土蜘蛛物語
丸谷いはほ 

 一、人形の屋形

 僕はスケボーに乗って御所市へ向かっていた。
 外注先の社長と新商品の打ち合わせがあったので、ブルーグレーのスーツを着て、小さなリュックサックを背にしている。リュックというより、仕事では体裁の良いビジネスバッグになる優れものである。バッグの中は商品見本とモバイルノート、その他には景品で貰ったティッシュ、小さな紙ノートと三色ペン、そして小さく畳んだビニール雨具だけだった。帰りに見本などで荷物が増えても、上質のなめし革でできているこのバッグは折り畳んだ部分のチャックを開けるとかなりの物を収納できる僕のお気に入りだ。
 仕事はいつもスマートカーに乗って出かけているのだが、今朝あまり天気が良かったので、自然の風にふれたくなって、ついスケボーを持ち出してしまったのだった。スケボーと言っても電動式で強力なモーターが付いていて不足のないスピードが出る。

 僕の名前は藤原ヒロシ。二十八歳の独身だ。仕事は健康食品を通信販売する会社を五條市で経営している。三年前友人を誘って立ち上げた小さな会社だ。自分が代表者で、友人には財務・経理を担当してもらっている。僕は主に商品企画、営業を統括しているが、なにしろまだ少人数なので部下には任せず開発から販売まで何でも自ら出かけて行き、自分の目で確かめ決定していた。今日も主力商品の一つ「明日葉(あしたば)」を使った新商品の開発で、外注先の薬品製造工場まで試作品を見に行くところだ。

 外注先は高鴨神社の近くにあって、昔から家庭の常備薬、いわゆる大和の置き薬を製造している町工場だった。明日葉も本来は薬として販売したいところだが薬事法に抵触するので「健康補助食品」として販売するのである。(アシタバは不老長寿の仙薬として、あの秦始皇帝が探し求めたといわれる)というのが触れ込みでよく売れているのだが、同じような商品が他社からも販売されており、しかも自分の所は後発だった。商品の形態は顆粒の薬包で、それをコップ一杯の水に溶かせて飲む、栄養補助食品の形態を採っている。それを今度は飲みやすい錠剤にしようと考えていた。それで一気に販売を拡大するねらいだった。
 基本的な成分は発売済みの明日葉顆粒と一緒なので特に問題はない。錠剤の形状とパッケージの最終確認が今日の目的である。

 先祖代々置き薬を製造しているというこの町工場の親父は、お百姓のような風采の年配で、僕が広告代理店に勤めている頃に知り合った。通販会社の宣伝広告を初めて担当したときだった。初対面の時から親しみを感じた。それに、和漢薬を専門に製造していると聞いて興味を持ったのである。父親を高校生の時に癌で亡くし、西洋医療に疑問を持っていたからだ。その頃からすでに自分も通販会社を立ち上げてみようと思っていたが、薬事法の規制があるので素人では和漢薬の販売はできない。僕が健康食品の通信販売をはじめた動機はこのような事が背景にあった。
「わたしの先祖は葛城の鴨族でしてねえ。いわゆる土民の子ですよ」
 酔って機嫌良くなった時、親父はそう言って笑ったことがあった。
 僕は父の面影を自然と重ねてしまう。
 約束の時間に工場に行くと、親父は笑顔で迎えてくれ、事務所に入ると傍らの小さな応接のテーブルにサンプルが置かれていた。

 新商品は満足のいく仕上がりだった。
 あとはネーミングと宣伝広告をどうするかだが、それはこれから先の課題として残し、外注先の町工場を後にした。
 帰り道、国道から県道に入り、峠方面に向かう近道を通る途中、スケボーが急に走らなくなってきた。しっかり充電ができていなかったのかも知れない。日も傾き、早くも夕方になっている。坂道にさしかかり、いよいよスケボーは動かなくなってしまった。辺りはもう薄暗くなっている。
 僕はスケボーを足から外すと手に持ち替え、ここから歩いて行こうと覚悟を決めた。途中同じ方向に行く車がつかまれば乗せてもらえるかも知れない。

 歩いて行くと、上に続く坂道の向こうに、一台の車が、こちら向きに停まっているのが見える。近づいて行くと車内が少し見えて、着物がはだけそうになった女を、男が後席に移そうとしていた。襟元ではだけた肌が夕闇に白く映えてどきりとした。黒っぽいスーツを着た男は後ろ向きで顔は見えない。
(しまった。見てはいけないものを見てしまった)
 直感でそう思った。近道は舗装されているが、一車線のみの田舎道だった。僕はスケボーを片手に、道路の右端寄りをそっと通り過ぎようしたが、瞬間視線を送ってしまい「ぎょッ」とした。
(死んでいる!)と思ったからだ。女は仰向けで顔を後ろに曲げ、手がぐったりとしていた。男の端正な横顔も見てしまった。僕は慌てて目をそらせ、さも何も見ていないといったそぶりで急ぎ足で通り過ぎた。そして前だけを見て一目散に走った。男に気付かれたかどうかは分からない。息切れして走れなくなると、懸命に坂道を早足で歩き続ける。後ろからライトを照らした車が追いついて来る度に道端の藪の中に隠れてやり過ごした。ヤツが僕が見たのを知っていたら決してそのままにはして置かないだろう。必ず追いかけてきて殺されるはずだと思った。スケボーは藪の中に思い切って捨て置いた。

 もう夜になっているはずだった。不思議なことに辺り一帯は霧か靄が架かってほとんど暗くなっているのに、自分が行く周辺は薄暮のように見えるのである。道に迷ってしまったようで、全く知らない土地だった。先ほど見た男が後をつけているような気がして、追われるように山中の一本道を上っていった。前からも後ろからも、もう車は一台も通らない。気がつくと、道は車が通れないほど細くなっていた。
 峠らしい所に出て、今度は下り道だった。方角は全く分からない。そして出逢ったのは小さな流れ、…というよりも、小さな滝が段々に続く、段々滝とでもいうような小川だ。滝壺が次々と下に続いていた。川の水が少し濁っているようで、見ると若い女たちが滝壺を手探りして何かを捕っている。女たちが纏うのは浴衣のような紺絣(こんがすり)だけ。一つの小さな滝壺にひとりずつ張りついて、水の中を足や手でかき回している。すぐには捕れないようだ。
 その内、何かをつかまえたような女がいたので、近づいて見せてもらうと蚫のような貝だった。若い女は前がはだけていても少しも恥ずかしそうにしない。岩の上の一人の老女だけが前を隠すように恥ずかしそうな仕草を見せた。若い女たちの監視役のようだ。作業をしている若い女たちは、よく見ると顔は未だ少女のように幼かった。近づいて話しかけると反応があったので言葉は通じるようなのだが、その応えが返ってこない。町の名を訊ねても、最寄りの駅をきいても返事がないのだ。
 ケータイのGPSで現在地を確かめようとして、ケータイを紛失していることに気付いた。夢中で走って逃げた際、ポケットから落したのだろう。ケータイがないと、腕時計を持たない僕は時間も分からない。
 仕方がないので滝の下流に向かって歩く。
 しばらく行くと道が広くなり、その突き当たりに大きな門構えの屋敷があった。

 屋形門を入って行くと、待っていたかのように向こうから女が出て来て出迎えた。単(ひとえ)の小袖だがきっちりと着込んでいる。顔を見ると先ほど滝壺で出逢った老女とそっくりだった。
「ようお越しくださいました。ささ、中へお入りくださりませ」
 古風な口調だが、この老女は明瞭な言葉を発した。いつの間に先回りができたのだろう。
 案内する老女の後ろに従って屋敷内に足を運ぶと、そこは中世権門の邸宅かと思うような造作の邸内だった。大勢の女たちが一斉に出てきて出迎えた。
 段々滝で見た女たちではないかと思えた。
(不思議な屋敷だな。それに不思議な女たち。言葉は通じているようなのに、禁じられているのか老女以外は話をしない。もう一つおかしいのは男を見かけない………それにしても今何時頃だろう?今日は帰れないかも知れないな)

