天翔よ ハローモア
丸谷いはほ


 
 
 タニノハローモア、なんともさわやかな名を持つその馬は第三十五回日本ダービーの覇者。彼は、父ハローウェー、母ジョオーとの間に生まれた黒鹿毛のサラブレッド。
耳をすますと今もあの時の歓声が聞こえる。
 
 昭和四十三年の日本ダービー、下馬評は三強と云われたマーチス、タケシバオー、アサカオーの三つ巴と言われ、タニノハローモアはその陰にかくれて九番人気。
 一番人気の闘将マーチスは皐月賞の優勝馬、二番人気は関東ナンバーワンで野武士の異名を持つタケシバオー、三番人気はヒンドスタンの産駒、貴公子アサカオー。そのほかの若駒たちも、このダービーを目指して勝ち上がってきた、いずれも劣らぬ優駿揃いである。
 変則日程で七夕ダービーと言われ、七月七日に開催されたこの年の日本ダービー。折りしもこの日は参院選の投票日でもあった。こちらの全国区レースでは人気はいわゆるタレント議員候補で、翌日には予想以上の圧倒的な票差で一位・石原慎太郎、二位・青島幸男となり、共に三十五歳の青年議員の誕生となるのである。
 
 新装なったスタンドに十六万人の大観衆を迎え、ダービー一レースの売上も四十一億円と何もかも新記録づくめで、東京競馬場はファンの熱気であふれていた。
 レースはダテホーライが出走取り消しとなり、十九頭の馬たちがファンファーレと共に次々とゲートに入った。
 全馬一斉にスタートすると、すぐ先頭を奪ったのは好枠一番、マスクを付けたタニノハローモア。好位に付けるタケシバオー、中段にマーチス、後方待機は追い込みに賭けるアサカオー。
 意外な展開であった。タニノハローモアは前走までは差し馬だったからである。騎手の宮本は意表をついて逃げを打つ。一馬身、二馬身、三馬身、後続をどんどん離し、左回り東京競馬場の緑の絨毯を素晴らしいスピードで駆けていく。
 四コーナーを過ぎても他馬の追従を許さず、さらに引き離す。タケシバオーをはじめマーチス、アサカオーも追い上げにかかるがその差は一向に縮まらない。
 ハローモアはそのまま先頭でゴールを駆け抜けて行った。
 二、四〇〇メートル二分三十一秒一。
 五馬身差で二着にタケシバオー、三着アサカオー、そして本命マーチスは四着だった。馬場状態が稍重であったことを思うと、この勝ちタイムは決して遅いタイムではなかったが、レース後、評論家はこぞってフロック勝ちだと言う。三強が互いに牽制している間にまんまと逃げ込んだというのだ。
 だがハローモアは類い希なスピード馬だったのだ。その脚力が先行策で一挙に花開いたのである。
 四二〇キロ台の小さな馬体は鍛え抜かれていた。三歳時は勝ちまくり、ダービー前までに十七戦もしてすでに五勝を挙げ、もともと関西ナンバーワンともいえる実力馬だったのである。スパルタ式で有名なオーナーのもと、厳しい調教と酷使ともいえる実戦に耐え、とうとう四歳馬の頂点に立ったのだ。
 それにしても華麗な逃げだった。黒鹿毛の青い馬体が緑に躍動していた。均整のとれた細身のアスリートはダービーを勝った時が四三〇キロ。牝馬なみの躯で五〇〇キロ近い三強をスピードで圧倒した。
 レース後、騎手の宮本はインタビューに応えて言った。
「いつ来るか、いつ来るかと思っていたが、とうとうゴールまで後ろからの足音はきこえなかった」と。
 馬券の配当金は連勝複式一ー七で確か五、七三〇円。単勝は三、九六〇円で、いかにハローモアの人気がなかったかが分かる。実力があるにもかかわらず人気が低過ぎたといえる。
 事実この馬が三歳の頃、名手武邦彦がお手馬として調教していたことがあり、この馬の能力を高く評価していたという。
 
