真朱の姫神 第二部・飛鳥編
                                                                                  
 六、吉野宮

 飛鳥宮で、大海人は多忙を極めていた。政務は后の菟野をはじめ、草壁や大津、高市などにも分担させていたが、任せられるのは菟野だけであった。それ以外はほとんど自分で目を通し決定していた。大臣をほとんど置いていなかったからである。
 大海人は律令の制度の策定を進めていた。詔して文武官の評定をし、進階の位を取り決めた。 内外の朝貢の使いに引見し、物を賜い、饗応したりと休む間もなかった。
 また大海人は天つ神による、各地豪族が斎祭る氏神の祭祀統制と併せて、仏教による民心の掌握をねらって、諸国に使いを出し経典を説かせていた。
 しかし、いつも大海人の頭を離れないのは皇位継承の問題であった。
 一応、草壁皇子を皇太子にするつもりではあったが人望がなく、一つ年下の大津皇子のほうが器量が上のように思われた。また高市皇子も実力を備えており、年齢も草壁よりずっと上である。ほかにも皇子がいて、このままでは争いが起こるのではないかと、いつも心配の種であった。
 一方、后の菟野も同様の心配をしていた。草壁は菟野皇女の子で、大津は菟野の姉・大田皇女の子である。
 菟野はぜひとも草壁の皇位継承を実現しなければならないと考えていた。

 天武八年(六七九)五月五日、大海人は菟野讃良皇女(うののさららのひめみこ)と伴に六人の皇子を連れて吉野へ旅立った。同道したのは草壁、大津、高市、河島、忍壁、芝基の皇子たちである。
 草壁十八才、大津十七才、高市は二十六才になっていた。
 文武官や衛兵が付き従い、その中には藤原不比等や柿本人麻呂の姿もあった。いつもの吉野への行幸と比べると格段に多い。皇子それぞれに従者がついているからである。
 浄御原宮を出発すると行列は「下つ道」へ出て南へ向かった。
 吉野への道は三通りある。一番東の道が芋峠越えの「上つ道」で、この道は修験者でも大変な、けもの道と言った具合で大海人は近頃ほとんど通ったことがなかった。二つ目の「中つ道」は一番近道であったが、国境の芦原峠が特に険しいので多人数では難渋する。それで都人になってからの大海人は、この二つの道は利用していない。
 この「上つ道」と「中つ道」の二道は、平坦な奈良の北部から飛鳥の都の南部まではかなり広く、整備もされていたが、吉野へ越える山道からが急に細く険しくなり、通常通る道ではなかった。
 最も西の「下つ道」から吉野に至る道は、明日香川のほとりから市尾、そして葛(くず)に出て、奉膳(ぶんぜ)を通り、今木の丘(車坂峠)を越えて吉野へ入る道である。この道は中つ道よりは距離があったが、よく整備してあり、道幅も広く勾配も緩い。

 一行が巨勢を経て今木に入ってくると、沿道には額田宿禰をはじめ、伝え聞いた里の人々が見送りに出ている。その中には栗毛に乗り、白妙の衣に朱の裳で正装をした、伊与の姿もあった。そこから伊与も行列に加わった。
  今木の丘を越え、吉野川のほとりに出て、大淀の渡し迄くると、阿陀の鵜飼頭父子が待っていた。大勢の舟人足をそろえている。井角乗の息子、角範も来ていた。
 ここで行列は二つに分かれた。前もって決めてあったからである。
 まず、吉野宮へ行くのは大海人と正妃の菟野皇女、それに六人の皇子らとわずかの側近と付き人、それに衛兵。菟野以外の后や都の文武官、皇子らの従者など残りの者は川を渡らずに、この北岸を東に行った、六田にある那珂宮(なかみや)の方へ行くことになっていた。 
 吉野宮(離宮)は、吉野川を南岸に渡った秋津の桃花(つき)の里の南にある。
 先ず大海人と菟野皇女が若角の先導で阿陀の鵜飼・セノオの渡し舟に乗り込んだ。
 次は草壁、大津ら六人の皇子たちがセノオ配下の舟に乗る。続いて女官や側近らが次々と別の舟に乗り込んでいく。舟人足たちは荷物を積み込んだり忙しく立ち働いてる。
 衛兵や小者、乗馬は川下の瀬を歩いて渡る。
 大海人と菟野皇女、六人の皇子らが向こう岸に着くのを見届けてから、額田女王らは那珂宮へ向けて出立した。