 僕は老女に訊ねた。
「ここは何処ですか?」
 老女は微笑みだけをかえした。
「最寄りの駅はどちらですか。今日中に何とか帰りたいのですが、駅へはどう行けばよいのか教えてください」
「この辺りに駅などございません。せっかく寄ってくださったのですから、ごゆるりと御逗留なさいまし」
 老女は(ここは何処ですか)という問には答えず、さらに奥へと案内していった。
「ここはどなたのお屋敷なのですか?」
 僕は重ねて質問した。
「ここは女御太夫さまのお屋敷でございます」
 にょごたゆうさま?…聞き慣れない言葉だ。
「では、ここの御主人は女性の方なのですか」
「ここの主(あるじ)は女御太夫さまでございます。私たちは『太夫』さまとだけ申し上げています」
 女性なのか、違うのかの返事はない。
「まずは部屋に案内(あない)させましょう。さあ、アケミ、このお方をご案内しなさい」
 老女は、傍らに従っている若い娘に命じた。
「ではごゆるりと。私はまた、後ほどお目にかかります」
 若い娘を残し老女は下がっていった。
 僕はアケミと呼ばれた女を見た。若く美しい娘だった。年の頃は十七・八歳くらいにみえる。短い紺絣の着物から出た手足はすらりとして、衣(きぬ)の合わせ目から見える胸元は白く豊かだった。
「アケミさん?」
 呼んでみたが娘は返事をしない。が聞こえているはずだ。
「アケミ……、でいいの?」
 アケミはうなずく仕草をする。
「アケミ、ここは何?、そしてここは何処なのか教えて」
 アケミは黙っている。訊ねた内容は分かっているらしいのだが、答えが分からないらしい。また話しもできないのかも知れない。ここの娘たちは皆話せないようだ。いや彼女らは話す必要がないようだった。全部心で話しが通じるようでもある。あるいは目で話し合うのかも知れなかった。
 アケミがじっと僕を見る。目が何かを言っているようだが分からない。どこか遠くを見るような黒い大きな瞳だった。アケミは目と手で僕を促した。どうやらこの中を案内すると言いたいらしい。
 アケミの後について進んでゆく。

 庭木の中を進んで行くと、先から何か囃(はや)すような声が聞こえてくる。
「ヨニ、ヨニ、ヨイヨイヨイ!、ヨニ、ヨニ、ヨイヨイヨイ…」
 行ってみると岩の裂け目のような洞穴があって、その上の方から囃し声が飛んでくる。見るとカラスが何羽も岩の上に留まっていて、同時にクチバシを大きく上下に開けて声を出している。カラスたちの合唱だ。
 アケミは僕の後ろから身体を押しつけてきて洞穴の入口から入っていけという。乳房の感触が背中に伝わる。背中にアケミがくっついたままで中に入った。入るとアケミはすぐ脇の石でできた水盤から貝のようなものを手掴みして取った。それを持ったアケミは、僕を促し丸窓の付いた部屋の前に行く。部屋の脇に竹籠があってアケミはその中に貝をそっと入れる。
(あれは食べさせてくれるのだろう、どんな料理にしてくれるのかな)僕は刺身だろうか、焼物だろうかと想像した。

 アケミが障子を開けて二人で小部屋に入る。部屋は二間続きのようだった。次の間の少し空いた襖の間から緋色の布団が覗いて見えた。手前の部屋には豪華な朱色の蒔絵が施された膳が置かれ、酒食の用意が整っているようだった。どのような仕組みになっているのか部屋の温度も快適に調節されているようだ。
 アケミは僕の後ろにまわると、手慣れたしぐさで背広を脱がせ、衣紋竿に架けた。自身はいつの間にか雅やかな寝巻に着替えていた。その軟らかそうな肌から、衣に焚きしめた香木の香が漂う。アケミは僕の前に朱色の螺鈿の盃を差し出した。それを片手で受け取ると、その大きめの盃に瓢箪から酒を注ぎ、先ずは一献とでも言うように目で促す。
 僕は盃を口につけ、少し酒を含んでみる。冷や酒である。旨い酒であろうことがすぐに分かった。盃を少し離して盃の中の酒をすかし見る。淡い翠色(みどりいろ)で馥郁とした、えも言えぬ香りがただよってくる。口に含んでいたその酒を咽で味わいながら飲み下した。
 今までこのように旨い酒を飲んだことがなかった。改めて盃の残りの酒を飲み干す。アケミは二杯目をなみなみと注いだ。二杯目を飲み干すと盃をアケミに渡し、今度は僕が瓢箪から酒を注ぎ入れた。
 ありがとうございます、というようなしぐさをして、アケミは流し込むように飲み込むと、すぐに僕に盃を戻す。また盃に酒を満たすと、目礼して立ち上がった。肴の支度でもするのだろう。
 しばらくすると朱色の据膳を持って僕の前にそっと置く。そして、これも朱塗の漆器の小鉢から箸で肴をつまむと僕の口に運んでくる。不味(まず)いのではないか、毒などは入ってはいないだろうか、などとは全く思わなかった。はっきり特別美味だろうと直感的に思えたからだった。
 それは実に美味しく酒の肴にぴったりの味だった。それに食感も良かった。蒲鉾のような食味だった。たぶん魚介類か鶏肉の煉物(パテ)ではないかと思う。いや、先ほどの蚫のような貝だろう。
 アケミは酒はすすめるといくらでも飲むのだが食物は一切口にしなかった。

 しばらく飲んだ後、アケミは僕の手をとり奥の間のふすまを開け、緋色の掛け布団が掛かった寝床に誘った。艶めかしい淡い照明の部屋である。
「何故(なぜ)?」
 僕は拒むように立ち止まった。
「道に迷ってついお世話になっただけだよ。行きがかりで酒は飲んだが、君を抱きたいとまでは思っていないよ」
 アケミは僕が逡巡すると、じっと僕の目を見つめて握っていた手に力をこめた。哀願するような仕草をする。拒んでしまうと彼女が困るような気がした。主人の太夫からもてなすように言われているのだな、そう思うと拒みきれず床に入った。
 アケミは自ら着物を解いた。素晴らしく均整の取れた身体をしている。何も知らない無垢な少女のようだった。前に立ち、ゆっくり一回転して僕に全身を見せたあと、横からするりと細身の身体を寝床に滑り込ませた。
 彼女は能動的に動いた。美しい顔を寄せてきて、紅いくちびるが僕の身体に触れる。清楚な容姿とその大胆な行動が不釣り合いだった。はじめは僕も冷静で、なすがままにさせていたが、途中からその妖しい魅力に翻弄された。
 夢中で身体を合わせると少女の粘膜は蕩かすように蠢動して、不覚にも情熱をしたたかぶちまけてしまった。

 ───まどろんだ後、すぐ近くからの女の声に気付いた。
「お客さま。お寛ぎになられましたか?」
 いつ入って来たのか襖一枚隔てた向こう側に居るようだった。  はぁー、僕が声を出すと
「わたくしはここの執事でイワノと申します。ご用がありましたら何なりとお申し付けくださりませ」
 昨日の老女だった。押しつけがましい物言いに反発を覚える。
「イワノさんでしたね。なぜ娘を抱かせたんですか。僕は頼んだ憶えはありませんよ」 
 横を見たがアケミの姿はもうなかった。
「どうぞ、お気遣いは無用に願います。我らは太夫さまから充分におもてなしをするよう命じられてございます。それにこの屋形ではご来客の殿御に、夜伽の女子(おなご)を差し出すのは慣わしです」
「もう帰らなければなりません。ここはどこですか?」
 煩わしくなって唐突に言った。イワノはその問いには答えない。
「シャワーでも使わしてもらえませんか。いえ、水浴びでいいのですが」
 分からないかも知れないと気付いて言い直した。
「わたくしが湯殿にご案内いたします」
 先に立って案内するイワノに続いて部屋を出た。薄暗く長い廊下を歩いて行く。すると向こうから一人の人物が歩いて来た。イワノはツツッと脇により目礼をしている。羽織袴で和装した上背のある美しい人物だった。すれ違うとき横顔を見て「ドキリ」とした。
 通り過ぎるとすぐ、
「どこかでお目にかかりましたか?」
 相手が尋ねかけてきた。振り向いた一瞬、正面から目が合った。
 いいえ、僕は小さく言って通り過ぎた。
「今の方もお客さんですか?」
「あの方は太夫さま御抱えの陰陽博士です」
 イワノは小声で答えた。