 秋になってハローモアは、京都で重賞レースを二連覇した。
 三週間後に菊花賞を控えた日曜日、朝早く友人と京都競馬場に行った。その日は京都競馬の開催日であったが、重賞競争が無かったこともあって朝の競馬場は空いていた。場内にはいると右の奥の厩舎のある方へ歩いて行き、友人の止めるのも聞かず、一人で厩舎に入っていった。友人には黙っていたが彼に会うのが目的だったからである。不思議と誰にも咎められず、タニノハローモアと名札の懸かっている馬房を探し出した。
 ハローモアは前足で地面を掻きならして遊んでいた。人の気配に気づいてこちらを見る。二メートルほど離れて見つめ合った。美しい目であった。涼しく澄んだ瞳の奥に何かを語りかけてくるような知性が感じられた。
 憧れの馬にとうとう会えた。近づいてその黒光りする肩に触れたい衝動に駆られたが我慢した。そのあと、スタンドに戻り馬券を買ってはみたが、競馬は上の空で頭の中はハローモアでいっぱいだった。

 菊花賞が近づくと舞台が関西に移って、ライバルたちが京都競馬場に集まってくる。春の三強に、ダービー馬のタニノハローモア、それにこの秋台頭したダテホーライを加えた五頭が、四歳最後のクラシック楯取りの有力候補である。
 菊花賞の当日がやってきた。
 好天に恵まれた京都競馬場。全馬一斉にスタートを切ると、ハローモアは鞍上に宮本を乗せ果敢に逃げる。先行馬が入れ替わり立ち替わりハナを奪いに来る。予想通りの展開である。ハローモアは必死に駆けた。しかし、今まで京都の外回り三、〇〇〇メートルの長丁場を逃げ切った馬はいない。最終の四コーナーを回ると、後続馬が一気におそいかかった。マーチスが来た。ダテホーライ、アサカオーも来た。
 (あのタニノハローモアの強さからすれば逃げ切れるかも知れない)と多くの人が思い、評論家も今度は単穴マークで予想していた。が結果は六着。
 先行馬不利のあのレースで、よく六着に残ったものだと専門家も今度ばかりは称讃した。四歳最後のクラシックレースに、ハローモアは若い生命を燃焼しつくしたのである。
 当時まぎれもなく二、〇〇〇メートルまでの距離なら最強だった。(宮本には悪いが)武邦だったら好位差しで勝っていたかも知れないと思う程、四歳の秋にハローモアは充実していた。菊花賞のあと何度かレースに出たが一勝もできずその年は終わった。

 翌四十四年春、中京競馬場で武邦彦が騎乗したことがあった。そのとき杉本アナが「これがご存知ダービー馬のタニノハローモア。今日は鞍上に名手武邦を迎えて、貫禄充分の一番人気」と名調子で紹介したことが記憶に残る。そのスタート前、テレビカメラは、返し馬でハローモアが振り向いた瞬間をアップで捉えた。美しい絵のようなワンシーンだった。ブラウン管を通して目が合った。
この中京記念二、〇〇〇メートルでもダートの王者ハクセンショウ、進境著しいダテホーライなどを相手に、先行逃げ切りを果たした。そのあと何戦かしたが勝てず、そのうち足を故障したとかでその年は出走しなかった。翌年正月の金杯にも出て来ず、春の天皇賞にも姿を見せなかった。競馬誌の便りで引退したと知った。その後は種牡馬になったが、子供を残したとも聞かなかった。
 毎年ダービーがあるたびにハローモアのことが思い出された。しかし何年経っても消息はまったく知れない。そして今年もまた夏が来た。
 その三十六回目の夏にこの詩を贈る
 あの日のおまえは美しかつた
 おまえの姿は緑に映え
 若い生命が 光を浴びて躍動していた

 三十余年の時節を越え
 あの感動がよみがえる
 おまえに贈る拍手と 歓声
 厳しい修練に耐え 栄光の楯を得た
 眩しいおまえがそこにある
 
 美しく速き馬 ハローモアよ
 おまえはいつたい何処へいつたのだ
 おまえの美しく輝く身体 
 涼しい目を思い出す 
 昨日のことのようにはつきりと
 
 今、おまえは天を翔るか

●この時代、競走馬の年齢は数え年で呼ばれていた。つまり生まれた年は当歳馬、翌年明けると明け二歳馬、明け三歳馬、明け四歳馬というわけである。クラッシク・レースの皐月賞、ダービー、菊花賞の三大レースはこの時代にいう「四歳馬」のレースだったのである。
たいていの子馬は4月から6月に生まれるので、ダービー出走時点では、まだ満三歳にもなっていない馬がいたことになる。

●このエッセイは平成13年5月10日に、「ダービー馬へのレクイエム」とタイトルをつけて当ホームページ・やさか工房 「地球賛歌」に掲出していたものを一部内容を変更して、ページを換え再掲出したものです。
   
(変更再掲出:H16.10.6)

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