真朱の姫神 第四部・黎明編
                                                                                  
 四、咸陽脱出

 胡傑(こけつ)は、咸陽宮城壁の中の訓練施設で兵員の戦闘訓練をしていた。ここでは各地から徴発してきた予備兵の中から、兵士として資質に優れた者を選りだして集めている。彼らに実戦の訓練を施すのが胡傑に命じられ役目だった。
 戦闘員としては、基本的に体力と運動神経が勝っていれば良い。兵士としてそれらの資質に優れた者たちに武器の扱い方を教え実戦能力を高めるのが訓練である。何よりも上官の命令通り行動することが求められる。号令通り忠実に団体行動ができるようになると、はじめて槍や矛に戈、盾などの使い方を指導し、実戦的な戦士を養成するのである。

 実際の戦闘に模して練習をするので、訓練生らは生傷が絶えなかった。以前は圧倒的に歩兵が多かったのだが、近年秦国は騎馬兵の養成に力を注いでいるので、馬に乗れる者、弓を引ける者が特に必要とされていた。以前は指揮官が戦車に乗って指揮をとり、その他ほとんどが歩兵で白兵戦を戦った。今では敵軍が近づくと初めは弩を一斉に放ち、次は騎乗兵が近づいて行きながら馬上から弓で射撃してゆく。
 合戦で威力を発揮するのは騎兵の持つ戈や矛などの長い武器であった。入り乱れての白兵戦となると歩兵による肉弾戦となる。歩兵は槍や剣で戦うのがふつうであった。実戦では馬上での剣は使いにくいものである。何人もの訓練教官が兵士を養成していた。胡傑はその教官の一人であった。その胡傑が受け持つ何人かの訓練兵の一人、葛洪(かつこう)は弓が得意であったが、人並み外れて運動能力が高く、騎乗の矛による戦闘訓練においても、剣による地上の戦闘訓練でも抜きん出て成績がよかった。ある時、訓練ぶりを巡視に来た胡傑の上官の目にとまった。胡傑を呼び止めて上官が言った。

「胡傑と言ったな。お前の訓練兵は皆優秀そうだな」
 胡傑は警戒した目で上官を見つめた。
「胡傑よ。匈奴との国境が不安定になってきてるらしくてな、北方に新たな兵士団を送るよう指令が出ている」上官は言った。
 北方の将軍からの要請で、皇帝が援軍を出す決定をしたという。それで、人選して早速派遣せよとの命令が出され、適当な兵員を探してのだというのだ。それで胡傑が受け持つ訓練兵に目を付けたらしい。上官は更に続けた。
「お前の兵士達はなかなか強そうだな。特にあの若者がいい」
 上官は弓を的に放っている葛洪を指さした。葛洪は胡傑の教官助手として訓練生の一人に弓の指導をしていたところだった。
「奴は弓だけでなく、武器に何を持たせても強いだろう。どうだそうだろう?、身のこなしを見ていれば分かるぞ」
 さすがに上官には分かるらしかった。胡傑は、その通りですと頷く。
「奴を訓練したのはお前だ。おそらくお前は戦場の指揮官としても優秀だろう。」
 上官は決めつけるように自分で頷くと命令した。
「お前を部隊長に任命する。訓練兵と共に三日後に北の国境へ出発せよ」
 否応はない。皇帝の命令として発令されたのである。胡傑らに出軍準備を兼ねた三日の休暇が与えられた。

 その日の訓練日課が済んだ夕刻、受け持ちの訓練生全員を集め、自分が部隊長となり北方に出陣することが決まった事を伝えた。誰もが戦役にとられた時から前戦に送られる覚悟はできていた。どうせ戦争に参加させられて死ぬのなら、自分らが少しでも尊敬できる指揮官の元で戦いたいというのが兵士の心情である。訓練生の誰もが日頃から胡傑の武人としての頼もしさに、憧れと尊敬の気持ちがあったので誰にも不服はなかった。むしろ喜んでいる者が多かった。葛洪などは待っていましたとばかり目を輝かしたくらいである。
 その日の夕刻、胡傑は外出許可を得ると、葛洪を誘い出して街へ出かけた。出発までの三日間は比較的自由にできる。当分の間は酒が飲めないので胡姫のいる酒肆(しゅし)に行くのが目的だった。

