。樹林(はやし)なし。但,上頭(かみ)に樹林あり。此は則ち神の社なり。
 宍道湖の北側です。島根県松江市大垣町746に式内の内神社が鎮座、内神社[うち]「和加布都努志命、下照姫命」です。

 上頭(かみ)に樹林あり。此は則ち神の社なり。これは山神のことかも知れません。
 山人の祀る山神とは,鉱山師の神、樵の神,猟師の神とそれぞれ職業別に別々だったとか。
 それでも,平地の人からは,神奈備山として祖霊の留まる所、また水神とか,春には田の神と思われたのでしょう。
 紀の国伊都郡の高野山の隣の天野の丹生都比売神はどれに当たるのでしょうね。鉱山師の神でしょうか?
また,高野御子神は猟師の神でしょうか。
高野の近くにウチと言うのも面白いですね。

[44] Re[43]: 南山の犬飼 投稿者:なにがし 投稿日:2002/02/01(Fri) 22:09
>空海の頃に,天野や高野に存在した証拠はないのではと言うことです。
> 1.証拠がないから,存在しない。存在しなかったかも知れない。
> 2.存在していない証拠はない。存在したかも知れない。

神奈備様、私が言いたいのは、「狩場明神と空海との関係はなかった」と言いきると、いろいろな文献からの推定であるにも関わらず真実・事実であるような表現となります。推定であれば「なかったのではないであろうか」とか「関係はなかったのかも知れない」とか「無かった可能性が高い」などと言った表現の方がいいのではと思った次第です。


>  「南山の犬飼」とは五来重氏によれば天野祝のこととしていますが,その頃に名乗ったのであれば,3の意味でしょうね。最近まで小生は「南山」を高野山と思っていましたが、「南山の犬飼」とは名乗らなかったのではないか、と思っています。

すみません。私はこの件いままで特に考えた事がないので詳しくは分からないのですが、私はこの伝説はあくまでも伝説で、それらしき出会いはあったのかもしれませんが、伝説的な表現としたいがため、「南山の犬飼」と表現されたのではと思っています。ですから神奈備様言われるように、「南山の犬飼」とは名乗らなかったと思います。普通なら自分の名前を言いますよね。あるいは、単にであったとされる五条の犬飼からみて高野山が南にあるから、後世そう書いたのかもしれませんね。ただ、気になるのは「犬飼」と表現した事です。「猟人」でもいいのに。これは皮張大明神縁起にある「犬山師宮内家信」の「犬山師」と何か繋がりがあるのではと見ています。これは丹生氏や丹治氏の家系図にも書かれています。ただどういう意味かは書かれていません。

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[43] 南山の犬飼 投稿者:神奈備 投稿日:2002/01/31(Thu) 08:48
丹生神や丹生氏を否定している訳ではありません。空海の頃に,天野や高野に存在した証拠はないのではと言うことです。ここで見解が二つに分かれます。
1.証拠がないから,存在しない。存在しなかったかも知れない。
2.存在していない証拠はない。存在したかも知れない。
小生は伝承を追いかける際には2の立場をとることが多いのですが,歴史と言う場合には1の立場に立つと言うことを言っているのです。そうでないと,虚構が出来てしまいますから。

 所で「南山の犬飼」の「南山」ですが,高野山と思っていましたが,「北嶺」の比叡山に対しての「南山」の高野山を言うことで,密教寺院として確立された後の表現でした。
空海が犬飼と出会った頃の南山とは
1 吉野
  『古事記』の序文の「然(シカ)れども、天(テン)の時、未(イマ)だ臻(イタ)らずして、南山に蝉蛻(センゼイ)し、人事(ジンジ)共給(ソナ)はりて、東国に虎歩(コホ)したまひき。」
 これは天武天皇の事で、明らかに吉野です。
2 熊野
 『熊野本地絵巻』の南山は熊野の事。
3 神聖な山一般
 陶淵明の『飲酒詩』にある「悠然として南山を見る」の南山は,世俗とは違う世界のように感じます。
 「南山の犬飼」とは五来重氏によれば天野祝のこととしていますが,その頃に名乗ったのであれば,3の意味でしょうね。最近まで小生は「南山」を高野山と思っていましたが、「南山の犬飼」とは名乗らなかったのではないか、と思っています。

[42] 丹生について 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/01/31(Thu) 00:53

もし、なにがしさんが先に神奈備さんと意見交換をしていなかったら、私が神奈備さんと論争していたかもしれません。
当初の書き込みを見て、丹生族(あるいは丹生都比売や丹生氏)の存在や歴史まで否定されたように受け取れたからです。
それで丹生に特別な思い入れを持っている私も、黙っていられない思いがしました。
と言いましても、なにがしさんのように丹生について詳しくも無く、緻密な論証も出来ませんし、神奈備さんに挑むほどの力もありませんが。
ご意見を拝見していて思いました。

公告屋がよく使う、ご存知「ブレインストーミング」のように、人の意見に肯定を重ねていって新たな答えを導き出す方法もあれば、否定することによって(あるいは逆説を対比させることによって)新たな「解」を求めていく、ひとつの弁証法的な歴史探求の方法もあるのではないか?と。
これを神奈備さんが、なにがしさんに期待しその力の引き出そうと試みているのではないかと思ったのです。
つまり、アウフヘーベン?ですね。

[41] Re[40]: 神奈備Re[2481] 丹生祝本系帳も 投稿者:なにがし 投稿日:2002/01/30(Wed) 19:58
神奈備様
> 空海の時代には高野山にはたいした建造物は出来ていなかったようですが,だからと言って地元の協力がなかったとは言えないでしょう。

