真朱の姫神 第二部・飛鳥編
                                                                                  
 八、櫃ケ岳 

 一年あまりが過ぎた初秋のある日、伊与は姉の豊与と、阿汰のセノオと三人で、櫃ケ岳の頂上を目指して坂道を登っていた。好天の清々しい朝であった。
 いつも必ず一緒についてくるフキメはいない。今木の里から大淀の渡しまでは、いつも通りフキメと二人だったが、そこからはセノオが付き添ってくれた。丹生川上神社のある、長谷まで来て、丹生川上祝にフキメとそれぞれの乗馬を預けたからである。
 櫃ケ岳(ひつがだけ)への登り口は、神社前に流れている丹生川の対岸にあったが、ここから先は登りが急でとても馬では行けない。徒歩で行くしかないのだが、フキメと一緒では道中が思いやられるので、どうしても行くというフキメを説得して神社に残してきたのだった。
 銅岳ともいわれている、この櫃ケ岳には伊与らの祖父、井依が住んでいた。
 井依は頂上近くに庵(いほり)をむすび、隠棲していたが、いまだに丹生一族の長老として、吉野の主ともいうべき隠然たる影響力を持っていた。
 豊与・伊与の姉妹は、久しぶりに祖父に会いたくなり、丹生川上神社で待ち合わせをして、祖父の井依を訪ねることになったのだった。父の井角乗が連絡を取ってくれたので、待ってくれているはずだった。

 セノオを先頭に坂道を登っていくと、初秋とはいえ背中を汗が伝って来る。さすがにセノオは体を鍛えているので足が速い。先にたってでどんどん先に行く。姉妹二人は汗を拭き拭き登っていった。中程まで登ったところに見晴らしのいい、開けた場所が見えた。 
「ヒメミコさま、ワカヒメさま、その先で少し休みましょうか」
 セノオは二人を気遣って言った。
 豊与は小竹宮の祝長(はふりおさ)だが、里の人々からはヒメミコさまと呼ばれていたのだ。
「姉さま、セノオの言うとおりにしましょう」
 伊与にそう言われて、姉の豊与はうなずくと、かたわらの石に腰をかけた。
 三人でしばらく休んでいると
「ワン、ワン、・・・・ワン、ワン」
 上の方から、犬の鳴き声がした
「ワン、ワン、ワン、ワン、ワン、ワンッ」
 犬の声がだんだん大きくなって、二匹の大きな犬が三人の前に飛び出してきた。
 セノオはびっくりして、飛び退けた。
「シロッ、クロッ、」姉妹は同時に叫んだ。
 座り込んだ二人の顔を、白と黒の二匹の犬は交互に舐めまわした。そして千切れるほど尻尾をふりまわしている。
「やっぱりシロとクロ。おぼえていてくれたの」
 二匹は祖父の井依翁が飼っている犬だった。二人はそれぞれの犬の首っ玉に抱きついた。
「セノオ、怖がらなくてもいいよ」
 伊与が言うとセノオは、こわごわシロとクロの頭をなでた。二匹は少し尻尾を振っている。

 今度は二匹の犬の先導で、三人は山上に向かって歩き始めた。もう頂上が近いというところまで来ると犬がほえた。
 見ると迎えにきた祖父の井依翁が、こちらへ向かって歩いてくる。
「やぁ、豊与に伊与。久しぶりだな、元気か」
「はいッお祖父様(じいさま)、元気です」「私も元気です」
 二人ははりのある声で答えた。
 井依は両手を広げて孫娘を迎えた。そして後ろに控えていたセノオを見る。
「大淀渡しのセノオでございます」
 セノオはかしこまって頭を下げた。
「お祖父様、セノオは阿陀の若頭です。お願いしてここまで送ってもらったのです」
 伊与はあわてて言った。
「そうか、それはご苦労であった」
 井依翁は礼を言った。
 庵の前まで来ると若者が二人いた。井光の若い修行者である。顔見知りの姉妹を迎えて二人は顔を赤らめて頭を下げた。
「セノオとやら、お前も一緒に中へお入り」
「いえ、私は外で犬と遊んでいます」
 セノオは二匹の犬に手招きをして呼び寄せると一緒に走っていった。
「シロ、クロと友達になれるみたいね」
庵の前はちょっとした広場になっている。三人は庵へ入っていった。

