大乗仏教の「空」思想について

 東洋哲学、とりわけ仏教思想は日本人の宗教観に最も影響与えてきた考え方であった。また儒教的な倫理観、道徳観と共に、身近に馴れ親しんで日々の暮らしに溶けこんできた教えでもある。しかしながら、「空」思想を宗教論として述べるとなると、一般的になかなか浅学の素人には論述しきれないのではないだろうか。少なくとも筆者にはその力量が不足する。

 例えば、「諸法皆空論」などと述べはじめ、これは無想皆空論とも呼ばれている…と難解な仏教用語を重ね、論に論を乗せて、論理がまた逆戻りをしているような感があって、実際訳が分からなくなってくる。

特に「空思想」は、むしろ自然科学における一般相対性理論や量子力学の成果から、一般に分かりやすい平易な解説で説いていく方が理解でき易いのかもしれない。

 難しい自然科学の理論は分からないので、或いは詩人の声に耳を傾ける方がより理解が進むとも考えられる。

 あのピタゴラスは科学者であり、教団主宰者であり、詩人でもあったようだ。彼は「天球の音楽が聞こえる」と言ったという。宇宙からは放射線が地球に降り注いでいる。放射線は周知の通り電磁波でもある。電磁波は粒子とも波とも言え、両方の特質を持つといわれている。音には波の性質があり、詩人ピタゴラスには本当に音楽として聞こえたのではないだろうか。

また宮沢賢治の詩を詠んでも「空」の思想が実感できるだろう。例えば次の詩だ。

 

『春と修羅』第二集より

 

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電灯の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといっしょに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電灯の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電灯は失はれ)

…中略…

これらについて人や銀河や修羅や海胆は

宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら

それぞれ新鮮な本体論も考えませうが

それらも畢竟こころのひとつの風物です

ただたしかに記録されたこれらのけしきは

記録されたそのとほりのこのけしきで

それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで

ある程度まではみんなに共通いたします

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに

 みんなのおのおののなかのすべてですから)

…以下略… 
 

 どうだろう、論を捏ねるより詩を鑑賞した方が「空」思想が実感できないだろうか。

 やはり宮沢賢治は法華経の行者であった。

 さてここで大乗仏教論に戻って、再び「空思想」について有名な『般若心経』から考えてみたい

摩訶般若波羅蜜多心経

 

観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色 色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。

これは冒頭部分である。これを京都・大八木興文堂の「般若心経」経本よりその読みを以下に掲げる。

「観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行ずるとき、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色即ち是れ空、空即ち是れ色、受・想・行・識も亦かくの如し…」という訓読説明となる。

これだけで空思想の概論は何とか分かりそうな気はする。

この般若心経は、浄土系宗門では読誦しないお経だ。

 何度も唱えるうちに大乗思想の理解が進むかも知れないと毎日読誦した。論よりもお経を読むことで体感的に実感できるかもしれないとの思いからである。

お蔭で暗誦できるようにはなった。

    以 上


参考文献:
『現代人の仏教聖典』東京大学仏教青年会編
『大乗仏典』中村元編

『宮沢賢治詩集』草野心平編