生活するには食料もいれば、建物を建てるには木がいります。調べてみますが、以前読んだ本に、天野など米のできるような地域は高野山開山初期はまだ寺領ではなかった、とあったように記憶します。高野山だけ賜っても食べるものがなければ生活していけませんから、どこでもそうですが地元の協力なければ大変だと思います。


>しかしそれが後に狩場明神とされるほどのものだったとは残っている資料からは断定できないと言うことを意味しているつもりです。

その通りです。狩場明神について書かれているのは、丹生氏、竃門氏、門氏、丹治氏に残る文書だけではないかと思います。私も高野山の文書では見た記憶がありません。ですから、あくまでも推定しかできません。上記の文書から関係があったとも言えるかもしれませんが、片手落ちの気もします。そして、なかったということの方が証明が更に難しくなると思います。あった、なかったと言いきるのは難しいと言うことだと思います。まるでNGO問題のようですね。神奈備様が「なかった」と言いきられていたので、ちょっと熱くなったようです。反省(−−;)。


>空海は御上に上申して高野山を手に入れています。いわば地元の頭越しです。地元の豪族の心境はどうだったのでしょうかと思うことがあります。

丹治氏の家系図を考慮して考えると、丹生家信は丹治家信の時に空海とあっている可能性もあるかと推測できます。もしあっていたのであれば、弘仁年中に伊都にきても、家信とは顔見知りですので、頭越しにはならず、旧友に協力しましょうと言うことにでもなったのかも知れません。


> 空海がすぐにも山にはいっていないこと,地元に出した手紙に地元のこと地主神のことが記されていないこと、などです。

協力者がもともといれば自らすぐに出向かなくてもいいかのかも。また、高野に行った事はあっても、紀ノ川沿いから天野に上った事がなければ、天野の地主神も知らない可能性はあります。私は人の住みそうにない高野山に当時丹生都姫が祭られていた可能性は少ないのではと見ています。


> なお系図関係については、なにがしさんお独り舞台ですので、色々教えて下さい。

独り舞台ではありません。日野西先生の論文に中田法寿氏の引用でありますが、その辺詳しく書かれていました。また、詳しくはありませんが丹生広良氏の著書にも出ています。田中法寿氏の「開創以前の高野山」は、図書館で探した事はあるのですが、私の検索するのが下手なので見つける事ができず、まだ見たことはありません。以前より見てみたいとは思っているのですが。狩場明神に関して言えば、丹治氏、丹生氏、竃門氏、門氏の古文書、家系図も全て図書館や本屋さんで見つけたものです。

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[40] 神奈備Re[2481] 丹生祝本系帳も 投稿者:神奈備 投稿日:2002/01/30(Wed) 08:47
>>同時代の記録と思われる文書に一切出てこないのが実に不思議です。・・・
>もし違ったら申し訳ないのですが、「空海自身と狩場明神(高野明神)との関係」について、これ私は「狩場明神の伝説にあるような空海と狩場明神の出会いなど」と思って書かせて頂いてたのですが、setoh様は「狩場明神が地主神になるほど空海と関係があったのか」という意味の関係ですか?

空海の時代には高野山にはたいした建造物は出来ていなかったようですが,だからと言って地元の協力がなかったとは言えないでしょう。しかしそれが後に狩場明神とされるほどのものだったとは残っている資料からは断定できないと言うことを意味しているつもりです。空海は御上に上申して高野山を手に入れています。いわば地元の頭越しです。地元の豪族の心境はどうだったのでしょうかと思うことがあります。
 当初の協力はたいしてなかったのではないか,これは推測ですが,まず大した伽藍ができていないこと、空海がすぐにも山にはいっていないこと,地元に出した手紙に地元のこと地主神のことが記されていないこと、などです。
従って協力をとりつけるべく,狩場明神の話が作られて先代の協力ぶりを誇示したのではないか,などと考えています。
 伝承と史実の間をいささか保守的に考えているのかも知れませんが・・・。


なお系図関係については、なにがしさんお独り舞台ですので、色々教えて下さい。

[39] Re[38]: 丹生明神について 投稿者:神奈備 投稿日:2002/01/29(Tue) 12:42
 なにがしさん,鋭いご指摘ありがとうございます。
 基本的にはおっしゃる通りで,調べる必要・確かめる必要のある問題ばかりです。その方法があるのかどうかも判りませんが。どっかで決めていって矛盾がなければその仮説は成り立つとして行かなければ前進できません。そこに調べていくポイントが見えてきますね。

[38] 丹生明神について 投稿者:なにがし 投稿日:2002/01/28(Mon) 15:19
神奈備様
>「高野建立初結界敬白文」は,「七里の中の一切の悪鬼・・・
こう言うことって高野山でだけ行っているのですか?真言宗に関わる所で他にありませんか?あった場合そこの地主神の名前が出ていますか?出ていれば神奈備様のおっしゃる通りですし、なければ仏教の呪法や定型的なもので、そんなところには丹生明神は出てこないと思われますので調べる必要があります。

>高野山も田舎ですが,比較的多くの文献が残っています。
念のため。私は丹生都姫と空海の関係は、伝説のようなことは実際はなかったと思います。地元民の協力を得るための作り話だと思っております。また、弘仁10年に高野山に祭られたかは、あったと言う証拠もなければ、なかったという証拠もないので何とも言えません。当時の高野山の寺院の配置図なんかあると証拠になるかも知れませんね。
狩場明神については実在人物だと思っております。それに狩場明神という称号をあたえただけですので、高野山の地主神ではありません。ただ、それを地元民の風習とあいまって祖先信仰の代表になった可能性はあると思います。

>高野山も田舎ですが,比較的多くの文献が残っています。
高野山関連では残っていると思いますが、天野の関連の記載で、流れからみて丹生明神の名前が出てこないといけないところで出てきてないか確かめる必要があると思います。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[37] 神奈備 Re「2434」「2436」 投稿者:神奈備 投稿日:2002/01/27(Sun) 09:43
やさか掲示板が発端の話ですからここに投稿します。

> その昔の文献で丹生に触れそうな流れがあったにもかかわらず、丹生が出てきていないと言うことなのでしょうか?