 中にはいると手前が土間になっている。履き物を脱いで板の間にあがると中央に囲炉裏が切ってあり、三人はそこへ腰を下ろした。
 若者が椀に入れた飲物を持ってきて三人の前に置く。
「さぁお飲み、美味しいぞ」と井依翁が言う。
 姉妹は飲物を口にしたが、薬草の香りがして美味しいとは思えなかった。
 祖父の井依は美味しそうに飲んでいる。
 一息つくと、井依は言った。
「今日は、何用じゃな、二人揃って来てくれたのは」
 祖父の井依翁はにこやかな笑顔で言った。
「私はただ会いたいと思っただけです」姉の豊与は言う。
「私はお祖父様に聞きたい事があります」妹の伊与は姉に続いて言った。
「丁度よかった。実は儂(わし)もお前達二人に、ぜひ話しておきたいと思っていた事がある。これは丹生大神のお導きだと思う」
 井依翁は顔を引き締めた。
「質問があると言ったな。伊与、聞きたいこととは何だ」井依翁は続けて言った。
「はい、前から聞きたいと思っていたのですが、丹生川上神社の今木にある一の鳥居のことですが、あれは本当に丹生川上神社の鳥居なのですか」
 毎日のように今木の丘まで行って鳥居から景色を眺めては、疑問に思っていたことを聞いた。
「伊与よ、あれは間違いなしに丹生川上の鳥居じゃ。大王(おおきみ)いや、スメラミコトが建ててくだされたものじゃが、もちろん儂等にも相談はしてくれた。丘の上の道に沿って建てたら、吉野三山を遙拝するような形になってしまった」
「私にはどうしても、お姉さまの居る若桜・小竹宮の鳥居としか思えないのです」
「若桜・小竹宮は我等が丹生一族の元宮じゃ。丹生大明神、ハホノカミをお祀りしている。鳥居の向こうにはその銀岳が見えるからの。そう思っても間違いではない」
 井依翁はこともなげに言う。
「お祖父様、まだ質問があります。巨勢にある大穴持(おおなもち)神社のことですが、あの神社には神殿がありません。そして拝殿の向こうには金岳、銀岳に、この銅岳が見えるのです。どうして大穴持神をお祀りしている神社の拝殿から吉野三山が見えるのですか」
「おお、そのことか。唐笠山の巨勢の氏神・大穴持神はの、銀岳と大いに関わりがある。あの神社は大穴持神のほか、葛木の事代主(ことしろぬし)神とシタテルヒメさまをお祀りしているが、その姫は我等が大明神の初代ヒメミコ、アマテルヒメさまの御妹神じゃ。それに大穴持神は吉野・熊野の先住の民イツモ族の祖神での、我が一族と初めて出会ったのが銀岳であった。そして我々は彼等の娘を娶り同化していった」
「それでは彼等と私たち丹生一族は同族なのですか」
 ここで今まで黙って聞いていた豊与が訊ねた。
「今はもう同族と言ってよい。実は我が一族の先祖神ハホノ神の妻・ハヒメノ神は、イツモ族の族長の娘であられた」
「その御子神(みこがみ)がアマテルヒメさまとシタテルヒメさまなのですね。そしてシタテルヒメさまは事代主神のヒメミコになられた」
 豊与の言葉に翁は頷いた。続いてこんどは伊与が質問した。
「アマテルヒメさまはどうなされたのですか」
 伊与は一番大事なことを聞いた。
「お前達二人にはいつかは話さねばならんと思っていた。今日は全部話そう」
 井依翁は大きく深呼吸をした。
 豊与と伊与はここで先程のお椀を手にしてもう一度飲んでみた。伊与は今度は少し美味しいと思った。井依翁は口を開いた。
「これは丹生一族と初代天皇家の秘密じゃ。決して他言はならぬ。我が一族でも儂とおまえ達の父、角乗以外は誰も知らぬ」
 井依翁は静かに語り始めた。
「アマテルヒメさまは伊勢大神の斎宮、つまりヒメミコとなられ、その後は天照大神(あまてらすおおかみ)として天手力男神(あめのたぢからおのかみ)と相殿でお祀りされている」
「丹生の比売皇女(ひめみこ)アマテルヒメさまは、天照大神となられたのですね」
「それだけではない。アマテルヒメさまは名を替えられて、丹生都比売(にうつひめ)神として我ら丹生一族の各地の社でもお祀りされている」
「つまり、丹生の比売皇女アマテルヒメさまは天照大神であり、丹生都比売神でもあられるということなのですね」
「その通りじゃ。もう随分昔のこととて、今の天皇もご存知あるまい」
 豊与と伊与は今までの疑問がいっぺんに解けたような気がした。
 井依翁は話しを続けた。
「爾来、我々丹生一族はいつの時代でもこの国のため、最もふさわしい盟主を立て、その政権を陰で支えてきた。このことは一族の役目としてこれから先も続けねばならぬ」 
 豊与と伊与はうなずきながら黙って聞いていた。
「豊与よ聞け、お前は儂の跡を継ぎ、丹生一族の長にならねばならぬ。丹生のヒメミコにな。・・・そして伊与、お前は子を産み、その子を豊与の次のヒメミコとして育てねばならぬ。きっと女の子がお前に授かるであろう。その娘を若桜・小竹宮の祝にして、我が一族の次の長にするのじゃ。もともと我が一族の長は女が継承するのが習わしじゃ。丹生のヒメミコはそうでなければならぬ」
井依翁は二人の孫娘に説いて聞かせた。二人は神妙な面もちで静かに耳を傾けている。すると井依翁はさらに重大な秘密を語り始めた。