 店に入り、壁際に置いている簡単な木作りの胡座に二人が掛ける。すると向こうから笑顔で若い女が寄ってきて、黙って二人に木杯を手渡し、腕にかかえた壺から酒を注いだ。
 言葉は交わしていないが、この国の娘ではないことが一目で分かる顔つきである。代金を支払えと言うので刀銭で払う。
 一口飲んでから胡傑は言った。
「葛洪よ、君は実に弓が上手いな」まず褒めた。葛洪は嬉しそうな顔をする。
「三日後に出発することになったが、何か俺に聞きたいことはないか」胡傑は若者に尋ねかけた。
「はい。何も」若者は短い返事をした。そして、
「僕には親兄弟がありませんので」とつけ足したように言った。
「そうか」胡傑も短く頷く。ふたりとも黙った。もう一口飲む。
 卓上に置かれた器の中の干し肉を囓りながら飲み続けた。
 しばらくして葛洪(かつこう)が遠慮がちに聞く。
「教官、すこしお聞きしてもいいでしょうか」胡傑が頷くと、
「噂で聞いたのですが、教官の仲間達は教官と別れて仙薬を探す航海に出てしまったそうですね。それは本当ですか」と尋ねてきた。
「それは本当だ。でもそれがどうかしたのか」と尋ね返すと、
「僕はその船に乗りたかった。どうしても乗り込んで一緒に東の果ての国に行きたかったのです」と意外なことを言った。
「しかし葛洪、お前も聞いているかも知れないが、あれは東海の仙人に対する貢物で、人質と同じなんだよ。百工と童男女三千人、そして五穀の種と引替えに仙薬をもらって帰るんだ」
 胡傑は続けて言う。
「つまり、異国に置き去りにされると言うことなんだよ。挽き殺されて薬にされてしまうかも知れないんだ。それに航海は命懸けで、海は荒れ大鮫が襲いかかってくる。たとえ死は免れても一生この国へは戻ってこれないよ」
「死んでもいいのです。それにこの秦国なんか、何の希望もありません」
 葛洪は胡傑をじっと見つめ「フーッ」とこの若者にはふさわしくない溜め息をついた。
「先ほど出陣指令がでた事を話した時、お前は嬉しそうな顔をしたではないか」
 胡傑に言われて、葛洪は小さく頷いたが黙ってしまった。
 しばらく考えているようなそぶりだったが、意を決したように話し始めた。

「実は教官、僕は以前からいつか脱走してやろうと考えていたのです」
 胡傑が驚くようなことを打ち明けた。
「教官から出陣の指令を聞いたとき、これはいい機会だ。脱走するのはこのとき以外にはないと思ったのです」
 それでつい嬉しそうな顔をしたのかもしれないと葛洪はいうのである。そして、上官にこのようなことを打ち明けた以上、自分の運命は死か脱走以外にないとまでいう。教官が邪魔をするというのなら、今ここで闘ってでも脱走してみせると言わんばかりの覚悟が窺われる。
「さあ、教官、ここで僕を殺しますか、それとも帰って報告しますか」
 葛洪は立ち上がろうとした。
「まて!、葛洪ッ」
 隣で客に愛想を振りまいていた女がこちらを振り向いた。
「葛洪、分かったよ、静かに話そう」
 胡傑は手で座り直すように促した。
「お前の覚悟は分かった。では、俺も打ち明けよう」
 胡傑は小さな声で話し始めた。自分の仲間達のこと、東の国へ行くのが目的だったこと。それで、自分も機会を見て脱走し仲間達に追いつこうと思っていたことなどを話して聞かせた。
 葛洪は目を輝かせて聞いていた。
「葛洪、我々は同志だ。」
 帰ってからじっくり相談しようと二人は立ち上がった。
 帰ろうとする胡傑に、初めに酒を注いだ胡姫が秋波を送ってきた。そして寄ってくるとアラム語で、また来て欲しいというようなことを言った。
 紅灯緑酒、男ならまた来てみたいと思わされる店ではあった。

