真朱の姫神 第五部・未来編

丸谷祥雲
 
 
三、ひかりの会

 やはり実際の活動をしなければダメだ、そう思った井角建(いすみたける)は具体的に活動をはじめようとした。
 井角は初めから会の名を決めていた。「ひかりの会」というのが井角がつくる予定の団体の名だった。師、山辺光雲が主催していた会名を継承しようとしたのである。
 会の目的を次のように決めた。
●二十一世紀の中頃迄に奈良遷都を実現させる
●奈良に「ひかりの国・ヤマト」をつくる
●古き良き日本を取り戻して世界平和の礎とする
 井角はひかりの会二代目会長を名乗った。
 初代は勿論、師の山辺光雲である。
 光雲師はいつも言っていた。
 (日本の都は本来的にヤマトでなければならない)大和国とは今の奈良県だが、ヤマトは日本列島全体の意味でもある。古代には秋津島とも言った。このヤマトの国と同様に「ひかりの会」は、奈良県に本部を置くべきだと思う。つまり、ひかりの会は奈良県内の、何れかの地から発足させたかった。

 井角はその候補地を前から奈良県の五條市内にしようと決めていた。それは何故か。
 それは、五條という地は古よりとても由緒がある土地柄だったからである。五條市は、ほぼ昔の大和国宇智郡と地域が重なる。この宇智郡の中心地は須恵(すえ)という所である。この地名は陶器の須恵器に因む。つまり陶器製造の技術を持って渡来した陶工たちが集住した地域なのである。現在でも五條市須恵町という地名が残る。この須恵町には統神社というのがあり、この統(すべ)は須恵(すえ)につながる地名だと謂われている。

 この統神社のある辺りが古代宇智郡の中心地域だったようだ。すぐ近くには式内社の宇智神社もある。平安時代に成立した『日本霊異記』に、宇智郡(うちのこおり)に「内市(うちのいち)」という市が立っていたことが載せられているが、この内は宇智のことであることは言うまでもない。そのような由緒があり、また藤原南家の本貫の地でもあったようだ。藤原武智麿が建てた栄山寺もすぐ近くだ。それに奈良時代後期の政争でその犠牲となった聖武天皇の第一皇女、井上内親王とその子他戸親王が無実の罪で幽閉されていたのもこの須恵の地だった。
今も幽閉されていたという没官宅址に小祠が立つ。

 そしてこの地は、空海ゆかりの高野山からまともに鬼門方向に位置する。ちなみに弘法大師空海と井上皇女(後の四十九代光仁天皇皇后)には共通の繫がりが有る。それは太陽で、空海は仏教の太陽神、大日如来に仕え、井上皇女は伊勢神宮の斎王として、日の神、天照大神に仕えていたからである 

 井上内親王・他戸親子は、天皇を呪ったという無実の罪で暗殺されたようである。人々は(トガナクテシス)と言い、その恨みは深く、桓武天皇周辺に怨霊として祟っていると噂した。天皇は皇后の名を追贈して墓地を山陵(みささぎ)と改名。また龍安寺、御霊神社を新たに創建して霊を慰撫した。ちなみに、空海が作った歌だとも謂われる「いろは歌」にはトガナクテシスという言葉が隠されている。

 空海は、国が平安でなければその国民は平和に暮らせない、国王が安泰でなければ、その国民の安寧な生活は続かないとの考えから高野山の裏鬼門方角から井上親子の恨みを慰撫したのではないかと思う。空海は自身の出世ではなく、日本の国とその国民が平和に暮らせることだけを一心に願って、高野山から井上内親王親子の恨みを慰撫し、ひいては桓武系天皇四代の安寧を、その国家と国民のために願ったのだと井角は考えていた。

 そのような歴史のある五條市から、ひかりの会を発足させたかった。地形を考えると、吉野川が南にあって西流し、北側に控えた金剛山を背に、国道二十四号線が東西に走る。正に四神相応の地とも言える、この須恵町辺りが良いと思う。でも商店や住宅が密集したこの地は、先のことを考えるとあまりにも狭小で後に困ることができそうだった。いろいろ考え、その辺りを見回してみると、須恵町より少し北の、ジェイアール五條駅の北側にある新興住宅地が良いと思った。そこは金剛山の南麓にあたり、南方を見渡すと真正面に吉野三山の銀峯山と金峯山がはっきりと見渡せた。
(よし、この地に集会所を設けよう)井角は心で決めた。

 では、具体的にはどのような活動すれば良いか。
 山辺光雲が主宰していた「ひかりの会」は、ホームページを作っていなかった。
 著作を数冊出版していたのと、あとは口コミだけだった。
 井角はインターネットに力点を置いて広報活動をしようと思った。早速ホームページを立ち上げて会員を集めようとした。

