丹生伝説 現代編

丸谷いはほ
                                                                             
     
 一、丹生の川上 

 サンマルクと、しゃれた言い方をされているその国道三〇九号線を、二人が乗った車は下市町から南に向かって走っていた。カーラジオからは音楽が流れていたが、電波が届きにくいのか時々雑音が入っている。険しい山道を越え、トンネルを抜けると急に前方が開けた感じの美しい流れのある集落にでた。流れの向うは青々とした急峻が間近までせまっていたが、こちら側は少し開けた感じで、勾配の緩い道に沿って何軒かの家が点在している。流れは道路の右に沿って続いていた。ハンドルを握っている男は、時々左右を見ながら車を走らせている。このあたりの地理に不案内のようだった。
「あ、止めて!」
 黙って窓の外を見ていた女が急に叫んだ。左の森の中に大きな鳥居を見たという。男は少し先に空き地を見つけて、車をUターンさせた。引き返してみると、なるほど大きな鳥居があった。右横の石塔には、「官幣大社丹生川上(にうかわかみ)神社」とあり、下に小さく下社と添えられている。男は、やっと見つけた、とうなずきながら向かって右の玉垣の内側の駐車場に車を止めた。

 女は自分でドアを開けて車を降りると、さっさと鳥居に向かって歩いて行った。少し離れて男が続く。上背があり、背筋を伸ばして歩く女の後姿は魅力的であった。
「ちょっと待った!」
 今度は男がどなった。女が立ち止まって振り向く。
「まん中は神様が通るところだよ」
 そう言いながら男は足早に女の右側へ並びかけると、女の腰のあたりに手を添えて引き寄せ、まん中より少し右側を拝殿に向かって歩いて行った。男の左の手のひらに豊かな感触が伝わってくる。五年前、始めて会った頃の女は二十八歳で、サッカー選手の太ももよりは、私のウエストは細いわよ、と言っていたことを男は思い出していた。

 広々とした境内を二人は社殿に向かって並んで歩いた。正面右側には手水舎(てみずや)があり、青銅の龍の口から、清水が下の三ツ巴の神紋入の手水鉢に注いでいる。先に男が右手に取った柄杓(ひしやく)で水を汲んで左手を洗うと、次は持ち替えて右手を洗い、また持ち替えて左手に受けた水で口をすすいだ。そしてその手の平から冷水を一口飲み込み、おいしそうに小さく吐息をつくと、柄杓を上げて残りの水で手元を洗い流した。続いて女も同様の作法で手水を使ったが水は飲まない。
 瑞垣(みずがき)に沿って進むと石段を上がったところに拝殿があり、右横の机上に参拝奉名帳が開いたままで置いてあって上段に日付が入れられ、すでに何人かの署名がされている。男はふと、ためらったようだったが、すぐに手を伸ばして筆ペンを取ると丁寧に記入する。続いて女も男に見習った。 

   南河内市 ○○○○ 井角 建 四十五才 
   東大阪市 ○○○○ 埴生佳与 三十三才  

 朱色の罫線をはさんで二人の名前が並んだ。古風な名である。男の名前はイスミタケル、自営業の広告屋。女はハニウカヨという編集デザイナーであった。井角建は埴生佳与の元上司で、二人は同じ広告代理店へ勤務していた頃からの付合いであった。
 正面に二人並んでお賽銭を入れ、二拝、二拍手、一拝して戻ろうとすると、奥に額がかかっているのが見える。手前に板敷があって「記帳を済ませた方は拝殿に上がり参拝ください」と木札に書かれてあったので、靴を脱いで上がり込んで見ると、正面に「天武天皇」と書かれた武人らしい精悍な表情の肖像画が額に入れて飾られている。そして右の壁には御製の和歌が四首、和紙に墨書されて掲げられていた。広い境内を見渡すと参拝者は二人だけである。
 佳与が肩を寄せてきて、読める?読んでみて、と言う。井角もさきほどから読もうとしているのだが、草書で書かれていて全部はなかなか読み通せない。一首は何とか読めそうだった。 