 吉野宮に同行した柿本人麻呂は次の歌を詠んだ。

   山川もよりて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも

 南岸の船着き場には丹生真人・井角乗と役小角が迎えに来ていた。 
「天皇(すめらみこと)、お迎えに参じました」
「おう!井角に小角か。苦労であった」 
 二人は揃って拝礼する。
「大后(おおきさき)さまもようお越しなされました」
 菟野皇女も笑顔を見せた。
「これはこれは草壁皇子さま、大津皇子さまも、おつかれでございましょう」
 次の舟で着いた六人の皇子一人一人にも二人は丁寧に挨拶をする。
 吉野宮はこの吉野川南岸の秋つ川との川合いを少し南に下がったところにある。吉野三山が控えるこの吉野川以南の一帯は丹生一族の本貫地であり、大海人は最も信頼のおける、この一族の地に離宮(とつみや)を築いていたのであった。
 吉野宮はすぐ近くなので乗馬するまでもなく、大海人を先頭に談笑しながら歩き始めた。あとから着いた側近たちがあわてて追いついてくる。
 吉野宮に着くと、
「では天皇(すめらみこと)、我々はここで失礼して、夕刻に出直して参ります」
 井角と小角は、大海人と大后の菟野、皇子たちを無事吉野宮に送り届けると、護衛隊長として井角の嫡男の角範を残して帰っていった。
 夕刻からは大海人主催の宴がある。夕刻といってもまだ明るい内の、申時から日没まで催される事になっており、井角と小角は共に招待されていたのだ。
 大后の菟野皇女は、飛鳥の浄御原宮から連れてきた膳部の舎人(とねり)を呼びつけると、宴の料理を申しつけた。
 
 その日の吉野宮の大広間は、正面上段に大海人天皇と大后の菟野が着座していた。
 向かって右の上席から草壁をはじめとする、六人の皇子たちが座り、そして藤原不比等以下の文武官、柿本人麻呂などが続いている。
 左側は吉野真人・井角乗こと井角(いかく)が座り、次は葛木の役行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)こと小角(しょうかく)、続いて井角の弟で壬申の乱では大海人の軍団長をした男依(おより)、同じく井角の嫡男の角範と続く。
それに続くのは丹生一族の氏上(このかみ)たちである。
 全員が席に着き、人々の話し声が静まったところで大海人は口を開いた。

「私の親しき吉野の者たちよ、参集ご苦労である。本日は久しぶりに息子どもを連れてきた。見知りおきの者もいるであろうが、上座から順に草壁、大津、高市、河嶋、忍壁、芝基と申す」
「よろしくお願い申します」
 六人の皇子たちは声をそろえた。
「皆の者、今日、皇子達をつれてきたのは重大な発表をするためである。それは東宮のことだ。かねてより日嗣皇子(ひつぎのみこ)を誰にしようかと考えてきたが、ここにいる草壁を皇太子とすることにした」
 大海人は、大広間に集まった全員を睨め付けるように、見回しながら一気にそう言った。
 大津皇子の方が人望はあるものの、大海人の決定に対して特に反論しようとするものがいるはずはなかった。
「皆に異存は無いな。飛鳥に戻ればすぐに詔(みことのり)をする。日嗣は草壁だ。そう心得よ」
「草壁皇子さま、おめでとうございます」
 今度は列席の群臣達が声を揃えて御祝の言葉を述べ叩頭した。
 大海人の横に着座している菟野皇女は、叩頭した面々が顔を上げるのを一人一人鋭い目で観察をしたが、特に不満の表情は認められなかった。
 昨夜、飛鳥宮で菟野は大海人から正式に、皇太子は草壁に決めたと聞かされていた。大津の方が人望もあり、有能で才学に富み、大海人自身も大津を愛していたが、草壁の方が年長であり、正妃の菟野の子ということでそう決めたのであった。
 菟野は念願の草壁の皇位継承が、やっと約束されたと安心した。