 帰り道、歩きながら二人は今後の行動について話し合った。話し合ったと言うよりも葛洪が胡傑の考えを聞き、ほとんどそれに従うというような話になる。北方への出発まで今日を含めて三日しかない。しかし、胡傑にしても確たる自信のある脱出計画はなかった。脱出後のことを考えると、協力者が必要なことは確かだった。この三日のうちに秘密を厳守できる協力者を見つけなければならない。胡傑は考えた。葛洪も親兄弟はいないという話だった。 
「葛洪、誰か協力してくれる人物に心あたりはないか?」
「先ほどから考えていたのですが、一人います」
 葛洪がいうには、同じ西戎(せいじゅう)出身の商人に知り合いがあるという。名を聞くと何と呉徳だというのである。同じ部族の出身なのだという。この咸陽へ来たのもその商人の口ききによるものだと話す。胡傑は、呉徳はすでに知っている男だということを伏せておいた。
「しかし、葛洪、そのような人物に話すのは危険ではないか」
 こう聞かずにはいられなかった。呉徳は、始皇帝に近い人物である。咸陽宮に出入りしてあらゆる物資の交易をしている政商とも言うべき人物と窺える。損得を考えても、とても協力してくれるようには思えない。
「教官、一度会ってみてください。お互いが気にいるかもしれませんよ」
 葛洪は直感でお互いが好意を持ちあえると思ったのだ。
 時間がない。胡傑はこの若者に賭けてみようと思った。連絡がとれるというので葛洪に任せた。

 すぐ会えるということになった。自宅へ来てくれということで、葛洪の案内で呉徳の屋敷へ赴いた。波斯(ペルシャ)邸である。始皇帝が全国から富豪を集めて住まわせたという豪勢な屋敷が建ち並ぶ地域にある。
 胡傑は以前、この商人の屋敷内の倉庫に仮住まいをさせてもらったことがあったので、もちろんこの屋敷の場所も、瀟洒なこの建物も知っていたが黙っていた。
 邸宅内の一室へと通された。はっきり見覚えのある、にこやかで体格のいい人物が入ってきた。
(もう呉徳に隠しておく必要はない。これも縁だろう。この人物に包み隠さず話をして協力を頼んでみよう)胡傑は決心を固めた。

「その節はありがとうございました。」
「いやいや。久しぶりですが、元気そうですね」
 二人はなつかしそうに、すぐ近づいて胡風の挨拶を交わした。
「えっ、何ですか?知っておられたのですか」
 葛洪が驚いている。
「葛洪、黙っていて悪かった。私の知っている人物と同じだと途中で気づいたのだが黙っていたんだよ」
「何ですか、人の悪い。僕は信用がないんですね」
 葛洪は不服そうに口をとがらせた。
「早速要件に入りたいのですが、私に協力して欲しいとはどういうことですか」
 呉徳はいきなり胡傑に聞いてきた。葛洪からは詳しく聞いてないようだった。
「北方出陣のことでしたら、陛下の命令で武器や物資はすでに万端整えて城内に搬入していますよ。それ以外に何かご注文でも?代金さえ支払ってもらえれば、私は商人なので何でもご用は承ります」
「でも、皇帝陛下に逆らうようなことはお断りです。私も命が欲しい」呉徳は続けていった。
(ふーむ、やはり相手がわるかったか)胡傑は会ったことを後悔した。この場ははぐらかすしかない。
「滅相もない、皇帝陛下を裏切るようなことはしませんよ」
 ここで胡傑は一息ついて考えた。
「あなたの交易船に人を乗せていただけないかというお願いです」

