私はミーちゃん
    
                               丸谷いはほ

 あたしの名前は楠木美恵子。
 みんなは、あたしをミーちゃん、ミーちゃんと呼びます。
 美恵子という名は、あたしがつけたの。
「お父さんかお母さんがつけたのではないの、なぜ」
「仕事は何をしてるの」とお訊ねですか。
 今あたしは町内の神社の巫女さんのアルバイトをしています。と言っても 土・日・祝日だけのお仕事ですけど。
「じゃあ、本業は学生さん?」いいえ、学生ではありません。
「じゃあ、それ以外は何をしているの?」
 それは、ひ・み・つ。でも少しお話します。内緒にしておいてくださいね。宮司さんには、あたしは家事手伝いと言ってあるんですから。
 あたし、いつもは皆さんの相談係のようなことをしています。悩みを聞いてあげたり、願い事を聞いてあげたり、でも勘違いしないでください。あたしは神さまではありません。ですから悩み事を解決してあげたり、願い事をかなえてあげたりする力はありません。ただ聞いてあげるだけ。そして聞いていて、これは大変だな何とかしてあげなければ、と思ったことだけ神さまにお願いしてあげる、そんなお仕事なんです。でも占い師なんかではありません。
「なんだろ、まったく分からないや」ですか。
 いまからお話しますので少しずつ分かってくると思います。
 
 張り紙を見たのは、ある土曜日の朝のことでした。
 ─アルバイト募集!若い女性の方─
 こんな張り紙が、町内の八幡神社の社務所窓口に貼られました。その張り紙を見たあたしは、ふっと応募する気になったんです。でもその日は参拝客が多く忙しそうだったので遠慮して、夕方まで待ちました。そしてやっと参拝客が途切れた頃を見計らって、
「すみません、ちょっとお伺いします」あたしは社務所の窓口から声をかけました。
 何か御用?、と宮司さんの奥さんが顔を出しました。
「アルバイトの応募に来たんですけど」気取った声を出してしまったあたし。
 ちょっと待ってくださいね、と奥さんが引っ込むと今度は宮司さんが顔を出した。
 こちらへ上んなさい、と宮司さんは社務所の勝手口を中から開いてくださった。中の四畳半の小さな座敷に案内され、座卓の前に座ると、
「履歴書を見せてください」と宮司さんがいう。
「リレキショ…ですか?」あたしが怪訝な顔をしていると、
「これですよ、これ。知ってるでしょ」といって二つ折りの書類を見せてくれた。 
 あ、そんなものがいるのか、知らなかった。どうしようかとあたしが黙っていると、
「さきほど一人、応募の方がいてね。これはその人の履歴書だけど、あなたも書いて持って来なくては駄目ですよ」あたしは目を伏せ、応募するのを止めようかと思案していると、
「お嬢さん、お名前は」と訊ねられた。
「あたしはミーコ、いえ、みえこ、そうです美恵子です」
「住所は何処ですか」
「住所は、えーと、クスノキ、はい。いえ、名前はクスノキミエコです」
 あたしは慌ててしまって、とんちんかんに答えてしまった。
「仕方がないな、この履歴書用紙に書きなさい」
 宮司さんは白紙の履歴書用紙とボールペンをを渡してくれて、
「書けるでしょ、書けたら奥に連絡しなさい」と言って向こうへ行ってしまった。
書けますよ、これくらい、長生きしてるんだから、何でも知ってるんだもん。
 あたしは座卓の上に置いた履歴書用紙に書き込み始めた。
 えーと名前は…楠木美恵子。年齢は二一歳としてと。住所は大阪府南河内市○○○、学歴はと…大阪南女子短大卒…としておこうと、近くの短大の名を書いた。
 ああ、やっと書けた。書き終えたので奥の宮司さんに声をかけた。座敷へ戻って来た宮司さんは履歴書を見ると、
「写真はないが、本人がここにいるのでまあいいとするか」といい、
「お家(うち)はこの近くなんだね。学校もそこの短大を卒業したのかい」
 あたしは、はい、とうなずく。──神様、ウソをついてごめんなさい──
「仕事はね、巫女の衣装を着て、私や息子の助手をしてもらいます」
「なに、知らなくてもだいじょうぶ、簡単だよ、すぐ覚えられる」
「お宮参りや、七五三、車の安全祈願などをするときに手伝ってもらうだけだ。あ、他にもいろいろある、教えるよ」
 宮司さんはニコニコとずいぶんやさしい。やっぱり美人は得だ。あたしは自分のことを美人だと思っている。一重まぶただけど目はパッチリとして、少し上がり目で光るような瞳がとてもかわいい、口元だってきりりとして、ミロクボサツさまのように三日月形に端が上っていて、ほんと、アルカイックスマイルですよ。第一色白だしね。
「さっそく明日から来てくれるかな」
 あれ、もう一人面接に来たらしい人はどうするんだろう。あたしは聞いてみた。
「ほかにも応募者がいるんではないんですか?もうあたし、いえ私にきめてくれるんですか」
 宮司さんはちょっと考えるような顔をしたが、はっきりと言った。
「あ、いや、もう君に決めとくよ」
 そんないきさつがあってアルバイトが決まったんです。

 あくる日の日曜日、朝八時に出勤した。
 奥さんに案内され、社務所奥の座敷で待っていると隣の部屋から話し声が聞こえる。
「お父さん、お母さんが緋袴を出してましたけれど、助勤の娘(こ)が今日から来るんですか!」
 禰宜(ねぎ)さんをしている息子の龍太郎さんの声だ。いつも見ているのであたしは良く知っている。あたし龍太郎さんのファンなんだ。たぶん、むこうは知らないでしょうけど。ふーん、巫女さんのアルバイトをジョキンなんて言うんだ。
「うん、今日から来てもらうことにした。もう来てるんじゃないか、かわいい娘(こ)だよ。お前もきっと気に入ると思うよ」