おっしゃるように,天皇(太政官)に提出する上奏文にわざわざ丹生明神のことを具体的に記す必要がないのかも知れません。丁度、土地は寺社のものではなく、国家のものとの布令が出ていたそうですし。

 【丹生高野明神記載なし】については後世の祭り方とは明らかに違う扱いですね。
弘仁七年直後 の「空海から紀伊国に在住の有力な人への書状」に,地元の協力者なり地主神の加護があることに触れてもいいのですが,一言も見えないようです。有力な人とは大伴氏?

弘仁十年五月三目の「高野建立初結界敬白文」は,「七里の中の一切の悪鬼神等は、皆わが結界を出て去れ」「善神鬼をして伽藍に住して仏法を防護せん」と記されています。一般的な神で,丹生明神、ましてや高野明神の名は出てきません。丹生明神が重きをなしたなら,名が出ていても不思議ではないと言う程度。

「建立金剛峯寺最初勧請鎮守啓白文」にも,「結界七里間地主山王約誓護」とあり、この山王は高野山を支配する山神のことでしょうが,丹生明神や高野明神と呼んでいません。ここも名前が出ていても不思議ではありません。丹生明神が坐したら名が出る方が自然だと思いますが。

 靴の上から足をかくような話ですが・・・。

> 丹生都姫について言えば、名前が文献に出た時代がその神が登場した始まりであるなら、田舎で都とは程遠いところのマイナーな神様はなかなか存在自体見とめられない、かわいそうな神様となってしまいます。

 高野山も田舎ですが,比較的多くの文献が残っています。上記の論は当てはまらないように思いますがいかがでしょうか。


[36] 丹生明神 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/01/24(Thu) 23:39

 http://www.kamnavi.net/ny/kuukai.htm
Setohさん、上記「空海と丹生都比売の論考紹介」私も拝見しました。
さすがにその論陣と展開、筆力に敬意を表します。

なにがしさん、「神奈備」さんの掲示板への書き込み2434、2436を拝見しました。
押さえた静かな表現ながら、その行間から歴史探訪の真摯な情熱を見た気がします。

吉野では丹生村や丹生川など、丹生という言葉や伝承は残っているのですが、「丹生氏」の痕跡は、あたかも故意に消されたかのように、どこにも残っていないかのように見えます。
なにがしさんでなければ、知りえない伝承や史料を生かした「What's 丹生」HPのこれから先の展開が待たれます。
そして将来、「丹生の研究/松田壽男著」等が論及できなかった部分を、なにがしさんの丹生研究の成果として、上梓されることを、大いに期待したいと思います。



[35] Re[34]: 丹生明神 投稿者:神奈備 投稿日:2002/01/21(Mon) 15:20
> > >天野の神にも丹生などと言う名前がなかったと見ていいでしょう。
> これについては難しいところで、私は天野については空海がくるころには丹生都姫と言う名前があったのではと思います。

 そうですね。風土記にありますね。で,調べて見ました。ご参考にどうぞ。
 http://www.kamnavi.net/ny/kuukai.htm


[34] 丹生明神 投稿者:なにがし 投稿日:2002/01/20(Sun) 23:14
神奈備様
>高野山の開創記に出る「南山之犬飼」と・・・紀の川付近で出会ったとなりますね。
私もそうだと思います。

>山男が祀っていた山の神もその頃には名前がなかった。
多分そうだと思います。このあたりには「骨のぼせ」「骨のぼり」という儀式が高野山開創以前よりあり、これは死者の遺骨を高野山に持っていく風習です。空海は家信を狩場明神として祭ったかもしれませんが、地元の猟人達には、いつのまにか狩場明神=地主神=祖先と言う概念が生まれていったのかも知れません。それが高野明神という名前に変わっていった理由かもしれませんね(高野山金剛峰寺維那の日野西氏は狩場明神がのちに高野明神へと名前が変わったと見られています)。

>天野の神にも丹生などと言う名前がなかったと見ていいでしょう。
これについては難しいところで、私は天野については空海がくるころには丹生都姫と言う名前があったのではと思います。ただ、高野山までは丹生氏も遠すぎて行ってなかったのではと思っています。ですから、高野山では当時丹生都姫と言う名は聞かれなかったのかと。播磨風土記の爾保都姫の名前も出ますし、粉河寺に丹生明神(大伴氏が勧請)を勧請したのが確か783年だったと思うので(うろ覚えですいません)、すでに丹生の名前の神はいたんだと思います。ただ、非常に小さな可能性として、家信の妻こと丹生氏の女子が家信がくるまでは女子でありながら跡取であったことを考えると、当時のかつらぎ町の人々にとっては、この女の子が丹生の巫女であるので、空海は地元意識を最優先させ、彼女を丹生の姫こと丹生都姫とし、昔からの友で養子である家信をあえて下におき狩場明神とした事も考えられます。そう考えると丹生都姫も狩場明神も空海が来てからできた名前となります。ただ、空海にとっては家信との関係の方が古く深いので高野山では丹生明神よりも狩場明神を良くまつるといった現象が起きているのかもしれません。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[33] 南山の家信 投稿者:神奈備 投稿日:2002/01/20(Sun) 19:25
 高野山の開創記に出る「南山之犬飼」とは古代の狩猟氏族の系統をひく人間。
 南山とは高野山(弁天岳)のことと見ていいでしょうね。と言うことは紀の川付近で出会ったとなりますね。
 方角+山と言う程度ですから,山男が祀っていた山の神もその頃には名前がなかった。天野の神にも丹生などと言う名前がなかったと見ていいでしょう。
 従って空海の高野の地を求めた文章にも丹生と言う文字は出てこないと言う事ですね。