 案内された風呂に入って身体を叮嚀に洗った。昨夜同衾したアケミを不潔に思ったからではなかった。それどころかアケミは、とても清潔で美しく均整の取れた身体をしていた。叮嚀に石鹸で洗ったのは自分の浅ましさに対してだった。あのような美しい少女を淫欲の対象にしてしまったことに悔いがあった。
 あふれる湯をたたえた岩風呂に身体をひたしながら、昨夜のことを考えた。あのアケミという少女は何なのだろう。いや、それよりこの古風な家は何だ。そしてここは何処なのだ。
 昨日からの記憶をたどる。
 僕は自分の会社のある五條市から御所市の薬品工場に、新商品の打ち合わせに来たんだった。そしてその帰り道、葛木山の東山麓の道を通った。そうだ、神社の参道あたりで、乗っていたモーター・スケボーが走らなくなったのだった。辺りが薄暗くなって途中、妖しい車の中の情景を見てしまった。どうもあの時の男が気になる。あれは殺人ではなかったのだろうか。良くは見えなかったが若い女は死んでいたように見えた。あの男が犯人だろうか。そして死体を遺棄しようとしているかに見えた。
 何もかもが妖しく不思議なことばかりだった。あの男のことは決して忘れられないが、それから後の自分の行動を思い起こすと、この妖しい屋形の場所が大体見当つくような気がする。西の方角に坂道を上がっていたので、確かあれは高天彦神社(たかまひこ)の参道だったはずだ。そして滝のある小川に突き当たった。そこまでの記憶はだいたい確かだったが、その先の記憶には霞がかかったようで現実とは思えなかった。

 とにかくこの屋形を早く退散したほうがよさそうだ。
 僕は風呂をあがった。
 風呂場から出ようとすると、女執事のイワノが白布を持って出口近くで待っていた。すぐ目の前に膝立ちして僕の身体を拭こうとする。僕は白布をもぎ取って急いで自分の前を拭いた。
「背中は私に拭かせていただきましょ」
 イワノが言うので布を渡す。
「僕は早く帰らなければなりません。すぐにでもここを出ます」
「朝食の用意を女衆(おなごし)がしています。どうぞ召し上がってからお帰りくださいまし」
 イワノは背中を拭きながら言った。
「いや、時間がありません。朝食は遠慮して、すぐ出ます」
 イワノが渡す浴衣をあわてて着ると、浴場の出口に向かった。
 一刻も早くこの屋形を離れたかった。部屋に戻るときれいに片付けられていた。リュックサックは部屋の片隅に置かれ、昨日着ていたブルーグレーのスーツも部屋の衣紋竿にきちんと掛けられている。
 後ろからついてきた執事のイワノが、何かと世話をやこうとするのを無視してさっさと着替えてしまう。
「ではイワノさん、これで失礼します。大変お世話になりました。私は藤原ヒロシと言います。五條市で栄養補助食品の販売会社をしている者です。昨日は道に迷った私を泊めていただいてありがとうございました。又改めて挨拶に伺います。ご主人にどうぞよろしく伝えてください」
 リュックを背にすると、僕は叮嚀に頭を下げた。
「しばらく、しばらくお待ちくださいまし。主の太夫に許可をいただかねばなりません」
 イワノは慌てて奥に入っていった。
 やがて戻ってきたイワノは、
「お帰りになりたいと言うのであれば仕方ないでしょう。途中まででも誰かに遅らせましょうという主のお言葉でした。少々お待ちくださいまし」
 帰ろうとする僕を押しとどめる執事イワノの言葉を聞こうともせず、振り切るようにして玄関に向かった。

 屋形門を出てから空を仰いだ。どこにも太陽は出ていず、不思議な蒼穹が広がっていた。坂道を下に向かって降りて行く。この方角の方が天空は明るい。昨日こちらへ来たときは確か上り坂だったので下方に行けばよいはずだった。歩きながらもう一度昨日の記憶を辿った。西方の葛木山に上がって来たはずなので、帰りは東の方向に行って間違いないはずだった。この時間は早朝なので明るい方が東である。
 歩きながら思った。(先ほどは早く帰りたいばかりに、改めて挨拶に伺いますなどと言ってしまったが、はたして又ここへ来ることができるだろうか)……いい加減なことを言ってしまったと悔いが残る。第一この辺りの地理もはっきりしない。
 歩いていると後ろから何かが近付いてくる気配があった。振り返って見ると馬車のようだった。僕の真横に止まった。

「藤原さん!」
 声を掛けられた。
 立ち止まって相手を見ると、ダークスーツを着た若い男だ。
「藤原さん、お名前は執事のイワノから聞きました。お宅まで送らせてください」
 男は前方を見据えて手綱を握り直す。
 男の横顔を見、ぎょっとした。忘れようとしても忘れられない印象が残っている殺人者?いや、坂道で見た若い男に感じが似ている。 さては奴は僕に殺人現場を見られたのに気付いていて、殺してしまおうと付け狙っていたのか。僕は恐しくなった。恐怖で顔が引きつっていないか案じた。
「いやですねえ、藤原さん。そのような驚いた顔をしないでください。私は女御太夫に仕えている、しがない陰陽師ですよ。名はハルアキと言います。昨夜風呂へ続く廊下で会いました」
 そう言えば…と思い出した。風呂への通路ですれ違った和装の麗人。執事のイワノは女御太夫の相談役、陰陽博士だ言っていた。
 しかし今、女のように美しいハルアキと名乗ったスーツ姿の男を見ると、昨日坂道で見た殺人者と印象がつながってしまう。
(この男が犯人なのではないか)もう一度そっと見なおした。
「太夫に、あなたを送って行くように頼まれましてね。おそらくまた道に迷ってしまうのではないかと心配なのでしょう」
 ハルアキは愛想良く言う。
 さあ遠慮なくどうぞ、という乗り物は馬車ではなかった。つまり馬が引いているのではなく、驚くべきことに子馬のように大きな狐が縦一列で四匹、車両に繋がれていた。両輪の幅は狭く、座席は前後に二座設けられていて、細い道でも平気で通れそうだった。狐車(こしゃ)とでもいうのだろうか。

「さあ、どうぞ乗ってください」
 ハルアキは乗車をすすめた。
 不安感が頭をかすめたが、ここは何処かも分からない土地だった。思い切ってその言葉にすがるしかない。すすめに従って前席に乗り込んだ。(後ろから首を絞められたら終りだな)
「さあ、どちらにおくりましょうか?」
「では、すみませんが、風の森峠を南に下りた先の、ジェイ・アール北宇智駅までお願いできますか」
 僕は自分の会社の最寄駅名を言った。
 ハルアキがニコリと笑って手綱をたぐりよせた。
「ハァーッ」
 ハルアキは狐たちに気合いを入れた。
 それに応えるように馬ならぬ狐たちは、キッ・コーンと鳴き声をあげると一斉に走り出した。僕の真後ろの一段高い馭者席にすわったハルアキの見事な手綱裁きは冴えて、狐たちは足並みも軽やかに走る。狐車は葛木山の東麓を南に向かって疾走した。いや、僕が勝手に南に向かって走っていると思った。馬車と違い、馬の蹄の音や不快な轍の雑音はまったく無い。素晴らしい乗り物だった。
 心地よい振動の所為か眠くなってきた。
(眠ってはだめだ。眠ると殺されてしまう。僕は奴の殺人現場を見ているんだ。やや? ……奴は僕に妖術をかけて眠らせようとしたのかも知れないぞ)恐怖感が睡魔をかろうじて抑えた。見計らったようにハルアキが言う。
「藤原さん、眠そうですね。…どうです、目覚しに珈琲でも飲んでから行きませんか」
 実際、珈琲でも飲みたいと思ったので頷いて同意した。
「近くに美味しい珈琲を飲ませる店があるんですよ」
 ハルアキは小道を山手に入り、狐車を進める。すぐに丸木造の喫茶店らしい建物がある駐車場に入った。