 その話しは二人が驚愕する内容だった。
 それは一族の出自の秘密でもあり、ヤマトの建国についての話しでもあった。
「豊与、伊与、よく聞くがいい。この話しはおまえ達の父、角乗も知らぬ一族の長となる筋の者のみに伝える口伝じゃ・・・」
 井依翁の話によると、先史時代この国に初めて辿り着いた先祖は、西の遠い国からやって来た。砂漠を越え、東へ東へ大陸を長い時をかけて、苦難の旅を続け、海に出ると、小舟に乗って黒潮に身を任せてやっと南紀に上陸した。その時、最も大事な宝物として、唐櫃を携えていた。先祖一行の者はそれを大切に担いで南紀から熊野の川を遡り、この銅岳にのぼると石室を作って埋めたという。先祖はそれを聖櫃として崇めた。それには神との契約のしるしが入っていた。それでこの山を櫃ケ岳というようになった言うのである。
 豊与が口を挟んで聞いた。
「お祖父様、その聖櫃が、何処に埋められているのか、ご存知なのですか」
「そればかりは儂でも知らぬ。いや、今知りたいとは思わないのじゃ。むしろ探さない方が良いと思う。おまえ達もそうは思わぬか」
 豊与も伊与もなんだかそのように思えた。
「もっと先の未来で、必要な時代になれば、我らの裔(すえ)の誰かが見つけることになるであろうが、それまではこの秘密を決して漏らしてはならぬ。しかしまた、一族の長となる者には、必ず口伝で代々この事は伝えねばならぬ」
 姉妹は大きく肯いた。井依翁はさらに話を続けた。
「二人とも見よ!」
 井依翁は立ち上がると庵(いおり)の北面の引き戸を大きく開けた。その向こうには手前に銀岳、その向こうに金岳が重なって見え、その上には北の蒼天が広がっていた。
「我が一族の先祖は、日輪を崇めてきた。夜は天空の北辰を尊崇した。その信仰のなごりが日神の天照大神じゃ。この吉野三山は南北に連なっている。北の方から順番に金・銀・銅となる。儂は毎夜この一番南の銅岳から、天球の真北に輝く北辰に祈りを捧げてきた。民の安寧とこの国の彌栄(いやさか)を祈ってな」
 井依翁はここで一息入れて、椀の薬湯をすすった。そして話を続けた。
「我が一族にとって一番大事な山は銅岳じゃ、その次は元宮のある銀岳、そして金岳の順じゃが、人々はその逆と思うであろう。実はそう思わせているのじゃ。役小角に力を借りて蔵王権現を祈りだし、大峰に安置して金峯山寺とし、また神社も建立して金峯神社と呼び、できるだけ吉野三山から人々の目をそらせたいと考えた。今では金峯山とは、大峰の山々のことだと人は思うであろう。それでいい。それで人々に忘れられていけばよいのじゃ。我等丹生一族だけでひっそりと守っていこう」
「お祖父様、私は秘密を守り、丹生のヒメミコとしてその使命をはたします」
 豊与は井依翁の目を見つめて、はっきりと言った。
「お祖父様、伊与も必ず秘密を守り、女子を生み、姉さまの次のヒメミコとして育てることを誓います」 姉に続いてはっきり言った。

 外ではシロとクロの啼き声がしている。セノオに遊んでもらっているらしい。
 井依と二人の孫娘は庵を出た。外の広場ではシロとクロが入れ替わり立ち替わり、セノオに飛びついてじゃれあっている。 
「もう、仲間に入れてもらったみたい」
 伊与はほほえんで言った。
「なかなかいい若者じゃ。シロ、クロがすぐになつくのはめずらしい」
 井依翁と豊与、伊与の三人はセノオのいる方へ歩いていった。それに気づいたシロとクロの二頭の犬は、猛烈な勢いでこちらへ向かって駆け寄ってくる。二頭は尻尾を千切れるほど振りながら三人の周りを駆け回る。セノオはあとから駆け足でこちらへやってきた。
 四人と二頭の犬は、山頂北側の木立の切れた見晴らしへ歩いていった。
 見渡すと、すぐ手前に銀岳、続いて金岳が連なり、眼下に一族の村々、その向こうには吉野川が蛇行して光って見えた。
 豊与と伊与は北方の蒼天に、この国と一族の平安を願って祈りを捧げた。
 それぞれが遠き未来に思いを馳せた。
 遠くに葛木の山々が靄に霞んで見えていた。        

                
真朱の姫神 第二部・飛鳥編 了
 
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