真野時綱について
掲示板より真野時綱に関連する記事のみ抜粋して一覧

[549] 真野時綱(11) 投稿者:やさか 投稿日:2009/11/17(Tue)
このほど真野時綱著『古今神学類編』中・下巻を入手しました。
と言いましても実は『神道大系』に所収のものをです。
『神道大系』首巻二・三・四巻に『古今神学類編』(上)・(中)・(下)巻がそれぞれ収載されていることが分り、
このほど三冊まとめて購入しました。昭和56年から同61年に発行されたものです。
以前からぜひ手に入れたいと思っていたところ、運よく見付けました。再版の予定は今のところないようだし、
この機会を逃すと二度と手にできないかも知れないと思い、私としては高価な買い物でしたが思い切って買いました。
以前より探していた津島神社が発行した津島叢書としての『古今神學類編』は、
昭和18年3月30日付発行の「上巻」を最後に、それに続く「中巻」・「下巻」は発行されなかったからです。

神道大系編纂会常務理事、大野健雄氏のことばによれば、
中・下巻用の残り原稿一切が昭和20年1月28日、
岡田米夫氏自らの手で西濃印刷会社に運び込まれてあったが、
同年6月9日、B29による熱田空襲で印刷所は岐阜市街もろとも灰燼に帰したからだそうです。
それで、中・下巻の発行が中断していたのだが、昭和50年11月、神道大系編纂会が発足して、
また岡田米夫氏が古今神学類編の校注をすることになった。
底本は、岡崎市亀井山萬徳寺所蔵の真野時綱自筆稿本を用い、
校合には、国学院大学蔵黒川本を板本とともに対校本として使用した。
作業進行中、岡田米夫氏が「上巻」刊行の前年に逝去したため、故人の学統を継ぐ皇學館大学の
西川順土教授に続編の指導・監修をお願いして完成をみたのだといわれます。
当時の熱田神宮、篠田康雄宮司は、
月報に寄せた短文「岡田米夫君を憶う」の中で、共に神宮皇學館・歴史科で学んだ同窓生であったこと。
昭和5年卒業で、岡田氏は良く勉励して成績が抜群、卒業時には恩賜賞を得たほどだったと記されています。
――参考:昭和61年2月付「神道大系 月報54」

[548] 真野時綱(10) 投稿者:やさか 投稿日:2009/11/16(Mon)
『津島の文化財』には、他にも次のような時綱関連の記事があります。
―――――――――――――――――――――――――――
市指定
●真野時綱の墓    一基
弥生町 延命寺
高さ一四五センチ

真野太郎太夫時綱(慶安元〜享保二年 1648〜1717)は通称逢殿之介。
晩年に蔵六翁、藤浪翁などと号す。心廓了堂居士は法名。
津島神社の神官家太郎太夫家に生れ、若くして向学の志篤く十八歳で京都に遊学。
久我雅通、卜部兼魚等に師事した。
三十五歳で家業を継いだ後も京都へ行き来し、勉学を続けた。
著書に『古今神学類編』(一〇二巻)『藤波私記』『元禄注進記』がある。


市指定
●真野時綱筆大祭勧例帳   三冊
   付 稿本一冊
南門前町一 津島市
縦三一センチ 横二三センチ

大祭勧例帳(上・中・下)三冊は、津島神社の神官であり神学者であった真野時綱が、
元禄十五年(1702)にまとめた自筆稿本で、筏場車の車屋大橋源右ヱ門家に伝来してきた。
「大祭元由考」・「車考」・「系譜考」などとともに、大永二年(1522)から元禄十二年までの
祭礼記録を漢文体に記している。
尾張津島天王祭の起源は古くて明確ではないが、
時綱によって貴重な記録がまとめられた意義は大きい。
稿本(和文)と称されるものは筏場車屋おいて記録され、数回にわたり追加編集たと思われる。
これは勧例帳著述の資料となったと推定され、類例が少なく貴重である。
―――――――――――――――――――――――――――――
以上、同書より引用