 来客はないのか車は一台も停まっていなかった。店内に入ると、客はいないようなのに大勢の美しい少女たちがいた。それぞれ忙しそうに立ち働いている。窓辺の席に二人が向い合って座ると、一人の少女が近付いて腰をかがめた。
 ハルアキは、珈琲でいいですかと僕に言い、同意するのを見て少女に珈琲を二杯注文した。
 珈琲は香りが高くて美味しかった。眠らせて殺そうとしていると思ったのは考えすぎだったかも知れない。いま眠気は醒めている。
 珈琲を飲んだあと、冷たい水を飲みながら僕は向かいの相手に尋ねた。
「お名前はハルアキさんでしたね」
 はい、とハルアキが頷く。
「失礼ですが、名字は何と仰しゃいましたか。あ、申し遅れました。私は藤原ヒロシと言います。名前はカタカナでヒ・ロ・シと書きます」
 僕は真正面から相手の目を見て言った。
「私は言ってませんでしたか。姓はアベ、名はハルアキです」
 そう言って少し視線を外すと、
「ご存知遣唐使だった阿倍仲麻呂と同じアベ。名は春秋(しゅんじゅう)の春と秋で、ハルアキと読みます。私は陰陽師ですが、二十一世紀の現代に生きる青年ですよ。歳はあなたの想像にまかせます」
 にこやかな表情で続けて言った。
「ハルアキさんは何処に住んでおられるのですか。あの大きなお屋敷ですか?」
 僕は疑問に思っていたことを聞いた。
「そうです。大体はあの屋敷で過ごしてますが、時々はあちらこちらへと出掛けもしています」
「ハルアキさん、どうも不思議な気がしているのです。僕は夢を見ているのではないかと思うのですが、あのお屋敷もこの店も、どうしてあのように若い女性ばかりが働いているのですか」
「ハハハ、見ていても美しくていいでしょう。でもねえ、ほとんどは女性ではないのですよ。女は執事のイワノだけ。あとの若い女たちは、実は女でも男でもない。見た目は少女のように見えますがねえ」
 ハルアキは女のように美しい目をして私を見つめる。

 僕は店内をあらためて見回した。それにしても不思議な店だなと思う。少女たちは忙しそうに立ち働いている。客はいないようなのに……何をしているのだろう。見ると半数くらいの少女たちは、それぞれの机に向かい指先を器用に動かせながら何かを組み立てている。あとの少女たちは、手足を正確に動かせて、部品のようなものを横の箱から掴み、組み立て作業をしている少女の手元へそれぞれを届けている。
 その手元で魚がはねたような気がした。魚の玩具を作っている(人形)え? そんな言葉が浮んだ。まさか……。
「藤原さん」
 ハルアキがあらためて僕の名を呼んだ。
「藤原さん、もし間違っていたら許してください。以前どこかでお目に掛かったような気がするんですが、違いますか?」
 僕は、あッと心で叫んだ。(ああ、やっぱり僕が殺人現場を見たことを知って確かめに追って来たんだ)
 ここで僕が、あなたを見たことがあると正直に言えば、僕を殺す気だろうか。僕が返答に逡巡していると、
「藤原さん、あなたは誤解していますよ」
 ハルアキは静かに言った。そして続ける。
「あなたと私は、やはり出会っていたようですね。それも、太夫の屋形で合う前に。ここに来る道中で私が女と車の中に居る所を見たのですね。そして女が死んでいるように見えたので、私が女を殺したのだと思った。それで夢中で逃げた。そうでしょう?」
 窺うようにじっと見つめる。
「でも、それは違うんですよ」
 ハルアキは続けて言う。
「藤原さん、私は太夫に仕える陰陽師だと言いましたね。私は太夫の相談役であり、専属の占い師でもあるのですが、他に医者の役割も受け持っています。つまり大勢働いている娘たちの医者なんです。回りくどい言い方はやめて、はっきり言いましょう。実は医者と言っても人間相手の医者ではなく人形達の医者なのですよ」
 ハルアキは言う。
 人形の病気、つまり故障すると部品を取り替える。それでも故障が治らない場合は廃棄処分にする。その判断をするのも私の仕事のうちなのだと。
「あなたが道中で見たのは、最終的に廃棄することに決定したスクラップ人形ですよ、それをあなたは人間の若い娘だと思い、私を殺人者と思い込んだのではないですか、それを誤解だとさっきから言っているのですよ」とハルアキは説明するのだった。 
「藤原さん、どうか誤解しないでください」
 ハルアキは説くように話す。
 僕はなんだか急に眠くなってきた。
 ハルアキの声が遠くなってきて、だんだん聞こえなくなる。
 意識がなくなる寸前になって気付いた。
(あ、珈琲に眠り薬が入れられていたんだ……)
 時すでに遅く、僕は奈落の底に落ちて行くようだった。

 そこは大きな空洞が地下に向かって口を広げていた。
 しばらくして回りの空気が動き始める。
 空気はらせん状に回転し、僕はその渦に巻き込まれ、穴に吸い込まれていく。
「これは夢だ」この夢は以前に見たことがある。ここでどこからか出てきた少女に救われたが、実際は異界への道だった。
「もうすぐ、少女が救いの手を出してくるはず。でもその手にすがったら終りだ。二度と帰れなくなる」
 夢だと分かっているのに、目は覚ませなかった。
 そう考えている間にもどんどん落下は続いている。案の定少女が救いに来た。
(手は出すな!ダメだぞ!)
 ……しかし、ついに僕は意に反して手を出し、縋ってしまった。
 すぐそこには不思議な世界が広がっていた。





 二、玄園太夫

 少女は、草むらで倒れていたヒロシを助け起こすと、自分の名をナオミと名乗った。
 ヒロシは奈落のような穴に落ち込み、気絶していたのだ。
 ナオミを見て、葛木の不思議な屋形へ行ったときに出会った時のアケミを思い出す。彼女は言葉を話せなかったが、ナオミは言葉を話せた。
 ナオミはヒロシを連れて村の中を案内した。
 そこは、夜はなく昼もない世界だった。どこへ行っても太陽らしい天体は見えなかった。でも暗くはなく星空もなかった。
 一日中ほんのりと明るく、いたるところに花が咲き、植物は豊かに繁っていた。
 村の中央には木造の大きな屋形があって、そこでは少女たちが忙しく立ち働いていた。彼女たちは分業で何か部品を作っているようだった。おそらく誰か支配者がいるのだろうと思われた。
 ヒロシがナオミに尋ねると、玄園太夫(くろぞのだゆう)と皆から崇められているのが、ここの支配者で、ナオミはその支配者に仕えている執事の娘なのだという。
 その村は現実と夢の区別がないようなところだった。この世界にも様々な人人がいたが男はほとんどいないようだった。いや、女に見えるが男かも知れなかった。または男でも女でもない中性とでもいう種類かも知れない。或いはみんな人形かも知れなかった。人の言葉を話せる者、話せない者がいる。話せる者は人と殆ど区別がつかなかったが、大まかに言えば並外れて美しいのは大体人形と見てよさそうだった。もちろん親しくつき合うようになれば人か人形かの区別はできそうだった。でも人々の中に紛れ込んで住んでいる人形、また、人形たちの間に紛れ込んでいる人間も居るはずだと思われる。  

「ナオミさん、僕に教えてください。あなたたちはいったい何者なのですか? そしてここはいったい何処ですか? 地底世界なのですか?」
「ここが何処かは私も知りません。そして何者かと尋ねられても、どう答えればよいか分かりません」
 でも実際、ヒロシは知りたかった。もうほとんど何が何なのか判らなくなってきていたからだ。何が現実で何が虚構なのか。何が実在して何が只の現象だけなのか。
「私たちはこの地から生まれた霊かも知れません」
 しばらく考えるようにしてからナオミが言った。
「そしてここは霊の世界。辺り一面に咲いている花も、緑に繁る草木も霊でできています。実は私も」
 とナオミが話すには、自分は人形なのだけれど、玄園太夫に霊を吹き込まれ、人間と変わりなく生かされている。そして執事の娘にしてもらい、この村では人形達の指導役をしているのだという。
「霊とは何?、つまり現実では無い幽霊のことですか?」
「一言で言えば生命(いのち)のことですが、私たちは古代の怨霊の力を借りて生きています」ナオミの目がキラリと光った。
「あなたが藤原一族の末裔だということを私は知っているのですよ。私たちの秘密の一部を覗いて来たことも聞いています。」
 ナオミはヒロシの顔を窺うように言った。
「義母(はは)はいつも、土蜘蛛の恨み霽らさすのだと言っています」
 小さな声でナオミがつぶやく。
(この娘(こ)はあそこの世界の住人と、おそらく一緒の者達なんだ)
 ヒロシは何が何だか分からなかった。自分が生きているのか死んでいるのかも。ヒロシは自分自身を疑った。
(虚構か現実か。それにしても不思議な世界に迷い込んだものだ)