[32] Re[30]: Re[29]: 狩場明神 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/01/18(Fri) 23:36
五条犬飼での出会いとなります。丹治氏実家の明日香とかつらぎ町とのライン上だと思います。
> 船で下るとするとこのあたりからかと。ただ再度見聞しないと行けませんが、このあたりの川はすごい岩がそそりたつところだったと思います。今度写真でとろうと思ったぐらいすばらしかったです。ですからこの地点だけは船は難しいかと。
私の書き込み違いがあります。
吉野・丹生川の川尻の付近は、五條犬飼のすぐ近くで今も「大野」と言われ、吉野カントリーの五條コース・・ではなしに、「大野コース」があるの間違いでした。
五條コースというのは、もっと上流の北宇智の方です。この辺りから上流の下市までの途中は、急流で(きっと昔は更に流れは急か)岩も多く舟の通行は危険だったと思われます。

> 吉野の山中であったのは若い修行中で、舟で下ったとすると高野山をもらうころで、両方あったと言うことです。
あ、そうですね。空海は何度も京都-高野を往復していうはずですから。
> > ところで、狩場明神ですが、実際は武家の旅姿だったか?
私は、なにがしさんの言われる丹生家信の武家姿を思うのです。
> 高野山のは山人の姿ですね。
慈尊院の明神絵も私には狩人姿に見えます。(だから、ほんとは武家の旅姿ではなかったかと)
>この絵は後世の想像図ですから白黒の犬はもしかしたら何か陰陽道とか何か宗教的なものがあるかもしれませんね。
そうかも知れませんね。
そうすると白犬は、秋または西の鉱山資源。黒犬は冬または北の鉱山資源。叉は鉱山労働者を表わしているか?うーーん、面白いかもしれませんね。
でも犬の方が絵になるかな?。

[31] 慈尊院 投稿者:なにがし 投稿日:2002/01/18(Fri) 22:16
慈尊院の狩場明神の絵みました。
ほんとですね、武士の姿をしてるんですね。ビックリしました。

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[30] Re[29]: 狩場明神 投稿者:なにがし 投稿日:2002/01/18(Fri) 22:06
> 空海が舟便を利用して高野山へ向かった時は、この辺りからに苞苴担の子、阿陀の鵜飼ら(と同族?)の苗裔、阿陀隼人が操る舟に乗り込んで、吉野川下流の三谷辺りで上陸して高野山に向かったのでしょう。

天皇に高野山をもらうときに奏上した文、これは中国に行く前に吉野で修行して高野山を知ったことを示していると思います。このときにまだ丹治だった狩場明神(そのころは狩場明神とは呼ばれていません)とお友達になったんだと思います。そして、天皇からokがもらったあと、高野山に残る有名な伝説となる、五条犬飼での出会いとなります。丹治氏実家の明日香とかつらぎ町とのライン上だと思います。
船で下るとするとこのあたりからかと。ただ再度見聞しないと行けませんが、このあたりの川はすごい岩がそそりたつところだったと思います。今度写真でとろうと思ったぐらいすばらしかったです。ですからこの地点だけは船は難しいかと。
三谷は丁度三谷橋あたりが昔の三谷津といいまして、上皇?が京都から船で着たときにこの三谷津でおり、酒殿神社横の天野街道(丹生氏が天野に通勤した道です)を上ったようです。


> でも空海が狩場明神の案内で初めて高野山に行った時は、なんとなしに主に尾根伝いの山道を行ったのではないかと思います。

私もそう思います。尾根が最も最短ですもんね。

> 狩場明神と吉野で会ったと考えると、それから一緒に舟に乗った図は想像しにくいのです。(何の理由にもならず、私の勝手な思い込みだけですが)

吉野の山中であったのは若い修行中で、舟で下ったとすると高野山をもらうころで、両方あったと言うことです。

> ところで、狩場明神ですが、実際は武家の旅姿だったか?のお供の白黒犬二匹、これは紀州犬でしょうね。黒い紀州犬はいないのですかね?紀州犬は白犬とされていますが?黒い紀州犬はいないとなれば、甲斐犬でしょうか。

高野山のは山人の姿ですね。この絵は後世の想像図ですから白黒の犬はもしかしたら何か陰陽道とか何か宗教的なものがあるかもしれませんね。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[29] 狩場明神 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/01/17(Thu) 22:48
吉野・丹生川の川尻は、宇智郡大野、吉野川に丹生川が合流する地点で、その昔、雄略天皇もこの辺りで狩をしたと思われます。(今は吉野カントリークラブの五條コースがある)
空海が舟便を利用して高野山へ向かった時は、この辺りからに苞苴担の子、阿陀の鵜飼ら(と同族?)の苗裔、阿陀隼人が操る舟に乗り込んで、吉野川下流の三谷辺りで上陸して高野山に向かったのでしょう。
でも空海が狩場明神の案内で初めて高野山に行った時は、なんとなしに主に尾根伝いの山道を行ったのではないかと思います。
狩場明神と吉野で会ったと考えると、それから一緒に舟に乗った図は想像しにくいのです。(何の理由にもならず、私の勝手な思い込みだけですが)
ところで、狩場明神ですが、実際は武家の旅姿だったか?のお供の白黒犬二匹、これは紀州犬でしょうね。黒い紀州犬はいないのですかね?紀州犬は白犬とされていますが?黒い紀州犬はいないとなれば、甲斐犬でしょうか。
いろいろ想像すると面白いですね。
「空海と狩場明神、白黒二匹の犬」う〜〜ん、やっぱりこのシテュエーションは大好きです。
・・・「神奈備にようこそ」SetohさんのHP/写真掲示板に看板絵を掲出させていただいてます。(当、吉野へようこそHPからリンク)