 大広間では大海人の言葉は続いていた。
 菟野は聞くともなしに大海人の声を耳にしながら昨夜、菟野に詠んでくれた歌を反すうしていた。

   
淑(よ)き人の良しとよく見てよしと言ひし芳野よく見よ良き人よく見

 かの麗しき方が申されたように、吉野は良き要の地である。菟野よ、よく心得て治めるべし。と説いたものと思われる。
(淑き人とは、吉野にゆかりの息長帯足比売(おきながたらしひめ)さまか、推古女帝さまであろうか)
 菟野は考えを巡らせていた。
 もともと菟野は積極的に政治に参画して、よく夫の大海人天皇を補佐し、共に律令政治体制の確立にも心血を注いでいたが、考えると思い当たることが多くあった。
 吉野の長老達に大海人が会うときは、必ずと言っていいほど菟野を同席させた。そして吉野での政治をまのあたりに学ばせたのである。これは草壁にも伝えてよく教育しなければならないと改めて思った。

 大広間では大海人天皇のお言葉が終わり、酒宴が始まろうとしていた。
 上段の大海人と菟野の前面の大きな食卓に料理が盛られた。
 料理はアユやヤマメの焼き物、アマゴの煮付け、モミ、ヤマノイモと干しワラビの煮付け、ゼンマイ、茸汁などであった。
 天武四年四月に天皇は殺生を戒め牛馬犬猿鶏の食用を禁じていたので、それまで食していたヤマドリ、シカ、イノシシの肉さえも差し控えたからである。
 鳥獣肉こそ無かったが、これで十分ご馳走であった。特に「モミ」といわれているアカガエルの煮物や焼き肉料理は、特別美味で皆に喜ばれた。モミが供されない食事を、旨くないという意味で「モミない」と言われていた位である。
 給仕役の舎人(とねり)が、正面の大食卓の大皿より料理を壇上の天皇・皇后にささげるために進み出た。続いて両側から女官が、それぞれ祝杯に御神酒をしずしずと注いだ。
 天皇・皇后は杯を少し上にかかげ、そしてゆっくりと二人揃って飲み干した。
 大海人天皇は草壁皇子に向かって言った。
「東宮よ、前へ出よ」
 草壁皇子は上段正面へ進み出た。 
「酒を取らす、杯をもて」
 草壁は女官が手渡した杯を持った。その杯に大海人は、なみなみと神酒を注いだ。
「日嗣ぎの皇子はお前だ。精進せよ」
 そう言うと大海人は奥の方に合図をした。すると朱の裳の女人がするりと出てきた。はっとするような艶やかさであった。
「あっワカヒメさまだ!」
 誰からともなく声があがった。
「ワカヒメよ、一差し舞え」
 前に進み出た伊与に大海人は言った。
 伊与は朱の裳をなびかせ優雅に舞い始めた。
    
    この神酒(みき)は 我が神酒ならず  
    酒(くし)の司(かみ) 常世(とこよ)にいます 
    石立(いわた)たす少御神(すくなみかみの)の
    豊寿(とよほ)ぎ ほき廻(もとほ)し 
    神寿(かむほ)ぎ ほき狂(くる)ほし 
    まつり来(こ)し御酒そ 残(あ)さず飲(を)せ ささ
  
 
 伊与は歌いながら舞う。
 草壁はじっと父、大王を見つめながらゆっくりと杯を飲み干した。そして言った。
「天地(あめつち)の神々よ、私は天皇(すめらみこと)の言いつけに従い、この国のため精進することをお誓いします」
「それでよい。その言葉を忘れるな」
 そして大海人は壇上から下りてきた。
「さぁ、酒だ、注いでやれ。皆も祝って飲め、大いに楽しもう」 
采女(うねめ)達が一斉に出てきて、酒を注いでまわり、中央の大食卓から料理を取って給仕した。
 吉野宮の宴は、とっぷりと日が暮れるまで続いていた。
 
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