 ヒロシはあらためて昨日の自分に起こった出来事を考えてみた。あの人形の屋形でのことだ。まず、あの屋形の主人、女御太夫と呼ばれていると聞いたが、顔を合せたことはなかったし、どのような人物かも全く不明だ。次は女執事のイワノ、そして少女アケミ。最後に会ったのは陰陽師ハルアキだった。
 多分……と思う。ハルアキとイワノは人間だ。でもアケミをはじめ働いている少女たちはすべて人形だろう。出会ったこともないので全く想像するだけだが、女御太夫というのがあの世界の支配者で、イワノは支配人代理、ハルアキは太夫の相談役で、場合によっては軍師にもなるってとこか。そこまで考えて……、ナオミが、「私たちは怨霊です」と言っていたのを思い出した。あの少女が自らを怨霊だと言うのなら、太夫をはじめ皆怨霊なのではないか。奴ら全員が怨霊とも考えられる。
 では何故、何のため彼らはあのような事をしているのだろう。
 ナオミは、土蜘蛛の恨み霽らすのだと言っていたが何のことだろう───。
 
 あてがわれた部屋にヒロシがいるとナオミが来た。
「藤原さん、玄園太夫様があなたに会いたいと言っておられるそうです。案内しますのでついてきて来てください」
 ついて行くと最上階の部屋の前まで案内してナオミは下がっていった。
 部屋に入ると正面の椅子に一人の人物が着座していた。少し離れているので表情までははっきりと見えない。
 傍らにはその執事らしい老女が従っている。
「この者の名は何というか?」玄園太夫は言った。
 小さな声だが、こちらまではっきりと聞こえる。それでも太夫は近習以外には直接言葉を交わさないのがしきたりらしかった。
 傍らの老女が太夫の言葉を取り次いだ。
「あなたの名前を玄園太夫様がお尋ねです」
「私の名は藤原ヒロシです」老女はそのままを太夫に取り次ぐ。
「それで仕事は何をしているのかと太夫様が聞いておられます」
 同様に老女は玄園太夫の言葉を取り次ぐ。
「はい、仕事は物売りです。健康によい食べ物を売っています」
「葛木山の女御太夫様を知っているかと太夫様がお聞きです」
「いいえ、まったく知りません」
「では陰陽博士の阿倍を知っているかと尋ねておられます」
「ハルアキさんのことでしたら先頃知り合いになりました」
「博士をどう思うかと聞かれています」
「よく分かりません。私もどうして知り合いになれたのかと不思議です」
 ふーむ、と玄園太夫は腕を組んで考えているようだった。
 ヒロシは、陰陽師ハルアキを思い出した。印象が似ている。
「もう下がってよい」と老女が太夫の言葉を伝えたのでヒロシは自室に引き上げた。

 しばらくして先の老女が部屋に訪ねてきた。
「藤原さま、先ほどは失礼申し上げました。わたくしは、屋敷の主・玄園太夫の執事をしています玄女(くろめ)と申す者です。太夫が申しますには、案内したい所があるのでお連れするようにとの事でございます。いえ、遠い場所ではありません。ぜひ御一緒くださるようお願いいたします」
 鄭重な誘いの言葉だった。断る理由もないので誘いを受けることにした。
「分かりました。御一緒させていただくと太夫に伝えてください」
「それはありがとうございます。それでは早速ですが、これからすぐにお願いできますか」
 玄女は傍らの少女が持っていた風呂敷を広げた。
「藤原さま、これは着替えです。ご面倒ですが今お召しの服装ではいささか都合が悪いのです。それでこの衣裳にお召し替えを願います」
 鄭重に言われてヒロシは了解した。玄女はすでに古風な衣裳に着替えて来ている。
 玄女が着替えを手伝った。
 ヒロシは玄女と共に最上階の太夫の部屋に行った。二人とも着ていたのは平安時代の普段着とでも言うべき衣裳だった。新しいものではなく着古した感じがする衣類だ。ヒロシのは平安時代の下級役人の服、直垂に袴、そして足元は草鞋履きだ。玄女も同様、その時代の庶民の女性が着る衣類を着けていた。
 屋敷の主、玄園太夫もほとんど同じように着古した直垂に袴といった装いですでに用意して待っていた。近くで太夫を見ると、先日見た時より実際はかなり若い人物だと思った。やはりハルアキと印象がつながる。 
 三人で奥の部屋から駕篭に乗り一気に一階まで降りた。駕篭は機械式にできていた。降りると裏口からすぐ森に続いており、誰にも見られない作りになっている。
 森に入るとすぐ洞窟があり、真っ暗なその中に三人で入る。
「これから旅に出立します。藤原さん、しばらく動かないようにしていてください」玄女の物言いが変わった。
「これから先は、太夫に直接話していただいても結構です。今から時間を遡って平安時代の初めに行くので付き合っていただきます」
 これを聞いて、なぜ古い衣裳にしていたのか理解できた。



 三、過去への旅

 三人は田舎道を歩いていた。
 ほとんどが雑木林で緑が濃く、所々にある田畑では夫婦らしい者等が働いている。周りの山々を見渡すと、見覚えがある景色だった。葛木山の東麓のようだ。
 ゆるやかな坂道を上って行くと傍らに苫屋があった。
 その軒先から玄園太夫が「婆よ元気かの」と声をかける。
 するとその苫屋の出入り口から一人の媼(おうな)が顔を出した。
 太夫が一言二言言葉を交わした後、媼を入れて四人で家の脇から奥に続く小道を入る。玄女がヒロシに近寄って、歩きながら媼のことを、我らの一族に繋がる筋の者だと話す。
 行く先の向こうに、柴垣をめぐらせた小祠があった。
 その前に進んで玄園太夫が跪いた。その後ろに玄女が続く。
 ヒロシは玄女に見習ってその横に屈む。
「ここは我が一族の守護神、一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)を祀る社でございます」
 玄女がヒロシに言った。
「一言主大神は吾の先祖でもある」
 続いて玄園太夫が手を合わせたままで言った。
「一言(いちごん)様、どうかお鎮まりくだされ。きっと恨みは霽らします故」
 太夫は深々と頭を下げた。
 鎮魂の祈りを四人で捧げた後、四人は苫屋の方に戻った。家うちに入ると、苫屋の媼は三人を葛湯でもてなした。
 媼が下がった後で玄女(くろめ)が言った。
「太夫さま、この時代の言葉はどうも使い慣れませぬ故、我らだけの間では、少し平たくさせていただこうか存じますが、よろしゅうございますか?」
 と言って太夫の表情を見る。
「藤原さん、一言主大神様のことですが……」
 玄女は玄園(くろぞの)太夫の頷いたしぐさを見て、言葉を変えた。
「イチゴンサマと言うのは、『悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い放つ神』という言い伝えからきています」
 玄女は、太夫が墓所で祈りの際「一言様」と言ったことの意味を、ヒロシにも分かるように話して言うのだった。
 続いて太夫が、苫屋の媼が出した葛湯の入った茶碗を手にしながら、さらに一言主大~についての話をはじめた。

