真朱の姫神 第四部・黎明編
                                                                                  
 六、再  会

 閩越(びんえつ)の閩中港(びんちゅうこう)では、呉徳(ごとく)が一族の者達と共に胡傑や葛洪が来るのを待っていた。
 呉徳は、あらかじめ胡傑たちが脱走した後の逃走の手だてをすると、一足先に閩越の港に向かっていたのである。元々徐市らの船団を追って自分たちも東海に向かってこの国を捨てていくつもりだったので、一族をまとめて港に集合させていたのだった。もし、胡傑や葛洪がこの港に予定の頃までに来れないと判断した場合は自分たちだけで出航するつもりだった。始皇帝が、呉徳が胡傑らの脱走に加担したことを知り、すぐ追手を差し向けているだろう事が予想されたからであった。
 事は急を要する。まさか我々が計画的に国外脱出を計り、徐市らの船団を追って集団移民を画策していたとまでは思わないだろうが、軍律を破り命令を無視して、軍を脱走した胡傑らの逃走に手を貸した事実を始皇帝が知れば、決して許されることではなかった。すぐ追手が差し向けられ捕らえられ全員八つ裂きにされるだろう。
 呉徳は気が気ではなかった。早くこの国を離れないことには捕らえられる。呉徳は始皇帝の残酷さはよく知っていた。衆人環視の中での、残忍な刑の執行を目の当たりにしている。呉徳は恐ろしくてならなかった。一刻もこのような国に長居したくなかった。幸い呉徳は始皇帝に気に入られ、商人としても他人が羨むほど皇帝の信頼を勝ち取り、大きな利益を享受していた。それだけに今回の行動は、決して許されない皇帝に対する反逆行為となる。

 呉徳は今まで皇帝の期待に違(たが)わず、様々な要求に応え、秦国の発展に貢献してきた。気に入られようとして精一杯の努力もしてきた。もちろん商人として利益は十分にもらったが、いつも綱渡りのような商いだった。納期や品質への要求があまりに過酷だったからである。人物としての始皇帝は好きだったが、いつも命懸けで、実のところ逃げ出したいのが本心だったのである。逃げ出したのを知ると皇帝は(何故だ?)と落胆し、そして次の瞬間には怒りが心頭に達し逆上するだろう。
 始皇帝に仕えている者は、将軍であれ丞相であれ、呉徳のような商人であっても、いつ首が胴から切り離されるかとビクビクしている。民は重税と徭役にあえぎ、恨みの声がこの国中に満ちている。この国は長くはない。皇帝の命も長くは持つまい。あとは戦乱の地獄が続くばかりであろう。一日も早くこのような国から逃れ、海の向こうに理想の国を作って住みたいというのが呉徳の念願だった。