[28] Re[27]: Re[26]: Re[25]: かつらぎ町 投稿者:なにがし 投稿日:2002/01/17(Thu) 00:00
>  紀の川沿いの吉野、すなわち吉野川沿いで出会ったと見られている訳ですな。

いえ。丹治氏家系図に狩場明神の父丹治家義は高野山で狩をしたというような事が書かれておりますので、狩場明神も一緒について行ったと思います。ですから空海が中国に行く前に吉野山中で修行していた時に出会ったのでは、と見ています。でも、丹治氏の家から吉野に行くまでは吉野川を渡りますので、吉野川沿いであっている可能性もあります。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[27] Re[26]: Re[25]: かつらぎ町 投稿者:神奈備 投稿日:2002/01/16(Wed) 21:23
> > 狩場明神については現実味のある話は山中よりも紀ノ川沿いの山(教良寺、宮本、三谷、九度山、五条犬飼など)にあるような気がします。空海と狩場明神がはじめてであったのは吉野だと私は睨んでおります。

 紀の川沿いの吉野、すなわち吉野川沿いで出会ったと見られている訳ですな。

[26] Re[25]: かつらぎ町 投稿者:なにがし 投稿日:2002/01/16(Wed) 00:37
> ところで「丹生都比売神社の略記」には「当社の特殊神事であります正月14日の御田神事厄除祭は古式そのままで遠近の参拝者で賑わいます・・・」
> 書かれてあるのですが、14日にそのような祭りがあった気配はありませんでした。残念!、きっとなにがしさんが言われるように13日に行われたのでしょうね。

確かかつらぎ町商工会のHPに13日と出ていたような気が・・・。

>「狩場明神」と掲額の上げられたの小さな鳥居があったので車を降りて参拝。
> 狩場明神が矢を砥いだ岩だそうですね。

矢研ぎ石ですね。そのあたりは教良寺(きょうらじ)といいます。小さい頃良く遊びに言ったのですが、2年前まで知りませんでした。で、今だ実物は見ておりません。

狩場明神については現実味のある話は山中よりも紀ノ川沿いの山(教良寺、宮本、三谷、九度山、五条犬飼など)にあるような気がします。空海と狩場明神がはじめてであったのは吉野だと私は睨んでおります。もちろん丹生氏に養子に来る前、空海が中国に行く前ですが。

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[25] かつらぎ町 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/01/15(Tue) 23:28
なにがしさん、ようおこし。
そうなんです。賽銭泥棒の話、あまりいいはなしではりませんね。
ところで「丹生都比売神社の略記」には「当社の特殊神事であります正月14日の御田神事厄除祭は古式そのままで遠近の参拝者で賑わいます・・・」
書かれてあるのですが、14日にそのような祭りがあった気配はありませんでした。残念!、きっとなにがしさんが言われるように13日に行われたのでしょうね。

行きの道路は紀ノ川北岸の24号線から三谷橋を渡り、丹生酒殿神社や竈門神社の近くの、三谷の里の急な坂道を登っていったのですが、途中の道の傍に「狩場明神」と掲額の上げられたの小さな鳥居があったので車を降りて参拝。
狩場明神が矢を砥いだ岩だそうですね。
やはり空海はこの三谷の里を狩場明神の案内で通ったのかな、と思ったことでした。

[24] Re[23]: 天野盆地 投稿者:なにがし 投稿日:2002/01/15(Tue) 21:01
賽銭泥棒ですか。田舎のような賽銭の少ない神社でも被害に会うような時代なんですね。それだけ不景気だと言うことでしょうか。
そう言えば、13日あたりは御田祭り?があったのでは?一度見てみたいのですがなかなか会議の日程と会わないですね。丹生の古来のお祭りか、空海が持ちこんだお祭りか分かりませんが、末永く伝統を引き継いで頂きたいですね。

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[23] 天野盆地 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/01/15(Tue) 01:02
今日、丹生都比売神社へ参拝しました。4回目の参拝になると思います。
午後一時頃でしたが、さすがに14日ともなると参拝者は殆んどいません。
極彩色の4連棟の本殿が、以前うまく撮影できなかったので、拝殿の内側へ入れていただき、もう一度撮影しました。
奉名帳に、昨年は元旦の一番初めにあった丹生氏の名が今年はありません。
帰りはすぐ南に八幡神社があったので参拝。
隣の丹生都比売神社には比べるもなく小さなお社ですが、本殿の極彩色の塗装があまりに美しいので石段を上り、格子から手を差し込んで撮影しました。
小さな境内にいると一人の老人が来られ、話し掛けてくれました。
「丹生神社のような美しい塗りの神社ですね。」と私が言うと、
「お隣の神さんは丹生の神さんで、お伊勢さんの妹さんやが、ここの神さんは応神天皇さんや」と言われて、ほかに社を補修した話などをしてくれました。
また最近、賽銭箱が盗られて仕方がないと言われるのです。
もう三度も盗難にあって、中のお賽銭を取った空の賽銭箱が、高野山に捨ててあったり、紀ノ川の近くに捨てられてあったりしたそうで、その都度、箱を引き取りに行くそうです。
なるほど古い賽銭箱を見ると、真新しいキズが何ヶ所もあり、今はしっかりと鎖で繋がれています。
まったくセチガライ世の中なったといいますか、罰当たりな所業ですね。
そういえば、狛犬が盗まれたとか、仏像が盗まれたとか最近よく耳にしますが、本当に残念なことです。
昔はお供え物の、お酒やお餅を頂戴することくらいはあったでしょうが、いくらお金に困ってもお賽銭を盗むなどというようなことは決してなかったはずですよね。
こんな美しい天野の盆地にまで、泥棒が出張してくるのですかね。

