丹生伝説 現代編
                                                                             
     
  二、天ノ川
 
 その日は朝から天候が良く、まさに五月晴れであった。
 天川村は最近つとに有名になってきている。この地をモデルにした映画ができたり、芸能の神を祭る神社として、天河神社が脚光を浴び始めたからである。正式には「天河大弁財天社」というらしい。 
 井角は東大阪で佳与を乗せ中央環状線で三〇九号線に出ると東へ、葛城山越えで一路、天川村へ向かった。大淀町に入り、右に吉野川を望む頃には、すでに午前十一時をすぎていた。途中でコーヒーを飲んだり、ゆっくり走って来たためである。天川村の民宿へは五時頃と連絡しておいたので全く急ぐ必要はなかったのだが、下市町の図書館で吉野の郷土史料を調べたかったので、少し早く出発したのである。
 昼までまだ少し時間があったので、食事は後にすることにして二人はまず図書館へ向かった。大淀町から千石橋を吉野川の南岸に渡ると下市町となる。図書館は橋のたもとの案内所で聞くと分かった。教えてもらったとおり三つ先の信号の神具店の先を曲がるとすぐのところにあった。

 図書館はかなり大きく、蔵書もかなり充実しているように思われた。調べたかったのは、下市町にある式内社、波比女(はひめ)神社と西吉野村の波宝(はほう)神社についてである。この二つの神社は黄金岳(こがねだけ)、白銀岳(しろがねだけ)と呼ばれる山の頂にそれぞれ鎮座していて、社名も似通って何か関連がありそうであったし、なによりも吉野は井角の故郷であったからである。
「吉野郡史料」や「西吉野村史」、その他の史料を見ていると大事なことが分かった。それは「よしの」という地名についての記述である。吉野とは、一般的には「良い、美しい野や山、地域」を示す地名とされてはいるが、古代ヤマトにおいてこの地方は、カミ、ナカ、シモ、ヨシヌの四地域に分けられており、、現在の西吉野村辺りがヨシヌで、輿之努(よしぬ)=之努(しぬ)=小竹(しの)=小野(しの)=吉野などと表記され、本来の「シヌ」または「シノ」に接頭語の「よ」を付けて呼ばれたのが吉野の地名の起こりという説も示されていた。
 そして神社名についての記述では、波宝神社は古代「小竹宮(しののみや)」又は「若桜宮」とも云われていたとある。また、その神前で気長足姫(おきながたらしひめ)(神功皇后)が秘儀を行ったとの伝承もあり、日本書紀の小竹宮の記述との符合が窺える。
 メモを取ったりしながら調べているとまたたくまに時間が過ぎた。
「ああ、おなかがすいた」と佳与。
「ほんとだ、もう二時になる」
 時計を見ながら井角は言った
 車を図書館の駐車場に置いたままで二人は通りに出た。左に先ほどの神具店がある。大阪では滅多に見かけない、仏具の置いていない神具だけの専門店でしかも相当な大店である。右の方はと見ると向こうに「大和名物柿の葉寿司」と書いた青いのぼりが見える。

 井角は子供の頃を思い出した。
 毎年7月を過ぎた頃になると、子供たちが山に入り、朴の葉を取ってくる。行商人から買ったサバを父親が3枚におろし、母親が毛抜きで丁寧に小骨を取り除く。それをお造り風に切り身にして大皿に入れ、一晩酢に浸しておいたものをおにぎりに乗せ、朴の葉で包むのである。もちろんおにぎりは寿司ご飯なので酢が入れられている。包むときはできるだけ四角になるように包み、丁寧に木箱に並べて何段も入れ、上から押し蓋をして重石(おもし)を乗せておく。こうして一週間もすれば美味しい朴の葉寿司の出来上がりである。朴の葉がない場合は柿の葉で代用したのである。味、香りとも格段に朴葉で作った方が美味しいのはいうまでもない。でも今は入手が難しいのであろう。井角は久しぶりにこの寿司を食べたくなった。
 二人はのぼりを出した寿司屋に入ると、柿の葉寿司を三人前注文した。以前に二人で十津川方面へ旅行した際、佳与もこの寿司を食べて、それ以来大好物になっているので、二人前では、足らないことが分っていたのである。

