丹生伝説 現代編
                                                                                  
  三、浪速の邂逅 

 井角建は終戦の年、農家の長男として吉野に生まれた。父親は養子婿だったが井角の母と結婚した頃から病弱で戦争にも行っていない。農業は主に果樹を栽培していたが、農園は傾斜地で病弱の身にその重労働がたたったのか井角が高校生の時他界した。
 父親が亡くなったとき姉二人はすでに嫁いでいたが、井角と妹の二人をかかえた母親は農園を売り払って一家で大阪へ引っ越した。大阪に出ると母親は小さな食堂を経営して二人の子供を高校にやった。高校を出ると井角は郵便局へ勤め、昼は郵便配達をして、夜は大学の二部へ通った。
 大学は経済学部で経営学を専攻したが、しばらくすると哲学に興味を持ち始めた。二年ほど経って、あまりにも単調な仕事に嫌気がさし、郵便局を辞めて広告代理店でアルバイトをしながら大学へ通うが、そのうち大学教育そのものに疑問を持ち始めた。
 日本の古い歴史や道徳、価値観が否定され、何もかもが西欧一辺倒なので反発を覚えた。日本の、あるいは日本人としてのアイデンティティがなかったからである。

 その頃の大学は学生運動が吹き荒れていたが、井角には興味はなく、またそんな時間もなかった。マルクスの理論は魅力的で「資本論」や「共産党宣言」なども読んではいたが、特に傾倒するようなことはなかった。井角はいわゆる「マル経」ではなく「近経」、つまり近代経済学を学んでいたが、ケインズよりも歴史や東洋哲学の方がおもしろかった。

 井角は知識欲があった。しかし知識の井戸は深く掘れば掘ろうとするほど間口が広がり少しも深くは掘り進めなかった。東洋思想を知ろうとすれば西洋思想を知っていなければならなかった。仏教を知ろうとするとヒンドゥ教はもちろん、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教をも知る必要があった。日本史を知るには世界史が分かってなければならなかった。その様な訳で知識は横に広がりこそすれ、少しも深くはならなかったのである。

 大学の講義に欠席することが多くなっていった。その代わりせっせと図書館へ通った。特に中之島図書館へ入りびたった。人文科学の図書などは、どこの書架のどのあたりにどんな本があるか知悉していた。大学の授業が井角には無意味に思えた。
 大学の講義は画一的で、教授たちはもう何年もの間、同じと思える講義ノートを片手にマイクで一方的に喋るだけだった。そんな大学に井角は失望した。
(学問は大学に行かなくてもできる)井角は図書館で本に学び本に問うた。

 大学を中退した井角は、アルバイト先のその広告代理店へ就職した。そして二七歳になった時、交際していた銀行に勤める彼女が妊娠したのでそれを機に結婚をする。勿論彼女を愛していたし、実際妻として申し分なかった。結婚生活も順調だった。娘が二人できて健康に育ち、井角の仕事も順調で毎日意欲的に、夜遅くまで働いた。何の問題もないはずなのに井角はふと、むなしさを感じることがあった。愛する家族があり、友人がいて仕事もあるのになぜか寂しいのだ。時々背中に寂寥の風が吹く。漠然と井角はライフワークとして人の心を暖かくさせるような宗教者になりたいと思っていた。

 一方、埴生佳与は地方公務員の父と書道家の母の長女として赤穂に生まれた。一人娘として何不自由なく育てられたが、佳与が高校へ入学した頃、両親が別居した。理由は佳代にはよく分らなかった。母親は仕事が忙しくて子供の世話はできず、小さい頃から佳与はほとんど祖母に育てられた。祖母は孫娘の佳与によく話をした。
「あなたは埴生家の跡取り娘よ。丹生(にう)一族の姫なのよ」と云う意味のことを聞かされていた。埴生家は男が育たない家系で、祖母も母も養子婿を迎えた。つまり祖母も母も同じ跡取り娘だったのだ。その母が家出をしたのである。佳与は何もかもが信じられなかった。その頃は祖父も祖母も亡くなっていて、残った父親が佳与と暮らすようになり、高校を卒業させ、大阪の女子大へ行かせた。