 胡傑は呉徳の表情を窺いながら、めまぐるしく頭を回転させて言葉をつないだ。何人を何処から何処へ乗せるかという問いに対しては、五人ほど閩越(びんえつ)の閩中港(びんちゅうこう)から東方の島まで運んでもらいたいと、かねてから考えていた地名を口にした。乗船の希望は一ヶ月後くらいだとおおよそを述べた。
 乗るのはあなたの知り合いかねと尋ねられたので、胡傑はその通りだと答え、
「もちろん、十分な代金はお支払いする」
 胡傑はじっと呉徳の目を見て言った。
「解りました。引き受けましょう。その代わり代金は高いですよ。」
 呉徳は、支払いは黄金(きん)だと条件を付けて、以外にあっさりと協力を約束した。

 胡傑は不思議な気がした。何故だろう、何故こんな危険な約束をあっさりと了承したのだろう。商人というのは金(かね)の為なら、どんなことでもするのか?、もし後で始皇帝が知ったらただでは済まないだろう。俺は嘘は言っていない、乗るのは俺を含めて俺の知り合いばかりの予定だ。一ヶ月後、乗船の際に俺たちが乗り込もうとすると、約束が違うと反故にするつもりだろうか?どうもよく分からない人物だと思う。表情の動きを寸分も見逃さないなかったつもりだ。あの表情に嘘はない。まさかわれわれを始皇帝に密告することはなかろう。胡傑は自分の直感と自分の運命を信じることに決めた。

 呉徳の屋敷を出ての帰り道、それぞれ乗ってきた騾馬に跨った二人は、轡(くつわ)を寄せて歩ませながら話しを交わした。
「葛洪よ、お前はどう思う。あれでお前は良いのか。心配はないのか」
「はい、あれで心配はないと思います。私はあのような結果になると思っておりました」
 葛洪はこともなげに答えた。
「しかし葛洪(かつこう)。お前は何故呉徳(ごとく)が協力してくれることが分かっていたのだ」
「はい。それは、何となくです」
 実は、と葛洪が話し始めた。商人の呉徳は葛洪と同郷で、そのよしみで時々屋敷へ行って話をすることがあるという。そのような時に呉徳が話すのは、この国の将来のことだった。それは、皇帝の命は長くない、それにこの秦国はもう近いうちに滅びるだろうという。
 何故かといえば、あまりにも過酷な税と徭役。そしてそれを強制させるための眼をそむけるけるほどの残酷な刑罰。民は疲弊し国中に怨嗟の声が満ちている。朝廷に仕える文武百官ですら陰口をきいている。そのような国が長続きするわけはない。自然に滅びるだろう。もし、そうでなくても皇帝は誰かにきっと殺されるにきまっているというのだった。
「この話は死を覚悟しての話です。僕はあなたに命を預けています」
 だからこのような命懸けの話ができるのですといい、実は呉徳はもう始皇帝を見限っているのだと話す。僕と呉徳は同郷の出身ということは話しましたが、つまり同族なんです。はっきりいいますと西の蛮族、犬戎(けんじゅう)の朋輩ですと話を続ける。
「私たち狗族(くぞく)は絆が強いのです。決して仲間を裏切りません。そして助け合うのです」
「私たちは政権に寄生して生きて来ました。しかしこの秦国はおそらくもうすぐ滅びて行くでしょう」
 それで、次の政権をさがしていましたと恐るべき事を言い出した。そして徐市という人物を見そめたのだというのである。しかし折角みそめたその人物がいうには、この広大な大陸はだめだ。政権が生まれては消え、新興国が勃興しては滅び、民は悲鳴を上げている。この国はいつまでたっても安定しないだろう。徐市がいうには、いっそこの国を飛び出して東海のかなたで理想の国を作ろうと言いだしたというのである。それで私たちは次の盟主を徐市と仰ぎ、国作りの手助けをしていこうと決めたという。
 聞いて胡傑は驚いてしまった。なんという若者だろうか。ただ者ではないと思う。