 店を出たのは三時頃だった。ハンドルを握りながら井角は思う。
(この下市の町は昔はもっと賑やかだったのに)井角の子供の頃と比べても車だけは多くなったが、人はまばらで商店街も活気がないのだ。古くは天武や持統が、そして西行や義経も通ったであろうこの地は、北から平安、平城、藤原、飛鳥など、昔に栄えた都からの大路であり、南へは大峰・熊野道、西は五条・橋本と続く紀州路、東は伊勢へと続く要所であった。事実近代まで下市は吉野地方で、五條・橋本と共に最も栄えた町であったはずである。

 車は三〇九号線を天川村へ向かって走っていた。佳与はハンドバッグから、カセットテープを取り出し、今までかかっていたエルビス・オンステージのライブ版を中断させると、替わりにそれを押し込んだ。
「ちょっと待ってヨ!」
 井角は左手を伸ばした。
「だめ!、もう何回も聞いてるじゃない」 
 佳与は井角の手を振りはらった。
 カーステレオから、シャンソンが流れて来た。佳与はとてもシャンソンが好きで、井角とスナックへ行っても一曲は必ずシャンソンを歌った。良く通る美しい声で、いつも店中の客が大きな拍手をしてくれた。一方、井角は六十年代のロックンロールやポップスが好きで、いましがたもエルビス・バージョンの「イエスタデイ」が流れていたところだったのだ。井角は邪険に振りはらわれたその左手で、佳与の頭を小突いたが…躱された。確かにもう、エルビスの曲は二巡はしていたので、井角はあきらめることにした。  

 国道はだんだん勾配が強くなり道幅も狭くなってきている。車は山あいの川に沿って対面一車線の道を走っていく。
「この辺りも丹生の里だと思うんだけどねェ」
「ほら、日本書紀にでてくる井光(いひか)の村さ」 
 井角は日本書紀、巻第三に書かれている神武天皇の吉野入の部分を説明した。
「その井光の人達は尾を生やしていたそうね」
 説明しなくても佳与は知っていた。
「まさか本当に尾を生やしていたわけではないので、鉱山夫の尻あて用の獣皮だと説明している学者もいる」
「あなたはどう思うの?」
「たしかに獣皮を腰に巻いていた人もいたとは思うけれど、尻あて用の皮は巾が広くてとても尻尾には見えないので、たぶんこれは中国の犬祖伝説のことを云っていると思うな。中国北西部の遊牧民の部族に『犬戎(けんじゅう)』というのが居たのだが、つまり井光はその子孫だと書紀の編者は云っているのだと僕は思っている。それに犬というのは採鉱民を意味する言葉らしいよ」
 そこで続いて犬祖伝説の話を始めると、
「フン・フンそれで…」と佳与は、また講釈が始まったかといういつもの顔をした。
(これも知っているのかもしれないな)と井角は思い、途中で話をやめた。 

 しばらくシャンソンを聞きながら、二人ともだまったままだった。道は益々険しくなり、曲がりくねってくる。下市から黒滝村に入り「笠木」というあたりへ到ると、工事中のため道が迂回したり、ところどころで交互の片方通行になったりしている。
 井角は以前に読んだ新聞記事を思い出した。たしか、奈良県で一番長いトンネルとかで、それが開通すると、下市〜天川間が三十分位短縮されるという。
 さらに細く険しく、くねる国道を登っていく。すると今度は下り道にかかり、どんどん下りていくと「新川合トンネル工事」と書かれた横断幕が架けられていて、左側にはトンネルらしき穴が見え、手前には真新しい橋がすでに完成している。 
 そのまましばらく走ると前方が少し開けて、道が平坦になって来たところが天川村であった。なるほど聞いていたとおり、あたりは旅館は全くないところである。
 五時前に民宿に着いて、新築したばかりの木の香がにおう別棟へ案内してもらうと、荷物を置いて二人は村営温泉へでかけた。今夜の食事と明朝の予定を聞かれた時に教えてもらったのである。 
 
 温泉は村はずれの高台にあり、杉の丸太を利用した、この村にふさわしい建物で、喫茶コーナーやロビー、それに畳敷きの大広間もあり、座卓が置かれ、大勢の客が入っていて、湯上がりのビールを楽しんだり、寝ころんでいる人もいる。
 浴室は男女別に別れていて、入口で借りたタオルを片手に二人はそれぞれの脱衣室へ入っていった。浴槽は広く、お湯はあふれ、杉の木の香がしてすばらしい温泉である。水質は透明で、冷泉を沸かしているらしい。温泉は文字通り老若男女でいっぱいだった。
 浴槽の窓際から土地の人たちが「天ノ川」と呼んでいる清流が眼下に望めた。あくまでも澄み切ったこの流れは、南へ走り十津川となる。アユやヤマメ、ウグイなどがよくとれるそうである。
 ゆったりと温泉を楽しみさっぱりとした気分で二人は温泉を出た。