 専攻は幼児教育で最初は寮に入り大学へ通ったが、一年たつと父親を説得してアパートを借りた。男を知ったのはその頃である。人目を引く佳与の容姿が男をそそるのである。
 大学を卒業して、しばらく幼稚園の教諭をしていたが二十六歳の時、高校時代から知っていた故郷の青年と、父親が薦めるままに結婚をした。しかし、結婚生活は半年で破れ、大阪で叔父が経営するゴルフショップをしばらく手伝っていたが、倒産して仕事を探していた。

 埴生佳与がその広告代理店に入社したのはその頃、二十八歳の時である。新聞で「コピーライター募集」の求人広告を見て応募したのだ。趣味で詩や短歌をやっていたので、全くコピーに関しては素人であったが、自分ではいけると思っていたし、その職業にあこがれていたからである。そして「見習い」という事で給料は押さえられたが、幸い何とか採用となった。会社は天王寺区上本町にある、株式会社千代田広告という中堅の広告代理店だった。大手の家電メーカーが主な得意先で、PR誌や社内報を中心に単発の雑報や新聞広告を手掛け、テレビやラジオの広告も扱っていた。フードサービス・チェーン会社の取扱いがに増え始めていた頃である。

 埴生佳与は翌月の一日から出勤した。制作部に席を置き、コピーライター見習いを始めたが、仕事はなかなか難しかった。補助的な仕事ばかりであったが、限られた時間内に仕上げるのは大変だった。コピーライターの仕事には、世間でいう華やかさはなく、とても根気のいる地味な努力が必要だったのである。駆け出しのコピーライターに、派手なキャッチコピーの創造は無縁であった。それは制作部のトップの一部と、お得意先(クライアント)の宣伝部、又は外部の有能なスタッフだけの世界なのだ。第一、取材したメモや、クライアントからもらって来た資料、その他コピーライトに必要な資料がすべて揃っていても、その制作意図(コンセプト)に合った、ボディコピーと呼ばれている本文はなかなか書けない。すぐれたコピーライターになるには、広さと奥行のある知識と、センスがなければならないことを、佳与は痛感していた。 

 入社して三ヶ月ほど経った夜だった。
 一通り仕事を終えてから、最近設置されたワード・プロセッサーの前に座って入力練習をしていた。制作部もワープロが活用される時代になってきたのである。急にうしろから声がした。
「オー、やってるな」 
 振り向くと井角次長であった。近づいて埴生佳与の肩越しにディスプレイのテレビ画面をのぞき込んだ。
「なかなかうまいじゃないか。おう、イケル、イケル」
「ローマ字式に打てばいいんだな」
「『チ』とか『ツ』とかはどう打てばいいんだい?。CHI(シーエツチアイ)とTSU(ティーエスユー)なのかな」
 井角は大きな声で聞いた。
「オッそうか、TI(ティーアイ)とTU(ティーユー)でもチ・ツと変わるんだな」
 佳与が説明すると、感心したような顔で笑った。
「一つでもキーを打つ回数が少なくて、この方がいいと思うんです」
 佳与は井角に好感を持った。朝、出勤の途中時々顔を合わせて挨拶くらいは交わしていたが、会話らしいのはこれが最初である。
 制作部次長の井角建もまた、最近入社した埴生佳与というこの女性に興味を持っていた。後ろ姿を見ただけで彼女と分かった。朝の出勤時、駅から会社までの道中で彼女を見つけるとその後ろを歩くのが楽しみだった。大抵、会社の前まで来ると気づいて玄関のドアで先を譲り、明るく挨拶をするのである。井角はこの女性社員の名前を一回で覚えていた。実はその名前は井角の昔の恋人と同じであったからである

 更に一ヶ月ほど過ぎた。
 その日は土曜日だったが、隔週休日制での出勤日だった佳与は退社時間になってから、英文タイプライターを前にして、ブラインドタッチの練習をしていた。ワープロは「ローマ字入力」の方が「カナ入力」より、キーの位置を憶えるのも簡単で有利だと思ったからだった。
 もう誰もいないのかしら、と思った時、靴の音がして背後に近づくと、肩に手を置いた者がいた。井角だった。顧客との打合せの帰りのようで、手に大封筒を持ち、少し酒のにおいがした。
「ちょっと失礼します」佳与は席を外した。
 しばらくして化粧室から戻って来た佳与は、もう片付けて帰ろうか、と思い、ふとタイプライターの用紙を見た。そこには次のようにタイプされていた。

 If the sun should tumble from the sky.
 If the sea should suddenly run dry.
 
