丹生伝説 現代編
                                                                                    
 六、高野龍神
 
 二人が知り合ってから四年が過ぎていた。
 小さなデザイン会社に勤めていた佳与は同僚の一人を連れて独立し、最近注目されだしたパソコンを利用する編集工房を開業していた。いわゆる「DTP屋」と呼ばれているもので、従来の版下制作の作業をマッキントッシュを使ってするのである。
 井角はその頃、まだ千代田広告に籍を置いていたので、はじめは仕事を回してやったりしていたが、DTPが時流に乗ったのか、半年もすると佳与が嬉しい悲鳴を上げるくらいに仕事が舞い込んできていた。
 佳与が独立して一年後、井角も「彌栄(やさか)広告」という社名で小さな広告代理店を設立した。有力な顧客であったレストラン・チェーンの会長が全面的にバックアップしてくれたからである。そのお陰で経営も何とか成り立つようになっていた。
 佳代とのつきあいは続いていて以前と同様、月に二・三回食べ歩きのようなデートを繰り返していた。これは井角の仕事にも役立っている。レストラン業界の動向や市場調査、メニウ開発などの情報収集につながるからである。また二人は年に何回かの小旅行に出かけていた。
 
 すがすがしい初秋の朝であった。
 井角は、八戸の里で佳与を車にのせると、外環状線を南に向かって走っていた。たった今、来た道を逆に戻っていることになる。河内長野に入って外環状線を外れると紀見峠へ向かって、道は少し細くなり勾配も強くなっていた。
 紀見峠のトンネルを抜けるとほどなく紀の川に出る。五條市で吉野川は丹生川と交わった辺りから「紀ノ川」と呼ばれている。その紀ノ川を橋本市内で南側に渡り最初の目的地の紀伊かつらぎ町にある「丹生都比売(にふつひめ)神社」に向かう。
 つづら折れの坂道の途中、教良寺と言う所にある狩場明神の矢研石を過ぎてもなお登り、今度は下っていくと前が開けた平坦部に出る。その村落のなかに神社はあった。和歌山県伊都郡かつらぎ町天野という地名であった。
 型どうりの拝礼をすまし、記帳をして、拝殿の横にかかげられた木札の由緒書きを見て井角がメモを取っていると、神職が出て来て、神社の「略記」を渡してくれた。
 熱心だと思われたのか「一般は立ち入り禁止」の立て札のある領域まで案内して親切な解説もしてくれた。
 その話によると、この神社は元「天野大社」または「四社明神」とも呼ばれ、丹生都比売を主祭神に、高野御子(たかののみこ)、大食都比売(おおげつひめ)、市杵島比売(いちきしまひめ)がお祀りされている。つまり、丹生明神(にうみょうじん)、狩場明神(かりばみょうじん)、気比明神(けひみょうじん)、厳島明神(いつくしまみょうじん)で四社明神となる。
 格式も高く延喜の制の名神大社で、主祭神の丹生都比売は天照皇大神の御妹神「稚日女尊(わかひるめのみこと)」ともいわれ、弘法大使空海はこの神の導きで高野山に真言密教の根本道場を開いたとされる。爾来、丹生都比売は高野山真言宗の守護神として同宗で崇敬され、事実、高野山・大師霊廟域内と京都・東寺境内に丹生都比売が狩場明神と伴に祭祀されているそうで、宮司家は代々丹生(にう)氏で高野山にはその菩提寺の丹生院(たんじょういん)がある。この丹生都比売神社の創建は古く、応神天皇により三七〇年にこの天野の里に祀られたのが最初という。
 國學院大學を出たばかりというその若い神職は親切に説明をしてくれ、また井角の質問にも快く答えてくれた。