[547] 真野時綱(続9) 投稿者:やさか 投稿日:2009/11/09(Mon)
[523]真野時綱の書き込みの続きです。

過日、津島神社に「真野時綱筆絹本淡彩七福神図」を拝観させていただこうと、
『拝観願い』を書いて出してみたのですが、却下されました。
でも、神社のご好意でカラーコピーを戴いたので、コピー元の資料名が判りました。
昭和62年、津島市教育委員会発行の『津島の文化財』という書籍です。
早速ネットで検索して古書店より買い入れました。カラー写真版で中々の上製本です。
七福神図が掲載された頁には次のような説明文が添えられています。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
市指定 真野時綱筆絹本淡彩七福神図 一面
神明町 津島神社
縦五三センチ、横一二九センチ

時綱(縄)は慶安元年(一六四八)、津島神社社家真野門大夫家に生れ、若年から向学の志篤く、
十八歳で京都に遊学。久我雅通、卜部兼魚等について神道・国学を修め、多くの著書がある。
中でも『古今神学類編』(一〇二巻)は代表作で、その学績は今日なお高く評価されている。
本図はその余技で、松樹飛瀑の下、舞い上った一羽の鶴を中心に七福神が交歓する様を軽妙な筆致で描いている。右下に「藤波俚翁図」に双郭隅入角印(印文時綱)の落款がある。/同書まま
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
正確に撮影され印刷技術も上々だと思うのですが、想像していた以下の小さな写真だったので、
残念ながら細部がよく分りません。
いつ一般公開されるか分りませんが、ぜひこの目で見てみたいものだと改めて思った次第です。


●真野時綱に関連して―――
津島市に真野時綱の墓所があります。
6月に墓所のある延命寺へ墓参したのは[523]で書いた通りです。
この折、親切に応対してくださったご住職が、このほどある本を送ってくださいました。
『辻正信と七人の僧』橋本哲夫著/光人社/ という本です。
これは帝国陸軍の鬼才と謳われた高級参謀の敗戦後の逃避行と、
それを陰から支えた青年僧七人のドキュメントです。
この七人の若者たちは熊谷陸軍飛行学校特操生で、
なんとその内の一人が津島延命寺の現住職その人だったそうです。
ここには現代の我々が知らない近代史が描かれてあり、
当時若者はどのような思いで戦争と向き合ったかがわかります。
興味深い本です。一読をお薦めします。

[523] 真野時綱(続8) 投稿者:やさか 投稿日:2009/06/21(Sun)
(やさか掲示板[504]、真野時綱の書込みの続きとなります)

先日、愛知県津島市へ行きました。
まず初めに、神明町1番地の津島神社に参拝。そこで禰宜さんと思しき方に自分の名を名乗り、
真野時綱氏について研究していることを申し上げ、
「真野時綱筆絹本淡彩七福神図」を拝観させては戴けないかと率直に申し出ました。
するとやはり、以前に電話で聞いたときと同様、
「『拝観願い』」を書いて出してみてください。内容を見て宮司が判断します」ということでした。

その後、すぐ近くの津島市今市場1丁目延命寺に真野時綱の墓所を訪ねました。
みるからに歴史が古いこの延命寺には、御住職夫婦が住んでおられて、
お寺の本堂内部も拝観させてくださり、御座敷で親切に真野氏について説明くださいました。
そのお話の中で、以前やさか掲示板[498]で書いた「吉野から尹良王に供奉して来た公家四家、庶流七家」の家名が分かりました。
●吉野から来た四家七党とは、
  四家:大橋、岡本、恒川、山川
  七党:堀田、平野、服部、鈴木、眞野、光賀、河村
  の各家ということが分かりました。ここに眞野氏がでています。
そして見せて頂いた寺の過去帳にはその筆頭に、眞野時綱門之太夫の名がありました。
また境内にある眞野氏の墓所には十基ほどの墓石があって、住職はその中の少し大きい墓石を指し示されました。
そこには、「心廓了堂居士」の戒名と、享保二年十一月六日歿と没年が刻されていました。(西暦1717年)
大神道家にしては、あまりにも質素な墓石の佇まいが印象的でした。