 今、日本は大きな曲がり角に来ていると井角は思っている。このままでは日本が滅びる。日本を取り巻く状況を考えると、ある意味第二次大戦前の状況とよく似ているのではないかとも思えた。井角は先の大戦の終戦の年に生まれたので実際その時代の状況はよく知らない。戦前・戦中・戦後の詳しい状況は、後に見た新聞や戦後に出版された書物でしか知らない。
 井角が後に知った歴史では、連合軍、特に米軍の圧倒的な軍事力により、雌雄を決する大海戦に日本軍はことごとく敗れ、昭和二十年を迎える頃すでに日本の敗戦は決定的なほど打撃を受けていた。それで航空防衛能力を無くしていた東京・横浜をはじめ日本の大都市にアメリカは大型爆撃機を遠征させ、焼夷弾を雨あられと投下して日本を火の海地獄とした。炎で退路を断たれ逃げ惑う民衆に戦闘機から機銃掃射を執拗にあびせた。更には無情にも原子爆弾を広島に続いて長崎と、二発も投下し何十万もの命を一瞬にして奪った。日本は先の大戦で完膚無きまでに打ちのめされたのだった。

 アメリカは、あまりにも惨い原爆の戦果に多少の自責の念があったのであろう。戦後しばらくは日本に対して寛容なところが多くあったように思われる。
 アメリカを主体とする連合国の「日本統治政策」が効を奏してか、
敗戦後の日本人は、アメリカ合衆国のことを「アメリカさん」と言い、連合国司令長官マッカーサーを「マッカーさん」と、さん付けで呼び慕ったようなところがあった。

 戦後日本の教育は、子供たちに、「この戦争は日本が悪かった。その悪い日本にアメリカさんが罰を加えたのだ」というように生徒達に教えた教員が多くいたようだ。井角も小学生の頃、そのような教え方をされた記憶がある。中学生の頃の教育でも「日本は参戦を宣言せずに真珠湾を奇襲した卑怯な国だった」と先生から聞いた。
 連合国、特にアメリカの指令のもとに「日本教職員組合」が組織され日本人の思想を根底から変える為に育てられたのだ。日教組に属する彼ら教職者らは、それまでの日本式教育を悉く否定する教育方針に則り、洗脳教育が始められたのだった。

 正義の国、世界の警察を標榜するアメリカは、キリスト教を信ずる神の国で、世界中の悪を正すというように子供達に教える教育者が少なくなかった。戦後の食糧難の時、スキムミルクを無償で配給したり、農地改革で小作農をなくしたり確かに戦後の一時期、善政を日本に施したようなところが見受けられた。
 大人達でさえ、自分の子供や伴侶を殺されていながら、その事は言わず、アメリカさんを有り難いと感じた者も多くいたと思われる。
「あの戦争、もし日本が勝っていたら、相手国をこのように寛大な治め方はできなかっただろう」とか
「日本は、この戦争むしろ負けて良かった」
「すべて軍部が悪かったから、この戦争を始めたのだ。これで正しく生まれ変われる」
 等々の意見が国民の中に多く芽生えていたようだった。

 しかし、現実はそうではなかった。
 日本人の多くは、アメリカの深謀遠慮に騙されたのだった。
 アメリカは、すぐ「ジャスティス/JUSTICE」という言葉を使うが、現実のアメリカに正義はなかった。
 その事は、戦後日本がめざましく経済発展をして、世界に冠たる経済大国になった頃に分かった。その頃からアメリカは馬脚を現し始めたのである。
 一九八〇年代以降、一流の製造技術力を誇る日本の大企業に対して様々な難癖を付け、罰金や制裁金を取っている。一方で同じ陣営の独占的世界企業はそのまま放置したりしている。 
 特に、今のアメリカに正義は全く無い。
 一方で、「グローバル・スタンダード」「ワン・ワールド」等々、アメリカに都合の良い基準を押しつける。
 アメリカは正義を行うどころか戦争屋で、世界中で不正義を行っているのである。
 一方、その不正義に手を貸している売国奴的日本人がいる。一部の政治家、学者、ジャーナリストである。それに、あろう事か仏教系の新興宗教家にも売国奴がいるようだ。

「大和ごころを取り戻さなければ、このままでは日本は滅びる」と井角は思う。アメリカは、と言うより、アメリカの背後にあって世界支配を目論む勢力は、気をつけなければまたぞろ日本を戦争に巻き込もうとしている。今までもそうだった。古くは幕末の黒船来港以降のことである。西欧列強、特に英・米と仏は、呼応するかのようにそれぞれ官軍側と幕府軍側に近づいて日本を二分するような内乱を勃発させた。それで強大だった江戸幕府を倒し明治維新を演出した。
『シオンの議定書』には次のような文言がある。
「人民を無秩序な群集に一変させるには、かれらに一定期間自治を与えるだけで十分である。与えた瞬間から、共食い闘争が勃発し、階級間戦争に発展し、その真っただ中で 国家は焔に包まれて炎上し、かれらの権威は一山の灰燼に帰するであろう」
 ここで言う“共食い闘争”というのが内乱のことで、これを計画的に仕組んで、狙った国家を支配していくのである。