「お父さんッ、もっと応募者が集まるのを待ってから決めるんではなかったんですか。僕にも相談してくださいよ」
 息子の不満そうな声が聞こえる。
「すまん、龍太郎。儂(わし)もすぐに決めるつもりではなかったんだが、つい明日から来てくれと言ってしまったんだ。何かこう、前から良く知っている娘(こ)のような気がしてしまってな」
 宮司さんがいいわけをしている。
 あたりまえだよ、昔から知ってんだもの。龍太郎さんが生まれる前から知ってるんだ。
 聞いていたあたしは「コホン…」と小さく咳をした。だって盗み聞きをしているようでいやだもの。気付いた二人は向こうへ行ってしまった。
 入れ替わりにこちら側の襖を開けて奥さんがきた。手には風呂敷包みを持っている。風呂敷を開いて中から緋色の袴と白の小袖を出した。奥さんは、たぶんこれで身に合うと思うのよ、と言いながらあたしに服を脱ぐように促した。
「いい?楠木さん、神社ではこの小袖を白衣(はくえ)と言い、こちらの袴は緋袴(ひばかま)と呼ぶのよ。下着は、今あなたが着けているような白が原則なので、次からも白にしてくださいね」 
 まず白襦袢を身に着け、白衣を着て、緋袴を着ける。
 奥さんはすぐ傍から指導をして着替えさせると、少し離れてまた、
ためつすがめつ着付けを直してくれた。長い黒髪を後ろで束ね、最後に白足袋を履くと、
「楠木さん、美しい巫女さんになりましたよ」
 奥さんは笑顔で言った。
 着替えをすませると奥さんと社務所へ行った。社務所では宮司さんと息子の龍太郎さんがお茶を飲んでいる。四畳半の畳の部屋に座敷机がひとつ、片側の壁際には棚があって、神札や御守、縁起物の鈴などが棚一杯に置かれている。広庭に面した窓側が受付で、引き違いの小窓になっていて、その前には御神籤(おみくじ)用の筮竹の入った竹筒と、御守や鈴などの見本が並べられていた。
 こちらへいらっしゃい、と宮司さんが手招きをした。二人の方へいくと、
「龍太郎、この人が今日から助勤をしてもらうことになった楠木美恵子さんだ」
「どうぞよろしく」
 龍太郎さんはちょっとはにかんだような会釈をした。
「これは息子の龍太郎です、禰宜をしている」
 父親の宮司さんが紹介する。
「どうぞよろしくお願いします」
 あたしは龍太郎さんの目をじっと見て言い、頭を下げた。
「美恵子さん、今日から土日祭日に来てもらうことになるんだけれど、窓口の案内や販売の仕事は家内に、巫女の仕事は息子に教えてもらってください」と言いながらも宮司さんは仕事のあらましを説明してくれた。
「なーに、むつかしいことは何もない、すぐに憶えられる、心配なし。分からないことがあればその都度聞けばいいよ」とニコニコと笑顔でいう。
 そのあと龍太郎さんはあたしを連れて社務所の外へ出た。
(ああ、うれしい)あたしは出来るだけ寄り添って歩いた。龍太郎さん、何だかきまり悪そうにさっと距離を置く。あたしは今度は遠慮してちょっぴりつめる。(昔からあたし、龍太郎さんのファンなんだ。腕を組んでくれないかなぁ)
 参道を逆に歩いて境内入口まで行った。参拝客がお参りする道順通りに説明してくれるみたい。まず大鳥居をくぐり、石段を上るとまた鳥居があって、あたしは龍太郎さんのすぐ横を一歩下がって、くっついたように歩く。石畳を拝殿に向かって行くと左手に手水舎(てみずや)があった。
「楠木さんは知っていると思うけど……」龍太郎さんは説明をはじめた。
「手水の使い方だけどねぇ、まず、右手に持った柄杓に水を汲み左手を洗う、次は柄杓を左手に持ち替えて右手を洗うんだ。前の看板に説明が書いてあるので手の洗い方は大体いいんだけれど、柄杓に汲んだ水を直(じか)に口をつけて 飲む人がいるんだよ。あれだけは止(や)めてほしいんだな。正しくは、持ち替えて右手に持った柄杓から水を左の手の平に受けて、その手の平からの水で口を漱ぐ。最後は柄杓を持った右手を上げ、左手を添えて残った水で柄杓もろ共に洗い清める。まぁ、間違ったことをしていても咎めだてするのは失礼なので、尋ねられたときは親切に教えてやってください」
(あ、そうなのか)と思ったけれど黙っていた。
 だって参拝の人たちが手水を使っているのをよく目にしているけれど、そんな風に正しくしている人にはめったにお目にかかったことがないんだもの。
「はい、分かりました」あたしはそれだけ答えた。そのまま真っ直ぐ正面を進み、拝殿の前へ行った。
「あ、それとねえ、通路の真ん中は正中線といって、できるだけ通らないようにしないといけないよ。そこは神様が通るところなんだ」
 龍太郎さんは、あたしの右横に並び、あたしをそっと左側へ押しやった。
「拝礼の仕方は知っているよね」
「はい、知っています」
 あたしは龍太郎さんにあわせて二拝・二拍手 ・一拝した。
「それも作法に適っていないところがあるよ。それに拝(はい)は九十度まで腰を折らないとダメなんだよ。またあとで説明しますけどね」
 龍太郎さんは遠慮がちに言った。 
 次はこの八幡神社の神様について説明があった。
 お祭りしている神様を祭神といい、ここのお宮の祭神は 誉田別尊(ほむたわけのみこと)、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと) の三柱の神様だという。誉田別尊は応神(おうじん)天皇のこと、気長足姫尊は神功(じんぐう)皇后のこと、武内宿禰命は武内大臣(おおおみ) のことだと、あらかたの話をして、
「参拝客に訊ねられたら少しくらいは説明できないとね。楠木さんもこれくらいは覚えておいてください」
 そんなことくらい知ってますよ、ここに長い間住んでんだから。あたしはつい、むきになって言いそうになった。(おっと、正体がばれたら大変!)