そのほか様々なお話を伺いました。
住職さん、連絡もなしに急に訪問したにも係わりませず、ご親切にありがとうございました。


[504] 真野時綱(続7) 投稿者:やさか 投稿日:2008/10/05(Sun)
[補足]

昨年、編纂が完結したという『神道大系』には、
下記のように、古今神學類編(上)、(中)、(下)が所収のようです。
でもこの底本は、萬徳寺に伝わる真野時綱の自筆稿本とは違うかも知れません。
―――――――――――――――――――――――――――――――――― 
           
『神道大系』全120巻 発行所:財団法人 神道大系編纂会(1977年設立) 
       財団法人神道大系編纂会 会長 松下幸之助

1.神道集成  校注者真壁俊信
2.古今神學類編(上)  校注:岡田米夫
 惣篇目: 松下見林序、真野時縄序、凡例、援引所考之書目
3.古今神學類編(中)  校注:岡田米夫
4.古今神學類編(下)  校注:岡田米夫

[503] 真野時綱(続6) 投稿者:やさか 投稿日:2008/10/04(Sat)
ネットで知ったのですが、真野時綱は絵画も描いていたようです。
それは、「真野時綱筆絹本淡彩七福神図」というもので、
津島神社所蔵ということですが、津島市指定文化財になっていて非公開とのこと。
神社に直接問い合わせてみたのですが、公開の予定は今のところありませんとのことでした。

私の手元にある『古今神学類編』は上巻のみですが、
その序文に当たる昭和18年2月3日付、岡田米夫の「古今神学類編解題」によりますと、
「校訂原稿の成るに従ひ、同年(昭和16年)11月30日岐阜市西濃印刷株式会社に依嘱して印刷に着手した。印刷の関係上、全一百巻はこれを上中下の三巻に分って編輯し、ここに先づ上巻の刊行を見るに至ったのである」
とあるのですが、どうも戦時中ことなので資材など様々な事情からか、引き続いて中・下巻の刊行はできなかったのでしょうか。
以前より中・下巻も手に入れたい(…と言っても高価で買えないかも知れません)と思って、
古書店(展)を覘いたり、ネットで探すなどしているのですが、何処にも無いようなのです。

『類編』の中・下巻を入手すること、「七福神図」を見ることがこの先の課題のひとつになりました。

[502] 真野時綱(続5) 投稿者:やさか 投稿日:2008/10/03(Fri)
早稲田大学東洋哲学会発行の『東洋の思想と宗教』第25号所収の矢ア浩之氏の論文、
「眞野時綱小論 ―神代圖顕彰に注目して― 」を読みました。
その論文では「時綱と延佳」の項を立てて、次のように述べられています。(以下引用)

「…松下見林との學的交流は終生變わらなかった。だが彼に決定的な影響を及ぼしたのは伊勢神宮の外宮祠官出口延佳(1615-90)との出合いであった。『古今神學類編』自序には、[頃歳伊勢の権禰宜度会延佳神主に叩て、若然(ひとなみにと傍記)神話の緒諸を聞に興れり]とみえ、両者の交流は若い頃に始まっていたらしい。延佳が元禄3年正月に没すると、時綱はその半年後には『神代圖解』を著して、いち早く先師顕彰の意を表明した。この『神代圖解』は延佳が42歳の時に認めた『神代の圖』と、その27年後の天和3年に認めた『神代圖鈔』を解説した作品である」(引用終わり)。

この論文を読んで知ったのは、時綱の『神代圖解』より先行して、
彼の師とも目される出口延佳の「神代圖」に係わる著作があったということです。
それを顕彰するために時綱が著したのが『神代圖解』ということになるようです。
延佳の『神代之圖』は漢文で、当時一枚の刷物で大量に配布されたものだったらしいといいます。
ちなみに時綱は1648年生まれ、その師ともいえる出口延佳は1615年生まれなので、
時綱は延佳より33歳年下になります。
この論文は、他にも興味深い記述が多くありました。