 むかし葛木のこの地に狩りに来た大和の征服者、ワカタケル大王(雄略天皇)は、自分と同じ紅紐(あかひも)を付けた青摺(あをずり)の服装をして、供を連れている人物と遭遇した。その人物には威厳があって、自らを一言主大神と名乗った。ワカタケル大王は、この地の神だろうと恐縮して、供の武器や衣服を献上すると、それを大神は受け取り、ワカタケルの一行を見送ったというような話だった。
 この一言主大神こそ我らが先祖である。我らの先祖たちは古代・高句麗国から渡り来た一族であった。また、狩りに来たワカタケル大王も同じ高句麗の末裔だが、後発の渡来者一族だった。つまり、よく似た様子で同じ服装とは、出自が同じであることを示している。時代が下がり天智天皇は百済系、次の天武天皇は高句麗系、持統天皇は新羅系といった具合である。古代のある時期以降、日本列島は古代朝鮮三国の末裔達の政権争いが続いたのである。まず初めの政権はもちろん原住民系の大王だった。その次は高句麗系、次は新羅系、最後は百済系が政権を握り今に続いている。日本列島の歴史は、単純に言えば原住民、古渡(こわたり)人、そして今木(いまき)人の対立の歴史だったいえる……というように話す。
 玄園太夫の話は熱を帯びる。 
「我らが先祖は、政権を奪い、そして奪われ、取り返したりの後、最終的に百済勢力の支配下に組み込まれたのである。我らの先祖は原住民と混血して国作りを進めていたのだが、戦乱を経て敗者となり、勝者である百済人に隷属させられた。我らは今までの身分を剥奪され、下層民に貶められた。そして過酷な労働に従事させられたのである。その過酷な労働のひとつに鉱山の穴堀人足があった。つまり金掘(かなほり)である。そして我々は人々から蔑まれ「土蜘蛛」などと呼ばれ続けたのだ」
 ここで太夫は一息ついて、碗に残っていた葛湯を飲み干した。 更に話を続ける。
「今上天皇の嵯峨は、桓武天皇の第三皇子である。その父桓武は皆も知っての通り百済系の出自である。彼ら百済に所縁(ゆかり)の者は、今我が世の春を謳歌している。もと山部王こと桓武天皇は、百済王家一族をも特別優遇して、我らはどうしても不満でならなかった」
 さらに太夫は続けて言う。
「同じ百済系の藤原一門は特に許せない。現在の藤原一門の最高権力者は藤原冬継である。彼は藤原の不比等の系譜につながる者だ。彼等は天皇家にまとわりつき、権勢を思うがままにしている。後宮に娘を送り込み、その外舅となって勢力を拡大してきたのである。奴らは我ら一族を土蜘蛛などと蔑むが、彼等こそ政権にまとわりつく狡猾な蛇の一族ではないか」
 なあ、そうとは思わないか、と玄園太夫はヒロシの目を覗いて言う。「この近くに、我が一族の者が働かされている銅山がある。今からそっと覗きに行こう」
 太夫はヒロシにその過酷な仕事の様子を見せたいようだった。
 玄女を一言主神社の苫屋に残し、銅山に行くことになった。

 媼の孫だという一族の若者の道案内で、三人は巽の方角にある唐笠山(からかさやま)に向かった。そこへは二里ほどで、歩いて一刻もかからないという。
 その山は高市郡巨勢(たけちのこおりこせ)郷内で、坑道入口は山頂付近にある。だが作業現場を覗くには様々な問題があった。そこは昔、我らと同じ高句麗系の一族が経営していたのだが、政権が代わる度に運営主体も代わって、今では百済系の支配下になっている。その為、部外者への監視が厳しく鉱山には中々近づけないからである。坑内作業をする者達も、今でも土蜘蛛と蔑称されている前政権の遺民だ。つまり我々と同族の者達が奴隷階級に貶められているのであった。今では敵対している勢力が経営している銅山なので、通常の道をたどって行っては近づかせてはもらえない。
 人目につかない裏通りの山道から向かうので、道案内が必要なのだった。カズラと名乗った一族の若者は、一言主神社の杜(もり)からまず南に行った。

 巨殿(こどの)という村を東に抜けて、唐笠山の麓から銅山に上がって行く通常の道を避けると、村の入り口付近からそのまま南に迂回して、御歳神社の境内地から東側の後背の奥山に登って行って銅山に近づくのだという。この社(やしろ)の祝(はふり)は古くから一族の長老が継いでいるのでカズラは昔から見知っていた。カズラはすでに祝の許しを得ているとみえて、三人はそのまま社殿の横手から奥山に分け入った。
 そこは獣道同様だった。まったく人は通らない。険しい山道を登って行くと、直ぐ先が少し開けた所に出て、木々の間から大きな建物が見えた。屋根から黒っぽい煙が出ている。三人は見つからないように茂み伝いに建物に近づいて行った。
 カズラは以前にここに来て覗いたことがあると言い、中では大勢の人が働いていて鉱石を溶かして銅を取り出しているという。
 僅かな硫黄の匂いと、何か焼け焦げるよう異様な臭(におい)が漂ってくる。三人は草木の茂みから抜け出してさらに建物に近づく。
 中から何人かの怒鳴り声と、物を打つ金属音が聞こえる。
カズラを先頭に、少し離れて太夫とヒロシが続いて建物に張り付いた。

 丸木作りの建物は隙間だらけで覗くと中が見えた。
 中では大勢の腰布だけの男達が働いていた。
 要所には監督者らしい屈強そうな男がいて、手には鞭のような細い金属棒を持ち、労働者を威嚇して追い使いをしている。
 案内のカズラが、手で太夫とヒロシに(すぐにこの場所から離れよう)というような合図を送り、自ら向きを変えて走り出すと出てきた茂みに飛び込んだ。ヒロシと太夫もそれ続いて茂みに入る。すると入れ替わるように監督者の一人が戸口から出てきた。見回りらしい。不審な気がして出てきたのだろう。
 三人は、上に向かって続く獣道を上っていった。しばらく行くとまた簡単な屋根を掛けた小屋があった。後方から白い煙が出ている。茂みから盗み見ると、三人の男が働いている。大きな土作りの窯に木材を次々と押し込んでいる。下の方から炎が少し見えているので、今焚きつけ始めたばかりのようだった。
 精練に使う木炭だとカズラが小声で説明する。またカズラの合図で次に向かった。