「境内摂社(けいだいせっしゃ)といってね、ほかにも神様をお祭りしてるんだよ」
 龍太郎さんは、境内にある小さな稲荷社、厳島(いつくしま)社を案内した。
 稲荷社には狛犬の代わりにキツネの置物がある。龍太郎さんはそのキツネの置物の頭をそっと撫ぜた。
「あたしキツネは嫌いですッ!」ついうっかり、大きな声で言ってしまった。急にどうしたんだろうと龍太郎さん、変な顔をしている。
「いえ、なんでもありません。こわい生きたキツネの話です」あたしはあわてて否定した。
 あんな置物ではなしに、本物のずる賢いキツネが、お供え物目当てにいつも裏山からやってきて、自分が本当にお稲荷さんの家来のように思い上がっていばってんのよ、と龍太郎さんに言いつけてやりたかった。
(キツネの奴、好かん好かん、この前もあたしをとって食べようとした。あんな奴に食われてたまるもんか、今度は足に噛みついてやる)龍太郎さんの説明を聞きながらそう思ってた。
 厳島社は境内南側の池のほとりにある。ここの神様は市杵島姫(いちきしまひめ)さまといい、それは美しい女の神様で、あたしをいちばん可愛がってくれている。このすぐ傍には樹齢千年もの楠木があって神木になっている。この大楠木の内部は空洞になっており、根元には祠があって、その前には三十センチ位の小さな赤い鳥居が立てられていた。
「この御神木には白蛇が住んでいるんだ。地元の人たちにも、ここの巳(み)さんにお願いすると必ずご利益(りやく)があると評判でね。祠にはお供え物が絶えないんだよ」
 聞いていてあたしはとても嬉しかった。
「龍太郎さん、あ、禰宜さん、お供えはタマゴが一番いいです。それも生タマゴがいいと思います。それに時々はお酒も少しお供えすれば喜ぶんではないでしょうか」
 これだけは言いたかったので、つい大きな声になってしまった。
「どうしたの、急におしゃべりになって。それに巳(み)さんが どうして酒好きだと分かるんだい?」
「あ、いえ、よく知らないんですけど、そう思ったんです」
 あたしはどぎまぎしてこたえた。
「うん、確かに巳さんは酒が好きかもしれないね」
 龍太郎さんは、フンフンとひとりでうなずいている。
「今日僕が教えるのはこれ位にしておきます。あとは窓口の販売だけど、それは母に聞い てください」 
「あ、それからどんなことでも母に聞くといい、あれで昔は巫女もしてたんだから、いや、なんでも知っているよ」
 社務所に戻ってからは宮司さんの奥さんから、社務所窓口での神札(おふだ)や縁起ものなどの販売品について説明してもらった。神社の巫女の仕事は、受付や販売のほかに祭りや神事の手伝いがある。鈴を鳴らしながらの簡単な神楽もある。初詣やお宮参り、七五三、交通安全祈願や季節ごとの行事があるので、それはその都度教えますということだった。
 それから受付に座ってた。天気も良かったのでお参りの人が、かなりあって御守なんかが売れた。新しい車を買ったからと、その安全祈願に来た人もいた。それは禰宜の龍太郎さんの受け持ちだった。奥さんが巫女の姿で従い、次からは楠木さんにしてもらいますよ、今日は見ていてくださいと言われたので、あたしは横で見ていただけだ。
 見ているとそんなに難しくはなさそうだった。ほとんど横に控えているだけでいい。(ああ、早く龍太郎さんの横で仕事がしたいな)あたしは、すぐ仕事なんかおぼえるぞ、とはりきってた。そんなことを考えているうちアルバイト初日はあっという間に過ぎたんです。
 
 でも次の日からの仕事は、実際考えていたほどやさしくはありませんでした。宮司さんは、簡単だよ、すぐ覚えられると言ってくれたけれど、神拝の作法は簡単ではなかった。
 神社の朝は掃除から始まる。見よう見まねで雑務を手伝った後、禰宜の龍太郎さんは、参拝客の少なくなる午後の三時以降になると、毎日一時間付っきりで教えてくれた。
「助勤の巫女といっても、基本的な作法はできないといけないよ」と言い、またこのようにも言った。
「神様に仕える者として大切なのは敬神の心、清潔感、そして誠のこもった正しい神務作法だよ」
 神社祭式の行事作法は多くあり、最も大切なのは祭場の位置関係だった。
 例えばです。『神前に近きを上位とし、遠きを下位とす』とか、『正中を上位とし、左を次とし、右をその次とす』とか言って、神前に対する位置関係で作法が厳格に定められているのでした。ここでいう左右とは神様の位置から見ての左、右のことなんです。
 また、『進左退右(しんさたいゆう)、起右坐左(きゆうざさ)』、『進下退上(しんげたいじよう)、起下坐上(きげざじよう)』とか、口がもつれそうな難しいことを言って、それぞれ正中、つまり神様の正面線上と、それ以外での進む時、退く時の左右の足の運び順まで決められていて、これも知っていなければならないんです。自分が居る位置によって、左右の足の上位・下位が決まるんです。