[501] 真野時綱(続4) 投稿者:やさか 投稿日:2008/10/02(Thu)
昭和20年3月19日の、いわゆる名古屋大空襲で名古屋市立図書館が全焼しました。
その際書庫も焼けて特別集書のうちの、真野文庫(真野時綱の遺蔵書)もすべて焼失したといいます。
真野文庫の蔵書目録を見たことがないので想像の域を出ませんが、多数の古書籍が失われたと思われます。
特に神道関係の、多くの貴重本が灰燼に帰してしまったことでしょう。まったく残念なことです。

古今神学類編に記載されている「古今神学類編援引所孝之書目」を見ても、時綱がどれほど多くの書籍を読んでいたかが分かります。
そこには國記、儒書・諸子・佛書と項目別に、驚くほど多くの参考文献書名が羅列されています。その最後には、
「右目録終」   
「都三百一十一家 和漢通會七百三十七家」と記されています。
つまり、737書もの文献名が挙げられているのです。
もちろん、ここに記された文献をすべて所蔵していたのではないでしょうが、ここに挙げられた文献以外の、
更に多い蔵書を保有していたのではないかと想像できます。

時綱本人著作の書誌・図書は、各方面各機関に保存(※)されているようですが、
本人が蒐集して大切に保存していたであろう蔵書の中には、随分貴重な、
希少価値の高い書物や、一点限りの古文書もあったやも知れません。
特に大切な文物は耐火書庫に保管するように望まれます。

※岡崎市・萬徳寺、津島神社、天理大学図書館、成田山仏教図書館他、個人所蔵もあり。

[500] 真野時綱(続3) 投稿者:やさか 投稿日:2008/10/01
『古今神學類編』のほかに、最近『神代圖解』も入手しました。
この古文書はいわゆる「写本」(書誌学でいう筆書き)なのですが、よく観察すると実に謎が多いのです。
この書物が真野時綱自身の手になる、自筆稿本であれば疑問は氷解するのですが、そのような貴重な稿本が私などの手に入るはずもなく、どのように判断すれば正解なのか全く判りません。それで書誌学風に書誌調査・報告の形を採っておきます。
もし、この掲示板を読まれた方で、この古文書について何かご存知の方、又は何か参考になるようなご意見がありましたらご教示頂ければ幸いに存じます。よろしくお願い致します。
(以下は真野時綱著『神代圖解』についての覚え書き)

1. 装 訂

@表紙は原装
A表表紙・裏表紙共墨絵付
B綴じ方は縒糸による明朝綴(四つ目綴)

表紙は袋形式ではなく、小口となる三方を内側に1寸(3センチ程)折り込んで糊付けしている。オモテ・ウラ両表紙共、墨絵付だが外題は無し。表紙裏はいずれも白地で絵・文字などは無し。

2. 料 紙
@料紙は美濃紙で表紙本文共紙
A紙の種類は薄漉きの楮紙

3. 書籍の形式
@ 大本(美濃判二つ折本)、縦形和綴
当該の本の寸法は、横190ミリ、縦258ミリなので大本(おおぼん)と判断。
(大本の正寸法は、横190に縦270ミリ)  

4. 写本か刊本か
当該本は字体や筆勢、文字の筆毛の擦れ具合などから写本であると見られるが、底本となる木板整版本があり、それから書写した転写本の可能性がある。

5. 書肆等
京錦小路新町西入町  永田調兵衛
上記のように記されて入るが、上記の版本から誰かが個人的に書写した可能性あり。

6. 外題・内題
「神代圖解」と前扉に墨書されているので内題である。

7. 前 付  前付は無し。

8. 本 文
本文は袋綴じ34頁。挿絵があり、要所朱墨入り。

9. 奥 付(刊・印・修等)
元禄四年辛未年正月吉旦
京錦小路新町西入町  永田調兵衛
書林 尾州本町両替町角  開板 木村五郎兵衛
 奥付には以上のように刊記が記されている。