(今日一日だけ待ってみよう。彼らが来なくても明日には出航しよう)呉徳はそう心に決めて待っていた。しかし、その日も暮れてしまった。
「明日、日の出と共に出航する、そのつもりで準備せよ」
 呉徳は水夫長に命じた。
 そして次の日の未明、呉徳の号令で一族の者達が忙しく出航準備を始めた。
 鳥たちのさえずりが聞こえてきて、東の空が少しずつ明るくなって来ていた。胡傑や葛洪らはまだ来ない。とうとう朝陽が上り始めた。
 一族の者達に急かされた呉徳は、とうとう大声をあげた。
「出航!」
 漕ぎ手らが櫂を海面に突き出した。
 水夫達は錨を引き上げはじめた。
「おーい、待ってくれーッ」
 遠くから叫び声が聞こえてきた。
 呉徳はその声を耳にすると、ほっと笑顔を見せ、出航を待つよう水夫長に命じた。
 桟橋で待っている呉徳のところへ胡傑(こけつ)と葛洪(かつこう)がかけよってきた。
「おお、無事だったか」
 呉徳は葛洪の肩をを抱いた。
「胡傑、心配していたよ。無事に来て良かった」
 つぎに呉徳は胡傑に向かって言った。喜びと安心感を身体中で表していた。
「呉徳、待ってもらって申し訳ありません。もう出航してしまったかと思いました」
「いつまでも待っていましたよ、と言いたいところですが、ご覧のように出帆寸前でした」
 胡傑はあたりを見回した。出港の用意はすでに整い、人々はそれぞれが持ち場に就いている。五人が乗り込むと呉徳は号令を発した。
「出発!」
 舳先に立つ水先案内人が銅鐘を鳴らした。
 水夫達が錨を引き上げると、もう帆を上げる準備をはじめる。すると船べりの漕ぎ手が沖に向かって櫂を一斉に動かしはじめた。沖に出るまで船の進行は漕ぎ手に頼るのである。
「呉徳、立派な船ですね。それに大勢の人に沢山の荷物。大きな商売ができたのですか」
「いや、大きな商いというより大きな賭ですよ。呉徳一世一代の大博打です」
 呉徳は胡傑の問いにそう応え、言葉を返した。
「東海の向こうの島へ行きたいと言うことでしたが、さてそれは何処ですか?」
 呉徳はとぼけたように聞いた。
「それは扶桑国という島です。ご存知でしょう」
「もしやそれは、蓬莱、方丈、瀛洲(えいしゆう) という三神山のあるという島ではないですか」
「秦国ではそのように呼ばれているのかも知れません」
「では、徐市が仙薬を求めて船出した行く先と同じではありませんか」
「私達は霊薬を求めたいのではない!」
 胡傑は否定し、そして言った。
「呉徳、先ほど大博打と言われたが、あなたは何処へ行って商いをするつもりですか」
「いやぁ…、もうとぼけるのは止めにしてはっきり言います。私もその扶桑国へ行きたいのです。ですが、交易をしようというのではありません。大博打と言ったのは引越ですよ、一族を引き連れての大移民です」
「移民とは驚きましたが、では行く先は一緒ですね。良かった、船賃は安くしてもらえそうだ」
 胡傑はびっくりした風に言った。

 葛洪から聞いていた通りだった。呉徳も秦国からの脱出の機会をねらっていたようだ。やはりこの国に失望して、新天地を求めての船出に一族の命運を賭けたのだろう。さすれば我々も同様ではないか。それに徐市らもまったく同じ考えから出発している。我々は目的を一つにした同志ではないか。これからは隠すことなく何ごとも話し、相談し、協力しあうようにしよう。胡傑は心に決めた。
 自分達も仙薬の入手が目的ではなく、東海の扶桑国で祖国の仲間たちと生活したいと考えている。それで、わが国の姫をはじめ我らの仲間六人を徐市の船団に潜りこませたことを打ち明けた。そしてその航海中の船団にいる姫と仲間らに会いたい。何とかその船に追いつけないだろうかと頼んだのだった。
「私の船は速い、大丈夫きっと追いつけるますよ」
「よろしく頼みます」
 呉徳は説明をはじめた。徐市らの船団は歴陽県の烏江から出航したはずだ。あの港はそこまで行くのはたやすいが、扶桑国のある方向に航海する場合は、沖に出てから難渋する。潮流に逆らうように航行しなければならないからである。一方、我らが出航した閩越からの航路は潮流に乗りやすいので船足は随分と違う。ただ注意が要るのは目的地近づいた頃を見極め、潮の本流から離れる頃合が肝心だと言うのである。失敗すると遥か遠方に流されてしまい、戻ることもままならないのだと言う。しかし早めに潮流から離れすぎると船足は鈍るので難しいところだが、うまく船を操ってきっと追いついてやると呉徳は自身ありげに言う。しかしこのような広い海で見つけられるのだろうかと胡傑は少々心配だった。

「なに、相手は六十隻以上の船団だ。それに目的地も同じだ。きっと見つけてみせるよ」
「ありがとう、追いついたら私と葛洪の二人は、仲間のいる船に乗り移りたい。たぶん一番後ろの船にいると思います」
 胡傑は呉徳に頼んだ。
 船は沖合までは主に櫂で漕いで行き、そこからは帆と、風向きによっては櫂で漕いで行く。東秦海の東方は黒潮が北東向きに流れているので、この潮に上手く乗れば帆も必要がないくらい速く航行できる。