 そしてこれが中々難しいのです。所作の場面場面で頭と動作がついていかない。これは、繰り返し練習をして身体で覚えるしかないといいます。
 鈴を使っての簡単な神楽の所作は、雨降りなど参拝客の少ない折を見計らって奥さんが教えてくれた。

 アルバイトを始めてから三ヶ月が経った。
 巫女の仕事もこの頃にはだんだんと慣れてきた。土日と祭日の仕事だけれど、もう三十日近くも出勤したことになる。
 踊りはまだぎこちないところはあるけれど、その他のことはだいたいできるようになった。
 宮司さんはあたしのことを娘のように可愛がってくれて、はじめは楠木さんだったのが美恵子ちゃんになり、そして今では「ミーちゃん」になってしまっている。ミーちゃんなんてぴったり。だってあたし巳生まれなんだもの。奥さんは今でも楠木さんと呼んでいるけど、龍太郎さんは宮司さんと同じようにミーちゃんと呼んでくれている。楠木さん、なんて呼ばれてもあたしにはピンとこない。
 龍太郎さんとは、起工式や竣工式などの行事に車で一緒に出かけたりする。その帰り道にお茶を飲んだり、食事をしたりして随分と親しくなった。いろんな話をして、龍太郎さんはゴルフが好きなこと、スナックへ行って飲むのが好きなことが分かった。スナックはその雰囲気と、どうやらカラオケというのが好きらしい。あたしはゴルフとやらはまったく興味がなかったけれど、スナックは一度は行ってみたいと思った。話を聞くと、お酒を飲んで一人で歌うだけではなく、男女二人で歌ったりしてずいぶんと楽しいらしい。あたしは龍太郎さんに、連れて行ってとおねだりをした。もちろん龍太郎さんは二つ返事で連れて行くと約束してくれた。

 約束の日曜日の夕方、仕事を終えてから二人は揃って神社を出た。 まだ時間が早すぎる思ったので、バスには乗らず歩いて行くことにした。龍太郎さん行きつけのスナックは、駅前通りのすぐ裏にある。神社から駅までは歩いて十五分。道中二人で歩くのはとても楽しい。梅雨が明けて好天が続き、西の空は夕映えがとってもきれい。あたりがかなり暗くなってきたのを見計らって、あたしは大胆に龍太郎さんの腕によりそった。
今ではあたしから腕を組みにいっても、平気でそのままにしてくれている。でもなんだか妹のように思われているようなふしがあって、少し不満な時もあるんだ。駅前まで歩いて行くと龍太郎さんは、組んでいた腕をはずして先にたち、裏通りのスナックのドアを押した。あたしも続いて入って行く。
「いらっしゃーい」若い女の子が迎えてくれた。
 まだ一人もお客さんは来ていない。
「あーら、ネギちゃんいらっしゃい」ともう一人の女の子。
 龍太郎さんは、よぉ、と手をあげ、右側にあるカウンターの奥から二つ目の椅子に腰をかけた。そして手招きをするとあたしを一番奥の龍太郎さんの左側へかけさせようとする。はじめのショートカットの背の高い女の子がすぐ寄ってきて、腰をかけやすいように腰高の丸椅子を引いてくれた。そして言った。
「ネギちゃん、今日は彼女と一緒?」 
「美しい人ね。紹介してよ」もう一人のグラマーな女の子も寄ってきて言う。龍太郎さん、ここではネギちゃんといわれてるらしい。そこへマスターが奥から出てきて、二人の前にくると、あつあつのお絞りを渡してくれた。
「ネギちゃん、ようおこし」マスターは笑顔で言い、あたしにも微笑んでくれた。
「ネギちゃん、彼女できたん?おめでとうさん」
「ちゃうよ!マスター、この子はうちのアルバイトで美恵子ちゃんいうねん、なあ、ミーちゃん」あたしは黙ってうなずいた。龍太郎さん、この店では河内弁まる出しだ。
「ふーん、ミーちゃんいうの。かわいい子やね」グラマーな子があたしを見つめて笑顔で会釈した。
「ミーちゃん、紹介しとくわ。この子はなあ、カヨちゃんいうねん。グラマーでべっぴんやろ。俺ファンやってん」
「ネギちゃん、ちょっと待ってーな、『ファンやってん』いうことは今日から私のファンやのうなったいうこと? ハァー分かったわ、原因はこのミーちゃんやね」
 カヨちゃんはフンと口を尖らせたが、あたしのほうをちらりと見て、ニコリとウインクしてみせた。これは龍太郎さんからは見えない。横のショートカットの子も笑顔を見せている。
「この子はな、オヒロいうねん。ほんとはヒロコやったかな、よう知らん。みんながオヒロ、オヒロいうてる人気もんや。スタイル抜群でな、見てみ、顔も悪うない。気性が男みたいでさっぱりしててな、ファンが多いんやで」
「顔も悪うないとは、どないやねんネギちゃん。可愛い子連れてきたと思うたら、今日はえらい強気やね」  この背の高い子も、フンというように拗ねてみせたが、顔は笑っている。龍太郎さんは上機嫌で二人を紹介してくれた。あたしも笑顔を返してあいさつをした。二人ともとても魅力的な女の子たちだ。年はあたしより上に見えるかなぁ。
