もうひとつの空海伝
1.大学出奔    
     
 真魚(まお)は吉野への道を猪のように突き進んだ。
京から吉野方面へ向かう南行きの道は三通りあるが、人目を忍ぶ逃避行なので一番目立たない山辺(やまのべ)の道を選んでいた。いわゆる上つ道である。京の大学を今朝、東の方が白む直前を見計らって逐電してきたのであった。京といっても新都の長岡京ではない。旧都の平城京である。桓武天皇は都をあわただしく奈良から長岡に遷都したが、大学は奈良盆地に残したままだったのである。それは旧都左京の東、元興寺の近くにあった。その大学を真魚は入学して二年あまりで抜け出したのである。
 
 一昨年春一月、真魚は伯父の阿刀大足(あとのおおたり)に連れられて大学の門をくぐった。大学は、正式には大学寮といい、律令制で式部省に属する官吏養成機関である。国家の経営に役立つ優秀な官僚を育成するのが大学寮の役割だった。
この時代律令制の学問所は、大学寮のほかに陰陽寮、そして地方諸国に国学があった。大学寮の学科には、明経道・明法道・文章道・算道・音道・書道の六学科があった。真魚は、大学は明経道科に席をおいた。明経科は特に上級官吏の養成機関と言える。入学を許可された学生はほとんどが五位以上の高級官吏か貴族の子弟であった。
真魚の父佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)は、讃岐国多度郡(さぬきのくにたどのこおり)の郡司だったが無冠だった。しかし伯父の阿刀大足が従五位下だったのと伊予親王の侍講だったので、その口ききで大学にも入学できたのだ。

 この時代の大寺院は総合学問所の様相を呈していたので、直接都の大寺院に入って仏教を主体とした学問を学び、官僧を目指す道もあったのだが、父の田公は真魚を上級官吏にしたかった。田公自身が郡司だったのでその上の国司にしたかったのである。
大学に入学したのと、大寺院での修行との最も大きな違いはその学習内容である。
寺院に修行に入った場合の一日は、まず未明の掃除からはじまる。そのところは一緒なのだが、それからが違う。寺院では掃除のあと、見習い中は厨房での賄い準備から始め、先輩僧侶の朝食を用意し、先輩たちが朝食を済ませたあと、慌てて自分たちが朝食を摂り、その後で日課の勤行がある。
一方、大学の場合は朝からみっちりと四書五経いずれかの講義から開始される。

 真魚は明経科に在籍していたので、主として経書を学んでいた。しかし、真魚は四書五経を学びながらふと疑問を持つのだった。
五経とは、易経・書経・詩経・礼記・春秋であり、前記礼記の内の大学・中庸に論語・孟子を加えたものが四書であった。おおまかに言えば、易経・書経・詩経はそれぞれ易・書・詩の経書で、礼記は礼儀作法の書、春秋は歴史書である。儒学は君主や師、長上者に対して絶対的な服従と礼節を説く。まことに為政者には都合の良い学問であった。
このことに真魚は思うのである。なるほど礼節は必要だと思う。また五経にあるところの易・書・詩などを学ぶことも良いと思う。礼記では礼儀作法をこと細かに規定している。春秋はいわゆる左氏春秋である。もちろん歴史を学ぶのは良い。「しかし…」と真魚は思うのである。礼儀や唐の歴史を学んで人が救えるのか、大いに疑問だった。否、それではこの国の民は救えまい!(そのような学問は貴族のお遊びに過ぎない)貴族たちの教養としては結構だが、それでは決して悲惨な状況にある悩める民は救えない。

 真魚は以前から仏教には何か惹かれるものがあった。讃岐で国学に身を置いていたとき諸国を行脚している優婆塞(うばそく)に聞いたことがある。優婆塞というのは在野の修行僧である。僧になるには官許がいるので彼等は国家に認められた正式な僧侶ではなかった。その話によると、吉野に比蘇寺という寺があって、そこでは最新の仏教が学べるという。天竺直伝の新仏教であるという密教を学んだ唐僧がいて、有能な人材と見れば渡来の秘法を授けてくれるというのであった。
 
