中国歴代王朝と儒教

はじめに儒教の創始者、孔子の略歴とその思想について述べてみる。
 孔子(紀元前551〜紀元前479)は、春秋時代、宋の魯国に生まれた。幼い頃に両親をなくして、身寄りのない孤児ながらも、苦学して学問を修めたという。
 孔子が説くところの思想の根本は「仁」で、仁が様々な状況において実践されることによってこそ、道徳が保たれると説いた。また中国古来よりの呪術的なものや、祖先崇拝的な考え方を「礼」という言葉で捉えたのである。そのため儒教は仁という人道的な側面と、礼という長上者を敬う身分制度の双方を持つにいたった。
 このような思想を掲げた孔子は、50歳のとき魯の大臣になったが、理想を果たせず、紀元前479年に地位を捨てて諸国をめぐる旅に出た。しかしながら孔子の思想を受け入れる国は無く、紀元前483年69歳のとき魯に帰国した。その後、弟子の育成に専念したが、73歳で死亡。孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んでいたが、その機会に恵まれなかった。死後、儒教は孟子などの優れた弟子たちによって、支持層を広げ、漢の武帝に認められ、国教に定められた。これで儒教は国学としての地位を確立し、以来中国哲学の代表とされている。
 さて、これより本題の「中国歴代王朝と儒教」についてである。

『世界大百科事典』平凡社/には次のような記述がある。
「儒教…その本旨はほぼ“修己治人”であるというべく、すなわち自己を完成して君子となり、他に向かって徳業をおよぼすことであると解される。」またこうもある。

 「儒教は哲学とも宗教ともただちにはみなしがたいものである。その本来、為政者のために説いた教えであることは注意すべく、従って一種の政治思想であることも否定しがたい。」などとあり、治世者にとってまことに都合の良い思想であったとも言えるだろう。
 では具体的に歴代の王朝は儒教をどのように取り扱ってきたのかを見てみよう。


春秋・戦国時代:

東周時代は二期に分かれて春秋時代(前770〜前403)と戦国時代(前403〜前221)と呼ばれているが、この春秋時代に孔子が生まれている。この時代、周王朝の権威は衰え、多数の封建諸侯が覇を競い、少数の国家に統合されて行く過程であった。儒教は諸侯からは未だ評価されず、用いられていない。


秦時代(前221〜202):

始皇帝は法家の理念を重用して皇帝の独裁と中央集権体制の強化に力を注いだ。そのため「焚書坑儒」と呼ばれる儒家に対する弾圧を行った。一方この頃から神仙思想もさかんになりはじめた。


前漢時代(前202〜後8):

景帝のころから儒学(儒教)を学ぶ者が多くなってきた。武帝は儒学に基づいた官吏登用制度を採用。また五経博士を置くなど儒学を政府公認の学問とした。


後漢時代(25〜220)

桓帝が殺され、政治の実権が宦官の手に握られてきた頃、儒教の教えを厳格に守る「清流の士」と呼ばれる人たちが官僚の中から輩出してきて、彼らを厳しく批判した。この頃、仏教が上流階級に伝播したとみえて、桓帝もまた宮中に仏陀を祭っていたという。またこの頃から神仙思想や不老不死の思想は仏教の論理を取り入れて「道教」を形成する。


三国時代(220〜265):

魏・蜀・呉の三国が鼎立していた時代、思想も儒教・仏教・道教の三思想が互いに影響を与えあっていたといえるだろう。しかし儒教は衰えを見せはじめる。


西晋・東晋・南北朝時代(265〜589)

南北朝時代から儒学(儒教)からの脱却、仏教・道教の受容など共通した側面を持つ。


隋・唐時代(589〜907)

587年から採用されていた科挙制度は、五経正義に基づいて科挙の試験は出題されていたが、隋の文帝は仏教を信じ保護したので仏教界には優れた僧が輩出した。唐中期にはインドから密教も伝来、また景教や回教等々も伝えられていた。唐後半期の武宗時代に大規模な廃仏が行われ、他の外来宗教もその余波を受けて衰微した。


五代・宋・元時代(907〜1368)

宋における思想の展開では、新しい儒学ともいえる宋学が芽生えた。それは経典の解釈を中心とした学問ではなく、宇宙の仕組みや、人間の本質や本来あるべき姿を探求する一方、現実社会の生活や政治にも対応する広がりを持った儒学であった。この宋学を朱熹は仏教・老荘思想をも取り入れて大成させた。また朱熹は『大学』・『中庸』・『論語』・『孟子』の四書を重んじ『四書集註』を著してから後の儒学は五経主義から四書主義に転換したといわれる。

元時代、広大な統治下には様々な民族がいて、この帝国で最も通用した共通語はペルシャ語であったといわれる。元朝はそれら民族の文化や宗教を分け隔てなく受容した。また儒教は尊ばれ、儒学に基づいた試験で人材を登用する「科挙制度」も続けられた。道教も盛んで、最も活発であったのが「全真教」であった。そしてキリスト教やイスラム教も伝来していた。キリスト教のうちでも「景教」の信者は元の朝廷にも信者がかなりいたといわれるほどである。仏教は宋代から禅宗が引き続き信仰され朝廷の尊崇も受けていたが、元代の仏教の特徴はチベット仏教(ラマ教)が流行していたことだ。ただし貴族には信仰されたが、一般のモンゴル人には広まってはいなかったという。


明・清時代(1368〜1912)

明朝は元朝と同様に南宋の朱熹が大成した儒学の体系、朱子学を国学の要とした。
 清朝は中国文化尊重の政策とりつつも同時に禁書など思想統制も行ったが、宋学(朱子学)の国家学としての地位には大きな変化はなかった。


王朝終焉以降の時代(1912〜新文化運動まで)

1911年の辛亥革命で二千年来の専制王朝が打倒された。1912年1月孫文が臨時大統領に就任して共和制を宣言。しかし勢力は弱く間もなく袁世凱が大統領となった。この袁世凱が国民の自由を抑圧し、反動政治を強行するなか、デモクラシーとサイエンスをスローガンとする知識人・学生たちの思想解放運動が、上海で創刊された雑誌『新青年』を中心に開始された。これは「新文化運動」と呼ばれ、この運動は儒教批判が中心であった。

○まとめ

 中国の王朝史のなかで「儒教」は切っても切れない密接な役割を担ってきたと言える。前二世紀、漢の武帝のとき国家公認の唯一の教学となって以来二千年、王朝は儒教によって立ち、儒教は国家の重要にして有効な御用学として役立ってきたのである。中国は儒教をその文化とともに長い歴史のなかで伝承してきた。また孔子はその儒教の祖として中国民衆に尊崇され続けた思想的英雄であったと言えよう。
 以上が中国における政権中枢と儒教との関わりである。

以 上  

参考文献:『アジア歴史事典』平凡社、 『儒教とは何か』加地伸行著 ほか