[22] お伊勢参り 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/01/04(Fri) 13:09
何年か前より毎年伊勢参りをしていたのですが、昨年は事情により行っていませんでした。はじめの頃は正月の三ヶ日の間にお参りしていたのですが、あまりにも人が多く、近年は旧暦正月の休日に夫婦と娘二人でお参りしていました。
一昨年長女が結婚したので、今年は長女夫婦と下の娘、私ら夫婦の5人で、明五日に参拝することにしました。
総理や閣僚のお偉方が、本日4日に参拝するらしいので、明日はあまり混雑しないでしょう。
例年初詣は地元氏神、住吉神社へお参りするか、ふるさと吉野の産土神へ参詣しています。

[21] あけましておめでとうございます 投稿者:のりちゃん 投稿日:2002/01/01(Tue) 01:48
いろいろあった一年が終わりました。
本年も、きっといろいろあるでしょうね(^O^)
今年もなにとぞよろしくお願いいたしますm(__)m

[20] 頌春 投稿者:マルヤ 投稿日:2002/01/01(Tue) 00:55
”かき曇る空さえ晴れてさしのぼる 日かげのどけき我がこころかな”
       ・・・・・・・・皇大神宮御神籤 第43番大吉より

あけましておめでとうございます。
昨年はありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いします。
平成壬午年 元旦

[19] 光の中に 投稿者:マルヤ 投稿日:2001/12/31(Mon) 18:06
”神のめぐみの光の中に、生けるこの身のありがたさ”

目をとじていれば、いつまでたっても世の中はくらい、
眼をあけて見よ、日はさんさんと照り渡っている、
心の眼を開いてみよ、神様はそこに居られる、
御恵みの御手は其の肩にかかって居る、
御いつくしみの御光は其のからだをつつんで居る、
有難い事、尊い事。
・・・・・・・・氣比神宮 第36番神籤・吉 「神の教」より

今年もありがとうございました。皆様、どうぞ良いお年を。

[18] 本年もあと少し 投稿者:なにがし 投稿日:2001/12/29(Sat) 21:13
残りあと2日となりました。小生もこれより実家に帰ります。
本年はいろいろとお世話になりました。来年もよろしくお願い致します。
それでは、良いお年を!

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[17] Re[16]: 最高の贅沢 投稿者:マルヤ 投稿日:2001/12/24(Mon) 20:48
神奈備さん、ありがとうございます。

>  21世紀は西洋的思考から東洋的発想へ,一神教から多神教へがキイワードになるように思います。
>  もう一つ,平成の時代に入って,この国のきしみが次々と顕在化してきています。これは国家組織の必然の流れで,連日の新聞などでの官僚の不正や無駄ダム工事摘発のニュースも,この国をまともな方向へ向かわせる一助になっているようで,これは行くところまで行くと思います。>
>  で,首都機能ですが,皇居だけで後は東京に置いておけばいいんでは。
> そうして天皇家はもっと神祭りに精だしてほしいものですね。

なにもかも尤もな事と感じ入ります。私も真摯に考えたいと思います。

[16] 最高の贅沢 投稿者:神奈備 投稿日:2001/12/24(Mon) 16:34
マルヤさん>つつましく生きていけるだけの収入さえあれば、現代のコンクリートジャングルでの生活に比べれば、どれだけ心豊かに暮らせることでしょう。

 本当にそうですね。自然と共に生きていくのが不可能になってしまっている現代のあり方はどっかで間違ったのでしょうね。経済は未来を食いつぶしていますから,経済面でも人間の心の面でも貧しいと言えます。「自然と共に生きていく」ことは今や最高の贅沢の時代ですね。
 21世紀は西洋的思考から東洋的発想へ,一神教から多神教へがキイワードになるように思います。これがテロの問題の根幹にありそうで,ルターの宗教改革とマホメットに問題がありそうに思います。

 もう一つ,平成の時代に入って,この国のきしみが次々と顕在化してきています。これは国家組織の必然の流れで,連日の新聞などでの官僚の不正や無駄ダム工事摘発のニュースも,この国をまともな方向へ向かわせる一助になっているようで,これは行くところまで行くと思います。マルヤさんが「一度何もかも崩壊してから組み立てなければとても無理」に同感です。

 で,首都機能ですが,皇居だけで後は東京に置いておけばいいんでは。
そうして天皇家はもっと神祭りに精だしてほしいものですね。

[15] Re[14]: 遷都 投稿者:マルヤ 投稿日:2001/12/23(Sun) 19:53
> 自然そのものが古代の遺産であるところに首都機能を持ってくるような事があれば断固反対です。

なにがしさんのご意見に同感です。私も自然を破壊してまで遷都することは反対です。それでは矛盾しているし、「夢物語」とも言われるかもしれませんが、私は現在の首都とはまったく違うの概念の「みやこ」をイメージしています。
たとえば平城宮跡、ここはかなりのスペースがあり、こじんまりとした中央政府が出来るのではありませんか。
そこでは、まつりを中心とした祭政一致の、おだやかな人肌政治が行われます。もちろん生産活動は縮小し、人々の収入も何十分の一かに減少しています。
でも、つつましく生きていけるだけの収入さえあれば、現代のコンクリートジャングルでの生活に比べれば、どれだけ心豊かに暮らせることでしょう。
このような社会を実現させるためには、現在の政治や経済などの仕組みが、がらりと変わっていなければなりません。一度何もかも崩壊してから組み立てなければとても無理、という訳でやはり「夢物語」ですね。