 宿に戻ると食事の用意がもうできていた。民宿の夜の食事は、簡単な会席料理で、山里にふさわしく、川魚と山菜が主であった。民宿なのでもちろん部屋の食事ではなく、母屋で他の宿泊客と一緒に座卓に会席を並べて食べるのである。その日の客は二組だけだったとみえて、すでに食事中の若いOL風の二人連れと、佳与と井角の席の、二つの座卓以外には席はなかった。
 料理は簡素ながらも、上品な味付けがなされていて食が進んだ。特に鮎の塩焼きがおいしかった。このあたりでハイジャコと呼ばれている魚の煮付けもなかなかイケた。それとジネンジョという山芋のとろろも、濃密で味は格別である。その他は、ワラビやゼンマイなどの山菜と、小鉢のマグロとハマチの刺身、そして吸物位である。
「この塩焼は最高ネ。もう一人前お願いしていいかしら」
 佳与は鮎の塩焼きを追加注文した。
 ここの村人の多くは、鮎取りを副業にしていて、山仕事の合い間や、勤め人でも日曜日などにとった鮎を民宿や旅館に入れていると聞く。天然の鮎は西瓜の香りがして養殖と較べると、別の魚かと思うほど味に違いがあり、とびきり美味しい。
 
 部屋に引き上げてから二人は家族風呂に入り、浴衣に着替えて散歩に出た。
 遠くの山々はまっ暗だが、村道には電灯がところどころに灯いているので、歩くには不自由がない。ときどき浴衣着の若い人たちと出逢う。最近の天河ブームで観光客が増えているらしい。天の川に架かっている橋まで行った。涼風が風呂あがりの肌に心地良い。

 帰りになって道端にお店があったので、冷酒とつまみを買った。夕食にまずビールを飲んでその後、冷酒を飲んだのだが湯上がりにはまた飲みたくなる。
 井角は右手に酒とつまみの袋を持ち、久しぶりに佳与と手をつないで歩いた。
 部屋に戻ると向い側の部屋に明かりがついていて、若い女性の声が聞こえてくる。廊下を挟んでそれぞれの部屋は障子で仕切られているだけで話し声は筒抜けなのだ。部屋には既にふとんが延べられてある。話しをしながら飲んでいると、しばらくして向いの部屋のあかりが消された。
 買ってきた冷酒を全部空けてしまった二人は、あかりを落とすと布団の上に横になる。 井角はそっと佳与を抱き寄せた。 
 
 あくる朝は二人とも、遅い目に起きた。
 ゆっくり着替えをして顔を洗い、二人揃って母屋の食堂に行くと、おばさんが食器の後かたずけをしていた。OLの二人組はもう出発したようである。遅い朝食を済ますと早々とお勘定をしてもらって、二人は手荷物を車に積んで民宿を出た。目的の天河神社はすぐ前にあったが、神社の駐車場に車を移動させた。
 改めて正面から鳥居をくぐった。上に続く石段を拝殿まで登ると、殿上に神職が揃っており、その前は折りたたみ椅子が並べられ、後の能舞台の上まで座布団が敷かれ、参拝客がもう半分以上席を埋めていた。 
「さあ、どうぞ」と浅葱(あさぎ)のハカマを着けた神職にすすめられるまま、佳与と井角は並んで椅子に腰をかけた。しばらくしてほぼ拝殿が満席になったとき、紫紋付ハカマの宮司と思しき神職が祝詞(のりと)を奉上し始めた。
 すすめられるままに座ってしまったが、不倫の二人が神前に居ることで胸の奥に痛みがあり、井角は複雑な気持ちであった。
 そのあと大勢で般若心経の読経が始まり、その頃になってあたりを見渡して、「星供祭(ほしくさい)」とかいう神事であることが分かった。おりをみて佳与とその場を離れ、石段を下りて社務所の方へ歩きながら佳与が言った。
「神社なのに何で般若心経なのよ」
 井角はうなずいたが、しかし返事はしない。社務所でパンフレットをもらって二人で休憩所の長椅子に腰をかけると、井角が小さい声で少し読んでから、あとはだまって目を通すと佳与に渡して言った。
「お祀りしているのは弁天さんで、仏様と神様の中間だから、祝詞(のりと)でもお経でもいいそうだよ」 
「ふーん」佳与は不満そうな顔をした。
 しかし、と井角は考えた。たしか先程もらったパンフレットには由緒書とはせず「天河大弁財天略縁起」としてあった。寺院風の書き方である。