 天候もよく航海は順調だった。呉徳の船には様々な道具や物資が積み込まれていた。なるほど移住してもなんとか生活できると思える用意ができているようだった。呉徳は徐市の航海にあたり、あらゆる航海の必需品や道具・物資の納入を託された商人だったので、同様のものを積み込んだのであろう。同乗している一族の者達もその殆どが様々な技術を持っているらしかった。学者もいれば工人もいるといった具合である。驚くことには船の中で何点かの植物も栽培していた。聞いてみると養蚕用の桑や五穀の苗だという。目的地に着けばすぐ植えつける為の用意のようだ。そうした様子からも、以前より一族もろとも移住を考えていたことが分かる。
 葛洪とその仲間の三人は、船内の呉徳の一族とすぐうちとけて親しくなった。そしてその中の職人達から何かと教わってもいた。また船乗りとしてもその仕事の一部を分担するようになっていた。葛洪は航海中、鳥を見つけては得意の弓で仕留めたこともあった。仲間の一人は船上から縄を付けた槍を投げ大魚をとったこともある。航海中の新鮮な魚や鳥の肉は貴重で皆に喜ばれた。また今までに見たこともない飛ぶ魚もいて、これを上手く網で捕らえたものもいた。塩漬けの肉や魚は積んでいたが、捕らえたばかりの魚は、船上では飛び切りのご馳走だった。
 この呉徳の船は統制がよくとれていた。一族ばかりで気ごころが通じており、食事についても、就寝においても、船内の生活で問題は起こらなかった。

 一方、徐市の船団は航海中様々な問題が発生していた。船数は全部で六十四隻もある。その乗員は、それぞれの船に徐市の一族に繋がる者達が多くいたが、それでも乗員の大多数は寄せ集めの工人や若者たちだった。食事の問題、寝床の問題、排泄の問題など、航海の初めのうちは特に様々な問題があった。仕事の分担に対して不満をぶつける者もいた。排泄は、後部の甲板から突きだしてある厚板の切れ目からするのだが、順序など多くの揉め事が絶えずあった。船内にはうら若い少年少女が多くいたので恋愛感情のもつれから喧嘩もあった。そのうち徐市の一族がだんだん指導的立場になって来、時を経るうちにだんだん纏まりが取れてきていた。
 船内ではそれぞれ職人から技術を習うことに真剣に取り組んでいた。少女たちは年配者から野菜や五穀の育て方を教わった。新天地につくとすぐに食糧の問題がある。真っ先に土地を開墾し穀物を育てる必要があったからだ。徐市は一族をはじめ、船団の主立った者には(もう秦に帰るつもりは無い、異国で生きていくんだ)とはっきりと伝えていた。少年少女たちも最初は異国に奴隷として売り飛ばされるものとばかり思っていたのだが、総船団長徐市の考えが少しずつ分かりはじめ、皆希望を持つようになっていた。
 そうなると何事も真剣になる。資質のある少女は朱虹に織物意匠の指導を仰いだ。また他の少女たちは小蘭に織物を習った。若者たちはそれぞれの職人たちから技工を学んでいった。大工仕事や木工、金属加工や武具製作それに陶芸などである。
 徐市は職人たちから学ばせるため、若者の適正を見ながらその職を振り分けた。
 全部で八船団。一船団八隻の構成なので総船数は六十四隻になる。しかし、全員が無事目的地に着けるとは限らない。暴風に遭うと遭難の危険も大いにある。たった一隻で未知の土地に流れ着いても生活して行ける手だてを考えておかねばならなかった。上陸した土地では敵対する勢力があるのは常識である。それだけに武器を備え戦闘の訓練も欠かせなかった。もちろん融和を図る手だてが一番大切なことは言うまでもない。
 