 都に上り、大学に入ってからも、講義をしている岡田博士の助講からもそのような話を聞いたことがあった。密教には最新の学問と知識が詰まっているらしい。向学心に燃える真魚はどうにかしてその比蘇寺とやらにもぐり込みたいと思った。
それで、折に触れては大学からの脱出を狙っていた。しかしそれは犯罪行為とも言えるものであった。願って入学したからには何がなんでも学業は修了しなければならなかった。そうでないと父にも伯父の阿刀大足にも顔向けができない。真魚自身がどうしても役人になりたいと思ったのではなかった。父や伯父、そして讃岐の佐伯一族が望んだのだ。真魚は、栄達を願う一族の希望の星だったのである。このまま順調に中央官界への道を歩めばいうまでもなく佐伯一族の出世頭になりそうである。伯父の阿刀大足は親王の教育担当ともいえる立場だったので、一流の知識人ではあったが、伯父は佐伯氏ではなく阿刀氏だった。父は是が非でも佐伯氏嫡流の真魚に中央で活躍してもらいたかった。
その父の願いが叶い、晴れて我が子が大学に入学できたのである。今更伯父や父に退学したいと願い出ても許されるはずはなかった。それは一族への裏切り行為でもある。また所定の学業を終えないで出奔するのは朝廷(みかど)に対する犯罪行為でもある。
 
 何処の国の子弟でも、大学への入学を希望するものはあまた居た。様々な制約がある中から選ばれて入学したのである。真魚が選ばれていなければ誰かがもう一人大学に進めたはずだ。それを考えても大学を無事修了するのは真魚自身の義務でもあった。
「自分はただ者ではない、いずれは天下に起つ男だ」
真魚は本気にいつも思っていた。その自分自身が様々に考えた末での結論だった。もう振り向くことは出来ない。本日未明すでに大学を出奔していた。吉と出るか凶となるか、もう賽は投げられたのである。
 
 真魚は空を仰いだ。明け始めた東の空には明星が輝いている。辺りを見回すと左手に杜(もり)があり石塔に和爾(わに)神社と刻まれていた。この地の古豪族、和爾氏の氏~らしい。その社頭を早足で歩きながら真魚は続けて思い出す。幼い頃母の里、河内国渋川郡跡郷(あとごう)で暮らしていた頃を。

 母の名は阿古屋(あこや)といい、父は讃岐国多度郡(さぬきのくにたどのこおり)の人で佐伯直(さえきのあたい)田公(たきみ)である。宝亀五年(七七四)六月十五日、真魚は河内国渋川郡(しぶかわのこおり)跡部郷(あとべごう)の阿古屋(あこや)の家で生まれた。田公の子としては三男となる。
この時代の結婚は妻問婚だったので、真魚は阿刀家で養育されていた。母方の阿刀(あと)氏は、船長天津羽原(ふなおさあまつはばら)の後裔だといい、先祖は水運に関わったようだが、代々学者の家系であった。
 
 父は讃岐国多度郡の郡司である。その傍ら交易の仕事もしており、また税を都に納めるため、讃岐から浪速の大津へ海路で産品を輸送し、そこから川舟に積み替えて河内湾から大和川支流の長瀬川を遡上して、都のあった大和国への陸送の中継地、渋川郡跡部郷へ年に何度か立ち寄っていた。その頃に父の田公は後に真魚の母となる阿古屋と知り合ったのであった。真魚が阿刀家で生まれてからも、父は時々この渋川にやっては来たが父に遊んでもらったような記憶は真魚にはあまりなかった。その代わり、伯父の阿刀大足(あとのおおたり)がよく顔を出し、何かと言っては真魚と遊んでくれた。
伯父の大足は都で、桓武天皇の第三皇子伊予親王の侍講だった。官位は従五位下である。その大足の妻は、真魚の母阿古屋の妹でもある。
 
 真魚は幼少より漢文に親しんだ。親しむと言っても母が読む漢籍の書物を興味深く聞いていたのである。少し読めるようになると母の阿古屋が教えた。真魚は驚くほどの記憶力で漢詩を諳じた。また阿古屋は併せて書法の手習いも真魚にさせた。
叔父の大足は真魚の才能を伸ばそうと、折りをみては手取り教えた。その詮(かい)あって十歳になる頃には論語や孟子など、多くの漢籍が暗誦(あんしよう)できるまでになった。河内国渋川郡(しぶかわのこおり)に神童の噂が広がった。