 境内は古代の趣を残し、朱塗りの太鼓橋や楼門が緑に映え、不思議な感動を与えてくれる。すばらしい神社であった。柱や梁は本物の朱を塗り、四殿連棟の神殿は極彩色に色どられている。神紋はと見ると、やはり左三ツ巴であった。
 二人は神官に丁寧に礼を言って駐車場の方へ向かった。中年の夫婦らしい参拝者が何組か来ていた。太鼓橋の上から、鯉に餌をやっている人もいる。
 朱塗りの大鳥居のところまで来ると、タクシーが止まり、一人の紳士が降り立った。カメラを下げたその紳士は運転手に何か話をすると、その場に車を待たせたままで、鳥居をくぐり神殿の方へ歩いていく。一見して井角はその学者らしい風貌から、古代史の大学教授だろうと思った。
 その場でポケットからコンパスを出して神殿の方位を見ると、この神社は北向きだった。北向きの神社は滅多にないのである。
「北といえば北極星だな。道教に関係があるのかな。それとも陰陽五行説か?」 
 井角は独り言を言い、またきっと訪れるであろうことを予感してこの神社を後にした。
 道教とは、神仙思想を中心に儒教や仏教哲学、五行思想をも取り入れた中国の老子を教祖とする星辰(せいしん)宗教である。ちなみに伊勢神宮では北極星を天帝(太一(たいいつ))として内宮で尊崇しており、外宮では北斗七星が祀られているという。

 三時間後、二人はは車の中で音楽を聞きながら「高野竜神スカイライン」を走っていた。
 途中の高野山々上では寺院が経営する料理店で、精進料理の会席を食べたのだった。
 昼食としては、かなりの出費ではあったが、そういった料理を、一度は佳与に食べさせたいと井角が思ったからである。二十畳はあるかと思える広い座敷に、客は一組しか入れない。開け放たれた広縁越しに見える庭園も、寺院ならではの素晴らしい造作だった。料理も、魚・肉は一切使用せず、それでいて、味も形も満足いくものである。
 学生時代、井角は高野山の、とある寺院にこもり体験修行をしたことがあった。高野山大学の学僧と一般の修行僧に混じって宿坊に合宿し、「月輪観(がちりんかん)」や「阿字観(あじかん)」等の観法(密教座禅の瞑想法)を、密教のカリキュラムに従って学んだのである。古武道の手ほどきも受けた。その頃は密教に傾倒していたのだ。食事は一汁一菜、一日二食のみで今食べている食事とは雲泥の差であったが、同じ精進料理である。そんな話をしながら二人は食事を楽しんだのであった。
 
 満足感にひたりながら、ドライブしていた。このあたりは陵線に道路が作られており、かなりの標高がありながら文字通り「高野(こうや)」になっていた。天に開けた高原(こうげん)である。こういう山頂の開けたところを「天野(あまの)」、「天原(あまはら)」又は「高天原(たかまがはら)」と、いにしえより呼ばれていたと、何かで読んだことがあったと思いながら、井角は佳与と今は少し沈黙したままで、運転だけに集中していた。今日は龍神温泉に一泊し、翌晩は山一つ隔てた十津川温泉泊まりを予定していたのである。

 高野竜神スカイラインを出て、日高川に沿って行ったところに龍神温泉はあった。
 土・日ということもあってか最近の秘湯ブームでどこも温泉客でいっぱいである。ここの温泉は肌を美しくする美人湯ということで評判だという。
 予約してあった旅館は温泉街の中程にあり、川に沿った高い崖に露天風呂がつくられ、下の渓流をながめながら温泉を満喫できた。岩風呂そのままではなく縁の部分は真新しい杉で設えてあり、それが又、肌ざわりも良くまったりとした湯質と共に、最高の気分を楽しんだのである。井角にとっては二人で一緒に入れないことだけが残念であった。
 入浴の後、二人は部屋でゆっくりと地酒で食事を楽しんだ。大阪でデートする時は滅多に寄り添ってこないのに、温泉宿では佳与は別人だった。部屋係の女中さんの目も意識せず寄り添い、井角は気恥ずかしくも嬉しい気分になれたのである。       

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