「葛洪、さあ話してくれ。もう身分を明かしてもいいだろう、俺たちは同志だ」
「すみません、分かりました。あなたに隠すつもりはなかったのです。実は私、犬戎出身でイカリと申す者です」と話し始めた。
 葛洪の父は、西戎(せいじゅう)国の属国・犬戎の王であったが、その盟主西戎連合国の大王に見捨てられ滅ぼされた。葛洪の父は殺され、王子だった葛洪自身も捕らえられ殺されようとしたが、その時秦国の御用商人になっていた呉徳に救われ、辛くも秦国に逃れて住み着いたという。秦国の始皇帝の出自も西戎だったのである。
 どういう手をつくしたのかはよく分からないが、呉徳は始皇帝にうまく取り入り、商人として皇帝から信頼されるようになっていたのだという。もともと才覚の働く有能な人物だったのである。

 胡傑は驚きと共に不思議な縁を感じた。
 初対面から、徐市にも呉徳にも、そして葛洪というこの若者にも何となく親しみを感じた。これも神の意志による運命というものだろう。自分もこの国に二度と戻ってくるつもりはない。幸先が良いと胡傑は思う。これなら皆が同じ目的で邁進できる。
「葛洪、正直に話してくれてありがとう。勇気がわいてきたよ」
「僕もあなたとめぐり逢えたことを神に感謝しています」
 これからは、軍からどのような手段で脱走するかと問題が残る。それこそ命懸けだと二人で語り合った。もう明後日には出陣なので時間は迫っていた。
 どのように考えてもこれといった良い考えはない。夜陰に紛れて強引に脱出するしかなかった。ただ胡傑は隊長だったので、ある程度の自由はきく。しかし、派遣される先は自分たちが乗船しようとしている地とは逆の、北方なので出発後はできるだけ速い機会に脱走しないことにはますます距離が遠のく。見つかって阻止されれば相手を殺してでも脱走するという覚悟がいるのである。
 二人でどのような経路でどこの港から出航するかについて話し合った。考えは同じで、閩中港から出航しようと決めた。問題は脱走してから海岸に行くまでの経路と道中の食料だった。陸路を行くための馬と、水路を行くための小舟の手配もいる。葛洪がいう。
「大体の手配はできます。もともと、いつか近い機会に脱走しようと考えていたのです」
 そのための手はずは考え、用意してきたのだという。
「あなたのような方が現れるのを待っていました」
 それで同じ気心の仲間を作るため、情報を仕入れるため、兵士としての腕を磨くためにも軍の訓練施設に潜り込んでいたのだというのである。
「私の他に仲間を三人加えさせてください。心配はいりません。僕が訓練所に来て以来の仲間で気心が通じています」
「もう少し仲間が欲しいと思っていた。丁度良い任せよう」
 呉徳が陰で葛洪の手助けをしているのだろう。胡傑は心強く思った。

 北の匈奴戦線への応援部隊出陣の日が来た。咸陽宮の広場に集合して朝明けと共に出発した。全員で五十人ほどの部隊であった。部隊長が胡傑、補助官が葛洪である。ほかに政庁長官直属の兵士が五名随行することになっていた。
 城門が開かれると、胡傑を先頭に北に向かって出発した。もちろん陸路である。胡傑が訓練をしたこの部隊は、騎兵を養成する部隊だったので、全員が騎乗している。
 脱走決行は出陣初日、野宿した深夜にやろうということにしていた。五人分の馬とそれぞれの食料は別に隠していた。皆が寝静まった後、葛洪の案内でその隠した場所まで皆が寝静まった後、徒歩で行くことにしていた。朝乗ってきた馬は置いて行くのだ。馬に乗って出るとどうしても騒がしくなり見つかりやすいからだった。野宿は各々が適当な場所で寝るので、そっと起きて歩いて行けば見つかりにくいという判断からである。