 井角はおみくじをもらいに行った。筮竹の入った筒を振って取り出した番号を言うと渡してくれる。戻ってきて佳与の横に座り、中を見ると「天河神社神占『吉』」と書かれ、「八十(やそ)の木(こ)の種(ね)を播(ま)き植えて繁る野山も神の功(いさお)し」とあり、「比みくじにあふ人は五十建の霊をしんじんすべし云々・・・」と神占文に示されている。このおみくじには、はっきりと天河神社と書かれているのである。
 井角は思う、神社であれば祭神がなければならない。さきほどの縁起には祭神としては書かれてなかったが、弁財天社なのだから本尊として弁天さんをお祀りしているのであろう。それなら祭神は藤沢の江島神社、宮島の巌島神社と同じ「市杵島姫(いちきしまひめ)」でなければならない。しかしながら、「天河弁財天略縁起」には「天河開山ハ役行者、大峯蔵王権現(ざおうごんげん)ニ先立テ勘請サレ云々」と大峯の鎮守として弁財天をお祀りしたという意味のことが書かれている。
 弁財天は弁財天女ともいい、七福神のうち唯一人の女神であるが、この神はインドの河神「サラスバティ」といわれ、やはり水の女神である。日本の神道では市杵島姫として祀られているのが普通。仏教では吉祥天と同一視される 

(・・やはり)と井角は思った。神仏習合の一つの形。山岳信仰に始まった神道は、密教色の濃い修験道との出逢いにより生まれた蔵王権現によって、ますます仏教と接近していく。これは仏教の国教化を国家安立の柱とする天武天皇の政策ではなかったか。これは当時の大和朝廷の国策であろう。それがこの天河社独自の信仰の形として今に伝わっている。
 つまり、アマテラスを頂点とした「天つ神」による、各地の氏神の祭祀統制と共に、仏教の布教による民心の掌握をもねらったのではないか。
(それに違いがない)と井角には思われた。先程から佳与は井角のおみくじを手にして読んでいた。彼女はなぜか自分ではくじを引かず、
「ねェ、このイソノタケルってのは何よ」
 佳与は井角の名前を呼んだことがない。大抵は「ねぇちょっと」とか「あなた」とか呼ぶのだ。
「何よ、はないだろう、神様だよ。五十猛命(いたけるのみこと)は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の御子神(みこがみ)だと言われている」
「あの乱暴者の子供なの」

 井角はほかのことを考えていた。大峯山の地主神は金精明神(こんしょうみょうじん)だと聞いた事がある。それが天河に勘請され、水の神とも言われる弁財天になって祀られている。
「金から水か? 金生水(きんしょうすい)…これは五行説に関係ありだな!」井角はひそかに思っていた。 
 五行説とは中国古代の哲学で、この世は万物を構成する五つの元素、木・火・土・金・水で成り立っていると説かれ、あらゆる自然現象がこれで説明される。たとえばこの金と水の場合「相生(そうしょう)」の関係となり、金は水を生む、あるいは金は水を助けるという意味にとらえられる。逆の関係を「相剋(そうこく)」という。また、「木」は春・東・青・四神(四方の守護神)は青龍が当てられ、以下それぞれ「火」は夏・南・赤・朱雀。「土」は土用・中央・黄。「金」は秋・西・白・白虎。「水」は冬・北・黒・玄武を表象する。 又、陰陽思想とも結びついてそれぞれに陰陽が配当され「陰陽五行説」となってより複雑に体系化され「四柱推命」などの占術の基本にもなっている。 

 天河神社の駐車場を出ると、突き当たりにログハウスの喫茶店があった。二人はそこの二階で昼食を済ませると、三〇九号線を北の方にとって返した。この国道沿いで丹生神社を見つけたかったからである。
 昨日来た道とまったく同じであった。だがきっと見過ごしているのだ。三〇九号線の丹生川沿いの周辺には、何社かの丹生神社があるはずである。たぶん丹生川上神社の「上社」か「中社」又は「下社」があるはずだと井角は思っていた。
「佳与さん!」
 いつもは大体こう呼んでいた。
「注意して見ていてくれよ。もう少し走っていくと神社があるはずだからナ」車はトンネル工事の横を過ぎ、曲がりくねった峠道を越えると、川沿いに村落がみえて来た。

 


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