 マスターは棚からボトルを出してカウンターの上に置いた。
「ネギちゃんはいつもと同じやね。彼女も同じバーボンの水割りでええのかいな?」
 龍太郎さんは、何にする?とでもいうようにあたしを見たので、一緒でいいです、と答えた。だって、冷酒くださいとは言えなかったんですもの。
 マスターは二つ並べたタンブラー・グラスにバーボンを注ぐと、手際よく水割りを作ってくれた。そして小鉢の手作りの付き出しをそれぞれの前に出す。
「このマスターは紹介するまでもないやろ。見ての通りの中年のおっさんや。元は商社で部長までやりはった人やけどな。『おもろない、飽きてしもた』いうて、長い間勤めた会社をあっさり辞めてしもた。ほんで今は遊び半分のこの商売や。気楽なもんやろ」
「奥さんは、相談もなしに会社やめたいうて、長い間、口もきいてもらえんかったらしいわ」龍太郎さんはバーボンを一口飲むと続けて言った。
「それでもな、さすがに商社で部長までやりはった人や。世の中のこと何でもよう知ってはる。そら世界中飛びまわってはったんやもんな」
 あたしもバーボンの水割りに口をつける。
「僕はいつも分からんことあったら、このマスターに教えてもろてんねん。なんでも親切に教えてくれはる。兄貴みたいでほんまに頼りになる人やで」
「それになあ、退職金もぎょうさん貰いはったはずやから、お金持ちやしな」
 龍太郎さんは、本当のお兄さんを自慢するように饒舌だった。きっとマスターの一番のファンなんだろう。
「お金なんてほとんどないよ。残ってんのは趣味で集めたパイプだけや」
 マスターは、後ろの飾棚に立てかけている何本ものパイプにちらりと目を送り、手に持った根っこのような褐色のパイプを大事そうにさすった。
「もちろん昔は昔で、ええこともあったよ。せやけどな、今の生活が一番自分の性に合うてる思うてまんねん」
 そう言いながら袋からキザミ煙草を取り出すと、手馴れた様子で根っこに詰め、ジッポのライターで火を付けた。紫煙をおいしそうにはき出すと、メガネの奥で優しそうな目が笑ってた。
 あたしもこんなおじさん大好き。ファンになってしまいそう。
「ネギちゃん、おしゃべりはそれくらいにして、いつもの歌、歌ってよ」
 急に横からカヨちゃんが口をはさんだ。
「今日はなあ、このミーちゃんの歌聴きたい思うてんねん。この子に歌うてもろてよ」
「あ、あたしはだめです。歌もよく知らないし」
「最初は歌いにくいのんと違う? やっぱり出だしはネギちゃんが歌うてあげて」
「カヨちゃんがデュエットしてくれるんやったら、歌うてもええで」
「ちょっとネギちゃん! 今日から私のファンをやめたんとちゃうの、勝手な人やなあ」
「歌うときは別や、頼むわ一緒に歌うてんか」
「しゃないなあ、ほな一回だけやよ」
 カヨちゃんは曲名をマスターに告げると、龍太郎さんに手を引かれて向こうの小さなステージコーナーへ行った。
 大きな音楽が聞こえてくると、マイクを持った二人が歌いはじめた。あたしはカウンターに少し横向きに腰をかけて、バーボンを手にして見ていると、ひとりひとり交替で歌ったり、一緒に声を合わせて歌ったりしている。なんだかずいぶん楽しそう。でもちょっと音が大きすぎる気がした。
「スナックへはよく行くの?」
 あたしの空になったグラスに、お替わりをつくりながらマスターは言った。
「いいえ、初めてです」
 あたしはカウンターの中のマスターに顔を向けてほほ笑んだ。
「ほんま?信じられへんなあ。飲みっぷりもええし」
 マスターが笑顔で言う。そのときドアの音がして、何人かの人たちがにぎやかに入ってきた。お客さんだ。
「まいどー、いらっしゃい!」マスターは大きな声を出した。ショートカットのオヒロが笑顔で入口へ行く。オヒロはお客さんたちを奥のボックス席に案内した。
 あたしは龍太郎さんたちが歌ってるステージの方に向き直った。二人は顔を見合わせながら歌っている。あたしもなんだか歌いたくなってきた。でも歌がよく分からない。
 歌が終わると、マスターが大きな拍手をした。今入ってきたお客さんもみんなで拍手をする。あたしも慌てて手をたたいた。
「さすがネギちゃんのオハコやね。巧いもんや」
 マスターはカウンターに戻ってきた龍太郎さんに、お客さんのお絞りやグラスの用意をしながら言った。一緒に歌っていたカヨちゃんは向こうのボックス席へ行っている。
「龍太郎さん、歌、上手なんですね」
「僕はミーちゃんと歌いたいのや」
「でもぴったりと息が合って、とても良かったですヨ」
「次は絶対一緒に歌おうな、ええやろ」
「私も歌いたいのですけど、歌を知らないからだめなんです」