 当日夜になった。五人は示し合わせて深夜そっと部隊を抜け出した。各々手頃な武器は身につけている。胡傑は剣、葛洪は短剣と弓矢だ。他の若者三人もそれぞれ使い慣れた武器を携えていた。月明かりの中、葛洪が先に立って馬を隠してある場所へ急ぐ。南の方へ少し戻った先の、崩れかけた農家の廃屋に馬が五頭繋がれていた。呉徳の手の者が動いたのだろう。ここまで離れていれば馬の嘶きも馬具や武器の擦れ合う音も、蹄や話し声も聞こえない。ここからは只ひたすら南を目指させばよい。
五人が馬に跨った。このあたりの道にも明るい葛洪が先に立って駆け出そうとした。
「まてっ!」大声がした。
 声がした方を振り返ると、武装した大男がいた。一人である。随行してきた政庁直属の兵士だった。徒歩で後をつけてきたらしく馬がいない。
「貴様は隊長ではないか?」
 月明かりですかして胡傑を見た兵士が言った。
「何をしにいくのかと後をつけてきたら、脱走だなッ、戻れ!」
「見逃せ、俺はお前を殺したくない」
「そうはいかん、お前達を逃すと俺も生きてはいられないんだ。皆んな戻れ、黙っていてやる」
 兵士は強い声で言った。
 胡傑はその言葉を無視して葛洪(かつこう)に言った。
「葛洪、相手は一人だ。俺に任せろッ、皆と先に行け」
 葛洪は一瞬逡巡したが、胡傑が手ですぐ行くように命じると他の者達と駆け出した。

「さあ、こい!、惜しい男だが仕方あるまい」
 胡傑は馬を降りて兵士の前面に立ち塞がった。
 相手はすでに剣を抜いている。胡傑も素早く剣を抜き合わせた。相手の勇気に敬意を表し、馬を降りて対等に戦ってやろうとしたのだった。一対一で遅れをとるとは考えていなかったからでもある。
 しかし存外に相手は強かった。それに戦い慣れをしているようだった。すさまじい勢いで大剣が頭上に胴脇にと襲ってくる。胡傑は懸命に剣を合わせて防ぎ、体を躱す。実戦は故国での防衛戦以来で久しぶりだった。兵員養成の教官をしていても訓練と実戦はまるで違う。相手の攻撃を躱した瞬間に思い切って前に踏み込み、反撃を加えるのだが、ことごとく自分を上回る力で剣を跳ね上げてくる。
 胡傑は手こずっていた。簡単に片づけてやろうと思ったのだが、相手は大男で勇敢だった。劣勢で押され気味になってきた。胡傑はじりじりと追いまくられて下がってくる。さらに下がると躓いて仰向けにひっくりかえってしまった。相手はここぞとばかり上段から剣を打ち下ろしてきた。間一髪、胡傑は相手の足もとを一閃した。勝手に身体が反応したのだ。相手は前のめりに倒れてきたが、声もあげず、すぐさま起き上がると身構えた。相手は思いのほか猛者だった。しかし身体が震えている。見ると足もとから血が噴き出していた。剣を持って立っているだけで勢いっぱいのようだ。胡傑はすでに起き上がり体勢十分の構えがとれている。(勝った)と思った。次の瞬間、胡傑は相手の隙を見て思いきって踏み込み相手を刺し貫いた。
(惜しい男だった)と胡傑は思った。心の中で男の冥福を祈った。