 淑(よ)き人の良しとよく見て好(よ)しと言ひし芳野(よしの)よく見よ良き人よく見 

 井角は小さな声で読んで聞かせた。
「天武さんの語呂合わせ歌?」と佳与。
 井角は思い出した。たしか万葉集に載っている歌である。壬申の乱後、天武天皇は后の菟野皇女(うののひめみこ)(後の持統天皇)と共に草壁・大津・高市など六人の皇子を連れて吉野に行幸したあの「吉野の盟約」の前日の歌とされている。目を移すと拝殿には鴨居から上いっぱいに、天井まで届く大きな絵馬が二ツ掛っている。それを見て佳与は、
「白い馬は二人曳き、黒い馬は一人曳き、競馬でもするのかしらネ、賭けるなら私は断然黒い馬にするワ」
 競馬場のパドックで、二人曳きされている競走馬は、興奮している証拠で、レースまでに力を使ってしまうので、買い目なしと言われていた。
「ねえ、天武さんは競馬が好きだったのかしら、それともヤブサメでもしたというの?」 
 良く知っているのである。井角はまじめに答えた。
「ここの神様はクラオカミといってネ、水の神様で竜神様だから、雨をお願いするときは黒い馬。晴れをお願いする時は白い馬をお供えして祈ったそうだよ」
「お供えとは何なのよ」
「当時は竜神への犠牲として神前に捧げたらしいよ」
「へぇ、あんなたくましいお馬さんを?……可愛相に。もったいない」
 二つの絵馬を交互に見つめて佳与は言った。
(何を考えているんだろうこの女(こ)は。ひょっとしたら俺がからかわれているのかな?)井角は思った。

 絵馬の下の方には丹砂採取の写真が飾られている。丹生神社とは丹生族の氏神であり、本来「丹」の採取が生業(なりわい)であったはずなので、この写真の展示は当然である。なるほど赤茶色の埴土や辰砂、鉱石様のものが展示され説明が添えられている。
「丹生神社は朱の神様でしょ? 何でそれが水の神様に変わっているのよ」  
 だいたい佳与が質問するときは怒り口調である。それもその答が長すぎたり質問以外のことに説明がいくと機嫌が悪くなったりする。
「丹生」とは何か。古代ヤマトでいう丹とは硫化水銀(朱)、四塩化鉛(丹)、褐鉄鉱、赤鉄鉱、酸化鉄(赭)をいい、その生産・精錬を主に業とする部族を丹生族といったのである。いわゆるヤマト鍛冶で、これは以前に二人で調べた事があった。
「水の神様に変わったのはだネ、一言でいうと大和朝廷の政策変更で、つまり今までの採取、漁猟・採鉱の生活から、国の主な産業を、農耕中心に修正したかったのではないかと思うんだな」
「それで農業にはなくてはならない水の神様を持って来たというの」
「まあ、そういうとこじゃないかと思うんだ」
「もちろんそれ以外にも理由があってネ、国の宗教としての神道と仏教の兼ね合いも大きな問題だった」

 説明が長くなりそうだ、と井角は思った。たしかにこの時代(天智〜天武〜持統時代・七〜八世紀頃)国教を仏教に統一しようという動きがあった。山岳信仰を利用した神仏習合や神宮寺の設置、各地の豪族が斎き祀る氏神を、皇祖神アマテラスを中心とした「天つ神」へ取り込むことと共に、「国つ神」と呼ばれるその他神々の祭祀統制と平行して、国教としての仏教の国民への宣布・布教があったのではなかったか。
 たとえば丹生氏の場合、その地区地区で丹生大明神といわれるような地主神を祀っていたと思われるが、ある時期からその殆どが丹生都比売(にうつひめ)を祭神とする神社になり、その後七世紀後半から、水稲栽培の定着と共に高オカミ(たかおかみ)や闇オカミ(くらおかみ)、罔象女(みずはのめ)等の水神を祀る神社に代わって(変えられて)おり、この丹生川上神社も元の祭神は丹生都比売ではなったかと井角は考えていた。丹生都比売は天照大神の妹神とされ、またタカオカミやクラオカミ、そしてミズハノメもイザナギ、イザナミの御子神として「天つ神」に格上げされている。海人族の祖神といわれる表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神、応神天皇を主祭神とする八幡神も同様の天つ神といえる。
 水の神は大抵女神で龍神でもある。タカオカミは丘の上の水の神、クラオカミとクラミズハは谷底の水の神、ミズハノメも水の神で、いずれも女神だといわれている。ここでいう「オカミ」は、いわゆる「女将(おかみ)さん」の語源だいう。