 ほんとにあたしも歌いたかった。龍太郎さんとあんなふうに寄り添って、同じ歌を歌えたらどんなにか素敵でしょう。
「でも次に誘ってもらえる時まで練習しておきます」あたしは付け加えてそう言った。
 龍太郎さんは小指をあたしの小指に絡ませ、約束やで約束、と言って指を揺すった。
「ちょっと聞いてもいいですか」龍太郎さんがうなずくのを見てから聞いてみた。
「ここではみんながネギちゃん、ネギちゃんって呼んでいるけど、神社の禰宜(ねぎ)さんだからですか」
「初めはそうやったと思うんや。そやけど今はカモネギのネギかいな、と自分では思うてる」龍太郎さんは笑いながら言った。
「カモネギって何ですか」
「あれ、ミーちゃん分かれへんか? そうかそうか冗談や、冗談」
 龍太郎さんはとうとうふきだしてしまった。
 またドアの音がした。振り向いた龍太郎さんが、あ、と声を出した。あたしも入口を見て、あれ?と声を出してしまった。宮司さんだ。
「やあ、いらっしゃいッ」
 マスターが入口に向かって声をあげた。
「なんや、お前も来てたんか」宮司さんは息子の龍太郎さんを見ていった。すぐ横にいるあたしに気づいて、ちょっと驚いたような顔をしたが、すぐにこりとして、こんばんは、と言ってくれた。宮司さんはどこに掛けようかと見回してから、龍太郎さんの右側に二つ席をあけて腰掛けた。
 向こうのボックス席にいたオヒロが、カウンターに戻って来て中に入り、宮司さんにお酒をついでだ。
「親父(おやじ)はオヒロのファンらしいんや、時々飲みに来てる」
 龍太郎さんはあたしの耳に口を寄せて言った。そっと向こうを見ると宮司さん、オヒロを相手に上機嫌で飲んでいる。
またまたドアの音がして、今度は着物姿の婦人が入ってきた。マスターはちらりと見たが声は出さない。婦人は真っ直ぐにカウンターに近づいた。
「いらっしゃいませ、まぁお久しぶりです」婦人は宮司さんに挨拶をしている。
「ママ、おはようございます」オヒロが明るく言った。ここのママらしい。
「おはようヒロコちゃん、ごくろうさま」
 あれ、夜なのにオハヨウなんていうのかしら。つぎに私たちのところまで来て
「禰宜さん、いらっしゃい、今日は彼女とご一緒ね」
 ママは美しい標準語だ。
 龍太郎さんが何か言おうとしたけれど、にっこりと笑ったママはどうぞごゆっくり、と言って奥の席へ挨拶に行ってしまった。
「ここのお客さんは、ママのファンが多いんだよ。あれだけマスターの商売に反対していたらしいのに、いざスナックをはじめると、一日も休まずお店に出て愛想をふりまいた。気性がさっぱりしていてねぇ。気配りも良く出来る。お店が順調に繁盛しているのは、どうもママの力によるところが大きいらしい」
 龍太郎さん、ママにつられていつのまにか言葉が変ってる。
「最近は時々しか店には顔を出さないんだけれど、今でもママがよく店に出ていた頃のお客が多いんだ。ほら、今ママが挨拶に行っている奥の席のお客さん、あの人たちもママの客だよ」
 たしか龍太郎さんは、東京の大学に行っていたと前に聞いたことがあったけれど、もうほとんどその時の言葉になってしまっているなとあたしは思った。奥の席ではママを中心に、にぎやかに談笑している。マイクがその席に持っていかれて、一人一人順番にカラオケがはじまった。みんなとても楽しそうだ。あたしも歌えたらいいな。やっぱり練習してみよう。
 そうこうしている内にも次々と客は入ってきた。店がだんだん活気づいてくる。
「ほら、次々とお客さんがくるだろう。なぜかママが来る日は不思議と客が多いんだ。もちろん、マスターの客や女の子目当ての客もいるけどね」
 とうとう龍太郎さんから大阪弁は消えてしまった。
 あたしは、はじめて連れて行ってもらったこのスナックが気に入った。
 帰りは宮司さんは自転車で、私たち二人は歩いて帰った。参道の大鳥居前まで来て、いつも通り別れようとすると、龍太郎さんはあたしの身体を引き寄せた。あたしはなすがままにして、うっとりと目をとじた。龍太郎さんはあたしを力いっぱい抱きしめ、唇を重ねてきた。あたしは嬉しかった。とうとうあこがれの龍太郎さんがキスをしてくれた。あたしはキスの感触に酔いしれた。龍太郎さんの口の中に舌を差し入れて、舌を絡め、唾液を存分に吸ってみたい。チロチロと口の中を舐めしゃぶりたい。あたしはそんな衝動を必死で押さえた。
「ミーちゃんが好きや」龍太郎さんは河内弁で喘いで言った
「あたしも龍太郎さんが大好き」あたしは上気して変になりそうだった。
 いつまでも抱きついている龍太郎さんを押しのけ、もう帰ります、というのがやっとだった。家まで送って行くという龍太郎さんを振り切ってそこで別れた。

 あたしはいつものように目がさめた。昨夜のことは夢か現実(うつつ)かはっきりしない。
