真朱の姫神 第二部・飛鳥編
                                                                             
     
 四、 巨勢里(こせのさと)

 今日も伊与は「栗」に乗っていた。 
お供には、いつものフキメがついて来ている。
今木の里のはずれの大きな槻の下では、すでにセノオが待っていた。傍らには黒鹿毛の馬が居る。この馬は最近願いがかない、伊与の口添えで額田宿禰より、格安で手に入れた愛馬であった。
 セノオは伊与に気づくと馬に乗り、手を振りながら駆けてきた。
「ワカヒメさまァ」と叫んで近づいて来る。
「どうです?上手くなったでしょう」と伊与の目の前でくるりと馬を返して見せた。
 もう見事に乗馬の腕を上げてしまっている。
「では早速ご案内しましょう」
 セノオが先に立ち、馬を歩ませていく。
 行く先は高市郡(たけちのこおり)・巨勢里、唐笠山の大穴持(おおなもち)神社である。
 伊与は姉からこの神社の話を聞き、一度参拝したいと思っていた。
 先日セノオに会い、この神社への道を聞いたところ(案内する)と言いだしたのであった。顔見知りでいつも親しく言葉を交わしているのに、同行するとなるといつも断ってばかりいる。それで今度ばかりは断りきれず案内を頼んだのである。

 奉膳(ぶんぜ) を通り巨勢へ向かう。この辺りは比較的緩やかなところが多く、川に沿った水利の良いところから、水稲耕作がなされていた。巨勢に入ると所々の山は伐木され地肌をさらしているところが見受けられる。斜面に穴を穿ち採鉱しているのである。 巨勢の一族は銅の生産が生業(なりわい)であった。この邑も川に沿った所から稲作が行われていて黄金色の稲穂が僅かに見える。
 川は鉱山のためかかなり濁っていた。川に沿った左側の道を下っていくと集落があり、その邑の中程に木橋が架かっていて、その向こうに、丸太をそのまま使った黒木の古い鳥居があった。どうやらそこが目指す神社らしい。
「ワカヒメさま、あの山が唐笠山です。あの山上に大穴持神社がございます」
 セノオは山を指さしていった。見ると急な坂道が山上に向かって続いており、それが参道だと思われた。とても馬に乗っては行けそうにない。
 振り返ると、フキメはかなり遅れてはいるがついてきている。それでも二人はフキメを気遣い、馬を走らせずゆっくりと歩かせてきたのだった。参道横の灌木に馬を繋ぐとフキメを待つ。 フキメはやっと追いつくと鳥居の前に座り込んでしまった。
「フキメ、お前はゆっくりと休憩してここで待っていなさい。私たちは先に行きます」
「ワカヒメさま。もう少しお待ちください。私も一緒にお供します」
 やはりついて来るつもりらしい。
 それでも伊与はほっとした。セノオと二人だけでこの山道を歩くとなると、やはり気が引けるのである。少し休憩することにした。
 しばらくしてセノオを先頭に三人で歩き始める。足が滑って転げ落ちそうになるほどの急坂である。案の定、フキメは遅れはじめる。二人はどんどん先に登っていった。
 この山は以前に伐木したのかカシやクヌギの大きな切り株がいたるところにあり、今は雑木と共に小さな杉や桧が育っていた。精錬用の木炭を作るため伐採された跡に植林されたものだった。
 山道は蛇行しながら上に続いていた。セノオは伊与を気遣い、後ろを振り返りながら登っていく。

「ワカヒメさま、お手をどうぞ」
 はじめは意地を張って一人で歩いていた伊与も、とうとうセノオに手を引かれていた。下を見てもフキメの姿は見えない。かなり遅れているらしい。
 杉や桧の小木の間に色づきはじめた灌木が晩秋の風情をかもし出していた。
 懸命に歩いているので、汗ばんで来る。
 突然、「あッ」と伊与が叫んだ。落ち葉に足を滑らせたのだ。
 手を繋いでいたセノオも同時に「オーッ」と叫んで転んでしまう。しかし転びながらも咄嗟に、自分の身体を下にして伊与をかばい、必死に下への転落を草をつかんでさけた。
 左手で伊与を抱きしめ、右手で草をつかんでいる。伊与がはッと気づいたときセノオの顔が下にあった。伊与は全身をそっくりセノオの身体の上に預けてしまっていたのである。
 下から澄んだ目が見つめていた。
 伊与も上から若者の目を見る。二人はしばし見つめ合った。
 伊与は胸に疼きを感じ頬があつくなった。その途端、
「失礼しましたッ」青年は飛び退く。
「いえ」と伊与。
 その時に起こった風に伊与は男の臭いをかいだ。そして好ましい臭いだと思った。まったく異性を意識しなかった相手に対するこの感覚に伊与は戸惑いを憶えた。
 二人が立ち上がって黙ったまま歩き始めたときフキメの姿が見え、近づいて言った。
「ワカヒメさまッ、衣服(きぬ)が汚れていますが、どうされました」
 二人の様子を見てフキメは訝しげにたずねた。伊与は、転んで助けてもらったことを話し、今度は三人揃ってゆっくりと山上を目指して登っていった。

 山頂の開けたところに拝殿があった。
 しかしこの大穴持神社には神殿はなく、その拝殿は石垣の上に建てられ、あたかも砦の形をなしていた。人の気配はなかった。この付近も大きな木はなく、とても見晴らしがよい。この拝殿から見える南前方には、金峯山、銀峯山・櫃ヶ岳が遙拝できた。つまり、金・銀・銅の吉野三山が、この神社の神奈備なのであった。
(姉が話していたとおりだった)
 伊与は石段を上がると姿勢を正して拝礼する。次にフキメ、続いてセノオが伊与に見習い拝礼した。
 前方を見ながら伊与(いよ)は考えていた。
 一番向こうの銅岳には祖父の井依(いより)が居る。次の銀岳には姉の豊与(とよ)が居て、金岳に年寄・井頭(いとう)が居り、吉野三山の祝(はふり)はすべて丹生一族が占めていた。
伊与は思う。
「大穴持」と「大名持」は同名で、「大国主」と同神だといわれている。この神を祀る大穴持神社に神殿はなく、神体山である吉野三山を遙拝している。又、同じ神を祀るという、三輪神社にも神殿はないのである。この大国主と丹生大明神との接点は、同じ精錬・製鉄族の崇める神という共通点があった。しかし、どうして大国主を奉斎する部族が、吉野三山を遙拝するのかは分からなかった。 伊与が養父の額田宿禰から聞いた話しによると、この大穴持神社は巨勢氏の氏神で大穴持や事代主、製鉄の女神・下照姫をお祀りしているという。そして元三輪神社ともいうのだそうである。
 それにしてもなぜ吉野三山を遙拝するのだろう。一度祖父の井依に聞いてみようと思った。
 三人は肩を並べてそれぞれの思いを胸に、前方にそびえる吉野三山を眺めた。
 遙か向こうに紀伊の山々が霞んで連なっていた。
 山を下りての帰り道、すぐ後ろに従ったセノオは「金峯山に一度行ってみたくなりました」と馬上の伊与に話しかけた。
 伊与はつい、「次は私が案内してあげる」と言ってしまった。
 
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