 坑道入り口は、さほど離れていないすぐ近くだった。そこにも屈強そうな男が見張りに立っていた。
「夜まで待ちましょう。先ほどの炭焼き小屋のすぐ近くに木炭置場があります。そこで夜まで時間を過ごすのです」
 カズラは言った。
「精練用の木炭は一日一回、早朝に取りに来て、タタラ場へ運んで行きます。それまでは誰も来ませんので安心してください」
 それまでそこで過ごしていましょうと木炭置場に案内する。
 その木炭置場は粗末ながら屋根が掛けられて雨露をしのげるようになっていた。置かれた木炭束の隙間に三人で腰をおろす。横になれるような広さはなかった。
「あなたは藤原ヒロシさんでしたね」太夫が言った。
「やはりあなたも藤原一族につながる人間ですか」
 太夫は続けて言う。
 あ、……とヒロシは気付いた。
(やはり私のことを藤原の一族だと恨みに思っているのだな)
「太夫さん、はっきり言っておきます。確かに私は藤原姓ですが、あの傲慢な藤原北家一統とはまったく違います。もともと藤原氏とは縁もゆかりもありません。私の先祖は吉野の古代部族なのだと母から聞いた記憶があります。でも、母が病気で早世してしまい、縁者の世話で仕方なく藤原の名字を名乗る家に養子としてもらわれて行ったのです。養子先の家も、藤原氏の使用人だったため、藤原の性を名乗らしてもらったもので、元々名家の藤原氏と何の血縁もなかったと聞いています。どうか誤解の無いようにお願いします」
 ヒロシは真っ直ぐ太夫の目を見て言った。
「太夫さん、私の方にも質問があります」
 ヒロシは視線を外さずに続けて言う。
「あなたは私が知っている人によく似ているのですが……」
 ヒロシは聞いた。
「もし間違っていましたらすみません。あなたは陰陽師の阿倍春秋(あべはるあき)という人をご存知ではありませんか。そして女御太夫という人形屋形の主(あるじ)も当然知っておられるのではないですか」
これは直感だけですが……とさらに続けてヒロシが言う。
「黒園太夫(くろぞのだゆう)さん、あなたは女御太夫(にょごたゆう)とも名乗っていませんか?」
 ヒロシは黒園太夫の目の奥を覗き込む。
「どうも印象が似すぎているのですよ。私はお目にかかったことがないのですが、あの女御太夫と呼ばれている人も、あなたと関わりがあるでしょう。ずばり三人は同一人物ではないですか」
 ヒロシは決めつけるように言い切った。
「ハハハ」太夫は透き通った声で笑った。
「気付いてましたか。実はその通りです」
 太夫ことハルアキは笑顔で話し続ける。
「私は陰陽師だと言いましたでしょう。昔から陰陽師は神出鬼没と言われています。文字通り何処へも自由に出入りしています。平安時代の貴族、小野篁(おののたかむら)は高野槙を伝って冥界に出入りしていたという伝説にもある通りなんです。私もあの世だけでなく過去世界にも往き来できるのです。実は私、土御門家にもゆかりの安倍晴明の末裔なのですよ」
 ハルアキは饒舌だった。 
「確かに私は、阿倍春秋(あべはるあき)とも名乗っていますが、アベにも庶流がありましてね。私の方は土蜘蛛の血を引く土民の流れです。それであなたと私は先祖が親戚同様。敵対する必要がないと判っただけでも良かったですよ」
 ハルアキは本当に嬉しそうだった。
「ヒロシさん。もう気づいているとは思いますが、狐車で喫茶店へ行ったとき、私はあなたの珈琲に眠り薬を入れさせました。そして、あなたの夢に便乗して、地底世界に踏み込んだのです。それからはずっと一緒で、こうして過ぎ去った昔の時代にも遡って来ています」
 ハルアキは、藤原さんと言っていた今までの呼び方をヒロシさんと言い換え、笑顔で話し続ける。
「ヒロシさん、私の見込み違いから、あなたに迷惑をかけたことはすみません。でも昔に来て見て、彼らが我々の先祖たちにどのような事をしてきたか、つぶさにあなたも目にしたでしょう。どうです、私の藤原北家一統に対する復讐に協力してくれませんか?」
 もちろん、ヒロシは同意できなかった。
 いつの間にかカズラはヒロシにもたれかけて眠っている。

 炭焼き小屋で夕方まで時間を過ごすと、辺りが暗くなっているのを見定め、眠りこけているカズラを起こして三人で坑道入り口に向かった。
 暗くなっていても坑道入り口には見張り番がいた。その男を見たカズラが知っている男だという。
「あの男を眠らせよう」ハルアキは言った。
 そして懐から小さな瓢箪を出すとカズラに説明した。
 これは良く効く眠り薬だが、いかにも美味しい水飴のようにあの門番の男の前に行って食べているふりをしてください。そして男の前を歩き回り、甘い甘い、美味(おい)しい美味しいと言って、門番が食べたくなるように演技するのです。酒だと言うと用心して飲まないよう我慢するだろうけれど、甘い物なら少し位はいいと思うはずだと説明した。
「よろしいか、『甘い、甘い。美味しい、美味しい』ただそれだけを繰り返すのですよ」
 奴は必ず、俺にも飲ませてくれと言うはずだと、ハルアキは自信たっぷりに説明する。
 カズラがその通りうまく行動すると、作戦は成功して門番の男はたちまち座り込み、寝てしまった。
 三人は坑道に入り込むことができた。

 坑道内は暗かったが、所々に松明が点されている。かなり大きく広い坑道だった。入り口近くはかなり大きな場所がつくられて、採掘された鉱石の仮置き場になっていた。奥に伸びたその坑道から枝のように左右所々に横穴が掘られている。そこは狭く膝をつかないと通れないほどの広さしかなかった。横穴では、引敷(ひつしき)を使って膝をついたり、尻下に敷いたりして仕事をしているのだとカズラが説明する。苦労して掘った鉱石は、ある程度の広さがある中央坑道まで、また別の人足が運び出す仕組みのようだ。
 いくつも掘られた横穴の奥では作業がまだ続いているようだった。タガネが岩石を穿つ音が聞こえてくる。
 坑道を支える木組みを作る大工たちの、鉄釘を打つ音もする。
 しばらく入り口近くの鉱石仮置き場にひそんでいると、今日の作業が終了したのだろう、人足らが引き上げてきた。
 ぞろぞろと出てくる穴掘り人足たちの足取りは重かった。監督者の号令で作業の終了が告げられると疲れた人達はその場にへたりこむ。監督らは坑道を出て何処かへと消えた。
 休憩したあと、人足らは列をなして外へ出て行く。何十人もの人たちだ。三人が後をつけると坑道から少し離れた茂みの中に続いて入っていく。

 全員の姿が消えてしまってから見に行くと、そこは古い坑道の跡らしかった。もう掘り尽くして用済みになっているのだろう。そこは門番も監視者もいなかった。そっと中に入って窺うと、そこは彼等労働者の寝泊まり場所になっていた。またそこは食事場でもあった。
 彼等に与えられたわずかな食材で、彼等と同じ村から徴用されてきている女が賄いを作っていた。
 食事は一日二回、朝と晩だけだ。朝は晩に残しておいた食物の残りを急いでかき込む。毎日重労働なのでぎりぎりの時間まで皆は泥のように眠り込んでいるからである。
 わずかに自由な時間と言えば晩めし時だけだった。食事は雑穀にわずかな野菜を入れて炊き込んだだけの粗末なものだ。
 耳をすますしていても、彼等の話し声はほとんど聞こえてこない。疲れ切っていて、話す力すら残っていないのだろう。どれだけ日常の労働が過酷なのかわかる。飛び出して行って彼等全員を解放してやりたいという思いに駆られた。
 鉱山で働いている同族の者達の様子が分かったので、もう引き上げようと太夫が言う。
「昔の時代に来ている我らは、人と関わってはならない。言葉を交わしてもいけない。話し方が変だと騒がれても困るからだ。ただし苫屋の媼とその孫のカズラは大丈夫だ。気にしないで良い。あの二人は私が造った傀儡だからだ。何とでもなる」
 ヒロシに近づくとハルアキは耳元で小声で言った。
 ハルアキは次の行動を説明する。まず一言主神社の境内にある苫屋に戻り、媼の家で待っている玄女(くろめ)と引替えにカズラを戻す。そしてその平安時代の過去から、時の早送りをしてナオミのいる地底の花屋敷に戻り、そして更に葛木の人形の屋形に帰るのだと、太夫こと正体を打ち明けたハルアキが話して、素速い行動を促した。
「では、できるだけ早く帰ろう」
「そんなに簡単に元の世界に戻れるのですか」
「ハハハ」あの透き通った声でハルアキが笑った。
「皆んな知らないだけなんですよ。すぐ隣に別世界があることを」
 往き来する法がわかれば、どの世界へも自在に出入りできるとハルアキは笑顔で言った。



 四、帰 還

 僕は目覚めた。
 店内を見回して、おぼろげながらも記憶が蘇ってきた。
(そうだここは、葛木の人形の屋形からの帰り道、ハルアキに狐車で送ってもらう途中に入った丸木造りの喫茶店だ)
 記憶をたどり、もう一度店内を見回したけれど、あの時大勢いた人形娘たちは一人もいない。
 僕は起き上がって一度大きく背伸びをし、窓際に行った。 
 窓から見える景色は確かに葛木山の東麓のようだった。向こうには見慣れた御所市の風景が広がっていた。
 さらに記憶を辿っていると店内奥から一人の知人が顔をだした。人形屋形の陰陽師ハルアキだった。
「藤原さん、目覚めましたか」
「はい、ハルアキさん。いえ、女御太夫さんでしたか?」
ヒロシはとぼけて言った。
「どうやら私は、長い間眠っていたようです。ところでハルアキさんは今まで何処におられたのですか?」
「私はずっとここにいて、あなたが目を覚ますのをじっと待っていたのです」
 そんなに長い時間ではありません、ほんの数時間です。営業時間が過ぎたので店員の少女達は帰しましたと言い、ヒロシが何を尋ねても知らないというばかりだった。
「藤原さんに渡すものがあります。大切な忘れ物ですよ」
 ハルアキは奥に入り、見覚えのあるリュックサックとスケボーをそれぞれ左右の手に持って出てきた。
 僕は一刻も早くハルアキから離れ、この場から立去りたかった。
 ありがとうと僕はそれを受け取り、そそくさと出口へ向かう。
「送りましょうか?」と言うハルアキに
「結構です。ここからは自分で帰ります」と別れを告げて店を出た。
 