 その後も日清戦争、日露戦争を巧妙に勃発させて世界支配を拡大させていった。これは正に「シオンの議定書」にある通り「各国が結束して我々に対して蜂起するならば、我々は米国、支那また日本の大砲を向けて応酬するであろう」とするシオン賢者の議定書を地で行ったものである。この考え方がロシア帝国を倒し、清王朝を滅ぼしたのだった。フランス革命も同様のシナリオに基づいているのはいうまでもないだろう。

「日本は今、亡国への道を突っ走っている。」
 井角にはこのように思えてならなかった。
 ホームページ上で、ひかりの会の集まりで、事あるごとに次のように話し警告していた。
「近年、日本には様々な災害が降り掛かって来ています。一周干支六十年は昔から一つの区切りですが、第二次大戦後に日本の神々や英霊達によって、改めて列島に築き廻らされていた結界が、戦後六十年を過ぎた今、ここに来てまた綻びはじめているような気がするのです。それで日本には、様々な災害や苦難が次々と襲いかかるような気がしてなりません。このように日本を取り囲んでいた霊的バリアーが崩れはじめたのは、如何なる事に起因しているのでしょうか?それは、『大和ごころ』を忘れた日本人があまりにも多くなってきたことが原因ではないでしょうか?」

 また、次のようにも言った。
「和を尊ぶ日本人、人を思いやる日本人、礼儀正しい日本人、勤勉な日本人は、いつたい何処へ行ってしまったのでしょう。大和ごころを持つ日本人が少なくなってきたことは、日本が危うくなってきたことと決して無縁ではないと思います。揺るぎはじめた日本を立て直すには、まず日本人としての矜持を正すことからはじめなければならないと思うものです」

 敗戦の後、講和条約を締結して独立国になったはずの日本だが、そのまま米軍が駐留していて、その実態は昔も今も米国の属国の域を出ていない。世界を支配しようとする勢力は、アメリカという国を通して、その背後からすでに日本を支配しているようである。有事には日本を護るはずの自衛隊も、実のところは米軍の指揮下にあると思われ、災害救援は別として、軍事的には日本政府の指示系統では動かず、命令は米軍から出されることであろう。

 日本経済は一九八五年九月のプラザ合意によって莫大な為替差損を余儀なくされ、そしてそれからの極端な円高誘導で貿易市場は閉塞し、青息吐息の状態に追い込まれたのである。
 貿易立国の日本は、それでは立ち行かず、日本の製造業はこぞって海外、特にアジアにその製造拠点を移したのだった。それが、近年は逆に円安傾向にシフトされつつあり、製造業の一部では又国内に製造拠点を戻そうとしている。

 金融界に置いても、今や民族資本の大銀行は殆ど外資系金融資本の支配下に置かれたとみられ、このことから歴史のある大企業ですら独自経営の危機に脅かされている。
 日本政府に高額紙幣の発行権は事実上は無く、政府は少額の貨幣のみの発行に留められている。日本の高額紙幣は、日本銀行が一手に握っているのである。この国の名を冠した日本銀行だが、実態は株式会社で、株式はその大半を日本政府が持っていることにはなっているものの、外国勢力の支配下にあると見える。
 経済界のみではない。世論を導く重要な報道・マスコミ、学問・教育ほか、主要な産業の殆どと言っていいほどが彼等の勢力下にくみこまれているのである。

どうしてこのようなことになっているのだろう。
それは敗戦以降、外国に利益供与しようとする国内勢力が存在するからであろうか。しかし、よくよく考えてみると、日本にとっての負の仕組みはもっと遡って見られるのである。その萌芽は黒船来航から始ったと言えるのではないか。
 薩摩・長州連合と徳川幕府間の内戦を仕組まれ、古き良き伝統の国日本は破壊された。そして戦費を貸し付けられて富国強兵のスローガンのもとに海外派兵。
 国威発揚になったと日本中が歓喜した日清・日露の戦勝も実のところは代理戦争をさせられていたようで、すべてはあの「シオンの議定書」に書かれたとおりだった。その後はご存知日米開戦を経て、悲惨な被爆後の敗戦を迎えたのだった。

 戦後見事な復興を遂げたと見えた日本経済だったが、それはつかの間のことであった。そして現在、日本経済は目も当てられない状況になっている。このままでは本当に「日本沈没」となるだろう。今手をこまねいていては将来で悔恨することになるであろう。今こそ、神道界・仏教界がこぞって立ち上がるべき時ではないだろうか。
 宗教界が率先して実行力のある強力な政治家集団を創り育て始めてほしい。井角建は心からそう思うのだった。


目次へ 次頁へ