 さて、ここで不思議なことに気付く。それは上記に「開板木村五郎兵衛」とあることだ。これは版本を意味する。手元にある『神代圖解』は、刊本といわれる整版本や活字版本ではなく、明らかに写本だと認められる。どういうことなのだろう。 調べてみると、

元禄四年刊、『神代圖解』
尾張木村五郎兵衛他板、荒木田広末旧蔵
という古書籍が実在するようだ。ネットで検索して本文の写真の一部をダウンロードして入手してみた。
よく観察すると、かなり文字が肉太になっているのが分かる。文字の濃さが均一で、字列に乱れも無いので活字版ではなさそうである。「かぶせ彫り」かもしれない。いずれにしても刊本であることには違いなさそうである。
では内容を検討してみよう。入手した部分は、本文の前半部分にある次の箇所だ。

圖解 時綱謹述…この条から続く八行の文列である。手元にある写本と比較すると、字体は全く違うが内容は一字として違わない、改行位置までそっくりだ。原本は同じであろう。
 手元にある写本は、まず原写本では有り得ないと考えられる。そのような貴重な真野時綱の直筆の稿本が私の手に入るわけは無いだろうと思うからだ。しかし、どう見ても写本としか判断できないこの本の奥付には、はっきりと「開板 木村五郎兵衛」と記されているのである。では、どう判断すれば良いのだろう。本来の「写本」には「開板」とは記さないはずだ。考えられるのは、
@ 原本は別にあった。
A 初めに刊本が出版された。
B その刊本をもとに、私蔵用として転写本を作った。
…と推理できる。つまり私の手元にある本は、転写本であると結論付けたい。
それでは、この転写本の作成年代はいつか?
刊本が出版された元禄4年は西暦1691年にあたる。慶安元年生まれの真野時綱43歳の時だ。この記述は信用できる。この時代の出版部数は現代から比べると驚くほど少ないはずだ。たぶん100部以下だろう。いや、もっと極端に少なかったかもかもしれない。内題から判断すると、一般向けではない。
この本はそれ故に、刊本といえども高価で貴重なものなのであろうことが想像できる。手っ取り早いのは、所有者から借りてきて写す事ではなかったか。そのように考えを巡らせると、刊本が世に出て間もなく、その本を拝借してきた人物が書写したものものではないか。
料紙の地色は、淡い肌色をしており紙厚は随分薄いものである。時代を経て少々黄変しているようだが虫喰いはあるものの、表面の美濃紙の質感は失っていない。袋綴じされている裏面を覗くと、文字がはっきり透かし見られるが、決して墨は通していない。刊行年と同時代の、楮を材料とした薄漉きの、いわゆる美濃紙であると思われる。
最後にまとめだが、この『神代圖解』は転写本で、元禄4年正月以降、あまり下がらない時代に、刊本より書写されたものと判断する。
装訂については表紙本文とも虫損があって、綴じ糸も綻びがあり、かなり傷んではいるものの、作成時のままの原装といえる。虫繕いや裏打ち等、まったく補修・改装はされていないからだ。
また、完本か否かについてはその内容をみると、「題辞」から始まって「奥付」まで連続しており、欠落が認められず完本と言える。
再述すれば、私が入手した古書誌『神代圖解』は、近世に刊本より書写された「転写本」であったと私は判断するのだが、はたして真実はどうなのだろうか。
(以 上)

[499] 真野時綱(続2) 投稿者:やさか 投稿日:2008/09/30(Tue)
『古今神学類編』昭和18年3月国幣小社津島神社社務所刊について―
当時の宮司伊達巽の序文によりますと、
真野時綱の自筆本百巻五十冊の完本を伝えた萬徳寺の了祥師が本書の刊行に協力。校訂は岡田米夫と記されています。その岡田米夫が書いた「古今神学類編解題」の項では、真野時綱の出自について触れている箇所がありますのでその部分を引用したいと思います。