 十三歳になったとき、父の佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)が阿刀家に来て、真魚を讃岐に連れ帰ると言った。
兄二人が幼少で他界していたので実質は嫡男だったことにもよる。
多度郡に父と帰った真魚は初めて父の屋敷に入った。
そしてその年、讃岐の国府にある国学に入学した。父の田公が優秀な真魚に期待したからである。国府の役人にして、末は国司にでもなれば一族の誉れである。このように考えた田公は真魚を国学に入れたのだった。
 
 ところが国学の講義内容が真魚にはものたらず、どうしても満足できなかった。それで父に、都に上がり大学に入りたいと願い出たのである。父は真魚の才能は認めていた。ところが、この息子は父が想像する以上の能力の持ち主らしい。大学に移りたいと一心に願う純粋な向学心に負けて父親の田公(たきみ)は承諾した。
 真魚は十五歳で国学を中退した。中退と言っても国学の儒学の科目は殆ど自分で先に先にと履修してしまっていた。国学全科修了と言っても良いくらいだった。
そうと決めれば田公は真魚の将来に大きな期待をかけた。
 
 真魚は都に上った。もちろん都と言っても旧都平城(なら)である。幸い叔父の阿刀大足の屋敷が大学に近い。真魚は居候して大足から、大学に入学するための経書を改めて学びなおした。阿刀大足の私邸で直接指導を受けるのである。大足は桓武天皇第三皇子、伊予親王の侍講をしていたので机を並べて一緒に大足から学ぶこともあった。その頃、伊予親王は十三歳で藤原是公の館に住んでいた。侍講の大足の住居もその側にあった。ちなみに是公の叔父は藤原仲麻呂である。
 
 真魚は十六歳で大学に入学した。専攻は明経道である。
国学も大学も入学可能年齢は十三歳以上、十六歳以下だったので、真魚は年限ぎりぎりで入学したことになる。
都は長岡京に遷都していたが、大学はまだ平城に残したままだった。
宮都の建設は遅々として進んでいなかった。大極殿や参集殿など主だった建築物は、その完成を早めるため、旧都の浪速宮から建物を解体して淀川から船便を使って運んだ。それでも長岡京は水はけが悪く工事がはかどらなかった。基礎工事すら遅々として進まないのである。貴族たちの邸宅もほとんどが平城京に残ったままだった。元々大部分の貴族らは、この長岡への遷都に賛成ではなかったのである。
 
 旧都平城(なら)左京の東側には多くの大寺院があった。東大寺、興福寺、元興寺(がんごうじ)である。そして北東方向には大伴氏ゆかりの般若寺があった。大学の周辺では大安寺、葛木寺、佐伯院とあった。佐伯院は佐伯今毛人(いまえみし)が建てた寺である。佐伯氏は大伴氏の一派ともいわれるが、佐伯氏には二流あって、一は中央の佐伯宿彌(さえきのすくね)氏と一方は真魚の父方の佐伯直(さえきのあたい)氏である。佐伯とはサエギ、つまり先祖は双方とも蝦夷であったとも謂われる。この中央の佐伯氏は、いち早く帰順して手柄を立て、中央で出世した佐伯で、先祖は同族とみて良い。この佐伯宿彌今毛人は正三位の造東大寺司次官でもあった。
延暦三年(七八四)に都は長岡京に移っていたが、真魚が平城(なら)に上がったとき旧都はまだ輝きを失っていなかった。多くの貴族は奈良にまだ私邸を残しており、主だった寺院も移転していない。それで大学も旧都に残されたままだったのである。

