古代の架橋

 天武元年7月、天武方の将軍男依が近江方大友皇子と瀬田橋で戦った記事が日本書紀にある。この橋は後の時代に近江八景の一つとしてその名を知られる瀬田唐橋で、天武元年(672年)の壬申の乱に初見以来、幾度となく文献に現れるが、いずれも歴史上重要な合戦に登場する橋である。 その後、奈良時代の藤原仲麻呂の乱(764年)などがあり、瀬田橋は火災や地震により被害をこうむり消失したりしながら、平安時代末から戦国時代まで修理や架け直しを繰り返し、現在のような姿に近づいたのは、織田信長と豊臣秀吉の時代であったという。

 昭和63年、古代の瀬田橋と考えられる遺跡が、滋賀県教育委員会によって発掘された。
 この通称「唐橋遺跡」といわれるこの地の発掘で、水面下3.5mに、古代の瀬田橋の橋脚基礎構造物と見られる遺構が検出された。場所は現在の瀬田の唐橋より約80メートル下流域である。併せてその基礎部分から和銅元年(708年)に鋳造され始めたといわれる「和同開珎」や、更にそれ以前の鋳造とみなされる無紋銀銭などが出土した。これらは架橋に伴う祭祀や呪術に係わって捧げられたものとみられる。
 これら古代の貨幣以外に、中世の古銭も見つかっており、このことはこのすぐ東岸に竜神を祭る龍王社が鎮座していることなどから、水神信仰との関わりが注目される。
 琵琶湖博物館の瀬田川唐橋遺跡のコーナーに、和銅開珎と共に中国古代貨幣の一つである五銖銭が展示されているが、これらの貨幣はこのときの発掘時に出土したものである。
 ところで7世紀末頃には築造されていたとする唐橋の遺構から、なぜ中国貨幣である五銖銭がでてきたのだろう。この五銖銭が隋時代の物だとすると、どの時代にどのようにして隋からこの地に運ばれ、誰によって唐橋の下に入れられたのか。

 日本書紀によれば、推古天皇15年(607年)に小野妹子が遣隋使として隋に派遣されている。この小野妹子の出身は滋賀郡でこの唐橋の近くでもある。
 彼は留学僧等と伴に難波の津を出発して、途中百済に立ち寄り、百済の使節と共に隋の煬帝に接見した。そして翌年の608年、百済を経由して隋の使節等と共に難波に帰還。この時、小野妹子やその随員または隋の使節が五銖銭を日本に持ち込んだのではないかとも考えられる。翌年に小野妹子が再度渡航し、さらに614年にも犬上御田鋤が遣隋使として派遣されている。これらの人々が持ち帰った「五銖銭」が、この唐橋の基礎部分に何らかの願いを込めて埋納されたのではないだろうか。それは水神への捧げもの?あるいは呪術のひとつであろうか。いづれにしても信仰や宗教的なものに結びつく儀式であったような気がしてならない。

 さて次は橋脚の構造についてである。

 以下は『新版・海でむすばれた人々』門田誠一著より
「…上部の橋桁などは残っていませんが、橋桁を支える橋脚の部分がよい状態で発掘されました。橋脚は基礎構造部とその上の橋脚台部から成り立っています。基礎構造部は、まず、川底を整地し、つづいて川の流れと同じ方向に直径約20センチ、長さ5メートルの丸太材を数本ならべ、この上に直径25センチ、長さ3〜8メートルの丸太材11本が直角に置いて、全体としては四角形に配置されています。そして、その上に直径3〜5センチの細い棒状の材が網のように組まれていました。橋脚台部は長さ5〜6メートル、幅40〜50センチの角材を南北約11メートル、東西約5メートルの扁平な六角形に組み合わせ、各材の中央部には直径20センチ、深さ5〜10センチの穴が一ヶ所ずつ開けられていました。この穴は上部に立つ橋脚材を組み合わせるためのものです。そして、この基礎構造部と橋脚台部の上に大量の石が積まれていて、全体が石で埋められた状態になっていました。このような構造の橋脚の遺構が約18メートル離れて2基検出されています。…」以上原文まま、引用終り。

 瀬田橋の構造やその工法については、韓国で発掘された木造の橋脚が、武烈王時代の「蚊川橋」と推定され、この橋脚の基礎部分の構造が日本の「瀬田橋」の工法と酷似しているという。五角形の井桁状に木材を組み内部に川原の石を詰めているところなどそっくりだというのだ。そのようなところからも瀬田橋を構築した技術は、近江地方に渡来してきた新羅系の技術者集団によってもたらされたものと考えられよう。
 この時代の橋は石造系と木造系に限られ、中国では3世紀頃から石造の大橋が造られていたとする記録が残っているが、日本における石橋の歴史はかなり浅く、16世紀位以降からのようである。
 日本においては、橋を恒久的な施設とする意味が希薄で、自然に敢えて逆らおうとせず、できるだけ流れに任せようとする気持ちが強かったのであろう。また、為政者の政治的な思惑があったことも見逃せない要因である。

 古来より日本では、舟を繋ぎ合わせてその上に橋板を載せ簡単に架橋する「舟橋」や、舟板の固定を簡単に取り外せる「流れ橋」が多く造られたようだ。
 一般的な木の橋脚、木の橋梁、木の橋板で造られた木造の大橋は、戦による火災や大水の際に消失して、何度も架け直しされたことが記録で分かる。
 時代は遡るが、仁徳天皇の時代(5世紀前半頃?)、日本書紀に次のような記事がある。
「仁徳天皇14年冬11月、猪飼津に橋を渡した。そこを名づけて小橋といった」
 現在の大阪市の鶴橋駅近辺だとされるこの「猪甘津橋(いかいつのはし)」が日本最古の橋だとされるが、筆者は地元鶴橋の郷土史家から、この橋は「舟橋」だったと聞いている。

 古代から架橋や築堤には様々な伝承・伝説があり、その多くは水神信仰に基づく儀式や呪術であった。それらの内、最古の記録は雄略天皇の時代(5世紀後半頃?)の
茨田堤(まむたのつつみ)の説話であり、長柄橋の伝承である。

“ものいはじ父は長柄の橋柱 鳴かずば雉子も射られざらまし”
 このように歌われたのは長柄橋の架橋工事に際して、生きながら埋められた「人柱」の言い伝えである。
 その痕跡として、史実かどうかは確定できないが、
淀川区東三国のお寺に人柱になった人の碑がある。
 人骨が発見され、考古学的に証明されたことはないようであるが、自然の神々を崇め、霊魂の存在や呪術を信じた人々がいた古代においては、十分そのような事実があったのではないかと思われる。
 歴史を俯瞰すると、架橋技術だけでなく土木技術全般や、様々な文物、技術・文化が海を通じて往来してきた。
 川勝平太によると、「海と陸という観点から見ると、日本社会は海洋志向の時代と内陸志向の時代とを繰り返している」と言い、島国であるゆえに海を渡ってくる文明の波に洗われながら社会が発達してきたのだという。興味深い論理である。
                                    以 上
 

      参考文献
『日本書紀』現代語訳・宇治谷 孟
『文明の海洋史観』川勝平太著
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