「真野氏系圖では、弘治三年に歿した藤原綱清から記し…その出自を藤原氏としてゐるが、同條には[家ノ秘記ニ藤浪ヲ以為稱号云]とも亦[藤浪後眞野ニ改]とあって、近世に於いては始めに藤浪を称し、後眞野に改めたことが分かる。尾陽津島十一黨姓氏考(天明七年眞野豊綱撰)その祖竝改姓の由来について、始應永年中藤浪佐近大夫顯綱と云者我家祖たり。眞野式部少輔道資殊に睦まじくして我家に客たり。然るに顯綱男子無之故、道資男眞野蔵人道綱と云者を育ひ取て入婿とす。是より家號藤浪を改めて眞野とす。」

…とあって、ここに真野式部少輔道資との関連が記されています。また、略歴につきましたは、
「系圖によると時綱の父は重綱(天和二年歿)といひ、彼はその子として慶安元年に津島向島の邸に生まれた。天和二年(三十五歳)父の死により社職を継ぎ、元禄十五年(五十七歳)職を子綱廣に譲って隠居し、享保二年十一月六日七十歳で自邸に歿した。」となっています。

『古今神学類編』(ココンシンガクルイヘン)について―
本書は「神道の百科事典」ともいうべき性格の大著で、時綱35歳の頃に起稿して、完成したのは67歳であったとされているので32年ほど費やしていることになりる。しかし貞享4年(40歳)に成った『神家常談』をみると、古今神学類編の前身である『神学類聚』がこの時すでに出来ていることが分かる。
神学類聚は初め19巻本であったので、これが第一稿、次いで20巻に増加してこれが第2稿。その後の5年間に更に増補されて70余巻なってこれを第3稿。更にそれを元禄5年までに100巻にした第4稿で書名を改め、『古今神学類編』とした。その後更に改訂増補して、松下見林に添削を依頼するなどあり、書名も『古今神学類聚鈔』としたこともある。その後第5稿を経て、正徳5年から享保4年までに刊行されたものを第6稿と考えられる。
これらの刊本の他に自筆稿本があって、刊本にない訂正・加筆あるといい、それで昭和18年刊『古今神学類編』では、時綱が世に公にした第6稿本の版本を採らずに、時綱が歿する享保2年までに書き足し続けた自筆稿本を採用したのである。書名も自筆稿本により「古今神学類編」に統一している。
―以上同本「古今神学類編解題」を参考要約―

[498] 真野時綱(続1) 投稿者:やさか 投稿日:2008/09/29(Mon)
以前7,8年前に書いたことがある真野時綱について、もう少し述べておきたいと思います。

――眞野時綱(1648〜1717)は、江戸時代中期の神道学者で時縄とも書き、トキツナと称して「藤波」と号した。
晩年上京して伊勢神道、吉田神道を学んだ。
尾張津島神社の神官で、著作には『古今神学類編』など多数。(以上略歴)――

●以下彼の出自について考えてみます。
『尾張志』には、津島牛頭天王社(津島神社)の神官家について、「後醍醐天皇・皇子の宗良親王の子、尹良王は吉野から来た。そして津島の神官となり、後に氷室氏を称して歴代の宮司家となった。」というようなことが記されております。
また吉野から供奉して来た公家四家、庶流七家の内の一人に真野式部少輔道資という人物がいたともいいます。
『新撰姓氏録』には、「大和國右京皇別下 真野臣 天足彦國押人命三世孫彦國■後也。…」とあり、『日本姓氏大辞典』丹羽基二著には、「真野 まぬ。古姓。間野に通用。近江滋賀郡真野郷より起こる氏は真野臣の裔という。佐々木氏族。秀郷流藤原姓。桓武平氏北条氏族。同三浦氏族など。」とみえます。

以上から判断しますと、真野時綱は真野臣の系譜の流れで、吉野から尹良王に供奉してきた真野式部少輔の子孫ではないかと考えられます。つまり先祖は、尹良王の配下として津島神社に累代仕えた神官ではなかったかと思うのですが如何なものでしょうか。
(真野時綱の墓所は、愛知県津島市今市場1丁目 延命寺)