 楠木の穴の中から外を覗くと雨が降っている。も少し寝てようかな、と思っていると杖をついたお婆さんがやってきて、楠木の小さな鳥居前にしゃがんだ。そして懐から小さな徳利を出すと、紙を丸めたような栓を抜き、盃に注いで柏手(かしわで)を打つ。
「シロヘビの神さん、お願いします。どうか息子を助けてください。息子は明日、病院で手術の予定です。孫のためにもどうか、どうか巳(み)さん、手術が成功しますようお願いします」
 お婆さんは何度も何度もお辞儀をしている。
 このおばあさん前からよく来てるんだ。この前は息子の病気が治りますようにとお願いしていたけれど、ああ、とうとう手術することになったのだ。こんな雨の中、子を思う親の気持ちがひしひしと伝わってくる。
 世の中には随分と強欲なお願いにくる人が多いもんなんです。あの人に勝ちますようにとか、宝くじが当りますようにとか、そんな願いはとても聞いてられません。でもこんな人こそ助けてあげなくては。あたしは市杵嶋姫(いちきしまひめ)の神様に一生懸命にお願いしてあげようと思った。あたしは神様ではないのでお願いしてあげるだけ。そうなんです。あたしは神様への取次ぎなんです。早速今晩にでもよく神様にお願いしておいてあげよう。
 お婆さんは背を丸めて帰っていった。
 今日は雨降りなので参拝のお客さんは少ないはずなんです。あたしは身体を丸めてもう少し眠ることにした。

 目がさめると昼過ぎだった。あたしは丸めていた身体を展ばして背伸びした。よく眠ったのだけれど少し頭が痛い。
 ぼーッとした頭で昨日のことを辿っていった。そうだ昨日の日曜日の夜、龍太郎さんとデートをしたんだ。少しずつ思い出したあたしは、急に龍太郎さんに会いたくなった。そうだ夕べスナックからの帰り道、龍太郎さんとキスをした。はっきりと思い出してあたしはつい、舌を出してピロピロと動かした。ああ、龍太郎さんに会いたい。
 雨はもう止んでいたが、平日なので境内は閑散としている。
 あたしはそっと楠木の穴から抜け出した。池のほとりに出て水に身体を映し、人の姿になろうとした。でもなかなか人の姿に成りきれない。呪文を唱え懸命に変身しようとしても、いつものようには成れなかった。昨夜、洋酒のバーボンを飲みすぎたからに違いなかった。
「市杵嶋姫さま、助けて…」とうとう自分の事で神頼みした。
 それでも半ばしか人に成れなかった。それでも龍太郎さんに会いたくて我慢ができない。近くへ行って見るだけでいい。
 顔は人、身体は大きな白い蛇体のあたしは、厳島社の横の林を通り、本殿裏の草むらをくぐって、とうとう社務所の座敷の床下へ忍び込んだ。この姿を見たら龍太郎さん、びっくりして腰を抜かすかもしれないなあ。
 床下に潜んでいると人が入ってくる気配がした。
「龍太郎、話とはなんや」宮司さんの声だ。
「はい、お父さん。実は楠木さんのことなんです」龍太郎さんの神妙な声が聞こえる。
「あの子がどないしたんや。好きになったんか」
「うん、好きになってしもうたんです」
「夕べスナックで一緒やったな。ええ子のようやけど、どんな家の子なんやろな」
「いつも鳥居前で別れるので、家まで行ったことがないんです。前にも二人で仕事に出かけた帰り、送って行く言うたんやけど断られた。それでそっと後をつけたんやけど、途中で分からんようになってしもうたんです」
「ええ子には違いないと儂(わし)も思うけど、ちょっと分からんとこもある子やな。どうも以前に見たことがあるような気がするんや。いっぺん調べよか?」
「お父さん、そんなん調べんでもええわ。僕は結婚しょうと、もう決めてるんや」
 神妙だった龍太郎さんの声が河内弁になってきた。
「せやったらよけい調べなあかんやないか」
「お父さん、そんなんもうええわ。余計なこといろいろ言うさかい、僕はいつまでたっても結婚でけへんねん。いまどき神社の神官の嫁になる女の子なんかめったに居れへんで。ミーちゃんやったら、巫女の仕事もおぼえたし、嫁さんになってくれる気がするねん。僕はもう四十過ぎてるし、今結婚でけへんかったら五十になってしまうと思うわ」
「せやけど家くらいは知っておかなあかんで」
 宮司さんは、まあ、考えとこ、と言って座敷を出て行った。
 あたしは龍太郎さんが、結婚まで考えてくれていることが分かってとてもうれしかった。 あたしも床下からそっと抜けだした。いつの間にか元の白蛇に戻っていた。

 次の出勤日は参拝客も多く忙しかった。
 日曜日、仕事を終えると龍太郎さんから、どうだ食事でもしないか、とデートに誘ってくれた。ちょっと遠いがいいレストランがあるんだ車で行こう、という。すると運転してくれる龍太郎さんはお酒が飲めなくなるので、ウナギ以外だったらなんでもいいから近くのお店に連れてってとあたしは言った。
