真朱の姫神 第三部・ヤマト編
                                                                                  
 二、天野宮

 オキナガヒメは明石から難波への航海の途上、丹生の姫巫女(ひめみこ)トヨにかかった神々の命ずるまま、摂津国広田に天照大神の荒魂を、同じく活田長狭に稚日女尊(わかひるめのみこと)を、また長田には事代主命と、次々に神々をお祀りし、香坂、忍熊両王子が待ち伏せしているという難波の津へは寄らず、大きく西へ迂回して和泉国へ向かう。
 目的は河内国錦部郡小山田邑の斎宮へ入るためであった。昨年の二月、穴門豊浦宮より使いを出し斎宮を造るよう命じてあり、このほど完成したとの知らせが届いていたのだ。

 和泉国大鳥郡の逆瀬川の上の辺りに上陸すると、土師(はにし)のハニシノスグリ、丹比(たじひ)のハニウノスグリらが迎えた。いずれも丹生族ゆかりの邑長たちである。
「ヒメミコ(日売皇女)さま、ようお越しなされました。我らが案内仕ります」
 彼らは口々にそういった。彼らはオキナガヒメのことをいつも「ヒメミコさま」と呼んでいる。
「久しぶりに世話をかけます、よろしくたのみます」
 オキナガヒメは笑顔を見せていう。
「ヒメミコさま、ご覧なされませッ。虹でございます」
 ハニシノスグリらが指す方を見ると見事な虹が、今遡上してきた西方の逆瀬川から南方にかかっている。東からの日光を受けてくっきりと浮かび上がっていた。
「ホウ、見事な虹よのう。」
 オキナガヒメは言い、皆もため息をついて見とれた。
「ヒメミコさま、これは瑞祥でございます。もしや、王子さまでもお生まれになったのでは」
 こんどはハニウノスグリが言った。
「おお!そうじゃ、その通りじゃ。めでたいことよのう」
「まるで王子の誕生を天地が祝福しているかのようでございます」
 こんどはイカツノオミが言った。
「おめでとうございます」
 皆が声を揃えてお祝いの言葉を述べた。
「ここは何という処じゃ?」
「ここいらは、騰陀(ほむだ)という地です」
「ホムダとな。そうだ、このめでたい地に因んで王子の名は、ホムタとしよう」
 この場合の名は綽名である。古来より本名(諱名)は、神々と両親(特に実母)と本人しか知らない秘密で、みだりに呼ぶものではなかった。例えば息長帯日売命は和風諡号、神功皇后は漢風諡号といわれており、死後におくり名されたもので実名は不明である。
 
 オキナガヒメノ一行は、スグリらの先導で東へ向かった。
 この道は和泉国から陸路、河内国を通り葛城山の水越峠を越えて大和に入る道筋で、以前より利用しているので道は分かっているのだが、彼等はいつも迎えに来ては道中も案内に立つのだ。  一行は大鳥郡高志郷から陶器郷、そして上神郷を通り、河内国錦部郡へ向かう。道中、カズラノオニトは彼らと話しながら歩いた。和泉国や河内国の香坂・忍熊勢力の様子を聞くためだった。
 聞くところによると、河内国北部はすでに忍熊王子の勢力圏に入っているという。大和国も北部は忍熊勢で満ちているらしいが、噂では香坂王子は命を落としたともいう。
 カズラノオニトはオキナガヒメに報告した。
「ヒメミコさま、……」
 と言ってから、はっとなった。今までは大后(おおきさき)さまと呼んでいたからである。少し呼吸を置いてから、やはり同じように言った。
「ヒメミコさまに報告します。香坂、忍熊の王子は葛城・生駒の山の麓までもう抑えているようです。これより先、東へ行くのは危険です」
 香坂王子が命を落としたらしいとの事は噂なので伏せておいた。
「心配無用、分かっています」
 そう言ってオキナガヒメは話を打ち切ると、イカツノオミを呼ぶように命じた。イカツがまかり出ると
「イカツよ、明日は三月朔日じゃな。用意はできていましょうな」
「はい、小山田邑斎宮での宇気比の準備は整っています」とイカツは答える。
「そう、ご苦労です。分かっていましょうが、いつもの通りイカツには審神者をたのみます。琴は丹生のトヨにやらせますゆえ、そのつもりで。勿論、神主は我がなります」
 オキナガヒメは口元に少し笑みをたたえ、静かにイカツに言った。