If you love me realy love me ・・・
         MY FAVORITE SONG  

 前によく流行った「愛の讃歌」の冒頭部分だった。
 その日の夜、佳与は井角に誘われて飲みに行った。
「次長はタケルさんっていうんでしょう」
 タクシーの中で佳与は自分の父親と次長の名前が同じであること、それで最初から名前を憶えて知っていたことなどを話した。面接をしたのは井角だったのだ。二人はミナミへ出ると笠屋町のサパークラブへ行った。幼稚園の先生をしていた頃、佳与も何度か来たことがある店だった。幼稚園は女ばかりの閉鎖社会で時々同僚と、うさ晴らしをしていたのである。 
 中へ入ると今も昔と同じようにフィリピン人が六十年代のロックを演奏し、歌手も同じような人達がポール・アンカやニール・セダカの曲を歌っていた。

 赤のワインで簡単な食事をしてから場所を替えた。次はこの近くで以前に何度か行ったことがある会員制のクラブである。井角は年会費を払って新しくカードを作ってもらった。もう何年も来てなかったので期限切れになっていたのだ。 
 店内の照明はかなり暗く、豪華な肘付のソファセットのテーブルにはキャンドルが煌き、ゆったりとスペースが取ってある。飲物も、料理もたいていのものはあった。一口カットのステーキ、キングサーモン、和風のサラダなどを注文して、ブランディをボトルでたのむと、食べ、そして飲みながら、二人はまるで何ヶ月も会えなかった恋人同士のように話しをした。膝を寄せ、とぎれる間がないほど言葉を交わした。

 店を出たのはもう一時を過ぎていた。井角はタクシーをとめると、佳与を先に乗せ、
「イクタマの方」と運転手に行先を告げた。
 そこはミナミに程近く、生国魂(いくくにたま)神社を中心に派手なラブホテルが林立している
 ホテル街に入ると「イヤよ!」と佳与は言った。
 井角は黙ってあたりを見廻したが殆ど灯は消えている。
「お客さん、今日は土曜日でっせ。こんな時間に空いてまっかいな」
 運転手は(アホやなあ)といっている様な顔をした。坂を登ったあたりでタクシーを降りると、なるほどすべて看板の照明が消え「満室」のサインばかりが見える。
「絶対イヤよ!」
 佳与はもう一度いう。
 そのまま歩いていくと先のホテルから、一組のカップルが出て来た。するとそのホテルの看板に灯がついたのだ。井角が先に立って玄関をくぐって行った。

 月曜日の朝だった。いつものように電車を降りて、会社へ向かって歩いていた井角は公園の横手から、すっと出てきた佳与と会った。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
「これ、タクシー代のお釣りです。受け取ってください」
 といって佳与が差し出したのは白い封筒である。そういえばあの朝佳与が、田舎で同窓会があるから、早く帰りたい、というので、あわててホテルを出たのだった。通りに出てタクシーを止めると、井角は佳与だけを乗せ、一万円札を無理やり渡し、タクシーを発車させたことを思い出した。
 しかしその時差し出された封筒を、井角は笑って受けとらなかった。
 そんなことがあってから月に二・三度飲み歩くようになった。井角はもっと会いたかったのだが、仕事の都合もあり、また誘っても断られることが多かった。それでも会うと二人はよく食べ、よく飲み、よく話をした。それでよく最終電車に乗り遅れたが、いくら遅くなっても滅多に枕を共にすることはなかった。そのかわり、何万語となく言葉を交わしたので、お互いに相手への理解が深まっていったのである。小さかった時のこと、学生時代のこと、父や母、兄妹のことなど、さまざまな愛についても論じ合ったことがあった。




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