●以下は「神奈備・掲示板」への投稿録より

当方が投稿した真野時綱の関連記事のみ抜粋しました。それぞれ回答の書き込みを頂いていましたが、掲載の了解を得ていないので割愛しています。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
眞野時綱 H13.1.8
【眞野時綱】について調べています。どなたか教えていただけませんか。
  歴史人名事典などで調べると、
○江戸時代中期の神道学者(1648〜1717)
○時縄とも書き、トキツナと称して「藤波}を号した
○尾張津島神社の歴代の神官家である
○著書に「古今神学類聚鈔」などがある
○上京して伊勢神道、吉田神道を学ぶ。師友に松下見林、出口延佳ほか
 ・・・以上位しか分かりません。それで愛知県津島市神明町の津島神社を訪ねましたが
ほとんど上記以外のことは分かりませんでした。
「藤波」といえば現在の伊勢神宮の祭主は藤波道忠氏だと聞いていますし、また出口延佳といえば伊勢外宮の渡会氏だと思うのですが、関連があるのでしょうか?
真野氏の出自や系譜、その著書など、ご存知の方ご教示おねがいします。
ある方にお聞きしたら、眞野時綱の晩年は春日宮?の宮司長をして、98歳まで生きた。死因はモチ(イモ)を喉に詰まらせた。著書は国会図書館と東大図書館、英国の世界資料室?にある言われるのですが?・・・インターネットで検索してもよく分からないのです

…またある方の話によると 『日本神学類聚鈔』は、現物は日本には無く、東大の古文書収載分類室で、マイクロフィルムに撮ったものをコンピューターに入れて保管されている。担当は日本歴史解析特命班であるという。
本物の原本は、ロンドン大学・世界史資料分類学室にあるといい、本巻が18巻、目次本1巻の構成とも。…

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

真野時綱のこと(続) H13.1.25
 お陰様で真野時綱の著書の内、「神家常談」を読みました。
貞享四年(1687)仲冬望、尾陽海部郡門眞の庄津島にて眞野時綱手謹記とあり、その序文に
「唯往々聞にし談の中に耳底にとどめし事のみ粗記て神家常談と名付ぬ・・・中略・・・同士ならん人の神学に励べき一助ともならば是予が本意の事となるべし・・略」と記され或神家の云、・・・と始まり、教訓がつづられています。
その内より一つ。
● 或神家の云 むかしより神木を伐て血流、或は伐て神の祟たまふといふ事有り、神木は勿論子細有、さらぬ木とて精霊あることは白澤図?にも見えたり・・・・・唐の書にも所見有、木の精霊を木魂(こだま)とも樹神(こだま)とも俗にはいへり・・・とありました。
八十の木の種を播き植えて繁る野山も神の功し(ヤソノコノネヲマキウエテシゲルノヤマモカミノイサオシ)と、この日本を緑豊かな国にしてくれた【イタケルノカミ】に感謝して「さらぬ木とて出来るだけ伐らぬ」ようにしたいものですね。 
前頁より・・・● 真野時綱はすごい。
まだ私は読んでいませんが、三十数篇もの著作集の内の一つ、「古今神学類編」だけでも全十九巻もの膨大な書物らしいですね。
神国篇(第一巻) 神道篇(第二巻) 宗廟篇(第三・四巻) 神階篇(第五・六巻) 祭祀篇(第七・八巻)神器篇(第九巻) 祭任篇(第十巻) 爵位篇(第十一巻)  卜筮篇(第十二巻)  他教篇(第十三巻)服忌篇(第十四巻) 国史篇(第十五・十六・十七・十八巻) 歳時篇(第十九巻)だそうです。
【注】上記で、「全19巻」というのは、古今神学類編の前身 『神学類聚』のことで、これがいわゆる第一稿。続いて目次編(類聚鈔)を加えて全20巻とし、これが第二稿と考えられる。


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