 急いで葛洪らの後を追おうと自分の馬に寄っていったところへ、いきなり蹄の足音がして数人の騎兵が追ってきた。自分たちの仲間の一人がいない異変に気づいて急いで探しに来たらしい。
「おいッ何をしている、やッお前は隊長だな!」
 先に追いついてきた騎兵は胡傑の前に倒れている仲間を見てすべてを察した。
「脱走だな!許さぬ」
 胡傑は馬に飛び乗って駆け出そうとしたが、すぐ間近までせまり剣で襲いかかってきた。仕方がなしに相手に向き直って剣を交えていると後の三名も追いつき、後ろに回り込んで逃げ道をふさがれてしまった。初めの一人は切り伏せたが、後の三人に取り囲まれた。
 中の一人が言った。
「胡傑よ、お前は隊長でありながら脱走とはどういう了見だ」
「きさまは他の者を逃がしたな。すぐ連れ戻せ」
「お前の罪は分かっているな、死刑だぞ」追いついた騎兵達は口々にわめいた。
 問答無用とばかり胡傑は無言のままで相手に向き直った。
 相手は三人である(万事休す)と胡傑は観念したが、葛洪(かつこう)達が無事逃げおおせてくれればそれでよい。案内人の葛洪さえいれば閩中港までたどり着けるだろう。それから先は呉徳がなんとかしてくれる。ここはできるだけ時間をかせいでやろう。胡傑は覚悟を決めた。
 右に左に敵の鋭い剣を払いくぐっていたが、もはや時間の問題だった。兵士の訓練教官であったとはいえ、一対一なら何とかなるが相手は三人、身体も疲れてきていた。取り囲まれ追い詰められ、(もはやこれまで!)と思ったその時、
「ピュー」と風切り音がして正面の兵士がのけぞった。何事かと見回したところに蹄の音を響き、ピユーと二の矢が飛来してもう一人の兵士に突き刺さる。たじろいだ瞬間胡傑が飛び込みざまに一撃で斬殺した。そこへ若者が馬で駆け込んで来、横で矢を射られてもがいているもう一人に、近づいた馬上からもう一矢発射してとどめを刺す。
「おッ、葛洪ではないか!」
 胡傑は助かったと思った。残った一人は馬首を返して逃げた。胡傑は追う。後から葛洪が弓に矢をつがえて射ようとするが、木陰で月明かりが届かない。見当をつけて矢を放ったが手応えがなかった。
 胡傑は馬にムチををくれて追った。相手は懸命に逃げる。こうなると馬の脚力の問題だ。みるみる間隔を詰めていき追いついた。もう逃げ切れないと悟ると相手は振り返って応戦した。しかし、戦意をなくし一度逃げ腰になった兵士は弱い。胡傑はたちまち切り伏せた。
「教官、大丈夫でしたか」戻ってきた胡傑に葛洪は言った。
「おお、戻って来たのか。先に行けといったのに」
「教官を残してはやはり行けません」
「俺がいなくてもお前さえ行けば皆を案内できる」
 葛洪は言う。あなたがいないことには航海に意味がない、あなたはわれわれの指導者になる人だ。これからはきっと命を大事にしてほしいと言うのだった。
「葛洪、俺はこれから教官でも隊長でもない。胡傑と呼べ」
 胡傑は命令口調で言った。

 五人は先を急いだ。五人が乗る五頭の馬はいずれも劣らぬ駿馬だった。昔からこの国にいる馬とはあきらかに違う。大きく強く速い。何処の国の将軍も欲しがる龍馬(ロンマー)と呼ばれている西域の赤毛の馬だった。呉徳の心遣いをありがたく思う。
 道中、馬の背に付けられていた竹筒の水を飲み、干し肉や乾燥イチジクの実を囓りながらできるだけ先へ急いだ。堅い獣皮で作られた馬の背に置かれた座と、そこから左右下に垂らされた革帯は足を置くのに都合が良かった。長く乗っても疲れにくいし、足を踏ん張って立ち上がることもできるので、武器を振るって闘いやすそうだった。馬上から弓を射るのもたやすいと思われた。これも呉徳らの知恵
(※)であろう。