 リュックを背負い直し、スケボーはと見ると何だか動きそうな気がする。それで、靴に取り付けてみると、パイロットランプが点いた。リュックの中身はと、改めて見てみるとそのままあった。だが、ケータイはやはり無くしたようだった。リュックの中にも、自分のスーツのポケットにも入っていなかった。
 ケータイがないと、心配しているだろう会社の仲間にも連絡ができない。とにかくまず会社に戻ろうと思った。
 スケボーをスタートさせると、以前のように軽快に走った。
 南に下り、国道二十四号に出て西に向かう。

 会社の最寄り駅、ジェイアール北宇智駅前を通ると、見慣れた車があった。明日葉をデザインしたロゴが側面に入れられたスマートカーだ。
「お帰りッ藤原。遅かったな」車の中から声がかかった。
 専務の安田だった。学生時代からの友人なので二人だけの時は名は呼び捨てだ。
「おう、安田か。迎えに来てくれたのか」
「いや、昨日から何の連絡もなかったからな。酔っぱらって駅で寝ているのかも知れないと思い、立ち寄ってみただけだよ。あ、それとこれ、ケータイ。お前の机の上で充電やりっぱなしになってたよ」
 僕がありがとうと受け取ると、安田は安心したとでも言うように白い歯を見せた。
 僕は、昨夜飲み過ぎて知り合いに泊めてもらったのだと話した。安田も詳しいことは聞こうとしない。 
「安田、すまんがちょっと付き合ってくれないか。一緒に行ってもらいたい所があるんだ」
 ヒロシは、そんなに時間はかからない、車に乗せてくれと言って、履いていたスケボーを外すと、後部の小さなトランクに入れた。このクルマは社用車で、ヒロシも日常的に乗っている電動式の三輪乗用車だ。前席が二人乗りになっている。
 僕は反対側に回り込んで助手席に乗り込む。
「安田、高天彦神社へ行ってほしいんだ。場所は知っているだろう。 あの辺りを今一度よく見てみたいんだ」
 僕は安田の横顔を見ながら言った。

 北宇智駅から神社までは三十分もかからない。狭い参道を西に上って行き、右側に駐車できるスペースを見つけて、そこに駐車してくれるよう安田に言った。
 もっと先の社殿近くにでも駐車できるのを知っていたが、僕は手前から歩いて見てみたかったのである。
 僕は、昨夜人形の屋形へ行った時の記憶を思い出しながら歩いた。
 スケボーが走らなくなり追われるように逃げた道は、この付近のはずだった。 
 古杉が左右に林立する参道を二人は上がっていった。正面に鳥居が見えてくる。そのまま真っ直ぐ進むと、まるで結界でも張っているかのように、鳥居前に水路があった。水は鳥居に向かって左から右に流れていた。農業用水のようだ。
 あの時、この神社の境内を流れる水路には気付かなかったが、確かにこの神社の参道を歩いていたように思う。そして段々滝とでもいうような小川に行き当たった。僕は記憶を辿って歩く。あの時と同じ道だとすれば、この奥には小川が流れているはずだ。

 農水路に沿って上手(かみて)に上がって行く。すると、すぐコロコロコロと水音が聞こえてきた。茂みを分け入って中に入って行くとその先に小さな滝が見えた。農業用の水はここから引いているのだと、はっきりと分かった。人形の屋形に行った時と同じ状況かどうかを確かめようと、下流を覗くとその先にも滝が見える。
 茂みが深く更にその先までは見渡せなかった。そしてその滝にアワビのような貝が棲んでいるかどうかも確認できない。
「あれは、夢ではなかったかも知れん」
 僕が小声で呟くと、それを聞きつけた安田は言った。
「おい、藤原!お前は何を言っているのだ。少し頭がおかしくなったのではないか?」
「そうだな。少しおかしくなっているかも知れん……」
 僕は打ち明けるように言う。
「実はなあ、安田。俺は昨日狐に騙されそうになったんだ」
「ふーん。それは大変だったな。だが喰い殺されなくてよかった」
 安田は苦笑いしながら言った。
「俺一人で来たのでは、また騙されるかも知れないと思ってな。それでこうしてお前にも付いてきてもらったんだよ」
 僕は安田に、そう言う訳だからもう少し付き合ってくれと言って二人で神社境内まで戻って来た。

 境内をゆっくり見回ったが、特に何も無かった。あの不思議な人形たちのいる屋形も、カラスたちが合唱していた岩の入り口も、何も無かった。境内は閑散として人影すらない。
 安田と歩き廻りながら僕は、昨日のことはやはり夢か、それとも本当に狐にばかされたのだろうかと思いはじめていた。
 あきらめてクルマを停めている所まで戻ろうと、鳥居の所まで来て、その前の水路に僕はふと目をやった。水の中を何かが動いた気がしたからだ。水路の水は南から北の方向に流れていた。流れに沿って見ていくと小さな取水溜りがあって、そこにフナのような魚が泳いでいた。
「おい安田、あの魚見てくれッ」ヒロシが呼んだ。
「背びれが欠けているぞ。それに動きが変だな。おいッあれは生き物なのか? 機械ではないのか」
 僕が指さす水路を見て安田が言った。
「ああ、あれは機械だと思うよ。前にも俺は見たような気がする」
 改めて見ようとしたが半機械のような魚影はもう消えていた。
「ここはどうも変な所だな。狐に騙されると言うより、ここは怨霊が跋扈している空間ではないのか」
 古代史が趣味の安田は言い、その知識を披露しはじめた。

――「日本書紀によるとだよ……」安田は古典の記述を話し、それをふまえて自分の考えを語ろうとする。
――イワレヒコが東征して大和入りした頃、まつろわぬ民とされる葛木の土民に、土蜘蛛と蔑まれた一族がいた。古代大和の新しい大王となったイワレヒコは、彼らを下層民に貶め隷属させようとする。支配下に置かれることを拒んだ土民たちは抵抗し、結果的に大部分が誅殺されてしまう。『書記』によれば、「葛の網で搦め捕り殺した。それからこの地を葛城というようになった」というように記されている。また別の記述では「高尾張邑(たかをはりのむら)に赤銅八十梟師(あかがねのやそたける)あり」という記事もあって、ヤソタケルとは土民の首領である。高尾張とは葛城の古い一地名ではあるが、一説ではヲハリは尾有りで、尻尾がある人の意味があって、蔑視した命名らしい。――

「そこで、ここの高天彦(たかまひこ)神社の話しになる……」と安田は続ける。「ここの祭神は高皇産霊(たかみむすび)神となっているのだけれど、本来はタカマヒコ神だったと考えられるんだよ。タカマヒコというのは土蜘蛛の首魁で、天孫族に誅殺されたのが真相だと思うんだな。つまり天孫族は祟りを恐れて神社を建立し、その霊を慰めて怨霊を封じたのだと俺は思う」
 だがその恨みは深く、とても封じきれなくて、怨霊たちは今もこの辺りを跋扈しているのだろうと安田は言うのだった。
「だから狐に騙されたと言うより、怨霊のなせる仕業ではないのか」
「そうかもな。だからお前に付いて来て貰ったのだよ」
 二人は参道を降りて行き、駐車した場所に戻った。左右からクルマに乗り込む。助手席で僕はクルマに置いていたリュックサックから小型の紙ノートを出した。いつも不意に思いついたことをメモっているのだ。
 ―通販新商品 魚の玩具 人形娘たちの作品 ―
 僕は覚書きとして、このようにメモしておいた。
 二人を乗せたクルマは会社のある五條市に向かって走り出した。

                       土蜘蛛物語 了



  登場人物

僕  (藤原イサオ)
陰陽師(安倍ハルアキ)
女執事(イワノ)
人形娘(アケミ)
専務 (安田)

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