ところで自然破壊といえば、吉野の大滝ダム(丹生川上神社上社・旧社地が湖底に沈む)の完成が近くなっていますが、紀伊丹生川にもダム計画が進行しているそうですね。いずれも水利ダムと言われているようですが、本当に必要なのか、あるいは「ダム」ではなく「ダム工事」が必要なのか大いに疑問ですね。紀伊丹生川といえば、あの美しい玉川峡のあるところですね。
本当にあの清流がなくなるとすれば残念でなりません。地元の方達の反対運動に応援したい気持ちです。

[14] 遷都 投稿者:なにがし 投稿日:2001/12/23(Sun) 13:05
マルヤ様
遷都するとビルや高速などたくさんできるので、古都の建造物達の景観が失われないような位置に国会議事堂等立てる事も考える必要があります。和歌山は首都になる事はありませんが、和歌山の場合和歌山市が北西の端にあるのでそのあたりは大丈夫です。しかし、熊野や私の地元にくるなどと言った場合には昔の建物以前に昔の自然が壊される事になるので、そんな時は断固反対です。奈良も吉野とか建物だけでなく、自然そのものが古代の遺産であるところに首都機能を持ってくるような事があれば断固反対です。それ以外のところでしたら大歓迎です。

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[13] 21世紀、奈良遷都 投稿者:マルヤ 投稿日:2001/12/22(Sat) 01:30
’98年の「国会等移転審議会」で首都移転先候補として、●北東地域(宮城・福島など)、●東海地域、●三重・畿内中央地域の三ヶ所がその調査対象として選ばれているそうです。

今より4年程前、奈良市政施行百年の行事が行われようとしていた平成戊寅年旧暦正月朔日、私は奈良県知事宛に手紙を書きました。
平城宮跡に朱雀門が完成し、その披露式典が、市政施行百年の記念行事のひとつとして位置付けられ、さまざまなイベントが企画されていたときのことです。
私はその朱雀門披露の式典の中で、柿本善也知事に奈良への首都移転運動をぶち上げ、宣言して欲しいと具体的なプレゼンテーションをしました。
(予想された通り)もちろん、そのプレゼンは採用されませんでしたが、その時点で知事に具体的な行動を起こし、意思を伝えておきたかったのです。

それから4年近く経過しましたが、いにしえの都・奈良に帝都がよみがえることを望む者の一人として、その気持ちは変わっておりません。21世紀中にはきっと自然に、奈良に遷都されて来るように思う(希望的観測?)のですが、出来れば余命(あと30年余か)のうちに、見てみたいものだと考えています。

[12] 因果交流電燈 投稿者:マルヤ 投稿日:2001/12/13(Thu) 00:42

なにがしさん、吉野で過ごした子供時代に聞いた歌、歌った歌は何も覚えていないのです。
図書館で知った、わらべ歌やしごと歌には面白いものがありますね。何か呪文のような響きがあります。
ところで、詩と言えば満員の通勤電車で今朝、宮沢賢治の詩集「春と修羅」の一節を思い出しました。
八つも繋がる車両の一つに、おそらく何百人も乗っていますよね。
それが不気味なほど静かなのです。
聞こえるのは、天井からの温風の吹き出し音、床からカタコトと乾いた無機質な車輪の音。時々聞こえる咳の声。
いずれも小さな音ばかりで、車内は驚くほど静かです。

何百もの孤独な魂が出す情念のかげろうが、青いほむらをあげ、肉に喰らいついて引っ張られていく。
この静けさはどうだろう。この寂しさはどうだろう。
(いなかの満員バスはこんなではなかったど)
たちまち背中を木枯らしが駆け抜けてゆく。
そこに宮沢賢治が顔をだす。
「わたくしといふ現象は・・・せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です」

究極はひとつの、あるいは凡ての内の一部の、振動現象であることを、この法華経行者は知っていたのでしょうね。

[11] 七草 投稿者:なにがし 投稿日:2001/12/12(Wed) 22:20
今年ももうすぐ終りですが、正月になると七草粥を作りますよね。伊都の丹生の里では七草を刻むときに「テツテツテロロ 七草ナズナ トート(唐工)の鳥と日本の鳥とカテヨテバタバタ」と言いながら刻みます。吉野でもこんな詩を言いながら刻まれますか?ちなみに、信濃の方ではほぼおなじ内容の詩を言いながら刻むそうです。この詩は何か鉱山師に関わる何かを言っているような気がしてしょうがないのですが、気のせいかもしれませんが。

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[10] Re[7]: Re[6]: 開店おめでとうございます 投稿者:なにがし 投稿日:2001/12/10(Mon) 02:28
マルヤ様
> 今では、この名の掲示板は、なにがしさんの掲示板にこそ、ふさわしいと思っています。
なにをおっしゃいますやら。私こそ丹生都姫については無知です。マルヤ様や神奈備様に教えられて知ることの方が多いです。実際私のHPでも丹生都姫についてはまだアップしていません。というのは本当はどんな神様か決め手がないのです。水銀の神様の可能性もありますし、御神体が稲穂であることから稲作の神様かも知れませんし、両方かもしれませんし、単に丹生氏の直系の姫を丹生の姫と言うことで「丹生都姫」とし養子に入った丹治家信を狩場明神として祭ったのかも知れませんし。全く決め手がないから面白い神様ではあるのですが。その手がかりの一つが丹治氏の動向だと思っています。そうなると吉野や更に伊賀あるいは美濃の方の情報が非常に重要となってきます。特に吉野はどうも空海の時代丹治氏が活動したメインの土地のようですので、そう言った意味で観光や食べ物だけでなく、興味のある土地でもあります。
と言うことで、丹生都姫以外においしい食べ物、吉野ならではの食べ物などの情報もあればと期待しております。

