古代の棺
1.棺は語る

 人を葬るときに最も大切で、なくてはならない葬具のひとつが(ひつぎ)である。古代、墳墓に納める棺の主なものに木棺と石棺がある。木棺の場合は腐食して形を留めていない場合が多く、わずかに残った痕跡から当初の形を推定するしかない。石棺の場合はその内部の遺体や副葬品はともかく、石棺そのものは形も殆ど保たれていて、その石材の材質鑑定や分析から産地を同定できることが多い。古墳時代の石棺の形状には、割竹形、長持形、舟形、家形などがある。

 石棺に使用される石材の種類を挙げてみると、鷲の山の石(香川県綾歌郡の石英安山岩質凝灰岩)、火の山の石(香川県大川郡の凝灰岩)、九州中央部の阿蘇溶結凝灰岩、播磨の竜山石(兵庫県の流紋岩質凝灰岩)、二上山の凝灰岩(奈良県と大阪府の境界にある)などがある。

 これらの石材の同定は、拡大鏡・顕微鏡などによる観察や、蛍光エックス線を照射して微量元素が含まれている割合から産地を特定して同定できる。この方法は現代の考古学では土器の産地の特定などにも広く応用されている。この分析法は石材など分析する部分によって違った結果が出る場合があるというので注意を要するといわれるが、この方法によって考古学の研究は大きな成果を上げ、石棺は驚くほど遠くへ運ばれていたことが知られてきたのである。
 
石材・石棺の移動は、石工やその技術の移動のほか、葬られた人の背景や出自を反映しているものと捉えることもできる。

 さて次は近年実際に発掘された古墳から最近の考古学の成果を見てみよう。



2.阿蘇のピンク石
 平成12年、奈良県橿原市の「植山古墳」が発掘され、現地説明会が8月に開かれた。この時の報告記事によれば、この時に見つかった古墳の石棺は、熊本の馬門(まかど)で産出された考古学でいう「阿蘇ピンク石」といわれる阿蘇溶結凝灰岩の一種で「馬門石」と呼ばれる美しいピンク色の石であったという。
 また、同じ年の12月に大阪府高槻市の「今城塚古墳」発掘の現地説明会があった。この発掘では石棺や副葬品は盗掘のため失われていたものの、国内最大級の家形埴輪などが発見された。そのほか3種類の凝灰岩の
石片が出土(二上山産、阿蘇産、播磨産し、そのうちの一つが「阿蘇ピンク石」だということが判明したといわれる。このピンク色の馬門石は何万年も前に阿蘇山の大噴火によって出来た阿蘇溶結凝灰岩の一種だ。この石は近畿各地の古墳の石棺に、それも王族級の古墳に使われていることが多いとされる。近隣に石棺の材料にできる石の産地があるにもかかわらず、2〜3トンもあろうかと思われる石を、阿蘇から近畿まで遠路を運んだのだ。何故だろうか。

 それは石棺として加工しやすく良質であったばかりではないと思われる。美しいピンク色が好まれ、希少価値があるゆえに王の権力を誇示する象徴にもなったからであろう。また、こうも考えられる。阿蘇は祖先の故郷に(ゆかり)があったからかも知れない。

 ところで「植山古墳」の被葬者は武田皇子と推古天皇だとする説がある。現在推古天皇の陵墓に比定されているのは大阪府太子町の磯長山田陵であるが、遺言により武田皇子と推古天皇が植山古墳に合葬された後、磯長山田陵に改葬されたのだとする説が有力になっている。

 一方、高槻市の「今城塚古墳」は、継体天皇陵だとする説が有力になってきている。現在継体天皇陵に比定されているのは大阪府茨木市の太田茶臼山古墳だが、「真の継体天皇陵は今城塚古墳」という訳だ。皮肉なことにこれも宮内庁より、これらの古墳がそれぞれ天皇陵として特定されていなかった為に発掘ができ、判ってきたことであった。 



3.石棺の意外な用途
阪狭山市に日本最古のため池がある。1993年に平成の大改修が行われ、貴重な考古学上の成果が得られた。例えばこの時に出土した木製樋管のコウヤマキ(高野槙)であるが、これを年輪年代測定法によって測定したところ616年という結果が得られたという。これで狭山池が7世紀前半に作られたという伝承が裏付けられたことになる。また記録に残っている天平三年(731年)の行基の改修工事の跡や、鎌倉時代の建仁二年(1202年)僧重慶の改修の痕跡がはっきり分かり、この改修では何処かの古墳から石棺を搬送して加工し、石樋として利用されたものが、次の慶長の改修では護岸材として再利用されているものがあることが分かった。そしてその岩石種は流紋岩質凝灰角礫岩で、石材採取地は二上山であることも判明している。その他、兵庫県の加古川流域竜山付近で採取された凝灰岩、兵庫県加西市長付近で採取された凝灰岩と鑑定されたのもある。これらの中には内側に水銀朱が塗布されているのもあって、明らかに古墳において石棺として使用されていた形跡が歴然としているのが見受けられた。

兵庫県は古墳時代において、石棺の大生産地であり、そこで生産された石棺は近畿地方をはじめ、広く関東から中国地方まで運ばれていたようである。

古代、死者を入れる棺は大変重要なものであった。とは死者が冥界へ旅立ち、また母の胎内を経て再び生まれ変わるための、大切な乗り物「舟」ではないだろうか。だからそれを手に入れるために権力者はいかなる出費と手間をも惜しまなかったのであろう。そのように苦労して手に入れた石棺に納められていた被葬者である王が、眠りを妨げられ、その石棺を持ち去られて、ため池の護岸材に転用されていることを、もし知ったら何というだろう。王の願い通り転生済みであれば話しは別だが。



4.王の故郷へ旅立つ棺

1971年7月、韓国宋里山古墳群で百済王朝25代武寧王の陵墓が発見された。その武寧王を葬った木棺が驚くべきことに、日本から運ばれたコウヤマキ(高野槙)で作られていたという。このコウヤマキは日本特産の樹種で分布地域が日本列島南部地域に限定されるといい、まず日本産に間違いはないとのことである。この木材は大変貴重で、しかも大木となると日本でも王族階級のものだけしか使用できなかったともいわれている。(上記3.日本の狭山池でも耐久性の求められる木樋に、貴重なコウヤマキの大木が使用されており、1400年もの年月にも耐えて殆ど原形をとどめていた)

ところで武寧王といえば、桓武天皇は武寧王の子孫だといわれ、武寧王自身も日本生まれいう説がある人物である。日本書紀、雄略天皇五年に嶋君(斯麻王)の記事がありこの人物が百済の武寧王だとすると、この王に(ゆかり)の日本の王族が、遠く離れた朝鮮半島の王の故郷へ、故あってコウヤマキの木棺(あるいは原木素材)を送りつけたものであろうと想像できる。

それにしても石棺といい、木棺といい、随分と遠くへ旅をしたものだ。それだけ被葬者にとって大切なものと考えられていたと言えよう。

以 上 
参考文献:『海で結ばれた人々』門田誠一著、大阪府立狭山池博物館資料など  
   
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