 大鳥郡上神郷上神谷のハニシノスグリの館で一夜を明かした一行は、未明に出発して錦部郡小山田邑へ向かった。
 小山田邑に入ると小高くなった天野の地に向かう。そこは天に開けた高台になっていて、北の方には杜があり、以前は磐座があって小さな社もあったという。その社ではこの地の土師部、丹比部、壬生部らが住吉明神をお祀りしていたそうなのだが、彼らの薦めもあってそこに新しく斎宮を建て、新たに天照大神をお祀りし、併せて住吉明神を相殿としたのだった
 日の出前に天野へ着いた。もう少し辺りは明るくなり始めていた。山々は木々の緑が芽吹き始めている。小山田邑天野の斎宮は西側の麓からを表参道とし、かなり急な石段が神殿へ続いている。一行はその石段を登り、地元の人にタカマノハラと呼ばれている神殿のある高台にでると、神殿は西向きに建てられていて、その真後ろから日輪が顔を覗かせるところだった。真新しい神殿は後光に映え、一行は思わず手を合わせて叩頭した。全員が東を向いていた。神殿の向こうには真正面に葛城山が聳えていた。この山の向こうには大和国がある。それぞれが大和に思いを馳せた。
 
 イカツノオミが宇気比の用意ができた事を告げに来て、オキナガヒメは丹生のトヨとイカツを従えて斎宮に入った。神主はオキナガヒメ自らがなり、審神者はイカツ、琴はトヨが受け持つ。
 神殿前の沙庭で宇気比が始められた。
 丹生のトヨが琴を弾き始めるとしばらくして、オキナガヒメは神懸りした。ずいぶんと早い懸かり方である。長いときは懸かるまで何日も要ることがある。稀には懸からないことすらある。トヨは霊力がよほど強いらしかった。
 オキナガヒメの身体が大きく前後に動いている。目がつりあがり、表情は険しい。
「我が大神なり。何用ぞ」
 神懸りしたオキナガヒメが言う。
「恐れながら、大神、お名をお聞かせください」
 イカツがすかさず審神する。
「我はアマテラス・クニテラス・スメラオオカミなり」
「かしこし、我が大神、されば、我らが敵、香坂、忍熊を討つすべをお示しください」
「分からぬ。すべなし」
「大神、今一度お尋ねします。香坂・忍熊を討つすべのお示しを」
 イカツが問うも神は答えず。トヨが傍らから琴を弾きながら神に問う。
「失礼しました大神。我らは戦を好まず、戦を避けるすべをお教えください」
「配下として使ってやれば善い」
 やっと大神は答えた。
「それが大神、彼らは兄が弟の下にはなれぬと申します」とトヨ。
「されば、捨て置け」と大神。
「彼らは兵を仕立て、我らが大后の王子に挑もうとしています」トヨがいう。
「捨て置けぬ、国が乱れる元となる。誅さねばなるまい」と大神は言われた。
「勝てましょうか」とトヨが問う。
「前に申したとおり、大后の王子は全ての国を治める大王となる。負けるはずはあるまい。南から攻めよ。助けがあり必ず勝てる」
 大神の語気が荒くなり始めた。
「外に何かありますか」重ねてトヨが問うた。
「敵の王子一人はすでに死んだ。残るは一人じゃ。斬れ」
 大神はそれっきり黙ってしまった。宇気比が終わり、イカツが聞いた託宣の内容をオキナガヒメに報告をしていると、丹生族の使者が来た。
「ヒメミコさまに申し上げます。香坂王子が死にました。それで弟の忍熊王子が必ずこの仇は討つと、河内や難波の国では敵の兵があふれています。すぐにでもここを引き上げて船で南紀に向かわれますよう」
「やはりそうか。夕べ香坂めが猪に喰い殺される夢を見た。ほほほ、そうでしよう、そうでしようとも」オキナガヒメは機嫌よく言った。
