習作・短編

                   野   点

                                         丸谷いはほ         

 国道二十四号線から下市町ヘ向かう県道の、交差点の角に「吉野名物、柿の葉すし」と幟を出している店があった。
 何本もの緑色の幟が立てられたその駐車場に、北のほうから走ってきた一台の車が左のウインカーを点滅させて入ってきた。車が停まると左右のドアが開いて男と女が出てくる。男は五十歳前後、女は男よりかなり若く、三十代に見える。男が先に立って店に入り、続いて女が入っていった。しばらくして二人が店から出てくると、男の手には緑色の紙バッグが提げられていた。
  二人を乗せた車は、駐車場を出ると県道を東に向かって走った。 蛇行するゆるい勾配の道を、ハンドルを握って前方を見たまま男は女に話しかけた。
「足立さんは佳代さんというお名前でしたね」
「ええ、古くさい名前でしょ、よく友達からも言われました」
「僕はいい名前と思いますよ」
「いいんですよ。ほんと、古くさい名前なんですもの。でもね、私の小さい頃、人気歌手に森山加代子なんていましてね、テレビでもカヨちゃんカヨちゃんと、随分人気があったみたいです。その真似をしてお尻を振り振り『ちんちゃれーらりるーな、おやねのてっぺんでー』なんてね。廻らない舌で得意になって歌ってたと、よく母から聞かされました」
「想像できますよ。可愛かっただろうな」
「その頃の写真が残っていましてね、私のお気に入りの一つです。それだからではないんですけど私の名前、自分ではとても気に入っています」
「日本的で本当にいい名前ですよ」
「伊藤さんのお名前、まだ伺っていませんでした? 」
「タケルというんです。建築の建、それ一字のタケルです。僕の方こそ古くさい名前でしょう?」
 タケルと名乗った男は、左の席の佳代という名の女の方をちらりと見て言い、視線をすぐ前方に戻した。
「タケルさん、すてきなお名前。日本書紀にヤマトタケルという英雄がでてきますよね」
「父親が名付けたというんですが、ヤマトタケルとは月とスッポン、恥ずかしいですよ。でも僕もこの名は気に入っています」
「男らしくて、本当にいい名前だと私は思いますけど」
「いやぁ、嬉しいですよ。でも一般的にはお互いに古風な名かもしれませんね」
 と伊藤は少し照れたような表情で言った。

 伊藤 建(いとうたける)が足立佳代(あだちかよ)に初めて会ったのは三か月前だった。
 伊藤には妻子があり、妻は五歳年下で娘が二人いた。大阪南部の郊外から電車で大阪市内の会社へ通勤していた。会社は中之島にある中堅の広告代理店で、そこの制作企画部に籍を置いていた。仕事の関係でよく中之島図書館を利用していた。
 
 その日も企画書つくりのための資料を求めて図書館へ行った。仕事のために本を借りることはめったになく、大抵は閲覧机で資料を見てその場で簡単に纏めてしまう。複雑な資料の場合はコピーをとって帰り、会社で仕上げるので本を借りる必要はないのだが、貸し出しカードは持っていた。仕事とは直接関係のない本を借りて帰ることがあったからだった。
 伊藤の趣味は古代史である。この日も歴史関連のフロアへ立ち寄った。借りて読みたいと思う本があったからだった。本のタイトルは「大塔宮之吉野城」という。一通り書架を見て廻ったが目的の本はなかった。蔵書を検索してもらおうと貸し出しカウンターへ行った。
「本を探してもらえますか」
 と伊藤が言うと
「いいですよ。この用紙に書き込んでいただけますか」
 とカウンターの女性は事務的に小さなカードを差し出した。伊藤がそのカードに書籍名を書き込んでカードを渡すと、
「オオトウノミヤノヨシノジョウですね。少々お待ちください」
 その女性はそう言うと手元の端末のキイをたたいた。
「ありました。中岡清一の著作ですね。でもここにはありません。中央図書館の蔵書です。それにこの本は貸し出しは出来ません。館内での閲覧だけになります。それでよろしければ取り寄せますが、どうされますか? 」
「それで結構です。お願いします」
 そう伊藤が言うと、その女性は端末に向けていた目を上げて、そして言った。
「本が届きましたら連絡致しますので電話番号をお願いします」
 女性は先ほど伊藤が書いたカードを戻して、電話番号欄を指で示した。伊藤は自宅の電話番号を書いた。私用は区別したかったし、会社では外出することが多く、自分の席にいることが少なかったからでもある。伊藤が書き込んだカードに目を移したその女性の、長く美しい睫毛を見ながら伊藤は言葉を付け加えた。
「その電話、もし出なければ留守録にメッセージを入れておいてください」

 その後、何度か伊藤は中之島図書館へ行った。そのたびにカウンターでその女性と本の貸し出しなどで言葉を交わした。彼女は伊藤の名前と顔を覚え、ほほえみを見せるようになっていた。
 