 龍太郎さんはいつもの作務衣に着替えている。あたしは半袖のブルーのTシャツにジーンズ。そんな恰好で近くのファミリーレストランへ歩いて行った。
 あたしは熱い料理が苦手なので、冷製のオードブルなどで日本酒をいただいた。龍太郎さんは、いろいろ料理をすすめてくれるんだけど、もともとあたしは少食だ。龍太郎さんはビールを飲みながら次から次へと食べている。男の人の食欲は見ていて頼もしい。あたしはニコニコと龍太郎さんの食べっぷり見ていた。
 食事を済ますと市民公園の横を散歩した。あたしは幸せだった。腕を組んでたくましい龍太郎さんに寄り添っているのは最高だ。いつまでも歩いていたいと思った。ほろ酔いの顔にあたるそよ風が心地よかった。青々とした街路樹が続くゆるやかな坂道を行くと右にテニスコート、坂を上りきると市民プールがある。周辺は閑静な住宅地で、この道はそのまま行くと八幡(はちまん)神社に続いている。
 二人で話しながらゆっくりと歩いた。八幡神社にどんどんと近づいて行く。あたしはもっともっと神社が、遠くにあれば良いのにと思った。行くにしたがって街灯はまばらになってくる。
 とうとう鳥居前まで来た。龍太郎さんは足をとめると、あたしの背中に腕をまわしそっと引き寄せた。そっとあたしは目をとじる。
とても甘い情熱的なキスだった。あたしはうっとりと身体を預けた。
キスをしたまま、龍太郎さんの手が背中から下りてくる。お尻の辺りで止まった。
 止(や)めてよ!龍太郎さん、あたしに火を付けないで。ミーちゃんの情熱をしらないの。あたしは執念深いんだぞ。
 あたしは未練を振り切って唇をはずし、龍太郎さんから離れた。
「さようなら、龍太郎さん」あたしは走って別れ去った。

 あくる日の夜明け、あたしがうつらうつら居眠りをしていると、誰かの声が聞こえて来た。そっと楠木の穴から見ると、あ、宮司さんだ。だらしなく伸びきって寝ていた姿を見られたと思った。
 宮司さんは小さな鳥居の前に座り、つぶやいている。
「ミーちゃん、いや巳の神様、どうか息子の龍太郎のことはあきらめてください。悪いとは思ったのですが実は龍太郎に説得して、あなた様の正体を調べるため、細い絹糸を使うように言いました。昨夜(ゆうべ)のデートの帰りぎわに、息子がそっとあなた様に糸を付けたのはご存じなかったと思います」
 聞いてびっくり、あたしははっきりと目がさめた。ああ、とうとう正体がばれたか。やっぱり宮司さん、古い言い伝えを知っていたんだ。むかしむかし三輪山の大物主の神様だってそれで見破られたんだ。
「私はどうも気になっていたのです。それで嫌がる息子にやらせたのです。それで今朝は息子が起きだす前に、こうして先に見に来たわけです。大鳥居前から糸を辿ると、神社の境内に入り、池の向こうの草むらを通ってこの厳島社横の楠木の穴へと糸は続いていました。もしや、と私が思った通りでした。どうもすみません。悪いのは私です。もし罰を受けるなら私が受けます」宮司さんは地面に額をつけるばかりに頭を下げている。
「巳の神様お願いです。アルバイトの仕事はやめていただけませんか。やっぱり神様との結婚は無理だと思います。龍太郎に悪気はありません、本気になっていたと思います。結婚できないとなると、息子もつらいと思いますのでもうアルバイトに来ないでください。もちろん、このことは息子には内緒です。龍太郎には私の方から適当に話しておきます」宮司さんは後ずさりして戻っていった。
 もぉ、あたしは神様じゃないといっているのに。
 でも仕方がない、あきらめよう。もともと無理だとは分かっていたわよ。
 最初はただ龍太郎さんの近くに居れるだけでいいと思っていただけなんだ。でもあたしだって人なみに恋をしたいと思うときもある。龍太郎さんがキスなんてするから悪いんだ。どっちみち、抱いてもらうことなんて出来ないんだもの。それこそ正体がばれてしまう。

 あたしはきっぱりとあきらめることにした。龍太郎さんのことは今も好きだけど仕方がない。お父さんの宮司さんもいい人だし、あれだけ頼まれたら嫌とは言えない。次の出勤日は無断欠勤して、そのままやめてしまうことにしよう。
 さあ、もうひと眠りしょうか。いい夢でも見ようと、あたしはとぐろを巻いた。
 そうだ来年は、あのマスターの居るスナックへアルバイトに行こう。こんどはどんな娘に化けてやろ。あたしは楽しい夢の中に入っていった。 
                                                                          


平成15年7月21日初出。同21年12月10日部分訂正再掲出。
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