 ある日、朱虹や小蘭が乗る一番後を航行する第一船団第二船に事故が起きた。
 船長が海に転落したのである。死んだのは陳長官が送り込んだ船長だった。長官は始皇帝の意を汲んで、各船に監視を目的に船員を配置していた。
 朱虹が小蘭などから集めた情報では、夜中に船長が船尾で排泄中、船が揺れ海に転落したらしいというのである。
 朱虹は水夫長をしている金治適(きんちてき)に相談した。すると、
「何の心配もありません。大丈夫ですよ。操船は私が責任を持って指図します。何なら船長はあなたがやれば良い」とこともなげに言う。
 朱虹はやはり気になり総船団長であり、航海将軍でもある徐市に相談することにした。徐市の乗る船はすぐ前を航行している。金治適に頼んで船をすぐ横に寄せてもらい、凪(なぎ)を見計ってその船に移る。
「将軍、どうしましょう、船長が海に転落して亡くなりました」と徐市に会って報告し、指示を仰いだ。
「ハハハ、そうでしたか。よくあることです。他の船でも船長が二人、落ちて死んでいますよ。」
 まったく驚いた様子はない。そして、
「そうそう、その船には金治適という者がいるはずです。彼に操船は任すと良い。内部のことは十分にあなたができる。船長代行はあなたにお願いする」
 徐市は何の問題もなさそうに笑って言った。船に戻って小蘭にこのことを話す。
「姫さま、先ほど他の者に聞いたのですが、他の船でも船長が海に落ちているそうですね。船の揺れには気をつけないと危ないですね。あの方には気の毒でしたけれど、私はあの船長が苦手でした。いつも監視するように私たちを見てましたから。それに比べて水夫長はとてもいいひとですね」と言い、思い出したように続けていった。
「それに姫さま、あの金治適という水夫長は徐市総船団長の一族の縁者なんですって」と好意的な言い方をする。
「そうなの、それは知らなかったわ。でも何かと気配りができて、親切な人のようね」
「姫さま、話はそれますが、胡傑はいつ来てくださるのでしょう?戦場へ送られてしまったのではないかと心配なんです」
「小蘭、その姫さまは止(や)めなさい。これから先は姫ではありません。朱虹(しゅこう)と呼びなさい」朱虹は言い渡した。そしてやさしく続けて言った。
「そうだね、小蘭(しゃおらん)。早く追いついて来てくれるといいね。」
 きっともうすぐ来てくれるよと、朱虹は小蘭の顔を引き寄せ頬を合わせた。

 一方、胡傑や呉徳らが乗る船は、徐市船団の最後尾より遥かに離れた洋上を航行していた。四方が海原で一艘の船にも遭遇しなかった。それから何日も経った。
 ある晴れた日の早朝、夜が明けて明るくなった時、帆柱の上で水先案内が怒鳴った。
「船が見えるぞーッ」真っ先に甲板の一番高い部分に走り上がったのは葛洪だった。
 他の者達もウオーと甲板に駆け上がってくる。下から何かと上の水先案内に声を掛けるが誰にも何も見えなかった。帆柱の上の水先案内人は遠目がきくのである。ワイワイと下で騒ぎながらどのような船が見えるのか聞いてみると、帆柱に黒い旗を掲げているのが見えると言う。どうやら探している徐市らの船団の船らしい。
 少しづつ船団に近づいて行くと、帆柱の下で騒いでいる者たちにも船が見えてきた。黒い旗に龍の姿が染め抜かれているのがはっきりと見えた。
 呉徳も胡傑も一番高い帆柱の下へ集まってきた。
「間違いない、あの船は徐市船団の船だ!」呉徳は船団の船の特徴をよく知っていた。
「万歳ーッ、万歳ッ」みんなが快哉を叫んだ。
「呉徳、ありがとう!お陰で追いついたよ」胡傑は喜びのあまり呉徳に抱きついていた。
 もうあとは胡傑と葛洪の二人が、朱虹ら懐かしい仲間のいる船に乗り移るばかりである。
(ああ、とうとうアカリに会える)胡傑は喜びがこみあげてきた。

 呉徳の船は、徐市大船団の最後尾を航行している朱虹や胡傑の仲間らが乗る船の横を通る。向こうの方もこちらの船に気付いて手を振っている。その船には船体を寄せず、先にその先の徐市の船に向かう。まず徐市に会って報告し改めて了解を得るためである。
 船を寄せて呉徳と胡傑が乗り移った。会うと徐市は、何もかも分かっていたように船団に加わることを諒解した。このようになることも想像していたようで、胡傑が無事に脱走して来たことを喜んだ。胡傑は葛洪と二人で朱虹ら仲間の乗っている船へ移った。徐市は胡傑をその船長に任命した。船団は呉徳とその一族が乗る船が加わったので総船数は六十五隻となった。その時点では、一隻の船も脱落していなかったが、乗員は三人の船長を含め事故や病気などで数十名が死んでいなくなっていた。
 胡傑は連れてきた葛洪を、朱虹や仲間たちに紹介した。葛洪は朱虹の従者の若者四人とすぐに打ち解けて親しく話し合えるようになった。
 胡傑と朱虹は一年ぶりの再会で、喜びで一杯だった。みんなの手前、近寄って抱きしめる訳にはいかないが顔を見合わすと、朱虹はいつも眼に涙を浮かべ、すぐに駆け寄ってきて抱きついてきそうだった。

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