 ある日、伊藤は郊外にある自宅の最寄り駅近くの書店で、偶然彼女に会った。伊藤はびっくりした。書店の近くの喫茶店に伊藤は彼女を誘った。喫茶店で話をして、彼女がこの近くに一人で、住んでいることを知った。名前は図書館の制服の胸に付けられていた名札を見て、足立という名だということは知っていた。一方、彼女の方は図書申し込みカードの電話番号を見て、その局番が同じであったことから、近くの方だと思っていたという。お互いの住まいは通勤の乗降駅を挟んで反対側にあったのだった。
 
 それからも帰りの電車で会い、お互いにつり革を持ったまま話をしながら帰ったこともあった。親しく言葉を交わすようになって、二人は奈良県の同じ地方の生まれだと知った。それもかなり近い。伊藤は吉野、佳代は五條市の生まれだった。子供の頃、同じように吉野川で遊んだ話が出て懐かしくなり、一度五條方面へご一緒しませんか、と伊藤が佳代を誘ったのだった。

 車は吉野川沿いの道を東に向かって遡上していた。
 清流はサワサワと光を浴びて輝いている。右に流れを見ながら走った。朝、遅く出かけてきたので、もう昼近くになっていた。
「足立さん、お腹が空いてきましたね」
「ええ、少し」
 佳代ははにかんだ子供のような顔で答えた。
「もう少し先にいい場所があるんですよ。小さな公園なんですがね、ちょっとしたテラス風になっていて、丸木作りの椅子テーブルがあって、吉野川が見下ろせて景色は抜群です。そこで先に昼ごはんにしませんか」
 しばらく行くと右側に鉄橋があり、吉野川を跨いでいる。その橋を渡らずに行くと、「栄山寺」の案内看板が左手に見えた。
「足立さん、今通り過ぎたのが有名な栄山寺ですよ。憶えていますか。一度は来たことがあるでしょう? 」
 佳代がうなずくのを見ながら、ご飯をすませてから戻ってきて見学しましょう、と伊藤は言い、さらに上流へ車を走らせた。

 柿の葉すしの昼食をすませて、栄山寺に戻ってきた二人は、西側の山門から境内に足を踏み入れた。川に沿って上流に細長く広がりを見せている境内には、萩の花が咲き誇っている。ほとんど散ってしまった百日紅のピンクの花を踏みながら鐘楼堂、大日堂、本堂、八角円堂と見て回った。五條市の東部にあるこの栄山寺は、藤原鎌足の孫、藤原武智麻呂が養老三年(719)に創建したと伝わる古刹で、国宝や重文が数多くある。
十二神将像を安置した本堂には、この寺の住職が撮影した仏画写真を飾るギャラリーもあった。
 吉野川とその北側の山合いの境内を二人はゆっくりと散策した。細長く続く境内は北側には山並みが迫っていて、建物は全て南向きに配置されている。一番北側の小高くなった日当たりの良いところに鮮やかな朱色の鳥居が見えた。鎮守社のようである。二人は鳥居をくぐり参道を上っていった。「御霊神社」と扁額の掲げられた拝殿で二人は参拝をした。
 爽やかな秋の風が心地よかった。空は抜けたように青く、文字通りの秋晴れだった。