「でもヒメミコさま、油断はなりませぬ。早くこの地を去り、紀伊へ廻って太子さまにお会いになり、熊野の山越えで出来るだけ早く大和に還り、軍を整えて忍熊王子を討たねばなりません」
 カズラノオニトは力をこめていった。
「心配はいらぬ、我らが勝ちじゃ。慌てることはありません」
 オキナガヒメは慌てて戦いを挑む不利を知っていた。そして、敢えてゆっくりと振舞っているのだった。
「この宮もほんによくできている、ぶらりと見て廻りましょうかの。オニトよ、ついて来よ」
 オキナガヒメはカズラノオニトをつれて神殿の裏のほうへ歩いていった。そして歩きながら言った。
「お前は葛城の鴨であったの」
「はい、ヒメミコさま。吾(あれ)は高尾張邑(たかおはりむら)の生まれであります」
「我の母(いろは)も葛城の女での、互いに葛城にゆかりの者同士じゃ」
 オキナガヒメは言い、さらに続けた。
「ところでお前は大王(おおきみ)に目をかけられ、近衛の頭まで取り立てられた頃から、香坂、忍熊の二人の王子にも慕われている間柄じゃ。今は我の部将をしているが彼らを討つのは忍びないであろうの」
「お二人の御子には生きていただきたいとは思いまするが、敵対する以上は仕方ありませぬ。覚悟は出来ています。今、吾はヒメミコさまに従うのみです」
 そのときだった。いきなり「ピュー」と羽音がした、
「あッ」 と叫んでカズラノオニトは跳躍する。身を挺してオキナガヒメを庇い、自分の身体で包み込むようにして、折り重なって倒れた。カズラノオニトの肩を一本の矢が貫いていた。
「ヒメミコさま、お怪我は!」
 カズラノオニトはオキナガヒメを抱き起こしながら怒鳴った。
「誰か居らぬか、敵だ、追え!追うのだッ」
 近くにいた衛士はすでに気づいていて、バラバラと賊を追っている。
 オキナガヒメには怪我はなかった。向こうの方の気配では、どうやら賊を捕らえたようである。両の腕を捩じ上げるようにして、衛士達が一人の男を連れて来た。気骨のある男らしく、目は怖気ずにこちらを睨みつけている。死を覚悟で単身のりこんできたらしい。
「なんだ、お前か」カズラノオニトは男を見て言った。
「ふんッ、オニトだな。裏切り者め。大王さえ生きておられれば香坂王子が太子さまじゃ」
 昔よりの顔見知りだったらしい。
「大王が大神を侮られたのがいけなかったのじゃ」
「うるさい!早く儂を斬れ」
「むろんじゃ」
 カズラノオニトは、族を捕えている衛士たちに腕を放すように命じると、剣をぬいて振りかぶった。
「ま、待てッ」オキナガヒメが制した。
 斬(ざん)ッ! 血しぶきが舞った。渾身の力を込めた大振の剣はすでに振り下ろされていた。
 賊の男は崩れ落ちた。
 まるで自分の迷いを振り切るかのような、凄まじいカズラノオニトの一撃だった。返り血をあびたカズラノオニトは、自分の肩の上部を貫いている矢の鏃の方をへし折ると、反対側の矢羽を握って無造作に引き抜いた。あふれた血が上衣を濡らした。カズラノオニトの目はうるみ、涙が頬を伝って落ちた。
(オニトめ、なぜすぐに斬るのじゃ。賊には吐かせねばならぬことがあるものを)
 オキナガヒメは小さく呟いた。
「さぁ、皆の者 出発じゃ 長居は出来ぬ」
 オキナガヒメは大きな声で号令した。
 東方の葛城山は日を浴びて青々と輝いていた。日はもうかなり高くなってる。
 傍らでは、波波迦(ははか)(朱色花桜)がほころび始めていた。 

目次へ 次頁へ