吉野の墓制

人生にはさまざまな儀礼が伴うが、今生が終焉後の葬送儀礼、中でも墓制について述べてみる。

日本の墓地の多くは、埋葬する墓地「埋め墓」と、石塔を建てお詣りする墓地「詣り墓」に分けられていることが多かった。このような事例を「両墓制」と言っているが、これは1936年に大間知篤三によって名づけられたという。
 民俗学でいうところの「両墓制」が成立した時期は定かではないが、近世以降のことだと考えられる。このような墓制の例を奈良県吉野地方で見てみたい。

奈良県吉野郡西吉野村(現在は五條市西吉野町)は、山塊が中央東西に長く横たわり、村を南北に分断しているような地理的条件下にある。
 この村の特徴は、南部地区は主に林業で生計を営んでいること、北部地区は果樹栽培農家が殆どであることだ。 信仰についていえば、南部地区の集落は殆どが浄土真宗の門徒であり、対して北部地区はその殆どが真言宗の信徒である。葬送は一般的に言われていたように浄土真宗は火葬、真言宗は土葬であるが、この村も例にもれず南部地区は火葬、北部地区は土葬で行われていた。これは筆者が子供の頃、昭和20年代から30年代のことである。

南部地区では人が死に葬儀を終えると、遺体は山中の「オオハカ」と呼ばれている火葬場に運ばれる。木造・屋根付の火葬場で、柴・割木で一昼夜かけて火葬された後、遺骨は一部を除いてその全てが隣接している村の共同墓地(そもそも元はこの墓地をオオハカと言った)へ埋められる。採取した一部は故人の家の墓地に埋め、簡単な木の卒塔婆を立てておく。つまり「マイリバカ」となるわけである。また一部は後日、本山(西大谷)へ納めるのがしきたりとなっている。
 四十九日を過ぎた後、「詣り墓」に立てられた木製の卒塔婆は石塔と建て代えられる。

個人の家の墓は大抵自宅に近い見晴らしの良い所に作られてあり、命日や春秋の彼岸の中日、盆などにお参りするのはこの墓だけである。「オオハカ」へお参りすることは殆どない。
 一方、北部地区は真言宗なので、人が死ぬと葬儀を終えた遺体は集落の上方の埋葬墓地に運ばれる。北部地区の集落は「字」単位で「埋め墓」があり、それぞれ隣接して石塔を建てる「詣り墓」がある。人が死んだことが伝わるとその地区の男等はすぐ墓穴掘り作業にかからなければならない。葬儀を終えた遺体はすぐに埋葬されるので、それに間に合わせるためである。埋め墓での穴掘り作業はかなり深く掘り下げるため、相当な重労働となる。作業中昔に埋葬した遺骨が出てくることもある。
 埋葬が終わると少し土を盛り上げて、その土饅頭の上に石塔が建立されるまでの間、木の卒塔婆を立てておくのが慣わしである。
 この埋め墓のすぐ隣に生垣を挟んで「詣り墓」があり、そこもこの地区の共同墓地になっていて、各々の家単位に区画されて墓石塔が建てられている。

柳田国男は、『葬制の沿革について』の中で、死体を埋葬する「葬地」と霊魂を祭る「祭地」という言葉を用い、これらを別々設けるというのは死穢の忌避に基づく霊肉別留の観念が普遍的にみられると言って、これを両墓制から明らかにしょうとしていた事を述べているという。
 この柳田がいうところの「死穢の忌避」「霊肉別留」の観念からいえば、上記北部地区の例に示した、両墓制における「埋め墓」と隣接する「詣り墓」の境界にある生垣は、さしずめ穢と聖の結界といえるだろう。

ここで改めて南部地区と北部地区の墓制を比較してみよう。
 まず南部地区は、信仰宗派が浄土真宗で火葬。
 対して北部地区は、信仰が真言宗で土葬。
 それで墓制はどうかというと、南部地区は火葬なので「単墓制」、北部は土葬なので「両墓制」だとは簡単に言えない。どうしてかといえば、南部地区は火葬ではあるが、遺骨の大部分を埋葬する「オオハカ」という墓地がある。それに遺骨の一部は自宅に近い墓地の石塔地下に収める他、浄土真宗本山にも一部を納骨している。また、北部地区は、土葬される「埋め墓」と石塔の建てられる「詣り墓」は区分されてはいるものの、この石塔地下には遺髪などが埋められる。こうなると一概に決めつけられなくなる。敢えて分ければ南部地区は「単墓制」、北部地区は「両墓制」となるだろう。しかし実際は南部地区も複墓制?とでもいえるものに近いと考えられる。

ところで墓地といえば以下のようなケースもある。
 西吉野の南部地区の住人が一家をあげて大阪へ引越した。初めの頃は毎年、盆の時期には吉野まで墓参りをしていたが、そのうち遠く不便なこともあって墓参りが遠のいてきた。同じように吉野に住んでいた親戚の者たちも大阪へ引越ししてしまって、だんだん吉野との縁が薄くなってくる。それに墓の周辺の草木が生い茂り、墓参への通路の確保もでき難くなってきた。そのようなことからこの際思い切って大阪に墓地を求めようということになり、結果的に現在住まいする大阪に墓を作った…。
 このケースの場合、この一家の墓はオオハカ、旧在所の墓、浄土真宗本山の納骨墓そして新しく求めた大阪墓所と、墓と言える場所は四ヶ所にもなる。
 これから先、墓地の確保もままならなくなる時代、個人個人の宗教観によって変ってくるとは思うが、必ずしも墓が必要だとは考えない人も増えてくるのではないか。

筆者個人の意見で言えば、墓は必ずしも必要とは思わない。遺体は水葬でよい。勿論子孫にはできれば祭ってもらいたいとは思うので、それは例えば「南無阿弥陀仏」と名号の入ったお札があればありがたいと思う。それを見て故人を偲んでもらえれば十分だと考えている。この意味でも柳田のいう「霊肉別留」の考えにまったく同感できる。
 水葬でよいと言ったのは食物連鎖ではないが、自然に還りたい思うからである。海に流され、魚に喰い千切られ、海底に沈んでは微生物を湧かして小魚の餌になり、それを大きな魚が食べる。それをまた、人が食べるかも知れない。このように命(食物)が循環すれば理想だ。だが残念ながら現在は水葬どころか土葬すら禁止されている。

柳田国男は「両墓制」の事例より、死穢の忌避から霊肉別留の観念が普遍的に見られるとして、このように区別されて祭られた祖先の霊魂が先祖神、つまり氏神として神社に祭祀されていくようになったと論理を展開する。
 ところで氏神といえば、例にあげたこの西吉野地区の中央に銀峯山という山があり、この山頂に波宝神社という神社がある。現在の祭神は住吉明神、神功皇后となっているが神社名から推測すると、ここの祭神は後代に変えられた可能性がある。
 柳田が理論を展開するように、氏神はその地を開いた氏族の長を祀ることが多いはずであるからだ。

民俗学でいう墓制など葬送の民俗は神社の祭神祭祀の解明にも繋がっている。史学や宗教学とも密接に関連するこれからの民俗学に期待する所以である。

以 上 

参考文献:西吉野村史/鎌田三郎監修