 弾むような足取りで二人は参道を降りてきた。
 伊藤は初デートのような気分になっていた。佳代のことを魅力的な女性だと改めて感じていた。佳代は職場の図書館では、ほとんど口紅だけという風な薄化粧だったが、今日は少し派手な感じに思われた。口紅の色もいつもより赤く鮮やかに見える。もちろん制服と私服の違いもあるが、いつもよりはるかに若く華やいで見える。
 今日の佳代の装いは、ベージュのコットンパンツに、淡いピンク色のチェックのブラウス。その上からパンツと同色のブルゾンをはおり、薄茶のバックスキンの靴を履いていた。一方、伊藤は洗いざらしのグレイのコットンパンツに、淡いブルーのシャツ。それに麻のブルーグレイのジャケットを着ていて、靴はまるで申し合わせでもしたかのように、佳代と同じ様なバックスキンの靴だった。
 伊藤は旧式の一眼レフを持っていただけだったが、佳代は大きなバッグを大事そうに提げ持っていた。伊藤は重そうな感じがして気になっていた。
「足立さん、この辺りで休憩しませんか」
 伊藤は、代わりに僕が持ちましょうかとも言えず、そのような言い方をした。
「ええ、そうしましょう」
 佳代はにっこりとほほえみ、その辺りを見回した。伊藤はその周辺で、木陰になっていて平らな場所を見つけると、ここがいいですね、とでもいうように手で佳代を招き、その草の上にどっかと腰をおろした。それからすぐに相手のことに気付いて立ち上がると、ハンカチをポケットからを取り出して草の上に広げた。
「伊藤さんに、茶をお点てしたいと思いまして・・」
 そう言いながら佳代は、草の上に広げられたハンカチを、丁寧に折りたたんで伊藤に返すと、持っていたバッグの中から真朱(まっか)な布を取り出した。畳一畳位の大きさの布を、丁寧に広げると、次は小箱から茶碗を二つと茶道具、そして魔法瓶を取り出して置いた。
 佳代は手際よく野点の準備をした。準備が整うと茶碗に抹茶を入れ、お湯を注ぐと手馴れた手つきで茶筅を使った。
 どうぞ、と前に差し出された茶碗を伊藤は片手で取り、両手に持ち替えると美味しそうに
小さな音をたてて飲んだ。
「ごちそうさま。こんな美味しいお茶は初めてです」
 そして伊藤は、作法なしでごめんなさい、と言いながら両手で茶碗の感触を楽しんだ。しっかりとした個性が手に馴染んだ。
 佳代は今度は自分の茶碗にも同じように茶筅を使いながら言った。
「お茶は作法ではないそうです。心を伝えるのが一番大事と母から教わりました」
 自分で点てたお茶を、佳代は気楽な所作で飲んだ。
 伊藤は改めて茶碗を眺めた。黒褐色の茶碗は鈍く光を宿し、古代朱の赤色が調和を見せて配されてあった。
「見事な茶碗ですね。どなたの作品ですか」
「亡くなった父が焼いたものです」
 伊藤が訊ねるままに、佳代は陶芸家の父を早く亡くしたこと。女手一つで佳代を育て、大学まで出してくれた母も 近年病気で亡くなったことなどを話した。
「実は私、結婚していたことがあるんです」
 結婚をして、夫婦と佳代の母の三人で暮らしていたのだが、母が病気になったこともあってうまくいかず離婚した。それから一人暮らしをしていると佳代はいう。
「足立さんというのは、お父さんの苗字ですか」
「いえ、母方です。父が亡くなってから母方の姓に戻したのです」
「五條市に足立という旧家がありますが、ひょっとして親戚ではありませんか」
「遠戚になると母が言っていましたが、今はつきあいがありません」
「足立というのは、阿陀発ち(あだたち)という説があるんですよ」
 伊藤は足立氏について説明した。この地は昔、宇智郡阿陀(うちのこおりあだ)郷といい、このすぐ近くに阿陀比売神社(あだひめじんじゃ)という神社があって、この神を奉祭する氏族に阿陀の鵜飼部がいた。この氏族の一派が阿陀の地を発ち宇治の地へ、あるいは長良へ移住した。また鵜飼の生業(なりわい)を捨てた者もいた。これらの支族が足立氏を名乗ったという。
 彼等の先祖は記紀に出てくる古代吉野三族の一、苞苴担(にえもつ)の子といわれている。古代吉野三族とは、この苞苴担に、井光(いひか)、石押分(いわおしわく)を加えた三部族のことであるとも話した。
「実はねぇ、僕の先祖も古代吉野の三部族らしいんですよ」
 伊藤は自分の姓のいわれについて話した。伊藤というのは元は井頭で採鉱井戸の頭だった。つまり生業は採鉱だったと思われる。だから僕の先祖は井光であろうと説明をした。
「僕達の先祖は縁があったようですね」
 伊藤はちょっと嬉しそうに言った。
 
 前々から、佳代の写真を撮りたいと思っていた。でも撮らして欲しいとは言い出せず建物や景色ばかりを撮っていた。古代史を研究しているので資料を作るため、カメラは必需品だった。出かけるときはいつも、ニコマートをストラップだけで持ち歩いた。軽くて堅牢なマニュアル式が気に入っていた。最近のオートで動くカメラは信頼できず好きではなかった。
 伊藤は勇気を出して切り出した。
「写真を撮ってもいいですか」
 伊藤は佳代がうなずくのを見てから、ニコマートのレンズキャップを外すと、ファインダーを通して佳代のほうを覗き込んだ。佳代の顔の向こうには緑が広がり、片隅には朱も鮮やかな鳥居が見て取れた。ピントを佳代の顔に合わせ、背景は少しぼかした感じになるように露出を決めるとシャッターを軽く押した。一目盛り絞りを変えてもう一度シャッターを押す。
「僕、結婚しているんです。先に言わないですみません」
 伊藤は唐突に言った。
「そんなこと、・・勿論分かっていました」
「でも、はっきりとそんな風にお聞きしていましたら、こうしてご一緒はできませんでしたわ」
 佳代は続けて言った。
「佳代さん、あ、佳代さんと呼んでもいいですか? 」
佳代がうなずくと、
「また会えませんか」
 男はやっとの思いで言葉を吐いた。
 ぽっと男の胸に少年の日の、恋の火が点った。
 一方、女は答えに逡巡したが、「ええ」と一言、すぐに答えてしまいそうな予感があった。    
                                    了


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