 渭水にたどり着くと船に乗った。呉徳の名を出して葛洪が交渉したのである。これは物資の商船でかなり大きい。馬も一緒に乗せて下流にくだる。この渭水は途中から河水に合流し更に東に向かって流れをくだる。川幅は広く黄濁している。落陽で下船してそこからは馬に乗り、秦嶺山脈を越え南へ行くと漢水に至たる。そこから馬と共に又船に乗り江水にでると、次は運河を利用して南へ南へと進む。運河が狭く、小さな舟に換えると乗ってきた馬を手放した。
 南船北馬と言われるように、この辺りの中国南方は陸路より水路が発達している。春秋・戦国時代から諸侯によって多く造られた運河は、所々狭く浅くなっているところはあったが上手く利用すると陸路を行くより格段に速かった。大部隊だとこうはいかない。これで日数は大分稼げるのである。

 先ほどから胡傑(こけつ)は考えていた。朱虹(しゅこう)たちはもう出航しただろうか。あまり遠くまで行かないうち、できるだけ早く追いつきたい。しかし、あまり強引に脱走したのであとが心配でもあった。世話になった呉徳に迷惑が及ばないだろうかと気になった。疑いがかかるであろう事は目に見えている。それに、皇帝は怒り狂ってすでにもう追手を差し向けているだろう。始皇帝は度量衡の制定の他、郡県制を敷き大道を整備して駅馬の仕組みを構築していた。都咸陽から八方に通じる道で伝令を飛ばし、次々に県令に命令を伝えて行く。
 胡傑捕縛の命令もすでに発せられていた。中国大陸は大河が西から東に通じているので、特に東への指令は早く届くが南北の交通はそうはいかない。北から言えば、河水、淮水、江水と大河川に遮られているので渡河して陸路を行くか、運河の通じているところまで廻りこれを利用するしかなかった。長江を下り黄海へ出るのはたやすいが、それだとすぐに捕まってしまう危険があった。それで胡傑たちは閩越(びんえつ)の海へ出るのを選んだのである。南行する我々より先に伝令が郡司に届いているはずはない。自分等は最短距離を最短時間で来たという自信があった。伝令は早馬を駅で乗り継ぎながら駈けて行くのである。もし伝令を見つけたら斬って捨てるしかなかった。

 気になるのは我々に手を貸した呉徳のことだった。
「葛洪、呉徳のことだがまさか捕らえられて殺されてはいないだろうな」
 運河を行く船上で胡傑は葛洪に言った。
「教官、いえ、胡傑…、」
 葛洪は言いにくそうにそう呼んだ。
「胡傑、心配はないですよ。呉徳はもうとっくに逃げていると思います」
 きっと一族を引き連れ、舟で我々と一緒にこの国を捨てて、東海に旅立つつもりではないでしょうかなどと、葛洪は何の心配もなさそうな顔でいう。
「海に出てしまえばこちらの勝ちです。呉徳の船は早いので追いつかれる心配はありません。まさか我々が徐市が率いる船団に加わって、一緒にこの国を捨て、大移民を企てているとは気づかないでしょう。また、気づかれてもいいではないですか」もうあとの祭りです。と言わんばかりに葛洪は笑った。

 運河が途切れ、水路が急に狭くなりもうこれ以上は進めないところまできて舟を下りる。 馬はすでに乗り捨てているので、ここからは徒歩であった。
 葛洪の連れてきた仲間の案内で、呉徳が船を廻している海岸を目指して五人が急ぐ。
 海の臭いがしてきた。目指す閩中港は近いようである。

この時代の秦国では、すでに銜(はみ)や手綱は使われていたが、鞍や鐙(あぶみ)は未だなかった。しかし、後の時代にみられるよう鞍や鐙の原形は、西域ではすでに工夫されはじめていたと考えられる。

目次へ 次頁へ