A story of the Ark |
もう一つの聖櫃伝 | |
丸谷 いはほ | |
一、秦の都咸陽 風が舞った。街路に塵や埃が踊る。雑踏の街中には糞尿臭が風とともに漂っていた。馬や駱駝(らくだ)、驢馬(ろば)などの脱糞尿が路面に散らされているからである。 あわただしく人馬が行き交うその街中を、西域からの旅行者であろうか大通りを東に向う少人数の群れがあった。女らしき主人とその従者達らしい。らしいというのは、汚れた胡服に、顔も垢と埃で真っ黒になっていたからであり、また先を行く男が時々後をふり返り、気遣うようなしぐさから主従のように見えるのであった。 先頭は、逞しい赤毛の馬に乗っている精悍な面構えの男である。従者らの頭(かしら)であろう。その後を同じような馬に乗っている女主人は、頭から布をかぶり、顔はよく見えないがかなり若い。その主人に従うように、すぐ後で馬を歩ませているのもまだ若い女性のようだ。この馬はかなり小さいので騾馬(らば)である。その次には少し離れて、若い男たちが四人で一つの唐櫃のようなものを担いでいる。それには彼らの生活用具が入っているのであろう。野宿をする為の天幕などが入っているのかも知れない。それにしても汚れた粗末な木箱であった。長旅で疲れているのであろうか箱を担ぐ男達の足取りは重い。一番後ろで時々後方を振り返りながら用心深くついて行くのは駱駝に跨った男であった。動作やその姿から老人のように見受けられる。 先頭の頭らしい男が女主人をふり返り見て言った。 「姫、やっと咸陽につきましたよ」 姫と呼ばれた若い主人は、少し白い歯をみせてとその男の顔を見た。その顔には、さて、こらからどうしましょう?というような表情があった。男が女主人の方に馬を寄せると、 「今日はどこかに宿を借りましょう、野宿ばかりで皆も疲れが溜まっています」男が言うと、若い女主人は笑顔を見せて頷いた。 一行は都の中心部に程近い住宅地に宿を求めた。 始皇帝は各地から富豪を、強制的に咸陽に移住させていた。都作りの一環である。そうして移住させられてきた富豪屋敷の内の一軒に交渉して、宿として倉庫の一部を借りた。女性二人には小部屋を借りることができた。 代金は金の小片で相当分を支払った。刀銭や四角い穴のあいた円銭が通用し始めていたので、それで支払おうとしたのだが、金(きん)で代価を求められたからである。一行は旅の出立にあたり、道中の費用として金(きん)をできるだけ小片にして持参していたのである。 始皇帝は全国を統一してから、矢継ぎ早に様々な政策を実行していた。度量衡の制定、文字、貨幣の統一などである。道路建設も鋭意進められた。 咸陽の宮殿は渭水の北岸にあったが、新宮殿となる阿房宮をこの渭水の南岸に造営中で、北岸から南岸へは石造の橋で繋ぐ計画である。各地を大道で結び、すべてこの咸陽の都に通じる道路網も計画通り進行中であった。 その日、一行八人は久しぶりに屋根の下で食事ができた。倉庫内にあった作業台を食卓代わりにして、姫を正面に精悍な頭の男が右に、左に老人が着座した。他には姫の侍女と従者の若者四人が揃って全員で八人になる。 「みんなご苦労でした。ここに少しばかりの葡萄酒があるので、まず乾杯しましょう」一人一人の顔を見ながら姫が微笑んで言った。 それぞれが手持ちの器に、侍女が葡萄酒を注ぐと皆で道中の無事を神に感謝して飲み干した。食事はナーンと干し肉、そして乾燥イチジクの実であった。 簡単な食事が終わると、 「今夜はゆっくりと休んでください。明日からまた東に向って行きたいと思います」 姫が侍女と小部屋に引き上げると、頭(かしら)が立ち上がって言った。 「そうだ、お前たちに咸陽の酒を飲ませてやろう。出かけよう、まだ寝るのは早い。飲んだ後でぐっすり眠ればよい」そう言ってから、すぐ気付いたように続けて言った。 「心配するな、姫から許しが出ている」そう言って頭は若者達を連れ、外へ出かけた。 まだ外は明るかった。咸陽の市街地にある酒肆(しゅし)に入った。 店内は薄暗く、油灯が点されていた。若い娘が近寄って来てそれぞれに陶器の酒杯を渡す。別の女が抱えた壺から酒を注ぐ。 頭(かしら)は五人分の代金を円銭で支払った。 灯りでよく見ると、酒は薄い緑色をしている。馥郁とした香りを放ち、口に含んでみるとコクのある旨さだった。頭はその酒をぐっと飲み込んだ。…… |
続きは、書店でお買い求めの上でお読みください。 2018年6月/海風社 刊 B6版 上製296頁 ¥1,900(税別) |
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