 大学寮の学生としての生活を始めて一年ほど経たある日の夕暮れ、伯父の阿刀大足の私邸から帰寮途中の大安寺の山門前で一人の沙門に呼び止められた。大学に許可を得て、時々真魚は大足の私邸で伊予親王と共に教えを受けおり、その帰り道であった。
「そこの若いの、しばしまたれよ」
見れば中年の体格の良い男だ。僧形である。
「そこもとは、大学寮の学生じゃな?」
「はい、そうですが…」
と真魚が応えると、
「何の根拠もない、これは拙僧の直感じゃが…」
と言い、話を続けた。
「そこもとには何か名状しがたい存在感がある。そなたは国のため、民衆のため大きな任務を負った人物と見た。えっ儂(わし)か?、儂はこの大安寺に居候している者じゃが、ここを通るそなたを何度か見たことがある。前からただ者ではないと見ておった。その内どうしてもそなたのことが気になってな、今日はこうしてそなたに声を掛けようと待っていたのじゃよ」
沙門は夕日が眩しいのか目を細めて話す。少しなまりのある話し方だ。門前の潜り戸の横にある手頃な石に真魚を誘った。そして自分もその右側に腰を掛ける。
「そなたは、役人になるための勉学に勤しんでいるようじゃが、なにゆえに役人になりたいのかの?儂は一度ぜひ聞いてみたいと思っていたのじゃ」
沙門は細い目で真魚をのぞき見た。じっと真魚を見つめる目は意外に優しい。
「はい、私はこの国々で苦しんでいる民百姓を何とか楽にできないかと思っているのです。そのためには、天子さまの政治(まつりごと)と民衆の間を取り持つ役人になれば、何とか人々の労苦を軽減することができるのではないかと思っています」
真魚は沙門の目を見つめかえして言った。
「それは見上げた心がけじゃ。じゃが今学んでいよう儒学では人は救えまい。それに、役人になったとて大きな仕事はできはしない。役人というはただ政治の手先として使われているだけじゃ」
沙門は諭すように話しかける。

 真魚は、そうかも知れないと思う。前から疑問に思っていたのだ。
「四書・五経を学ぶのは、そこそこでよろしかろう。それよりこれからは仏教を学びなされ。それも密教を学ぶことをお勧めする」
「密教?ですか、聞いたことはありますが、よく知りません」
「大日経というのを知っているか?」
「それも知らないのです」
「密教はほとんど知らないのじゃな。もし興味があるならこの経を読んでみることじゃ。正しくは『大毘盧遮那(だいびるしやな)成仏神変加持経(じようぶつしんぺんかじきよう)』という。高市郡(たけちのこおり)の南法華寺にあるはずじゃ」
「ありがとうございます。いつか訪ねてみたいと思います」
真魚は丁重に感謝の気持ちを述べた。辺りは暗くなりかけている。もう帰らなければと真魚は立ち上がりかけた。
「もう一つ聞かせておきたいことがある」
沙門は帰ろうとする真魚を手で制して言った。真魚は座り直した。沙門は続ける。
「求聞持法(ぐもんじほう)というのを聞いたことがあるか?」
真魚はかぶりを振った。
「記憶力を増大させる秘術じゃよ。これは大いに役立つぞ。道を究めようとする行者には必須の術じゃ」
真魚は目を見張った。
「そのような秘法があるとは知りませんでした。沙門どのはご存じなのですか?ご存じなら、私に教えて頂けませんか?」
「儂も元興寺(がんごうじ)の唐僧に直接教わったのじゃ」
「なら、私にもどうかご伝授戴けないものでしょうか」
真魚は頭を下げて頼み込んだ。
「実はの、確かに教わったのじゃが…儂には成就できなんだ。故にお手前に教える資格はない。それに儂は沙門とは言えないかも知れん。官僧ではないのじゃよ。今のところ正式な僧とは認められていない。つまりは一介の優婆塞(うばそく)と何も変わらん」
沙門は小手を振って真魚の申し入れを拒んだ。
「ではせめて御坊のお名をお聞かせください。私は阿刀大足氏の書生でマヲと申します」
「真魚(まことのいを)の意味か。マイヲじゃな。覚えておこう」
沙門は立ち上がった。歩きかけ、思い出したように立ち止まって言った。
「え、儂の名か?…儂は自分の名を忘れてしまったよ」
そして歩き出し、続けて言った。
「マイヲよ、吉野の比蘇寺(ひそじ)に行ってみるが良い。求聞持法はそこで分かる」
上背のある中年の沙門はすっかり暗くなった巷(ちまた)に姿を消した。

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