 座敷で改めて拝礼をすませ、石段を降りて来ると右側の社務所には女性が一人きりで神職の姿が見えない。初夏の日曜にもかかわらずほかに参拝客もなかった。
 窓口で由緒書きをもらい、そのまま立ち読みをしながら井角は思った。「天武天皇・白鳳四年(六七六年)創建」とある、この時に天武天皇により政策的に「朱の神」は「水の神」に生まれかわり、天武天皇による農業国家の建設が始まったのではないだろうか。
 要点だけを読むと、パンフレットを佳与に渡し、井角は、「御手洗」と表示された社務所の横手に向かった。 
 しばらくして戻ってみると、佳与は神職と話をしている。二言三言話をしたかと思うと、その後について歩きはじめた。
 井角の前を二人が通りすぎようとした時「はっ」息を飲んだ。どこかで見た光景だと思った。そうだ以前に夢で見た事がある。あの時の佳与は朱の古代衣裳であったが今はスーツ。しかし、神職の衣裳は夢と全く同じ紫色のハカマである。そこで初めて、夢の中の神社がこの丹生川上神社であることに気づいた。はなれて見ていると、二人はさきほどの拝殿よりさらに奥へと入って行った。
 井角はそこで待つことにした。石段に腰ををかけ先程の歌のことを考える。

 近江朝の時代、大海人皇子(後の天武天皇)は天智天皇との確執から、出家して菟野皇女(うののひめみこ)(後の持統天皇)と共に吉野入りした。そして吉野・葛木・近江・尾張などの丹生一族の協力を得て近江朝(大友皇子)を倒し、飛鳥に政権をうち立てるのである。そして天武没後、その業跡を引き継いだ持統天皇の吉野詣では三十一回の多きを数えることとなる。それは吉野族の協力が無ければ持統は政権を維持できなかったからではないか。
(あの歌はやはり単なる語呂合わせではなないはずだ)井角は心の中で歌を繰り返す。

 淑(よ)き人の良しとよく見て好(よ)しと言ひし芳野(よしの)よく見よ良き人よく見

 それは詠み手の天武が后の菟野に
「かの美しく賢き方が申されたように、吉野は良き要(かなめ)の地である。良き人よ、よく心得て治めよ」と吉野の重要性を説き、申し送った歌ではなかったか。
「淑き人」とは推古天皇かあるいは神功皇后のことであり「良き人」は菟野讃良皇女(うののさららのひめみこ)のことを指している。天武八年(六七九年)のこの行幸は天武にとって壬申の乱以来、最後の吉野宮行きとなった・・・そこまで考えたとき向こうに佳与の姿が見えた。
 立ち上がって佳与の方へ歩いていく井角に、木漏れ日がもう夏の気配を投げかけていた。
 
 午後五時頃帰路についた。大阪まで二時間はかかる距離であったが、まだ日は高い、暗くなるまでには市内に入れるはずである。
「佳与さん。さっきは何してたの?」
 拝殿の奥へ消えたことを、ハンドルをにぎるとすぐに聞いた。
「さぁ、それは内緒!」
 佳代はいたずらっぽく笑ったがすぐ話しはじめた。
『よう、お越し』と言われて、奥本殿への拝礼を勧められ、つい『ええ』と返事をしてしまってついて行くと、奥の座敷から真上に急勾配で、山の斜面に沿って屋根が続き、頂上付近に社が見え、そこで神職と一緒に拝礼した後、おもしろい物を見せてくれたという。それは農産物の神饌で、赤米・黒米・白米・麦・粟・稗・豆などの五穀と、梨・柿・蜜柑と、栗・榧(かや)・椎(しい)などの木の実を、木型にひとつひとつ糸でくくりつけ、それぞれが見事な二〇センチ位の「男根形」に仕上げられ二〇本以上もあり、神職の説明によるとそれらは、五穀豊穣を願う神様へのお供えで、すべて社領地で栽培している古代の原生種らしい。それらはすべて去年の秋祭りの際に調製したものとかで、果物類はもう変色してしなびていたが、その時の写真を見せてもらうと、梨や柿、蜜柑などは、ビー玉くらいの小さなものだったが充分に成熟した色をしていたという。神職はそれらの男根形をした神饌を写真で親切に説明してくれたと佳与は井角に話し、
「中年のいい男よ。私一人で来ればよかったわ」と言って笑った。

 しばらく二人は車の中で、静かな曲を聴きながらだまったままだった。下市町の町並みを抜け五條市で二十四号線に入る頃、井角に一首浮かんだ。

   古の歌にもありし社にてめぐり逢いしか丹生の比売皇女

 井角は小さな声でくりかえした。そしてふと、あの神殿で佳与は何を祈ったのだろうかと思った。一方、佳与は昨日の朝、井角と会ってから天川村の夜迄のことを、ぼんやりと思い出していた

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