[9] Re[8]: 掲示板開設おめでとうございます 投稿者:マルヤ 投稿日:2001/12/09(Sun) 23:41
ゲンセイさん、ようおこし。
早速の書き込みありがとう。

就職は結婚と同じで、縁のものだと思います。
自分という個性の収まり所は、必ず誰にでもあると思います。
その出会いによって、人それぞれの運命が巡り廻って形作られて行くものと思えるからです。
もっとも頭脳明晰な好青年、ゲンセイさんのことですから、目標さえランクを下げれば何時でも就職くらいはできるでしょうが、できれば慌てず、本当に自分がやりたいと思う仕事を見つけて欲しいと思います。

[8] 掲示板開設おめでとうございます 投稿者:ゲンセイ 投稿日:2001/12/09(Sun) 21:26
 ついに掲示板を開設されたのですね。メールを読んで早速ここに書き込みに来ました。ともにパソコンの講習を受けてはや2ヶ月がたちましたね。
 あいにく就職のほうはまだ決まっていません。あれからいくつか面接を受けたのですが…。
 『掲示板』のロゴはホームページビルダーで作られたのですね。見てすぐにわかりました。
 これからも、ちょくちょく書き込みに来ようと思いますので、よろしくお願い致します。

[7] Re[6]: 開店おめでとうございます 投稿者:マルヤ 投稿日:2001/12/09(Sun) 18:00
なにがしさん、ようおこし。

> 掲示板開店おめでとうございます。
> いろいろと又書きこみにこさせて頂きますのでよろしくお願い致します。

ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。
なにがしさん、実は小生、掲示板の名前を半年ほど前までは「丹生都姫掲示板」又は「姫神掲示板」にしょうと決めていたのです。なにせ女神の大ファンですから。
でも、丹生都姫の大ファンではあるけれど、どうも私は丹生都姫のことを知らなさ過ぎると思い直しました。
今では、この名の掲示板は、なにがしさんの掲示板にこそ、ふさわしいと思っています。

[6] 開店おめでとうございます 投稿者:なにがし 投稿日:2001/12/09(Sun) 17:02
掲示板開店おめでとうございます。
いろいろと又書きこみにこさせて頂きますのでよろしくお願い致します。
まずは御挨拶まで。草々

[5] Re[3]: 祝、掲示板開設 投稿者:マルヤ 投稿日:2001/12/09(Sun) 16:52
>  今NHKで「ほんまもん」と言う朝ドラがありますが、これは熊野をベースにあした物語ですが、吉野ー熊野のラインは古代だけではなく、これからの日本の精神的機軸になればと思いますね。
 
 本当に私もそう思います。吉野−熊野のような奥深い山塊には「何事のおわしますかは知らねども・・・」といわれるような何か霊的な存在を感じるように思います。
 
 思えば私達はずいぶん恵まれた時代を過ごして来たものです。
私達(私は今、50代)の青春時代は、高度経済成長の真っ只中。何もかもが右肩上がりで、若者達の目はきらきらと希望に燃え、人々の顔も期待に輝いていました。
その一方で精神的頽廃が進んでいたことを私も含め人々は気付いていなかったのです。そのつけが廻って来て、今になって顕在化してきたのでしょう。
神奈備さんが言われる日本の精神的機軸がしっかりとして、確たる光明がかなたに見出せる、そんな世の中が望まれます。
そして再び若者の目がキラキラと輝く、新世紀の到来が待たれますね。

[4] Re[3]: 祝、掲示板開設 投稿者:マルヤ 投稿日:2001/12/09(Sun) 14:51
Setohさん、ようおこし。
”ようおこし”は「ようこそお越しくださいました」の意味で、今でも吉野で使われていると思います。
真っ先に書き込んで頂けて、本当にうれしいです。

その節は、素晴らしいモデルを創っていただきましたのに、私の手におえず(CGIの知識がなく)断念することになりましたが、お陰さまでレンタルでもいい、とにかく掲示板を設置しようという気持ちが高まり、何とか形だけはできました。ありがとうございます。
今後共、よろしくお願いします。

[3] 祝、掲示板開設 投稿者:神奈備 投稿日:2001/12/09(Sun) 09:04
 マルヤさん、おはようございます。
 やはり、終戦記念日の開設と言うことで、その想いを感じています。
 今NHKで「ほんまもん」と言う朝ドラがありますが、これは熊野をベースにあした物語ですが、吉野ー熊野のラインは古代だけではなく、これからの日本の精神的機軸になればと思いますね。

[2] ありがとうございました 投稿者:マルヤ 投稿日:2001/12/08(Sat) 22:55
掲示板設置について、「神奈備へようこそ」主宰Setohさんに、素晴らしい見本を作っていただいたり、ご意見をお聞かせいただいたりと、大変お世話になりました。私の掲示板設置の始めに当たり、改めて御礼申し上げます。
ありがとうございました。

[1] どうぞよろしくお願いします 投稿者:マルヤ 投稿日:2001/12/08(Sat) 22:54
管理人のマルヤです。
昨年11月に「吉野へようこそ」HPを開設して以来、丸一年が過ぎました。
この辺で掲示板を出したいと思います。よろしくお願いします。
 さてこの「やさか掲示板」はWeb上のヴァーチャル・キングダム”ヤマト”に立てられた掲示板です。入出国は自由ですので、ワイワイ、がやがや、やってもらえればうれしいです。